鹿島建設 の歴史

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創業 1840年
創業者 鹿島岩吉
創業地 東京都中央区京橋
創業
1840年、鹿島岩吉氏が江戸・京橋に「大岩」の屋号で店を構え、大工棟梁として独立した。松平越中守邸をはじめとする大名屋敷の普請と町家の請負を同じ土地で取り込み、開国後は横浜へ出て、1860年に英国商社ジャーディン・マセソン商会の商館を施工した。日本で最初期の洋風建築であり、煉瓦造や洋小屋組を実地で覚えている。明治に入って屋号を鹿島方へ改めたのち、1880年に2代目岩蔵氏が鹿島方を解散して鹿島組を新設し、官営鉄道の柳ヶ瀬トンネルを皮切りに鉄道専業へ転じた。明治・大正期の請負高は鉄道が67%、水力発電が14%を占める。1930年3月に資本金300万円で株式会社鹿島組となり、1947年12月に鹿島建設へ改めた。
決断
前例のない構造物を最初に引き受けることを、受注の条件にしてきた。1918年着工の丹那トンネルでは、毎秒3.3立方メートルの湧水と大断層の崩壊に対し水抜トンネル・グラウト・シールド工法を投入し、16年をかけて1934年12月に開通させた。1949年4月に建設業界で初の技術研究所を設けて研究開発を自社に置き、1956年起工の東海村・日本原子力研究所第1号原子炉を清水建設との共同企業体で施工して、以後は原子力発電本館で業界一の実績を積む。1963年には年間受注高で世界1位へ立った。1968年4月には日本初の柔構造超高層となる霞が関三井ビルを完成させ、耐震構造の武藤清氏を副社長に迎えて特許・新案80件超を得ている。1978年2月のTQCの導入で受注高は業界初の1兆円を達成し、デミング賞実施賞につながった。
現況
売上の3分の1を占める海外は、利益率では国内土木の7分の1にとどまる。2026年3月期の連結売上高は3兆673億円、営業利益2,408億円、当期純利益1,773億円で、いずれも過去最高である。地域別では日本1兆9,722億円に対し、北米6,156億円・アジア2,075億円・大洋州1,846億円・欧州833億円が並ぶ。セグメント別では土木事業が売上4,308億円に対し利益767億円で17.8%、建築事業が1兆1,809億円に対し833億円で7.1%、海外関係会社は1兆918億円に対し267億円で2.4%である。2018年の中期経営計画で3年5,000億円を投じた開発事業等は売上927億円に対し利益176億円で、賃料と売却益が請負の振れを埋めている。
競合
超高層と原子力で先行した技術の差は、20年続いた利益率1%の低収益を止められなかった。1963年から27年続いた受注高首位は1990年3月期に清水建設へ移り、同社は翌1991年に多角化を撤回して建設本業へ回帰した。鹿島建設は1993年に茨城県庁舎の移転新築などをめぐる贈賄事件で副社長が起訴され、指名停止と平成不況が重なって受注機会を失う。建設業就業者が1997年の685万人から2010年の498万人へ減る一方で建設企業数は約47万社と過剰なまま残り、営業利益率はFY07で0.96%、FY08で1.01%、2010年3月期には創業170年で初の連結営業赤字68億円に転じた。低収益から抜けた後の使い道は分かれ、大成建設が東洋建設の買収で海洋土木を補ったのに対し、鹿島建設は開発資産を国内外で約1兆2,000億円まで積んだ。
鹿島建設:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

創業ストーリー 洋風建築第1号から鉄道専業・戦時工場建築へ (1840年〜)

