この創業が示すのは、技術の蓄積ではなく商家として培った信用と人脈を足場に、建設という成長業種へ入った選択の意味である。大林芳五郎氏は建築と土木のどちらにも絞らず、市制施行後の大阪で立ち上がる官需を受注の力で取り込んでいった。無名の個人業者が大阪市築港と内国勧業博覧会という大阪の大工事を相次いで手がけたことが、関西の先行業者と並ぶ足場を用意しただろう。
もう一つ見えてくるのは、創業者個人の受注力から組織の経営への移り変わりである。1914年に完工した東京中央停車場と生駒トンネルが建築と土木の双方で大林組の名を全国へ広げ、その直後に創業者が世を去った。個人事業から合資会社、株式会社へと形態を改め、2代目の大林義雄氏が技術者の欧米派遣や支店網の拡大で組織の体制を構築した歩みは、一代の商才で起こした請負業が全国規模の建設会社へ育っていく道筋を示していたといえる。