清水建設 の歴史

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創業 1804年
創業者 清水喜助
創業地 江戸神田鍛冶町
創業
1804年、越中富山出身の宮大工・清水喜助氏が22歳で江戸神田鍛冶町の絵草紙屋の裏店に住み、銀三分を元手に大工業を創業した。町家と商家の請負で評判を得ると表通りの神田新石町へ移り、屋号を清水屋として弟子を養った。1859年の横浜開港では2代喜助氏が横浜店を開設し、外国商館の建築で煉瓦造やトラス構造を現場で覚えている。1872年には三井組大番頭・三野村利左衛門氏の下命で第一国立銀行を手がけた。1886年7月には工学士を招いて技師長制を発足させ、翌1887年、3代店主の急逝を受けて相談役となった渋沢栄一氏が営業の方針を『民間の建築工事』と定める。個人営業は1915年10月の合資会社清水組設立まで110年余続き、1937年8月に株式会社清水組、1948年2月に清水建設となった。
決断
非建設事業で収益の3割超を占める目標を、40年のあいだに二度掲げた。一度目は1985年5月の『シミズスプリング計画』で、本業以外の比率を5%から10年で35%へ引き上げる構想だった。1978年7月に決めたEC化で企画から維持保全までを請け負う体制へ移り、清水不動産やシミズリフォームを相次いで設立している。だがバブル崩壊で前提が崩れ、1991年2月の新長期ビジョン「SHIMZ-21」が開発・エンジニアリング・海外・新規の4事業を本業を支える位置へ下げた。二度目のSHIMZ VISION 2030は2030年度に非建設で連結収益の35%を掲げ、今度は自社開発ではなく買収で進めている。2022年3月に道路舗装の日本道路を株式公開買付けで子会社化し、2026年には海洋土木のあおみ建設を約250億円で取得した。
現況
当期純利益が営業利益を上回るのは、保有資産の売却益が積み上がったからである。2026年3月期の連結売上高は2兆578億円、営業利益1,187億円に対し、特別利益964億円を計上して当期純利益は1,266億円となった。セグメントでは当社建設事業が売上1兆4,778億円に対し利益907億円で6.1%、当社投資開発事業が526億円に対し167億円で31.8%、2022年に加えた道路舗装事業が1,557億円に対し106億円である。地域別は日本1兆8,480億円に対しアジア1,646億円・その他452億円で、海外は1割強にとどまる。2024年3月期には資材高と労務費の高騰で上場来初の連結営業損失247億円を出したが、不採算工事の消化とともに請負の採算は2026年3月期に戻った。
競合
同じ最大手でも、清水建設は民間建築の景気をそのまま損益へ映してきた。渋沢栄一氏が1887年に定めた民間主体の路線は、都市の建築ブームと噛み合った1990年3月期に売上高・受注高・経常利益の三冠を生んだ一方、スライド条項の置かれない民間工事では資材の上昇分を自社が負担する。関西では1991年時点の受注シェアが13%台にとどまり、竹中工務店の35%と大林組の32%に及ばず、近畿営業本部を新設して立て直しに入った。官需の土木を早くに備えた鉄道専業へ転じた鹿島建設や、財閥解体で創業家を離れた社員の会社となった大成建設とは、顧客の構成そのものが違う。2022年の日本道路と2026年のあおみ建設の取得は、この振れを請負の外側で埋める手当てにあたる。
清水建設:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

創業ストーリー 神田鍛冶町の裏店に開いた大工業が、渋沢栄一の定めた民間建築の路線に行き着くまで (1804年〜)

銀三分の元手と、横浜居留地で覚えた洋式の工法

1804年、越中富山出身の宮大工・清水喜助氏は22歳で[1]江戸神田鍛冶町の絵草紙屋の裏店に住みつき、銀三分を元手に大工業を開いた[2]。開業まもない時期は、昼に日本橋あたりの商店の仕事へ呼ばれ、夜は日用の家具を作って売って[3]日々の糧を得ていた。町家や商家の請負で評判を得ると裏店を出て、表通りの神田新石町に店と仕事場を構え、屋号を『清水屋』として多数の弟子を養った[4]。江戸後期は町人が富を蓄えて商家や町家の建築需要が広がり[5]、腕一つの職人が民間の施主から直に普請を請け負う余地が生まれていた。神田鍛冶町は大工・鍛冶・木挽きの集まる職人町で[6]、地方から出た棟梁が民間の仕事を取り込める街区であった。

