大林組 の歴史

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創業 1892年
創業者 大林芳五郎
創業地 大阪市西区
創業
1892年1月、大阪の乾物問屋『大徳』の三男で27歳の大林芳五郎氏が、大阪市西区阿波座で土木建築の請負業を興した。商家の信用と人脈を足場に、1898年には大阪市の築港工事を受注して7年をかけて完成させ、1903年には第5回内国勧業博覧会の施設工事の大半を請け負った。建築と土木のどちらも切らず並行して受ける方針を、初めから採っている。1906年に東京支店を置き、1909年7月に合資会社へ改組、1914年には辰野金吾氏設計の東京中央停車場と、発注者の資本を上回る工事費の生駒トンネルを同じ年に完工させた。1918年に株式会社大林組へ改組している。
決断
創業家から社長を外したあと、資本の使い道を株主と争う会社になった。1943年から45年にわたり社長を務めた大林芳郎氏の後任として、1989年6月に大林家と血縁のない津室隆夫氏を4代目社長に据えた。京都大学建築学科出身で現場と技術部門を歩んだ生え抜きで、翌1990年には新しい企業理念と社章を定めている。株式は分散し、2023年には約4%を持つ英シルチェスターが1株12円の特別配当を求め、取締役会の反対で否決された。会社は中期経営計画2022の5年6,000億円の成長投資と自己資本配当率3%を根拠に退けたが、2025年4月に就任した佐藤俊美社長は自己資本1兆円の維持と1,000億円の自己株式取得を自ら掲げた。退けた提案と同じ還元へ2年後に自分から動いたことが、資本の使い道を社内の判断から株主との交渉へ移した。
現況
売上を減らした期に、営業利益が過去最高になった。2026年3月期の連結売上高は2兆5,863億円と前期から338億円減った一方、営業利益は1,434億円から1,946億円へ36%増えた。国内建築は売上を1兆1,388億円へ15%減らして利益を627億円から1,036億円へ伸ばし、選別した工事が採算を引き上げている。国内土木は売上4,266億円で利益406億円、海外建築は売上5,079億円に対し利益114億円の2.2%にとどまる。不動産は売上1,068億円と全体の4.1%ながら利益199億円を出し、利益率18.7%は5事業で最も高い。請負を本業と呼ばないと掲げたあとも、売上の96%は請負が占めている。
競合
同業が国内で開発資産を積むあいだに、大林組は海外の会社を買収した。2023年に米MWHを取得し、2025年4月に就任した佐藤俊美社長は北米を機軸にしたM&Aを本格化させ、データセンター建設のGCONと豪州のマルチプレックスを続けて傘下へ入れている。2026年3月期の海外売上は建築5,079億円・土木3,360億円で全体の32.6%へ達したが、両事業の利益は266億円で5事業合計の14%にとどまる。同じ時期に鹿島建設が開発資産を国内外で約1兆2,000億円まで積んだのに対し、大林組の不動産事業は売上1,068億円である。買収で伸ばした海外は利益率2.2%の建築へ集まり、規模の拡大と利益率の低下が同時に起きている。
大林組:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

創業ストーリー 大阪の乾物問屋の三男が官需で興し、東西の難工事で名を上げるまで (1892年〜)

商家の信用を元手にした創業と、大阪市築港工事の7年

1892年1月、大阪の乾物問屋[1]『大徳』の三男である大林芳五郎氏[2]が、大阪市西区阿波座で土木建築の請負業を[3]個人名義で興した。建設業とは無縁の商家に育った氏は、技術の蓄積ではなく、商家として培った信用と人脈を足場に工事を取り込む方針[4]を採った。1月18日に阿部製紙所工場(西成郡川北村西野新田、現・此花区西九条)の新設工事を落札[5]し、独立を果たした7日後の1月25日を創業日と定めている[6]。店舗兼住居は大阪・西区靱南通4丁目62番地(現・西区西本町2丁目5番24号)[7]に構えた。建築と土木のどちらも切らずに並行して請け負う方針[8]は、この出発点から採られている。

  • 大林組 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1892年1月 個人企業として創業
  • 大林組百年史(大林組, 1993)
    • [2]創業者 大林芳五郎氏(乾物問屋「大徳」の三男)
    • [3]創業地 大阪市西区阿波座・業種は土木建築の請負
    • [4]技術の蓄積ではなく商家の信用と人脈で工事を取り込む方針
    • [5]1892年1月18日 阿部製紙所工場の新設工事を落札
    • [6]創業日 1月25日(落札の7日後)
    • [7]創業時の店舗兼住居 大阪・西区靱南通4丁目62番地
    • [8]建築と土木を並行して請け負う方針

