清水建設清水建設創業——神田鍛冶町の絵草紙屋裏店から渋沢栄一の「民間の建築工事」へ
江戸後期の町家・商家の建築需要に、越中富山を出た22歳の宮大工・清水喜助 氏は銀三分の元手でどう挑んだか
- 概要
- 文化元年(1804年)、越中富山出身の宮大工・清水喜助 氏が22歳で江戸神田鍛冶町の絵草紙屋の裏店に住みつき、銀三分を元手に大工業を開業した。町家や商家の請負で評判を得て表通りの神田新石町に店を構え、屋号を「清水屋」として弟子を養った。以後110年余の個人営業を経て、1915年に資本金100万円で合資会社清水組として法人化し、近代企業への歩みを進めた。
- 背景
- 江戸後期は町人が富を蓄え、商家や町家の建築需要が広がる時宜にあった。神田鍛冶町は大工・鍛冶・木挽きが集まる職人町で、地方出身の棟梁が民間の普請を直に取り込める街区であった。清水喜助 氏は日光山の修築に関わる技倆を背景に、幕府や大名の御用に頼らず民間の建築を受注する江戸期の請負慣行のなかで、独立の足場を江戸に得た。
- 内容
- 1859年の横浜開港では、大老・井伊直弼 氏の執りなしで2代清水喜助 氏が横浜店を開き、幕府の諸施設と居留地の外国商館の建築を通じて煉瓦造やトラス構造といった西洋建築技術を現場で習得した。2代喜助 氏は1872年の第一国立銀行を洋行経験のないまま自前で設計し、明治初期を代表する擬洋風建築として技術力を世に示した。
- 含意
- 1886年の技師長制発足で設計と施工を結ぶ体制を整え、翌1887年には3代店主の急逝を受けて相談役に就いた渋沢栄一 氏が営業方針を「民間の建築工事」と定めた。官公庁工事に依存する同業他社と一線を画す民間建築主軸の路線が定着し、1948年の「清水建設株式会社」への改称と外部資本の初導入を経て、同族個人商店から公開企業への転換につながった。
民間の普請から出発した家業が公開企業になるまで
この創業から見えてくるのは、幕府や大名の御用ではなく、町場の民間の普請から身を起こした選択の意味である。初代清水喜助 氏は宮大工の技を町家や商家の請負へ振り向け、官の格式に連なるよりも施主と直に向き合う民間請負の場に足場を築いた。2代清水喜助 氏が横浜開港で得た幕府御用と西洋建築の経験も、その多くは居留地の外国商館という民間の施主に近い現場から積み上げられたものと読める。民間の建築を軸に据える家業の性格が、明治期の技術蓄積を通じて形づくられていったとみられる。
もう一つ浮かぶのは、渋沢栄一 氏が言葉にした「民間の建築工事」という方針の位置づけである。この方針は無から生まれた理想というより、初代喜助 氏以来の民間請負の実践を経営の言葉として明確にしたものと読み取れる。個人棟梁の家業は合資会社・株式会社を経て、1948年の外部資本導入によって同族の個人商店色を薄め、やがて公開企業へと姿を変えていった。その歩みを貫いていたのは、官需に頼らず民間の建築に軸を置くという、神田鍛冶町の裏店の時代から続く一貫した選び方であったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
越中富山の宮大工が身を立てた江戸
初代の清水喜助 氏は越中国富山の出身で、宮大工としての修練を積んで江戸へ出た職人であった。清水建設百五十年(1956)は、その技倆を「日光山の修築に関係した程の確かなもの」と伝え、仕事熱心で誠実な人柄が得意先の評判を支えたと記している[1]。腕を頼りに身を立てようとする地方出身の職人にとって、大名や幕府の御用に連なる格式よりも、町場の普請を直接に請け負う道のほうが開けていた。清水喜助 氏はその現実のなかで、江戸での独立を志していた。
開業の地に選ばれた神田鍛冶町は、大工・鍛冶・木挽きが集まる江戸城下の職人町であり、町家や商家の普請を地続きで取り込める街区であった。清水建設の有価証券報告書(沿革)は、1804年(文化元年)の神田鍛冶町での大工業開業を清水建設の起源とし、以来ながく個人営業の時代が続いたと記す[2]。江戸後期は町人が富を蓄えて商家や町家の建築需要が広がり、腕一つの職人が民間の施主から直に仕事を請け負う余地が生まれていた。官の御用に頼らず民間の普請を受ける請負のかたちが、この街区には根づいていた。
決断
銀三分を元手にした神田鍛冶町の開業
文化元年(1804年)、22歳の清水喜助 氏は神田鍛冶町の絵草紙屋の裏店に住みつき、わずかな元手で大工業を始めた。清水建設百五十年(1956)は、この年に「銀三分をもとでとして大工業を開業した」と記し、その大工が「当年二十二才の清水喜助であつた」と伝えている[3]。開業まもない時期は、昼に日本橋あたりの商店の仕事へ呼ばれ、夜は日用の家具を作って売り、その日の糊口をしのいでいた。宮大工の技を町場の普請へ振り向ける小さな個人の家業から、独立棟梁としての歩みが始まった。