  • 清水建設百五十年(1956)
    • [1]創業者 越中富山出身の宮大工・清水喜助(開業時22歳)
    • [2]1804年 江戸神田鍛冶町の絵草紙屋の裏店で銀三分を元手に大工業を開業
    • [3]開業当初は昼に日本橋の商店の仕事、夜は日用の家具の製作と販売
    • [4]神田新石町に店と仕事場を構え屋号「清水屋」として弟子を養う
    • [5]江戸後期 町人の蓄財による商家・町家の建築需要の広がり
    • [6]神田鍛冶町は大工・鍛冶・木挽きの集まる職人町

1859年の横浜開港にあたり、家業を継いだ2代清水喜助氏は横浜店を開いた[7]。得意先だった大老・井伊直弼氏の執りなしで開港の準備を一手に引き受け[8]、幕府の諸施設と居留地の外国商館の建築を任された。江戸の弟子衆もこの転身に同行し、古参の職人は東京の得意先を他の出入り大工へ譲って横浜へ移った[9]。居留地の商館は規模も構造も建材も在来の工法とは異なり、棟梁は外国人技師の図面を読みながら煉瓦造やトラス構造を現場で覚えた[10]。官の御用に連なる格式ではなく、外国商人という民間の施主と直に向き合う仕事が、開港地では大量に生まれていた[11]

  • 清水建設百五十年(1956)
    • [7]1859年 横浜開港に伴い2代清水喜助が横浜店を開設
    • [8]大老・井伊直弼の執りなしで開港準備を引き受け幕府諸施設と外国商館を建築
    • [9]江戸の弟子衆が横浜へ同行し古参職人は東京の得意先を他の大工へ譲渡
    • [11]開港地で外国商人という民間の施主と直接向き合う仕事が拡大
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [10]居留地の外国商館建築を通じて煉瓦造・トラス構造など西洋建築技術を習得

2代清水喜助氏は築地ホテル館を手がけたのち[12]、1872年に三井組大番頭・三野村利左衛門氏の下命で第一国立銀行を担った[13]。銀行建築を見たことのないまま自前で設計し、明治初期を代表する擬洋風建築として技術を世に示した[14]。第一国立銀行は三井組ハウスの名でも呼ばれ[15]、明治初期の東京を代表する建物として知られた。明治中期に入ると建築の規模と構造が複雑になり、棟梁の経験だけでは設計と施工の品質を保ちにくくなった[16]。清水組は1886年7月に工学士を招いて技師長制を発足させ[17]、図面を引く技術者と現場を結ぶ体制を同業に先んじて整えた。

  • 清水建設百五十年(1956)
    • [12]築地ホテル館の施工
    • [13]1872年 三野村利左衛門の下命で第一国立銀行を建築
    • [14]洋行経験のないまま自前で設計し擬洋風建築として技術を示す
    • [15]第一国立銀行は三井組ハウスとも呼ばれた
    • [16]明治中期 建築の規模と構造の複雑化で棟梁の経験だけでは品質保持が困難
    • [17]1886年7月 工学士を招聘し技師長制を発足
  • 清水建設百五十年(1956)
    • [1]創業者 越中富山出身の宮大工・清水喜助(開業時22歳)
    • [2]1804年 江戸神田鍛冶町の絵草紙屋の裏店で銀三分を元手に大工業を開業
    • [3]開業当初は昼に日本橋の商店の仕事、夜は日用の家具の製作と販売
    • [4]神田新石町に店と仕事場を構え屋号「清水屋」として弟子を養う
    • [5]江戸後期 町人の蓄財による商家・町家の建築需要の広がり
    • [6]神田鍛冶町は大工・鍛冶・木挽きの集まる職人町
    • [7]1859年 横浜開港に伴い2代清水喜助が横浜店を開設
    • [8]大老・井伊直弼の執りなしで開港準備を引き受け幕府諸施設と外国商館を建築
    • [9]江戸の弟子衆が横浜へ同行し古参職人は東京の得意先を他の大工へ譲渡
    • [11]開港地で外国商人という民間の施主と直接向き合う仕事が拡大
    • [12]築地ホテル館の施工
    • [13]1872年 三野村利左衛門の下命で第一国立銀行を建築
    • [14]洋行経験のないまま自前で設計し擬洋風建築として技術を示す
    • [15]第一国立銀行は三井組ハウスとも呼ばれた
    • [16]明治中期 建築の規模と構造の複雑化で棟梁の経験だけでは品質保持が困難
    • [17]1886年7月 工学士を招聘し技師長制を発足
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [10]居留地の外国商館建築を通じて煉瓦造・トラス構造など西洋建築技術を習得