創業6年目の1898年、大林組は大阪市築港工事を受注し、7年がかりで1905年に完成[9]させた。安治川河口を掘り込む築港[10]は、1889年の市制施行を経た大阪が近代港湾を得るための事業[11]で、個人企業が請け負う規模ではなかった。続く1903年には第5回内国勧業博覧会の諸施設工事の大半を受注[12]し、創業から10年ほどで関西の大手業者と並ぶ位置[13]に進んでいる。1906年には東京支店を設置[14]し、辰野金吾氏が設計した東京中央停車場(東京駅丸の内本屋)[15]を請け負って首都の官需へ踏み込んだ。1909年7月には合資会社へ改組[16]し、個人名義の請負から法人による経営へ移した。

  • 大林組百年史(大林組, 1993)
    • [9]1898年 大阪市築港工事を受注し1905年に完成
    • [10]大阪市築港は安治川河口の近代港湾整備事業
    • [11]1889年 大阪市制施行
    • [12]1903年 第5回内国勧業博覧会の諸施設工事の大半を受注
    • [13]創業から10年ほどで関西の大手業者と並ぶ位置
    • [15]東京中央停車場(東京駅丸の内本屋)の設計は辰野金吾氏
  • 大林組 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1906年 東京支店を設置
    • [16]1909年7月 合資会社へ改組
  • 大林組 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1892年1月 個人企業として創業
    • [14]1906年 東京支店を設置
    • [16]1909年7月 合資会社へ改組
  • 大林組百年史(大林組, 1993)
    • [2]創業者 大林芳五郎氏(乾物問屋「大徳」の三男)
    • [3]創業地 大阪市西区阿波座・業種は土木建築の請負
    • [4]技術の蓄積ではなく商家の信用と人脈で工事を取り込む方針
    • [5]1892年1月18日 阿部製紙所工場の新設工事を落札
    • [6]創業日 1月25日(落札の7日後)
    • [7]創業時の店舗兼住居 大阪・西区靱南通4丁目62番地
    • [8]建築と土木を並行して請け負う方針
    • [9]1898年 大阪市築港工事を受注し1905年に完成
    • [10]大阪市築港は安治川河口の近代港湾整備事業
    • [11]1889年 大阪市制施行
    • [12]1903年 第5回内国勧業博覧会の諸施設工事の大半を受注
    • [13]創業から10年ほどで関西の大手業者と並ぶ位置
    • [15]東京中央停車場(東京駅丸の内本屋)の設計は辰野金吾氏

東京駅と生駒トンネル ── 1914年に並び立った建築と土木

1914年、大林組は東西にまたがる二つの大工事を同じ年に完成[17]させた。一つは東京中央停車場、もう一つは大阪電気軌道の生駒トンネル[18]で、当時東洋一の長さとなる3,388メートル[19]を掘り抜いた。生駒トンネルは完成前年の1913年に落盤で作業員20名が死亡する事故[20]を起こしており、湧水と崩落に苦しめられた難工事だった。発注者の大阪電気軌道の資本金は300万円、大林組も同額の300万円[21]で、合計600万円の資本しかない相手に対し、投下資金は820万円ほどに達している[22]。しかも支払いはすべて手形で、その手形に融通性が[23]なかったため、大林組は資金繰りに苦しんだ。

  • 大林組百年史(大林組, 1993)
    • [17]1914年 東京中央停車場と生駒トンネルを同年に完成
    • [18]生駒トンネルは大阪電気軌道の工事
    • [19]生駒トンネルは当時東洋一の長さ 3,388メートル
    • [20]1913年の落盤で作業員20名が死亡
  • 回顧70年 : 大林組とともに(大林組, 1968)
    • [21]大阪電気軌道の資本金 300万円・大林組も300万円
    • [22]生駒トンネル事業への投下資金 約820万円
    • [23]支払いはすべて手形で融通性がなく資金繰りに苦しんだ

