この創業から見えてくるのは、幕府や大名の御用ではなく、町場の民間の普請から身を起こした選択の意味である。初代清水喜助氏は宮大工の技を町家や商家の請負へ振り向け、官の格式に連なるよりも施主と直に向き合う民間請負の場に足場を構築した。2代清水喜助氏が横浜開港で得た幕府御用と西洋建築の経験も、その多くは居留地の外国商館という民間の施主に近い現場から積み上げられたものと読める。民間の建築を軸に据える家業の性格が、明治期の技術蓄積を通じて形づくられていったとみられる。
もう一つ浮かぶのは、渋沢栄一氏が言葉にした"民間の建築工事"という方針の位置づけである。この方針は無から生まれた理想というより、初代喜助氏以来の民間請負の実践を経営の言葉として明確にしたものと読み取れる。個人棟梁の家業は合資会社・株式会社を経て、1948年の外部資本導入によって同族の個人商店色を薄め、やがて公開企業へと姿を変えていった。その歩みを貫いていたのは、官需に頼らず民間の建築に軸を置くという、神田鍛冶町の裏店の時代から続く一貫した選び方であったといえる。