洋風建築第1号から鉄道専業への転身

1840年、鹿島岩吉氏が江戸・京橋に『大岩』の屋号で店を構え[1]、大工棟梁として独立した。松平越中守邸をはじめとする大名屋敷の普請[2]を得意先とし、町家の請負と大名屋敷の普請という二つの需要を同じ土地で取り込んだ。開国後は横浜港の開港とともに同地へ進出し、1860年に英国商社ジャーディン・マセソン商会の通称『英一番館』を施工した[3]。日本における洋風建築の最初期の事例[4]であり、外国商館の請負を通じて煉瓦造や洋小屋組といった西洋工法を実地で覚えた[5]。明治に入ると屋号を『鹿島方』へ改め[6]、2代目の鹿島岩蔵氏[7]のもとで品川御殿山の毛利邸洋館、新橋の蓬莱社、神戸の製紙工場、岡山県庁舎[8]と、洋風建築の実績を全国へ広げた。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [1]1840年 鹿島岩吉氏が江戸・京橋で「大岩」の屋号を掲げ独立
    • [3]1860年 ジャーディン・マセソン商会の通称「英一番館」を施工
    • [4]英一番館は日本の洋風建築で最初期の事例
    • [6]明治期に屋号を「大岩」から「鹿島方」へ改称
    • [7]2代目は鹿島岩蔵氏
    • [8]鹿島方の代表作は品川御殿山の毛利邸洋館・新橋の蓬莱社・神戸の製紙工場・岡山県庁舎
  • 鹿島建設 有価証券報告書【沿革】
    • [2]松平越中守邸など大名屋敷の普請を得意先とした
  • 120年の歩み(鹿島建設, 1959)
    • [5]横浜の外国商館の請負を通じて煉瓦造・洋小屋組など西洋工法を習得

1880年、岩蔵氏[9]は洋風建築の実績を持つ『鹿島方』を解散し、鹿島組を新設して鉄道専門の工事業者へ転じた[10]。文明開化の象徴とされた鉄道に業態を絞り込む[11]転換であった。最初の仕事は官営鉄道の柳ヶ瀬トンネル[12]で、以後は日本鉄道会社の現東北本線や官設の現信越線[13]をはじめ全国各地の官設・私設鉄道を施工し、日清戦争を契機に朝鮮・満州・台湾の鉄道建設[14]へも進んだ。明治・大正期の工事種類別請負高は鉄道67%、水力発電14%[15]と、この2分野で工事量の80%以上を占めた[16]。鉄道業の全国展開と歩調を合わせて事業を伸ばした鹿島組は、『鉄道の鹿島』と呼ばれた[17]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [9]1880年 2代目岩蔵氏が「鹿島方」を解散
    • [10]鹿島組を新設し鉄道専門の工事業者へ転身
    • [11]鉄道は文明開化の象徴とされた先導産業
    • [13]日本鉄道会社の東北本線・官設の信越線ほか全国の官設私設鉄道を施工
    • [14]日清戦争を契機に朝鮮・満州・台湾の鉄道建設へ進出
    • [15]明治・大正期の工事種類別請負高は鉄道67%・水力発電14%
    • [16]鉄道と水力発電の2分野で工事量の80%以上
    • [17]鉄道業の全国展開と歩調を合わせ「鉄道の鹿島」と呼ばれた
  • 120年の歩み(鹿島建設, 1959)
    • [12]鹿島組の最初の鉄道工事は官営鉄道の柳ヶ瀬トンネル

鉄道請負の実務は、1880年の北陸本線中ノ郷〜柳ヶ瀬間[18]に始まった。モッコや猫車が運搬具の主流だった時代にレールとトロッコを持ち込み[19]、当時としては画期的な工法で工区を進めた。以後は1882年秋から日本鉄道第一区線(東京〜前橋)、1884年春から山手線板橋〜赤羽[20]、1885年夏から信越線の犀川・千曲川の二大橋梁、1886年末には東海道線沼津〜浜松間[21]と受注を重ね、信越線とあわせて1889年春に竣工させた[22]。水力発電へは1909年の宇治川電気水力工事[23]で参入し、大正期にかけて23カ所の発電所と延長約35キロの水路トンネル[24]を施工した。1920年着工の宇治川電気第二期工事[25]に含まれる大峯ダムは高さ30メートル[26]で、日本の水力発電で最初のコンクリート高堰堤[27]となった。