東京中央停車場と生駒トンネルはいずれも1911年に受注した工事[24]で、その完工から2年後の1916年、創業者の大林芳五郎氏が死去[25]し、嗣子の大林義雄氏が2代目社長を継いだ[26]。第一次世界大戦下の好況で工事量は年々増え[27]、1918年12月には資本金50万円で株式会社大林組を設立[28]、翌1919年3月に合資会社を合併して資本金を200万円へ引き上げた[29]。義雄社長は業務組織の近代化とあわせて技術者の欧米派遣を始め[30]、外部から工法を持ち帰る経路を社内に作っている。新しい技術の導入と機械設備の拡充[31]が続いた結果、大林組はこの時期に全国規模の建設会社として扱われるようになった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大林組」の項
    • [24]東京中央停車場と生駒トンネルは1911年に受注
    • [25]1916年 創業者 大林芳五郎氏が死去
    • [26]2代目社長 大林義雄氏(芳五郎氏の嗣子)
    • [27]第一次世界大戦下の好況で工事量が増加
    • [28]1918年12月 資本金50万円で株式会社大林組を設立
    • [29]1919年3月 合資会社を合併し資本金200万円
    • [31]新技術の導入と近代的な機械設備の拡充
  • 日本会社史総覧 1995年
    • [30]技術者の欧米派遣を開始
  • 大林組百年史(大林組, 1993)
    • [17]1914年 東京中央停車場と生駒トンネルを同年に完成
    • [18]生駒トンネルは大阪電気軌道の工事
    • [19]生駒トンネルは当時東洋一の長さ 3,388メートル
    • [20]1913年の落盤で作業員20名が死亡
  • 回顧70年 : 大林組とともに(大林組, 1968)
    • [21]大阪電気軌道の資本金 300万円・大林組も300万円
    • [22]生駒トンネル事業への投下資金 約820万円
    • [23]支払いはすべて手形で融通性がなく資金繰りに苦しんだ
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大林組」の項
    • [24]東京中央停車場と生駒トンネルは1911年に受注
    • [25]1916年 創業者 大林芳五郎氏が死去
    • [26]2代目社長 大林義雄氏(芳五郎氏の嗣子)
    • [27]第一次世界大戦下の好況で工事量が増加
    • [28]1918年12月 資本金50万円で株式会社大林組を設立
    • [29]1919年3月 合資会社を合併し資本金200万円
    • [31]新技術の導入と近代的な機械設備の拡充
  • 日本会社史総覧 1995年
    • [30]技術者の欧米派遣を開始

関東大震災後の信用と、傍系会社による工種の囲い込み

1923年の関東大震災では、大林組が施工した日本興業銀行のビルをはじめ複数の建物が倒壊を免れ、同社の鉄筋コンクリート造に対する評価が高まった。1927年には上野〜浅草間のうち万世橋〜上野間で[32]日本初の地下鉄工事を完工し、都市部の土木でも実績を積んでいる。震災の前後には伏見桃山・伏見桃山東・多摩・多摩東の各御陵造営[33]も手がけており、官需と民需の双方に受注先を持つ体制ができた。創業から30年余りで、大林組は関西の一請負業者から全国の官公需を扱う会社へ変わった[34]

  • 大林組百年史(大林組, 1993)
    • [32]1927年 日本初の地下鉄工事(万世橋〜上野間)を完工
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大林組」の項
    • [33]伏見桃山・伏見桃山東・多摩・多摩東の各御陵造営を施工
    • [34]創業から30年余りで全国の官公需を扱う会社へ

本体の拡大と並行して周辺の工種を担う会社も置き、1931年10月に木工内装工事を目的とする内外木材工芸[35]、1933年8月に道路舗装工事を目的とする東洋鋪装を設立[36]している。内外木材工芸は家具製作と高級造作工事を[37]扱い、建物の内側まで自社の系列で仕上げる体制を用意した。東洋鋪装は1967年2月に大林道路へ商号を変え[38]、1971年4月には東京証券取引所市場第二部へ上場[39]している。建築の仕上げと道路舗装はいずれも本体の請負と工程で接する分野[40]で、外注していた工種を系列に抱えた分だけ、受注できる工事の幅が広がった。

