初の非同族社長・津室隆夫氏の登場——大林家45年支配からの転換
創業100周年を翌年に控え、大林芳郎会長は経営の椅子を血縁の外に譲る決断をどう下したか
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- 概要
- 1989年6月、大林組は大林家と血縁関係を持たない津室隆夫氏を4代目社長に起用した。1943年から45年にわたり社長を務めた大林芳郎氏の後任として、生え抜きの技術系幹部が初めて大林一族以外から選ばれた経営体制の転換である。
- 背景
- 創業から97年、大林家3代が経営を率いてきた大林組は、来る創業100周年を控えて「土木の請負中心で堅く暗い会社」という企業イメージの刷新を課題としていた。石油危機後に育てた技術力を軸にした開発企画型営業への転換が、実務能力を重んじる経営への移行を後押ししていた。
- 内容
- 京都大学建築学科出身で現場と技術部門を歩んだ津室隆夫氏が社長に就任し、翌1990年にはCI(コーポレート・アイデンティティ)導入とあわせて新しい企業理念と新社章を制定した。会長に退いた大林芳郎氏は津室氏への信頼を示しつつ、次男・大林剛郎氏を副社長に据えた。
- 含意
- バブル崩壊後の子会社整理や1994年の贈賄事件という試練を経て、1997年に津室氏の後任も剛郎氏ではなく向笠愼二氏が務めた。社長職の非同族起用は定着した一方、大林剛郎氏は副会長・会長として経営の中枢に残り続けた。
「非同族」の実像——社長は譲り、会長は残す
津室隆夫氏の登板は、大林一族が45年守ってきた社長の椅子を初めて血縁のない人物に譲った判断であった。バブル期の建設需要に沸くさなかに断行された点で、危機対応としての世代交代ではなく、創業100周年を見据えた企業イメージの刷新として、余裕のあるうちに手を打った承継であったとみることができる。CI導入という象徴的な演出を伴わせたことも、この判断が単なる人事にとどまらず、会社の見え方そのものを変える意図を含んでいたことを示している。
もっとも、その後の展開が示すのは、社長職の非同族起用が定着する一方で、大林剛郎氏が副社長・副会長・会長として経営の中枢に一貫して残り続けたという事実である。剛郎氏は津室氏が社長に就いた1989年に副社長、次の交代があった1997年に副会長、そして2003年に会長へと昇っており、社長は血縁の外へ、経営の要は血縁の内にという二重構造がその後も長く続いた。大林組の「脱同族経営」は、社長という一つの役職の開放として読むのが実態に近いとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
45年におよぶ大林芳郎会長時代の終わり
大林組は1892年に大林芳五郎氏が個人創業して以来、義雄・芳郎と大林家の血族が経営を引き継いできた。3代目社長の大林芳郎氏は1943年の就任から45年にわたって社長の座にあり、戦後復興からバブル前夜までの長期政権を率いていた。1989年6月、大林芳郎氏は社長職を退き、後任には大林家と血縁関係を持たない津室隆夫氏が就いた。創業から97年、初めて大林一族以外の人物が社長に就いた[1][2]。
就任当時の大林組は、「土木分野の請負工事が中心で、堅く、暗い会社」という外部評価に向き合っていた。日経ビジネスは就任から1年後の1990年7月号で津室氏の登板を「同族外で初の登板」と紹介し、来年に迫る創業100周年をにらんで企業イメージを一新し「脱・受注産業」路線を軌道に乗せる重責を担うと位置づけた。技術畑出身の生え抜きに経営を託した判断は、単なる世代交代ではなく事業モデルの転換を見据えたものであった[3]。
石油危機後の技術重視路線と津室氏の経歴
大林組は1973年の石油危機を境に、経営悪化の一因となっていた過大な土地保有を整理する一方、新しい建設技術の研究開発と開発企画型営業を推進して地力を蓄えていた。1987年末以降は景気がバブル経済と呼ばれるほど膨張し、関西国際空港や東京湾横断道路などの大型プロジェクトが相次いだ。技術力を軸にした営業体制への転換が進むなかで、血縁より実務能力を重んじる経営への移行を後押しする土壌が育っていたとみることができる[4]。