渋沢栄一が営業方針に据えた「民間の建築工事」

1887年、3代店主の急逝を受けて渋沢栄一氏が相談役に就いた[18]。渋沢栄一氏は営業の方針を『民間の建築工事』と定め[19]、以後30年以上にわたって清水店の経営に関わった[20]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [18]1887年 3代店主の急逝により渋沢栄一が相談役に就任
    • [19]営業方針を「民間の建築工事」と決定
    • [20]渋沢栄一は30年以上にわたり経営に関与

専属取引業者の組織化と店内改革[21]も渋沢栄一氏の指導のもとで進み、下請を含む施工の体制が整えられた。こうした改革を通じて、清水組は土木と建築の請負業として組織を整えた[22]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [21]専属取引業者の組織化と店内改革
    • [22]土木・建築の請負業として組織を整備

オフィス・工場・銀行・商社という民間の施主を主要な顧客に据える方針は、明治後期から大正期にかけて事業の基盤として定着した[23]。官公庁の工事に依存する同業他社とは[24]、顧客の層がここで分かれた。民間需要は官需よりも景気の振れを受けやすく[25]、同じ顧客層への集中は好況と不況で正反対の結果を出す性質を持つ。個人営業は1915年の法人化まで110年余続き[26]、その間の経営は清水同族と支配人が担った。1995年の時点でも清水建設は堅実経営と民間建築の強みで知られる業界最大手の総合建設会社[27]であり、渋沢栄一氏が定めた路線は一世紀を経て受け継がれた。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [23]オフィス・工場・銀行・商社を主要顧客に据える方針が明治後期から大正期に定着
    • [24]官公庁工事に依存する同業他社と顧客層が分かれた
    • [27]1995年時点で堅実経営と民間建築に強みを持つ業界最大手の総合建設会社
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻1号
    • [25]建築工事は民間工事の比重が高く景気変動と民間設備投資の動向に敏感
  • 清水建設 有価証券報告書【沿革】
    • [26]個人営業は1804年から1915年の法人化まで110年余続いた
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [18]1887年 3代店主の急逝により渋沢栄一が相談役に就任
    • [19]営業方針を「民間の建築工事」と決定
    • [20]渋沢栄一は30年以上にわたり経営に関与
    • [21]専属取引業者の組織化と店内改革
    • [22]土木・建築の請負業として組織を整備
    • [23]オフィス・工場・銀行・商社を主要顧客に据える方針が明治後期から大正期に定着
    • [24]官公庁工事に依存する同業他社と顧客層が分かれた
    • [27]1995年時点で堅実経営と民間建築に強みを持つ業界最大手の総合建設会社
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻1号
    • [25]建築工事は民間工事の比重が高く景気変動と民間設備投資の動向に敏感
  • 清水建設 有価証券報告書【沿革】
    • [26]個人営業は1804年から1915年の法人化まで110年余続いた