  • 大林組 有価証券報告書【沿革】
    • [35]1931年10月 内外木材工芸を設立(木工内装工事)
    • [36]1933年8月 東洋鋪装を設立(道路舗装工事)
    • [38]1967年2月 東洋鋪装を大林道路へ商号変更
    • [39]1971年4月 大林道路が東証第二部へ上場
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大林組」の項
    • [37]内外木材工芸は家具製作と高級造作工事を担当
    • [40]建築の仕上げと道路舗装は本体の請負と工程で接する分野
  • 大林組百年史(大林組, 1993)
    • [32]1927年 日本初の地下鉄工事(万世橋〜上野間)を完工
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大林組」の項
    • [33]伏見桃山・伏見桃山東・多摩・多摩東の各御陵造営を施工
    • [34]創業から30年余りで全国の官公需を扱う会社へ
    • [37]内外木材工芸は家具製作と高級造作工事を担当
    • [40]建築の仕上げと道路舗装は本体の請負と工程で接する分野
  • 大林組 有価証券報告書【沿革】
    • [35]1931年10月 内外木材工芸を設立(木工内装工事)
    • [36]1933年8月 東洋鋪装を設立(道路舗装工事)
    • [38]1967年2月 東洋鋪装を大林道路へ商号変更
    • [39]1971年4月 大林道路が東証第二部へ上場

第二大林組を器にした資本再編と、戦時下の社長承継

1936年12月24日、大林組は資本金10万円で株式会社第二大林組を設立[41]した。翌1937年3月、この新会社が資本金500万円の株式会社大林組を吸収合併し、資本金1,010万円へ増やしたうえで商号を株式会社大林組に[42]改めている。現在の同社が法律上の設立日を1936年12月とする[43]のは、この再編を経ているためである。資本を積み増した効果は受注量に表れ、1936年から1940年までの5年間、大林組は年平均の施工高で業界1位に立った[44]。銀行や商社のビルはもとより工場や倉庫の建築工事が急増し、発電所・道路・橋梁の[45]土木工事も盛んで、国内産業の拡張がそのまま受注として流れ込んだ時期である。

  • 証券 1960年11月号
    • [41]1936年12月24日 資本金10万円で株式会社第二大林組を設立
    • [42]1937年3月 資本金500万円の株式会社大林組を吸収合併し資本金1,010万円へ
    • [43]法律上の設立日は1936年12月
  • 1995日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [44]1936年から1940年の5年間 年平均の施工高で業界1位
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大林組」の項
    • [45]銀行・商社のビル、工場・倉庫の建築と発電所・道路・橋梁の土木工事が増加

1943年4月、大林組は資本金を1,500万円へ増資[46]した。同じ年、大林義雄社長が死去し、嗣子の大林芳郎氏が3代目社長を継いでいる[47]。芳郎氏は応召中に就任を命じられており[48]、戦時下の経営が人事の面でも制約を受けていたことを示す。戦前からの受注の増勢は1940年ごろまで続いていた[49]が、戦時と敗戦の混乱で施工高1位の地位は一度失われた。創業者が大阪の一工務店を業界首位まで押し上げるのに約50年[50]を要した歩みが、数年で振り出しへ戻っている。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大林組」の項
    • [46]1943年4月 資本金1,500万円へ増資
    • [47]大林義雄社長の死去により大林芳郎氏が3代目社長を継承
    • [49]戦前からの受注の増勢は1940年ごろまで継続
  • 大林組百年史(大林組, 1993)
    • [48]大林芳郎氏は応召中に社長就任を命じられた
  • 1995日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [50]創業から業界首位まで約50年
  • 証券 1960年11月号
    • [41]1936年12月24日 資本金10万円で株式会社第二大林組を設立
    • [42]1937年3月 資本金500万円の株式会社大林組を吸収合併し資本金1,010万円へ
    • [43]法律上の設立日は1936年12月
  • 1995日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [44]1936年から1940年の5年間 年平均の施工高で業界1位
    • [50]創業から業界首位まで約50年
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大林組」の項
    • [45]銀行・商社のビル、工場・倉庫の建築と発電所・道路・橋梁の土木工事が増加
    • [46]1943年4月 資本金1,500万円へ増資
    • [47]大林義雄社長の死去により大林芳郎氏が3代目社長を継承
    • [49]戦前からの受注の増勢は1940年ごろまで継続
  • 大林組百年史(大林組, 1993)
    • [48]大林芳郎氏は応召中に社長就任を命じられた