津室隆夫氏自身の経歴は、この技術重視路線を体現していた。1952年に京都大学工学部建築学科を卒業して大林組に入社し、大阪本社勤務を経て1965年に東京本社へ赴任、四国支店長を経て1983年に取締役東京本社エンジニアリング事業部長、85年常務、87年専務と昇進を重ねた。設計部門と現場を経験した後は、時代の一歩先を読む技術コーディネーターとしての役割に徹しており、「これといった専門分野はない」と自ら語るほど、特定技術より全体を俯瞰する立場を歩んでいた[5][6]。
決断
1989年6月、大林一族以外で初の社長就任
1989年6月、津室隆夫氏は大林組の4代目社長に就任した。会長に退いた大林芳郎氏は津室氏について「十分信頼できる男」と評しており、大林家出身者を直ちに後継に据えず、生え抜きの技術系幹部を社長に起用した点に、経営体制刷新の意図が表れていた。同時に、大林芳郎氏の次男である大林剛郎氏はこのとき副社長に就いており、社長の椅子は非同族に譲りながら、経営中枢に一族の存在を残す布陣が敷かれていた[7][8]。
就任翌年の1990年6月14日、津室氏はCI導入を発表する記者会見に臨んだ。「組」という社名が時代遅れではないかとの質問に対し、津室氏は「『四人組』の例もあって、確かに中国あたりではあまり評判がよろしくないようですなあ。私も変えた方がいいと思ったんですが、間に合わなかったもので」と応じたうえで、「建設業のイメージアップという大目標を前にして、今さら『組』うんぬんでもないでしょう」とやんわり切り返した。深刻な決意を前面に出すのではなく、軽妙な受け答えで新体制への移行を印象づけていた[9]。
CI導入と新企業理念の制定
1990年4月、大林組はCIの導入とあわせて新しい企業理念と新社章を制定した。創業100周年を翌年に控え、旧来の企業イメージを一新して「脱・受注産業」路線を軌道に乗せることが、津室体制に課せられた重責であった。CI導入は社長交代と同時並行で進められた、組織全体の意識転換の試みであった[10]。
津室氏は技術畑出身でありながら、経営者としては実務感覚を前面に出した。大阪・船場生まれの「浪速っ子」である津室氏に東京常駐が苦にならないかと問うと、「しょせん人間は神と悪魔の間を行ったり来たりしている生き物。生活する場所なんか、どこだっていっしょです」ときっぱりと答えている。出身地や社名へのこだわりよりも目の前の経営課題に向き合い続けた点に、一族出身ではない社長ならではの距離の取り方がうかがえる[11]。
結果
バブル崩壊、贈賄事件、そして次の後継人事
建設ブームのピークと重なった津室体制のもと、大林組はバブル崩壊後にかつてない長期不況に直面した。地価下落と受注環境の悪化を受け、同社は保有していた一部子会社の整理を余儀なくされた。さらに1994年には仙台市長への贈賄容疑で経営首脳が逮捕され、業界全体の談合・贈賄体質に対する社会的批判が高まるなか、大林組も全社的な経営見直し運動に着手した。非同族体制への移行は、こうした試練のただ中で進んだ[12]。
1997年6月、津室氏は社長職を退き、後任には副社長の向笠愼二氏が就いた。業界関係者の間では大林芳郎氏の次男で副社長を務めていた大林剛郎氏が「本命」とみられていたが、剛郎氏はこの人事にあわせて副会長へ退いた。「ノーマークに等しかった」向笠氏の登板は業界の憶測を呼び、不祥事の芽を摘むために大林芳郎氏が剛郎氏を温存したのではないかという見方も業界内で語られた。大林家出身者を後継から外す選択は、津室氏一代限りではなく、次の代でも繰り返された[13][14]。
- 日経ビジネス 1990年7月30日号「新社長登場 津室隆夫氏(大林組) 同族外で初の登板『先読み』に自信」
- 1995日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- 大林組 有価証券報告書【沿革】
- 大林組 有価証券報告書(役員の状況・略歴)
- 週刊東洋経済 1997年12月6日号「フラッシュ ゼネコン 同族経営が終焉迎える 信用不安のさなかに、銀行VSオーナーの軋れきが高まっている」