合資会社化と、1937年に一挙に敷いた全国支店網

1915年10月、清水同族は資本金100万円で合資会社清水組を設立し[28]、1804年以来110年余続いた個人営業を会社組織へ改めた[29]。受注の規模が拡大し建設機械の導入も進むなかで、個人が無限責任を背負う商いの形では事業を支えにくくなっていた[30]。明治中期には近代建設業者としての体制が固まり[31]、その延長で会社組織への変更が選ばれた。本店は東京市京橋区に置かれ[32]、以後の経営はこの地から続いた。1928年2月には本店芝浦鐵工所を分離し、合資会社東京鐵骨橋梁製作所として設立した[33]。同社はのちの日本ファブテックにあたり[34]、鉄骨と橋梁の製作を担う関連会社となった。

  • 清水建設 有価証券報告書【沿革】
    • [28]1915年10月 資本金100万円で合資会社清水組を設立
    • [29]1804年の創業以来110年余続いた個人営業を会社組織へ改組
    • [31]明治中期に近代建設業者としての体制を確立
    • [33]1928年2月 本店芝浦鐵工所を合資会社東京鐵骨橋梁製作所として設立
    • [34]東京鐵骨橋梁製作所は現在の日本ファブテック
  • 清水建設百五十年(1956)
    • [30]受注規模の拡大と建設機械の導入で個人の無限責任では支えにくくなった
    • [32]合資会社清水組の本店は東京市京橋区

1937年8月、資本金1,200万円で株式会社清水組を設立した[35]。同年11月に合資会社清水組を合併すると同時に名古屋支店・大阪支店・九州支店を開設し[36]、関東中心だった営業基盤を全国へ広げた。この合併で合資会社と株式会社の二本立ては解消された[37]。法人の統合と全国支店網の整備を同時に進めたことで、地方の工事にも自前の拠点で応じる体制が整った[38]。日中戦争の拡大に伴って軍需関連の工事が増え、1939年5月に北海道支店、1945年5月に広島支店を開いた[39]。戦時中は軍需施設の建設に動員され、技術者の多くが海外の軍需工事へ配属された[40]

  • 清水建設 有価証券報告書【沿革】
    • [35]1937年8月 資本金1,200万円で株式会社清水組を設立
    • [36]1937年11月 合資会社清水組を合併し名古屋・大阪・九州の各支店を開設
    • [37]合併により合資会社と株式会社の二本立てを解消
    • [39]1939年5月 北海道支店、1945年5月 広島支店を開設
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [38]法人統合と全国支店網整備により地方の工事に自前の拠点で対応
    • [40]戦時中の軍需施設建設への動員と技術者の海外軍需工事への配属