  • 120年の歩み(鹿島建設, 1959)
    • [18]最初の鉄道工事は1880年の北陸本線中ノ郷〜柳ヶ瀬間
    • [19]モッコ・猫車の時代にレールとトロッコを採用した画期的工法
    • [20]1882年 日本鉄道第一区線(東京〜前橋)/1884年 山手線板橋〜赤羽を施工
    • [21]1885年 信越線の犀川・千曲川橋梁/1886年末 東海道線沼津〜浜松間を受注
    • [22]信越線と東海道線沼津〜浜松間は1889年春に竣工
    • [23]1909年 宇治川電気水力工事で水力発電に参入
    • [24]明治・大正期に発電所23カ所・水路トンネル延長約35kmを施工
    • [25]1920年着工 宇治川電気第二期工事
    • [26]大峯ダムの高さは30メートル
    • [27]大峯ダムは日本の水力発電で最初のコンクリート高堰堤
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [1]1840年 鹿島岩吉氏が江戸・京橋で「大岩」の屋号を掲げ独立
    • [3]1860年 ジャーディン・マセソン商会の通称「英一番館」を施工
    • [4]英一番館は日本の洋風建築で最初期の事例
    • [6]明治期に屋号を「大岩」から「鹿島方」へ改称
    • [7]2代目は鹿島岩蔵氏
    • [8]鹿島方の代表作は品川御殿山の毛利邸洋館・新橋の蓬莱社・神戸の製紙工場・岡山県庁舎
    • [9]1880年 2代目岩蔵氏が「鹿島方」を解散
    • [10]鹿島組を新設し鉄道専門の工事業者へ転身
    • [11]鉄道は文明開化の象徴とされた先導産業
    • [13]日本鉄道会社の東北本線・官設の信越線ほか全国の官設私設鉄道を施工
    • [14]日清戦争を契機に朝鮮・満州・台湾の鉄道建設へ進出
    • [15]明治・大正期の工事種類別請負高は鉄道67%・水力発電14%
    • [16]鉄道と水力発電の2分野で工事量の80%以上
    • [17]鉄道業の全国展開と歩調を合わせ「鉄道の鹿島」と呼ばれた
  • 鹿島建設 有価証券報告書【沿革】
    • [2]松平越中守邸など大名屋敷の普請を得意先とした
  • 120年の歩み(鹿島建設, 1959)
    • [5]横浜の外国商館の請負を通じて煉瓦造・洋小屋組など西洋工法を習得
    • [12]鹿島組の最初の鉄道工事は官営鉄道の柳ヶ瀬トンネル
    • [18]最初の鉄道工事は1880年の北陸本線中ノ郷〜柳ヶ瀬間
    • [19]モッコ・猫車の時代にレールとトロッコを採用した画期的工法
    • [20]1882年 日本鉄道第一区線(東京〜前橋)/1884年 山手線板橋〜赤羽を施工
    • [21]1885年 信越線の犀川・千曲川橋梁/1886年末 東海道線沼津〜浜松間を受注
    • [22]信越線と東海道線沼津〜浜松間は1889年春に竣工
    • [23]1909年 宇治川電気水力工事で水力発電に参入
    • [24]明治・大正期に発電所23カ所・水路トンネル延長約35kmを施工
    • [25]1920年着工 宇治川電気第二期工事
    • [26]大峯ダムの高さは30メートル
    • [27]大峯ダムは日本の水力発電で最初のコンクリート高堰堤