町家や商家の請負で評判を得るにつれ、清水喜助 氏は裏店を出て表通りの神田新石町に店と仕事場を構えた。清水建設百五十年(1956)は、屋号を「清水屋」といい「棟梁として弟子も多数やしない、終生ここを住所として家業に力を尽した」と記している[4]。製造から施主との掛け合いまでを棟梁が一手に握る個人経営の形は、法人化を見送ったまま長く続いた。官の御用に依存せず民間の普請を軸に据える請負のかたちが、初代喜助 氏の代のうちに家業の骨格として固まっていった。
横浜開港と西洋建築技術の習得
安政6年(1859年)の横浜開港にあたり、家業を継いだ2代清水喜助 氏は横浜へ進出した。清水建設百五十年(1956)は、得意先であった大老・井伊直弼 氏の「執りなしで横浜開港の準備を一手に引受けて奮闘していた」と記し、幕府の諸施設建設を任された経緯を伝えている[5]。江戸の弟子衆もこの転身に同行し、古参の職人たちは東京の得意先を他の出入り大工へ譲って横浜へ移った。開港地での大量の普請が、清水屋を町場の請負から幕府御用の現場へと押し広げていった。
横浜の居留地では、外国商館の規模や構造、建材が江戸の在来工法とは異なり、棟梁は外国人技師の図面を読みながら工法を覚える必要に迫られた。日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)は、清水組が「居留地の外国商館建築工事等を通じて、西洋建築技術を習得した」と記している[6]。2代清水喜助 氏は築地ホテル館を手がけたのち、1872年に三井組大番頭・三野村利左衛門 氏の下命で第一国立銀行を担い、「洋行したことは無いから実際に銀行建築を知ろうはずが無い」まま自前で設計して、明治初期を代表する擬洋風建築を世に示した[7]。
結果
渋沢栄一と「民間の建築工事」
明治中期に入ると、建築の規模と構造が複雑になり、棟梁の経験だけでは設計と施工の品質を保ちにくくなっていた。清水組は1886年7月に工学士を招いて技師長制を発足させ、図面を引く技術者と現場を結ぶ体制を業界に先んじて整えた[8]。翌1887年、3代店主の急逝を受けて渋沢栄一 氏が相談役に就いた。日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)は「渋沢栄一を相談役に迎え、営業の方針を『民間の建築工事』と定めた」と記し、以後の店内改革と専属取引業者の組織化が土木・建築請負業の基礎を固めた経緯を伝えている[9]。
渋沢栄一 氏は以後30年以上にわたって経営に関与し、官公庁の工事に依存する同業他社と一線を画す民間建築主軸の路線を清水組に根づかせた[10]。オフィスや工場、銀行、商社といった民間の施主を主要な顧客に据える方針は、明治後期から大正期にかけて事業の基盤として定着した。日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)は1995年の時点でも清水建設を「堅実経営で民間建築に強み」を持つ業界最大手の総合建設会社と記しており、渋沢栄一 氏が定めた路線が一世紀を経ても企業の特色として受け継がれたことを示している[11]。
個人商店から公開企業へ
1804年以来の個人営業は、受注の規模が拡大し建設機械の導入が進むにつれ、個人が背負う請負責任では支えにくくなっていった。清水同族は1915年10月に資本金100万円で合資会社清水組を設立し、110年余続いた個人営業を有限責任の会社組織へ改めた[12]。1937年8月には資本金1,200万円で株式会社清水組を設立し、同年11月の合資会社合併と同時に名古屋・大阪・九州の各支店を開いて、関東中心の営業基盤を全国へ広げた[13]。日中戦争の拡大に伴う軍需関連の工事も、この全国体制のもとで受注が増えていった。
1945年8月15日の終戦から3日後、清水組は戦災を免れた本社社屋で業務を再開した。日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)は「終戦後の1945年8月18日、戦災を免れた本社社屋で業務を再開」し、当時の社員数が約3,500人であったと記している[14]。戦後は政府発注工事の支払い遅延とインフレで資金繰りが悪化し、1948年2月に社名を「清水建設株式会社」へ改めた。同年11月の増資で資本金7,000万円とし、同総覧は「この増資で初めて外部資本を導入した」と記している[15]。1804年から140年余続いた清水同族の個人商店色は、資本の面から薄まっていった。
- 清水建設百五十年(1956)
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- 清水建設 有価証券報告書(沿革)
- 株式会社年鑑 昭和33年版(1958)