1945年8月15日の終戦から3日後、清水組は戦災を免れた本社社屋で業務を再開した[41]。業務を再開したときの社員数は約3,500人[42]であった。1946年には4月に仙台支店、7月に北陸支店と四国支店を相次いで開き[43]、戦後の復興需要に応じる拠点を埋め直した[44]。同年8月には建設資材などの販売会社として丸喜産業を設立し、余剰人員の受け皿とした[45]。丸喜産業は現在のミルックスにあたり[46]、建設資材の調達を担う。1947年3月には総合設備会社の第一設備工業を設立し[47]、設備工事を自前で担う体制を加えた。戦災を免れた本社社屋を残していたことが、業務再開の早さにつながった[48]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [41]1945年8月18日 戦災を免れた本社社屋で業務を再開
    • [42]業務再開時の社員数 約3,500人
    • [44]戦後復興需要に応じる支店網の再整備
    • [48]戦災を免れた本社社屋の存在が早期の業務再開を可能にした
  • 清水建設 有価証券報告書【沿革】
    • [43]1946年4月 仙台支店、7月 北陸支店と四国支店を開設
    • [45]1946年8月 建設資材販売会社の丸喜産業を設立し余剰人員の受け皿とした
    • [46]丸喜産業は現在のミルックス
    • [47]1947年3月 総合設備会社の第一設備工業を設立
  • 清水建設 有価証券報告書【沿革】
    • [28]1915年10月 資本金100万円で合資会社清水組を設立
    • [29]1804年の創業以来110年余続いた個人営業を会社組織へ改組
    • [31]明治中期に近代建設業者としての体制を確立
    • [33]1928年2月 本店芝浦鐵工所を合資会社東京鐵骨橋梁製作所として設立
    • [34]東京鐵骨橋梁製作所は現在の日本ファブテック
    • [35]1937年8月 資本金1,200万円で株式会社清水組を設立
    • [36]1937年11月 合資会社清水組を合併し名古屋・大阪・九州の各支店を開設
    • [37]合併により合資会社と株式会社の二本立てを解消
    • [39]1939年5月 北海道支店、1945年5月 広島支店を開設
    • [43]1946年4月 仙台支店、7月 北陸支店と四国支店を開設
    • [45]1946年8月 建設資材販売会社の丸喜産業を設立し余剰人員の受け皿とした
    • [46]丸喜産業は現在のミルックス
    • [47]1947年3月 総合設備会社の第一設備工業を設立
  • 清水建設百五十年(1956)
    • [30]受注規模の拡大と建設機械の導入で個人の無限責任では支えにくくなった
    • [32]合資会社清水組の本店は東京市京橋区
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [38]法人統合と全国支店網整備により地方の工事に自前の拠点で対応
    • [40]戦時中の軍需施設建設への動員と技術者の海外軍需工事への配属
    • [41]1945年8月18日 戦災を免れた本社社屋で業務を再開
    • [42]業務再開時の社員数 約3,500人
    • [44]戦後復興需要に応じる支店網の再整備
    • [48]戦災を免れた本社社屋の存在が早期の業務再開を可能にした

外部資本の初導入と、特許49件を抱えた研究部門

1948年2月、企業再建整備計画に基づいて社名を『清水建設株式会社』へ改めた[49]。在外資産の喪失と戦時補償の打ち切りによる損失を処理し、同年の増資で資本金を7,000万円として、清水同族以外から初めて外部資本を導入した[50]。140年余続いた個人商店の色は、資本の面から薄まった[51]。この再建を経て、清水建設は同族の枠を超えた資本構成へ移った[52]。戦後は政府発注工事の支払い遅延とインフレで資金繰りが悪化しており[53]、増資は再建の条件でもあった。余剰人員の対策と技術の蓄えを同時に進めたこの時期に、1946年2月には研究室を新設し、のちの技術研究所となった[54]

  • 清水建設 有価証券報告書【沿革】
    • [49]1948年2月 企業再建整備計画に基づき社名を清水建設株式会社へ変更
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [50]1948年の増資で資本金7,000万円とし清水同族以外から初めて外部資本を導入
    • [51]1804年の創業から140年余続いた個人商店色が資本面で希薄化
    • [52]1948年の再建で同族の枠を超えた資本構成へ移行
    • [53]戦後の政府発注工事の支払い遅延とインフレによる資金繰りの悪化
    • [54]1946年2月 研究室(のちの技術研究所)を新設

1963年の時点で研究所は約90名の研究スタッフを擁し[55]、材料・土質・構造力学・工法・機械にわたる建設技術の研究[56]にあたった。取得済みの特許32件と実用新案17件は業界で最も多く[57]、プレパクト工法、HW工法、コルクリート工法という3件の外国技術を導入していた[58]。この3件は全建設業者の導入15件の20%にあたる[59]。超高層ビルの建築工法では業界で最も早く研究に着手し、数案の実施計画をすでに完成させていた[60]。1960年の職制改革では本社スタッフとして技術室を置き[61]、研究所の成果を施工へ移す役と、施工中の工事を技術面から監査する役[62]を担わせた。

  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻1号
    • [55]1963年時点で研究所の研究スタッフ約90名
    • [56]研究対象は材料・土質・構造力学・工法・機械
    • [57]取得済みの特許32件・実用新案17件は業界最多
    • [58]導入した外国技術はプレパクト工法・HW工法・コルクリート工法の3件
    • [59]外国技術3件は全建設業者の導入15件の20%
    • [60]超高層ビル建築工法の研究に業界で最も早く着手し数案の実施計画を完成
    • [61]1960年の職制改革で本社スタッフとして技術室を設置
    • [62]技術室は研究成果の施工への移転と施工中工事の技術監査を担当

