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ヤマハの2期連続減益と減量経営・多角化路線の見直し

1991年実施

楽器に安住する体質と多角化不発——「2期連続減益」に川上浩社長はどう向き合ったか

時期 1991
意思決定者 川上浩(社長)
論点 事業ポートフォリオと減量
概要
1990年前後、主力の楽器市場の成熟によって営業利益・経常利益とも2期連続の減少が避けられなくなったヤマハが、川上浩社長の下で希望退職を伴う減量経営と、有望事業の分社化による事業ポートフォリオの見直しに踏み切った経営判断。1991年時点で楽器の売上比率は56%まで低下していたが、多角化した諸事業は半導体を除いて利益を生めずにいた。
背景
国産ピアノの内需は1981年の975億円から1990年に692億円へ縮小し、電子電気楽器の市場も1984年をピークに右肩下がりに転じていた。早くから進めた半導体・オーディオ・スポーツ用品などの多角化が軌道に乗らないなかで、楽器需要の低迷が業績を直撃した。
内容
1989年から続く希望退職では今夏に予想を上回る規模の退職者が出て、一部から強制的との内部告発も招いた。成長が見込める事業をヤマハリゾート・ヤマハリビングテック・ヤマハメタニクスとして100%出資で切り出し、本体は楽器・半導体・AV機器の3本柱に絞る連結経営を掲げた。
含意
マッキンゼーの指導で導入した事業部制は10事業部すべてが社長に直結し、部門間の相乗効果を欠いた投資が収益力の低下を招いていた。川上家によるオーナー的支配とトップのリーダーシップへの疑問も社内にくすぶり、翌1992年の川上浩社長辞任と本部制・合議制への刷新へつながっていく。
筆者の見解

規模の拡大ではなく、強みをどう束ね直すか

この経営判断の核心は、単年度の業績不振への対症療法ではなく、楽器市場の成熟という構造変化に、事業ポートフォリオと組織の両面から向き合おうとした点にある。世界のピアノ市場で首位を占めた成功は、裏を返せば「作れば系列店が売ってくれる」楽器の発想と、それに安住する体質を社内に根づかせていた。川上社長自身が、IBMが大型機の体質から抜け出せなかったのになぞらえてヤマハの安住体質を認めていたことは示唆的である。減量経営と有望事業の分社化は、その体質を外科的に切り分けようとする試みであったとみることができる。

もっとも、細分化した事業部制のもとで部門間の相乗効果を欠いたまま多角化を進めたことこそが、投資効率の低さと収益力の低下を招いた面は否めない。分社化は連結経営への一歩ではあったが、本体が苦しい時期に、自力で稼ぐ力の乏しい事業を切り出す賭けでもあった。結局、減益は経営陣の刷新と川上家支配の清算にまで至り、翌年からの本部制・合議制への転換へとつながっていく。規模を追うのではなく、自社の強みをどの事業構成と組織で活かすか——ヤマハの2期連続減益は、成熟市場に立つブランド企業がこの問いを避けられないことを、早い時期に映し出した事例といえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

楽器市場の成熟という構造要因

ヤマハ(旧・日本楽器製造)は、ピアノをはじめとする楽器で国内外に確固たる地位を築いた総合楽器メーカーである。世界のピアノ市場では3割を超える首位のシェアを握り、「楽器業界のIBM」とも評された。しかし1980年代を通じて、その中核である楽器の国内市場は成熟の色を濃くしていた。国産ピアノの内需は1981年の975億円をピークに漸減を続け、1990年には692億円まで落ち込んだ。ピアノの世帯普及率は約2割に達して頭打ちとなり、主な購買層である子どもの数の減少も重なって、市場の縮小は避けがたいものとなっていた[1]

楽器市場の成熟はピアノにとどまらなかった。電子ピアノやオルガン、シンセサイザー、エレキギターといった電子電気楽器の国内市場も、1984年の800億円をピークに1990年には739億円へと右肩下がりに転じていた。ヤマハのピアノ国内販売台数も、ピークだった1979年度の18万台から1989年度には約11万台へと減り、経営の主柱としての力強さは明らかに衰えていた。楽器という土台そのものが縮み始めていたのである[2][3]

多角化と事業部制、川上家の経営

楽器市場の限界を早くから見越し、ヤマハは半導体(LSI)やオーディオ、スポーツ用品、リビング用品、レジャーなど幅広い多角化に活路を求めてきた。ピアノを主力とする工場では過去9年間で従業員を1万2000人から7000人へと大幅に減らし、合理化も進めていた。1991年3月期の売上高で見ると楽器の比率は56%まで低下し、リビング用品や電子金属・電子機器、オーディオ、スポーツ用品などが残りを占めるまでに事業は広がっていた[4]