丹那トンネル ── 16年間の難工事が生んだ技術の信用

3代目組長の鹿島精一氏[28]は1929年に京橋へ新社屋を建て[29]、1930年3月に資本金300万円で株式会社鹿島組を設立[30]して初代社長に就いた[31]。個人経営の組から株式会社への改組であり、その株式会社鹿島組が抱えた最大の工事が丹那トンネル[32]だった。東海道本線の熱海〜函南間を貫く全長約7.8キロのこの隧道は、1918年の着工[33]後、1925年5月に西口2,160m地点で毎秒3.3立方メートルの湧水と約3,600立方メートルの土砂噴出[34]に見舞われ、1930年6月には大断層の境目で崩壊[35]した。鹿島組は水抜トンネル・グラウト・コンクリートプレーサー・シールド工法[36]を投入し、着工から16年を経た1934年12月に開通させた[37]。開通によって東海道線の輸送力は3倍以上に増えた[38]。もっとも、この間は金融恐慌から世界恐慌への展開と産業合理化政策の実施[39]が重なり、業績は厳しい状況が続いた。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [28]3代目組長は鹿島精一氏
    • [29]1929年 京橋に新社屋を建設
    • [31]鹿島精一氏が株式会社鹿島組の初代社長に就任
    • [33]丹那トンネルは1918年着工
    • [37]1934年12月 丹那トンネル開通(着工から16年)
    • [39]金融恐慌から世界恐慌・産業合理化政策の実施により業績は厳しい状況が続いた
  • 鹿島建設 有価証券報告書【沿革】
    • [30]1930年3月 資本金300万円で株式会社鹿島組を設立
  • 120年の歩み(鹿島建設, 1959)
    • [32]株式会社化当時の最大工事は丹那トンネル
    • [34]1925年5月 西口2,160m地点で毎秒3.3立方メートルの湧水・約3,600立方メートルの土砂噴出
    • [35]1930年6月 大断層の境目で崩壊
    • [36]水抜トンネル・グラウト・コンクリートプレーサー・シールド工法を投入
    • [38]開通で東海道線の輸送力が3倍以上に増加

1938年7月、鹿島守之助氏が社長に就任[40]し、経営の原理として科学的管理を掲げた[41]。戦時下に増産を求められる産業界の工場建設を取り込むため、鉄道に偏っていた事業構成を建築部門の増強[42]によって組み替えた。軍・官の生産力増強要請に応じ、国内の工場建築に加えて朝鮮・台湾・中国・南方の工事[43]も引き受けた結果、受注量と業容がともに拡大した[44]。1937年から終戦までの主要工事の種類別内訳は工場建築44%、発電所30%、鉄道4%、その他22%[45]で、明治・大正期に67%を占めた鉄道は4%まで落ちた[46]。土木を主戦場としてきた鹿島組は、この8年で土木と建築の双方を担う総合建設業者へ姿を変えた[47]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [40]1938年7月 鹿島守之助氏が社長に就任
    • [42]工場建設の受注を狙って建築部門を増強
    • [43]朝鮮・台湾・中国・南方でも工事を受注
    • [44]受注量と業容がともに拡大
    • [45]1937〜1945年の主要工事種類別内訳は工場建築44%・発電所30%・鉄道4%・その他22%
    • [46]鉄道比率は明治・大正期の67%から4%へ低下
    • [41]鹿島守之助氏は科学的管理を経営の原理として掲げた
  • 120年の歩み(鹿島建設, 1959)
    • [47]戦時期を通じて土木と建築の双方を担う総合建設業者へ業態転換
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [28]3代目組長は鹿島精一氏
    • [29]1929年 京橋に新社屋を建設
    • [31]鹿島精一氏が株式会社鹿島組の初代社長に就任
    • [33]丹那トンネルは1918年着工
    • [37]1934年12月 丹那トンネル開通(着工から16年)
    • [39]金融恐慌から世界恐慌・産業合理化政策の実施により業績は厳しい状況が続いた
    • [40]1938年7月 鹿島守之助氏が社長に就任
    • [42]工場建設の受注を狙って建築部門を増強
    • [43]朝鮮・台湾・中国・南方でも工事を受注
    • [44]受注量と業容がともに拡大
    • [45]1937〜1945年の主要工事種類別内訳は工場建築44%・発電所30%・鉄道4%・その他22%
    • [46]鉄道比率は明治・大正期の67%から4%へ低下
  • 鹿島建設 有価証券報告書【沿革】
    • [30]1930年3月 資本金300万円で株式会社鹿島組を設立
  • 120年の歩み(鹿島建設, 1959)
    • [32]株式会社化当時の最大工事は丹那トンネル
    • [34]1925年5月 西口2,160m地点で毎秒3.3立方メートルの湧水・約3,600立方メートルの土砂噴出
    • [35]1930年6月 大断層の境目で崩壊
    • [36]水抜トンネル・グラウト・コンクリートプレーサー・シールド工法を投入
    • [38]開通で東海道線の輸送力が3倍以上に増加
    • [47]戦時期を通じて土木と建築の双方を担う総合建設業者へ業態転換
    • [41]鹿島守之助氏は科学的管理を経営の原理として掲げた