支店網の再建と、大阪店頭公開から二市場上場へ

戦後の大林組は、戦災を受けた道路・工場・住宅の復旧工事と進駐軍関連の工事から再建に着手[51]した。1946年6月に仙台出張所を仙台支店とし横浜支店を新設[52]、同年11月に札幌、1947年3月に広島、1948年10月に岡山[53]と、出張所を支店へ格上げする形で全国の営業網を組み直している。1950年に始まる朝鮮動乱の好況にも恵まれ、1951年以降は官公私の各方面から工事を多量に受注[54]して戦前の姿へ復した。1950年の沖縄の米軍工事は鹿島建設・竹中工務店との協力で施工[55]し、続く那覇の飛行場工事には鹿島・竹中・大成を加えた4社で共同して当たっている[56]。1955年時点の社員数は3,000名、年間の施工高は約200億円[57]で、NHK新館、東京鉄道会館、三和銀行本店、関西電力姫路火力発電所[58]などを手がけている。

  • 大林組百年史(大林組, 1993)
    • [51]戦後は戦災復旧工事と進駐軍関連工事から再建に着手
  • 証券 1960年11月号
    • [52]1946年6月 仙台支店化と横浜支店新設
    • [53]1946年11月 札幌・1947年3月 広島・1948年10月 岡山の各出張所を支店化
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大林組」の項
    • [54]1950年 朝鮮動乱の好況と1951年以降の受注回復
    • [57]1955年時点の社員数 3,000名・年間施工高 約200億円
    • [58]NHK新館・東京鉄道会館・三和銀行本店・関西電力姫路火力発電所を施工
  • 私の履歴書 経済人7「鹿島守之助」(日本経済新聞社、1980年)
    • [55]1950年の沖縄米軍工事を鹿島建設・竹中工務店と協力して施工
    • [56]那覇の飛行場工事は鹿島・大林・竹中・大成の4社で共同施行

ゼネコンの株式は長く非公開で、個人経営的な閉鎖性を残していた[59]。これを破ったのは1956年9月に東京店頭市場へ公開した大成建設[60]で、大林組は1957年12月に大阪店頭市場へ続いた[61]。工事量の増大に伴う運転資金の需要と、機械化投資の拡大が、自己資本の充実を迫っていた[62]ためである。大林組は1958年12月に大阪証券取引所[63]、1960年11月に東京証券取引所へ株式を上場[64]した。上場時点の資本金は24億円、従業員は5,110名[65]、1960年3月期の完成工事高は223億円[66]で、工事の内訳は建築84%・土木16%、受注の約70%を特命が占めていた[67]

  • 日本産業史(日経文庫、日本経済新聞社、1994年)第2巻「建設-巨大工事にいどむ」
    • [59]ゼネコンの株式は長く非公開で個人経営的な閉鎖性を残した
    • [60]1956年9月 大成建設が東京店頭市場へ株式公開
    • [61]1957年12月 大林組が大阪店頭市場へ株式公開
    • [62]公開の背景は運転資金需要の増大と機械化投資の拡大
  • 大林組 有価証券報告書【沿革】
    • [63]1958年12月 大阪証券取引所へ上場
    • [64]1960年11月 東京証券取引所へ上場
  • 証券 1960年11月号
    • [65]上場時点の資本金 24億円・従業員 5,110名
    • [66]1960年3月期の完成工事高 223億円
    • [67]工事の内訳は建築84%・土木16%、特命受注が約70%
  • 大林組百年史(大林組, 1993)
    • [51]戦後は戦災復旧工事と進駐軍関連工事から再建に着手
  • 証券 1960年11月号
    • [52]1946年6月 仙台支店化と横浜支店新設
    • [53]1946年11月 札幌・1947年3月 広島・1948年10月 岡山の各出張所を支店化
    • [65]上場時点の資本金 24億円・従業員 5,110名
    • [66]1960年3月期の完成工事高 223億円
    • [67]工事の内訳は建築84%・土木16%、特命受注が約70%
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大林組」の項
    • [54]1950年 朝鮮動乱の好況と1951年以降の受注回復
    • [57]1955年時点の社員数 3,000名・年間施工高 約200億円
    • [58]NHK新館・東京鉄道会館・三和銀行本店・関西電力姫路火力発電所を施工
  • 私の履歴書 経済人7「鹿島守之助」(日本経済新聞社、1980年)
    • [55]1950年の沖縄米軍工事を鹿島建設・竹中工務店と協力して施工
    • [56]那覇の飛行場工事は鹿島・大林・竹中・大成の4社で共同施行
  • 日本産業史(日経文庫、日本経済新聞社、1994年)第2巻「建設-巨大工事にいどむ」
    • [59]ゼネコンの株式は長く非公開で個人経営的な閉鎖性を残した
    • [60]1956年9月 大成建設が東京店頭市場へ株式公開
    • [61]1957年12月 大林組が大阪店頭市場へ株式公開
    • [62]公開の背景は運転資金需要の増大と機械化投資の拡大
  • 大林組 有価証券報告書【沿革】
    • [63]1958年12月 大阪証券取引所へ上場
    • [64]1960年11月 東京証券取引所へ上場