機械化への投資も同じ時期に厚みを増し、1961年度の機械化投資は31億円と、1956年度の5億5,000万円の約6倍に達した[63]。1963年度中には敷地4,200坪の相模原重機械プールを建設し、約250名のオペレーターの充員育成を終える計画[64]を掲げた。下請企業の機械化を指導して施工能力と精度を高める方針[65]も併せて示した。人工軽量骨材の実験も終え、強度はコンクリートと変わらず重さが30%軽い材料の実用化を控えていた[66]。清水建設は『技術を売る会社』をモットーとし[67]、発注者からの技術的な信頼が受注の前提になると考えていた[68]

  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻1号
    • [63]1961年度の機械化投資31億円は1956年度の5億5,000万円の約6倍
    • [64]敷地4,200坪の相模原重機械プール建設と約250名のオペレーター育成計画
    • [65]下請企業の機械化指導による施工能力と精度の向上方針
    • [66]人工軽量骨材はコンクリートと同強度で30%軽い
    • [67]「技術を売る会社」をモットーに掲げる
    • [68]発注者の技術的信頼度が高くなければ発注の決定に至らない
  • 清水建設 有価証券報告書【沿革】
    • [49]1948年2月 企業再建整備計画に基づき社名を清水建設株式会社へ変更
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [50]1948年の増資で資本金7,000万円とし清水同族以外から初めて外部資本を導入
    • [51]1804年の創業から140年余続いた個人商店色が資本面で希薄化
    • [52]1948年の再建で同族の枠を超えた資本構成へ移行
    • [53]戦後の政府発注工事の支払い遅延とインフレによる資金繰りの悪化
    • [54]1946年2月 研究室(のちの技術研究所)を新設
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻1号
    • [55]1963年時点で研究所の研究スタッフ約90名
    • [56]研究対象は材料・土質・構造力学・工法・機械
    • [57]取得済みの特許32件・実用新案17件は業界最多
    • [58]導入した外国技術はプレパクト工法・HW工法・コルクリート工法の3件
    • [59]外国技術3件は全建設業者の導入15件の20%
    • [60]超高層ビル建築工法の研究に業界で最も早く着手し数案の実施計画を完成
    • [61]1960年の職制改革で本社スタッフとして技術室を設置
    • [62]技術室は研究成果の施工への移転と施工中工事の技術監査を担当
    • [63]1961年度の機械化投資31億円は1956年度の5億5,000万円の約6倍
    • [64]敷地4,200坪の相模原重機械プール建設と約250名のオペレーター育成計画
    • [65]下請企業の機械化指導による施工能力と精度の向上方針
    • [66]人工軽量骨材はコンクリートと同強度で30%軽い
    • [67]「技術を売る会社」をモットーに掲げる
    • [68]発注者の技術的信頼度が高くなければ発注の決定に至らない

株式公開と「計画受注」── 総合建設業への到達

清水建設は創業以来、建築を主業としてきた[69]。戦後の高度成長で加速したインフラ投資を取り込むには土木の能力が欠かせず、1954年に土木部の組織を整備拡充して子会社の新清土木を吸収合併した[70]。道路・ダム・トンネル・港湾の公共工事を受注して技術を蓄え、1960年代には総売上高の約2割を土木部門が担った[71]。1961年度の土木完成工事高117億円は業界7位にあたり[72]、民間建築の量に隠れて過小に見られがちだった土木の実力[73]を示す数字であった。土木工事は一件の規模が大きい一方で工期が長く回転率が低いため[74]、経営の継続的な安定という点では建築主体の業者が優れると吉川清一副社長は説明した[75]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [69]創業以来 建築を主業とする
    • [70]1954年 土木部組織を整備拡充し子会社の新清土木を吸収合併
    • [71]1960年代に総売上高の約2割を土木部門が担う
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻1号
    • [72]1961年度の土木完成工事高117億円で業界7位
    • [73]土木の実績が建築工事量の陰に隠れ過小に評価されていた
    • [74]土木は工期が長く回転率が低いため経営の継続的安定では建築主体の業者が優れる
    • [75]吉川清一副社長が建築主体の経営安定性を説明