こうした多角化を束ねる仕組みが事業部制であった。ヤマハの事業部制は、川上浩氏が1983年に父・源一氏から社長を引き継いで以降、経営コンサルティング会社マッキンゼーの指導で導入したものである。狙いは事業を細分化して新社長に事業内容を分かりやすくし、管理しやすくすることにあったとされる。しかし1991年時点で事業部は10を数え、そのすべてが社長に直結していた。投資が利益にどれだけ結びついているかを示す有形固定資産営業利益率は1991年3月期で9.5%と、上場製造業平均のおよそ2割の半分以下にとどまり、部門間の交流を欠いた投資が相乗効果を生めずにいた[5][6]

決断

2期連続減益と減量経営

楽器需要の低迷は、多角化が軌道に乗り切らないなかで業績を直撃した。ヤマハの売上高は1990年3月期に3847億円と前期比3.2%減で減少に転じ、1991年3月期も3835億円と前期を0.3%下回った。営業利益・経常利益はともに2期連続の減少が避けられず、1992年3月期はそれぞれ50億円、80億円と、最近のピークだった1988年3月期の半分の水準まで落ち込む見込みとなった。平成景気のただ中にありながら、ヤマハはその恩恵を受けるどころか、収益力を急速にすり減らしていた[7][8]

収益の悪化を受け、ヤマハは減量経営に踏み込んだ。希望退職制度「転進ライフプラン」は1989年から5カ年計画で毎年実施されていたが、1991年夏には会社の予想を上回る規模の退職者が出て、一部の管理職からは「ほとんど強制的に解雇された」との内部告発が出るなど、社内の動揺が広がった。「赤字に落ち込めば社長解任だ」との強硬論さえ社内で聞かれ、業績悪化への不満が経営陣に向かい始めていた。なお退職者の数は、報じた記事によって差がある[9][10]

多角化の再編と有望事業の分社化

川上社長が業績回復の切り札としたのが、有望事業の分社化であった。1990年6月にレクリエーション部門をヤマハリゾートとして、1991年10月にリビング部門をヤマハリビングテックとして、同年11月には電子金属事業部の技術・生産部門をヤマハメタニクスとして、いずれも100%出資で切り出した。楽器文化に染まって有望な事業がつぶれてしまわないよう、成長の見込める事業を本体から独立させる狙いであった。上島清介副社長は、分社化した会社が本体の売上を抜くまで成長すればこれほど嬉しいことはないと述べ、本体は楽器・半導体・AV機器の3本柱に絞って合理化で利益を伸ばすと語った。グループ全体で業績を高める連結経営への転換であった[11][12]

もっとも、多角化の内実はなお厳しかった。楽器以外の事業は、売上比率こそ高まったものの、半導体部門を除いて利益を生めておらず、その半導体さえ1991年3月期は半導体不況のあおりで赤字に沈んでいた。かつて先行して発売した超小型ステレオ「ティファニー」は、家電メーカーの追い上げに耐えられず市場から姿を消しており、価格決定権を握る楽器の発想を、競争の激しい一般市場に持ち込むことの難しさが露呈していた。川上社長自身、IBMが大型機中心の体質から抜け出せなかったのになぞらえ、ヤマハが楽器に安住する体質を認めていた。分社化は、まだ自力で利益を稼ぐには育っていない事業を本体の苦しい時期に切り出す、危険な賭けの側面も併せ持っていた[13][14]

結果

経営陣の刷新と川上家支配の清算

減益局面と社内の動揺は、やがて経営体制そのものの見直しへと及んだ。川上浩氏は社長を辞任し、1992年には江口秀人会長が中心となって、中興の祖とされる川上源一相談役に取締役の辞任を説得するなど、長年に及んだ川上家支配体制の清算が動き出した。新社長には、源一氏に重用されてきた上島清介氏が就いた。かつて河島博社長を突然解任したのも源一氏であり、河島社長解任直前の1980年4月期に記録した過去最高の経常利益約160億円は、その後更新されないままであった。トップの求心力とオーナー的支配のひずみが、減益の底流にあったことをうかがわせる[15][16]

新体制は組織の作り直しにも着手した。1992年3月28日、上島社長は部長以上の幹部約350人を浜松本社に集め、「NEW YAMAHA PLAN」を掲げて、細分化しすぎて相乗効果が出にくくなった事業部制を見直し、事業部を束ねる本部制の導入を打ち出した。成長が見込める電子分野では、電子楽器・AV機器・電子デバイスの各事業部をまとめてエレクトロニクス統括本部を新設し、会長・社長以下の役員6人で構成する経営会議を設けて集団指導体制を敷いた。社長個人に直結していた10事業部の体制から、合議と本部制へと舵を切ったのである。一方で、内部告発を招いた希望退職制度は1992年も再実施され、社員から反発の声が上がるなど、合理化の痛みは続いた[17][18]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1991年12月23日号「ヤマハ 事業部制が不協和音――楽器に安住、多角化不発」(日経BP社)
  • 日経ビジネス 1990年6月11日号「ヤマハ 低迷ピアノに活――『ハイテク再武装』」(日経BP社)
  • 日経ビジネス 1992年4月6日号「再生めざすヤマハ、また希望退職の無神経」(日経BP社)