バンコクの常駐事務所と、清瀬に置いた自前の技術研究所

1950年代当初、清水・大成・鹿島・大林・竹中の大手5社の年間完成工事高はほぼ200億円に達しよう[68]としており、建設業はここから約10年の成長期に入った[69]。上場で資金調達の道を得た大林組は海外と技術へ資源を割き、1964年には日系企業の現地工場建設の需要を見越して、建設業界で初めてバンコクに常駐事務所を置いた[70]。1965年12月には東京都清瀬市に技術研究所を新設[71]し、ここを拠点にOWSソレタンシュ工法(連続地中壁工法)や超高層建築を支える技術[72]を開発している。佐久間ダムや黒部第四に代表される大土木工事を通じて土木事業には機械の導入が本格化[73]しており、ダムや電源開発の現場では他社にない施工技術が受注の条件になっていた。

  • 日本産業史(日経文庫、日本経済新聞社、1994年)第2巻「建設-巨大工事にいどむ」
    • [68]1950年代当初の大手5社の年間完成工事高は約200億円規模
    • [69]建設業は1950年代当初から約10年の成長期に入った
    • [73]大土木工事を通じて土木事業に機械の導入が本格化
  • 大林組百年史(大林組, 1993)
    • [70]1964年 バンコクに建設業界初の海外常駐事務所を開設
  • 大林組 有価証券報告書【沿革】
    • [71]1965年12月 東京都清瀬市に技術研究所を新設
    • [72]OWSソレタンシュ工法(連続地中壁工法)を技術研究所で開発

1970年12月、大林組は東京支店を東京本社へ改めた[74]。1972年1月にはインドネシアにジャヤ大林を設立[75]し、バンコクの常駐事務所から現地法人へと海外の体制を進めている。国内でも1963年10月に建物管理の[76]東洋ビルサービスを設立し、1965年7月には神戸支店を開く[77]など、支店網と関連会社を増やした。売上高は1965年3月期の1,156億円から1972年3月期の2,865億円へ7年で2.5倍[78]に伸び、同じ期間に営業利益も68億円から162億円へ増えている[79]

  • 大林組 有価証券報告書【沿革】
    • [74]1970年12月 東京支店を東京本社へ改称
    • [75]1972年1月 インドネシアにジャヤ大林を設立
    • [76]1963年10月 東洋ビルサービスを設立
    • [77]1965年7月 神戸支店を開設
  • 大林組百年史(大林組, 1993)
    • [78]売上高 1965年3月期1,156億円 → 1972年3月期2,865億円
    • [79]営業利益 1965年3月期68億円 → 1972年3月期162億円
  • 日本産業史(日経文庫、日本経済新聞社、1994年)第2巻「建設-巨大工事にいどむ」
    • [68]1950年代当初の大手5社の年間完成工事高は約200億円規模
    • [69]建設業は1950年代当初から約10年の成長期に入った
    • [73]大土木工事を通じて土木事業に機械の導入が本格化
  • 大林組百年史(大林組, 1993)
    • [70]1964年 バンコクに建設業界初の海外常駐事務所を開設
    • [78]売上高 1965年3月期1,156億円 → 1972年3月期2,865億円
    • [79]営業利益 1965年3月期68億円 → 1972年3月期162億円
  • 大林組 有価証券報告書【沿革】
    • [71]1965年12月 東京都清瀬市に技術研究所を新設
    • [72]OWSソレタンシュ工法(連続地中壁工法)を技術研究所で開発
    • [74]1970年12月 東京支店を東京本社へ改称
    • [75]1972年1月 インドネシアにジャヤ大林を設立
    • [76]1963年10月 東洋ビルサービスを設立
    • [77]1965年7月 神戸支店を開設

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大林組の沿革1892〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1892〜1935年大阪の乾物問屋の三男が官需で興し、東西の難工事で名を上げるまで大林組創業——乾物問屋の三男が大阪・阿波座で興した土木建築請負業