1961年4月、資本金を30億円として東京店頭市場に株式を公開した[76]。同年10月には東京証券取引所市場第二部へ上場し、1962年2月には第一部へ移った[77]。同年10月には名古屋・大阪の両証券取引所市場第一部にも上場した[78]。株式公開で高度成長期の設備投資に応じる資金調達力が高まり、工事受注、支店網の拡充、研究開発への投資に回せる原資が増えた[79]。1961年度には業界に先がけてIBMセンターを設け、本支店の未成工事損益の計数管理を本社へ集中させた[80]。1963年は創業160周年にあたり、吉川清一副社長は配当2割2分を安定した線として堅持し、記念配当を2〜3分つけたいと述べた[81]

  • 清水建設 有価証券報告書【沿革】
    • [76]1961年4月 資本金30億円で東京店頭市場に株式を公開
    • [77]1961年10月 東証第二部に上場、1962年2月 第一部へ
    • [78]1962年10月 名古屋・大阪両証券取引所市場第一部に上場
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻1号
    • [79]増資と公募による自己資本の充実が投資の原資となる
    • [80]1961年度に業界に先がけIBMセンターを設け未成工事損益の計数管理を本社集中
    • [81]1963年 創業160周年 吉川清一副社長が配当2割2分の堅持と記念配当2〜3分を表明

受注の基本方針は『計画受注』[82]で、1959年度から1961年度の建設ブームでは積極受注に転じ、受注量は全国平均を10%以上上回る年率41%の伸び[83]を記録した。1962年の不況では選別受注へ切り替え、1年分の受注残を抱えることでこの転換を可能にした[84]。全受注量に占める民間工事の比率は80〜85%、うち特命工事が70〜80%を占めた[85]。未成工事収支が常に入超だったのは、同業者のなかで清水建設だけ[86]であった。清水建設はさらにコンサルタント部門の新設を打ち出し[87]、土地の斡旋や資金繰り、テナント、完成後のビル経営と維持管理まで相談に応じて[88]、注文を待たずに建設投資そのものを開発する方針を掲げた[89]

  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻1号
    • [82]受注の基本方針は「計画受注」
    • [83]1959〜1961年度の建設ブームで受注量は全国平均を10%以上上回る年率41%増
    • [84]1962年の不況で選別受注へ転換、1年分の受注残がそれを可能にした
    • [85]民間工事の比率80〜85%、うち特命工事70〜80%
    • [86]未成工事収支が常に入超なのは同業者中で清水建設のみ
    • [87]コンサルタント部門の新設
    • [88]土地斡旋・資金繰り・テナント・ビル経営・維持管理まで相談に応じる構想
    • [89]注文を待たず建設投資を開発する方針
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [69]創業以来 建築を主業とする
    • [70]1954年 土木部組織を整備拡充し子会社の新清土木を吸収合併
    • [71]1960年代に総売上高の約2割を土木部門が担う
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻1号
    • [72]1961年度の土木完成工事高117億円で業界7位
    • [73]土木の実績が建築工事量の陰に隠れ過小に評価されていた
    • [74]土木は工期が長く回転率が低いため経営の継続的安定では建築主体の業者が優れる
    • [75]吉川清一副社長が建築主体の経営安定性を説明
    • [79]増資と公募による自己資本の充実が投資の原資となる
    • [80]1961年度に業界に先がけIBMセンターを設け未成工事損益の計数管理を本社集中
    • [81]1963年 創業160周年 吉川清一副社長が配当2割2分の堅持と記念配当2〜3分を表明
    • [82]受注の基本方針は「計画受注」
    • [83]1959〜1961年度の建設ブームで受注量は全国平均を10%以上上回る年率41%増
    • [84]1962年の不況で選別受注へ転換、1年分の受注残がそれを可能にした
    • [85]民間工事の比率80〜85%、うち特命工事70〜80%
    • [86]未成工事収支が常に入超なのは同業者中で清水建設のみ
    • [87]コンサルタント部門の新設
    • [88]土地斡旋・資金繰り・テナント・ビル経営・維持管理まで相談に応じる構想
    • [89]注文を待たず建設投資を開発する方針
  • 清水建設 有価証券報告書【沿革】
    • [76]1961年4月 資本金30億円で東京店頭市場に株式を公開
    • [77]1961年10月 東証第二部に上場、1962年2月 第一部へ
    • [78]1962年10月 名古屋・大阪両証券取引所市場第一部に上場