1892年1月、大阪の乾物問屋『大徳』の三男・27歳の大林芳五郎氏が、大阪市西区阿波座で個人事業として土木建築の請負業を興した。商家の信用と人脈を足場に1898年の大阪市築港工事、1903年の第5回内国勧業博覧会の施設工事を受注し、創業10年で関西の大手業者と並ぶ位置へ進んだ。1914年には東京中央停車場と生駒トンネルを同年に完工し、1909年の合資会社化を経て1918年に株式会社大林組へ改組した。

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★★★
東京支店を開設
大林組を設立
東京中央停車場(東京駅丸の内本屋)・生駒トンネル工事が完成
創業者・大林芳五郎が死去、大林義雄が2代目社長に就任
大林組を設立
日本初の地下鉄工事(上野〜浅草間のうち万世橋〜上野間)を完工
東洋鋪装を設立
1936〜1972年第二大林組による資本の再編から、株式上場と初の海外常駐拠点まで第二大林組を設立し大林組を再編
大林義雄社長が死去、大林芳郎が3代目社長に就任
浪速土地を設立
高松支店を開設
大阪証券取引所に株式を上場
東京証券取引所に株式を上場
東洋ビルサービスを設立
神戸支店を開設
技術研究所を新設
東洋鋪装を大林道路に商号変更
東京支店を東京本社に改める
大林道路が東京証券取引所市場第二部に上場
ジャヤ大林を設立
1973〜2009年石油危機後の受注構造の転換、脱同族への移行、そして初の営業赤字タイ大林を設立
金沢支店を開設
福岡支店を九州支店に商号変更
初の非同族社長・津室隆夫氏の登場——大林家45年支配からの転換

1989年6月、大林組は大林家と血縁関係を持たない津室隆夫氏を4代目社長に起用した。1943年から45年にわたり社長を務めた大林芳郎氏の後任として、生え抜きの技術系幹部が初めて大林一族以外から選ばれた経営体制の転換である。

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★★★
オーシー・ファイナンスを設立
CI導入、企業理念・新社章を制定
台湾大林組を設立
大林シンガポールを設立
仙台市長への贈賄容疑で経営首脳が逮捕★★
大林USAを設立
オーク設備工業の全株式を取得
脇村典夫大林ファシリティーズを設立
脇村典夫大林ベトナムを設立
白石達海外支店を開設
2010〜2026年請負への依存から抜けるための、非建設事業と海外買収による拡大白石達初の営業赤字・純損失を計上★★
白石達新星和不動産の全株式を取得
白石達大林クリーンエナジーを設立
白石達大林道路を完全子会社化★★
蓮輪賢治シンガポールにアジア支店、米国に北米支店を開設
蓮輪賢治サイプレス・スナダヤの株式を取得
蓮輪賢治シルチェスターによる特別配当の株主提案と、その否決

2023年、大林組株を約4%持つ英運用会社シルチェスター・インターナショナル・インベスターズが、1株12円の特別配当を求める株主提案を第119回定時株主総会に提出した経営判断。会社側は5月11日の取締役会で反対を決議し、6月28日の総会で提案は反対多数により否決された。

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★★★
蓮輪賢治データセンター事業への参入を発表★★
佐藤俊美佐藤俊美体制の始動と北米MWH機軸の積極M&A戦略

2025年4月、大林組は財務・経営企画畑を歩み北米駐在経験を持つ佐藤俊美氏を9代目社長兼CEOに据え、2023年に取り込んだ米MWH社を軸とする積極的なM&A戦略を本格化させた。就任後もデータセンター建設のGCON社、豪州のマルチプレックス社と海外買収を重ね、連結売上高1兆円構想を掲げるが、実現の時期や国内M&Aの具体像は本稿の時点で定まっていない。

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★★★
出典・参考
  • 大林組 有価証券報告書【沿革】
  • 大林組百年史(大林組, 1993)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大林組」の項
  • 日本産業史(日経文庫、日本経済新聞社、1994年)第2巻「建設-巨大工事にいどむ」
  • 日本会社史総覧 1995年
  • 1995日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
  • 証券 1960年11月号
  • 私の履歴書 経済人7「鹿島守之助」(日本経済新聞社、1980年)
  • 回顧70年 : 大林組とともに(大林組, 1968)

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