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清水建設の沿革1804〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1804〜1914年神田鍛冶町の裏店に開いた大工業が、渋沢栄一の定めた民間建築の路線に行き着くまで清水建設創業——神田鍛冶町の絵草紙屋裏店から渋沢栄一氏の「民間の建築工事」へ

文化元年(1804年)、越中富山出身の宮大工・清水喜助氏が22歳で江戸神田鍛冶町の絵草紙屋の裏店に住みつき、銀三分を元手に大工業を開業した。町家や商家の請負で評判を得て表通りの神田新石町に店を構え、屋号を『清水屋』として弟子を養った。以後110年余の個人営業を経て、1915年に資本金100万円で合資会社清水組として法人化し、近代企業への歩みを進めた。

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★★★
技師長制を発足し設計・施工一貫態勢を整備
渋沢栄一を相談役に迎え民間建築方針を確定★★
1915〜1965年個人営業110年の家業が合資会社と株式会社を経て、土木を備えた総合建設業に至るまで清水組を設立し会社組織に変更
東京鐵骨橋梁製作所を設立
清水組を設立
清水組を合併し全国支店網を整備
終戦後本社社屋で業務再開
研究室を新設
清水建設に商号変更
土木部門を強化
株式を東京店頭市場に公開
東京証券取引所市場第一部に上場
1966〜1991年創業家の手を離れた経営が海外とEC化を経て多角化へ向かい、バブルで頂点に立つまで非同族社長の就任★★
量産住宅用PC板製造工場を新設
不動産取引に関する業務を事業目的に追加
子会社を設立
EC化(エンジニアリング・コンストラクター化)を決定★★
TQCを本格導入
EC化に備えるため定款の事業目的を追加
10年ビジョン「シミズスプリング計画」を策定
シミズリフォームを設立
初の無担保転換社債500億円を発行
今村治輔業界トップの業績を回復
今村治輔定款の事業目的を追加
今村治輔新長期ビジョン「SHIMZ-21」の策定 ── 多角化路線の撤回と本業回帰

1991年2月、清水建設は今村治輔社長のもとで90年代の経営指針となる新長期ビジョン『SHIMZ-21』を策定し、1985年に打ち出した多角化路線を撤回して建設本業への回帰を宣言した経営判断。同時に受注シェアで劣勢だった関西地区の強化にも乗り出した。

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★★★
今村治輔本店を移転
1992〜2026年二度の赤字決算を挟んで本業の採算に立ち返り、非建設の柱を買い足すまで今村治輔東京支店・土木東京支店開設
野村哲也定款の事業目的を追加
野村哲也清水総合開発を設立
野村哲也定款の事業目的を追加
宮本洋一国際支店開設
宮本洋一初の連結純損失を計上★★
宮本洋一本社を移転
宮本洋一定款の事業目的を追加
井上和幸日本道路を株式公開買付けにより子会社化★★
井上和幸SEP船「BLUE WIND」完成
新村達也初の連結営業損失を計上★★
新村達也新村達也が第10代社長に就任
出典・参考
  • 清水建設 有価証券報告書【沿革】
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻1号
  • 日経ビジネス 1987年5月25日号
  • 日経ビジネス 1990年11月12日号増刊号
  • 日経ビジネス 1991年4月22日号
  • 日経ビジネス 1992年2月10日号
  • 清水建設百五十年(1956)

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