原子炉を建て、受注高で世界一になった

戦後の鹿島組は、軍需補償の打ち切りと在外資産の喪失[48]に加えて復員者・海外引揚者の受け入れを抱え、駐留軍工事や塩田工事[49]で苦境をしのいだ。1947年12月に社名を鹿島建設へ改め[50]、1949年4月には建設業界で初の技術研究所を設立[51]して研究開発を自社に抱えた。朝鮮戦争を境に産業界が技術革新とエネルギー革新を伴う高度成長へ入る[52]と、電源開発と臨海工業地帯の工場建設で受注が伸び[53]、新幹線や高速道路のインフラ投資需要[54]も取り込んだ。日本初のアーチダム、名神高速道路山科工区、軟弱地盤の臨海工業地帯[55]と大型工事を重ね、1956年に起工した東海村の日本原子力研究所第1号原子炉[56]は清水建設との共同企業体[57]で施工し、1957年8月に完成させた[58]。以後は原子力発電本館の建設で業界一の実績[59]を積んだ。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [48]戦後は軍需補償の打ち切り・在外資産の喪失・復員者の受け入れに直面
    • [49]駐留軍工事・塩田工事で戦後の苦境をしのいだ
    • [51]1949年4月 建設業界初の技術研究所を設立
    • [52]朝鮮戦争を契機に産業界が技術革新・エネルギー革新を伴う高度成長期に入った
    • [53]電源開発ブームと臨海工業地帯の工場建設ブームで受注が増加
    • [54]新幹線・高速道路などのインフラ投資需要を取り込んだ
    • [55]日本初のアーチダム・名神高速道路山科工区・軟弱地盤の臨海工業地帯を施工
    • [56]1956年起工 東海村の日本原子力研究所第1号原子炉
    • [58]1957年8月 日本原研第1号原子炉が完成
    • [59]原子力発電本館の建設で業界一の実績
  • 鹿島建設 有価証券報告書【沿革】
    • [50]1947年12月 社名を鹿島建設株式会社に改称
    • [57]東海村第1号原子炉は鹿島建設と清水建設の共同企業体による施工

1961年10月、東京・大阪両証券取引所へ株式を上場[60]した。公開時に40億円だった資本金[61]は増資を重ね、1964年12月には108億8,000万円と業界最大になった[62]。年間受注高では、1840年の創業から123年目[63]にあたる1963年に世界1位へ立った[64]。同年の受注規模は米国のエバスコやモリソン・クヌードセンを100億〜200億円上回り[65]、1964年前後の年間受注高1,368億円、完成工事高1,204億円[66]に達した。技術面では調布の技術研究所に研究員161名[67]を置き、年約6億円を研究に投じて特許60件・実用新案16件[68]を保有した。社員9,450名の72.5%を技術者が占め[69]、海外工事は完成分と施工中分を合わせて143億円[70]と、日本の建設業者の海外工事総量の16.5%[71]にあたった。

  • 鹿島建設 有価証券報告書【沿革】
    • [60]1961年10月 東京証券取引所・大阪証券取引所に上場
    • [61]1961年の株式公開時の資本金は40億円
    • [62]1964年12月 資本金108億8,000万円で業界最大
    • [65]米エバスコ・モリソン・クヌードセンを年間受注で100億〜200億円上回った
    • [66]1964年前後の年間受注高1,368億円・完成工事高1,204億円
    • [67]技術研究所は調布にあり研究員161名
    • [68]研究投資は年約6億円、特許60件・実用新案16件を保有
    • [69]社員9,450名の72.5%が技術者
    • [70]海外工事は完成66億5,000万円・施工中76億5,000万円の計143億円
    • [71]日本の建設業者の海外工事総量の16.5%に相当
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [63]1840年の創業から123年目が1963年にあたる
    • [64]1963年 年間受注高で世界1位
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [48]戦後は軍需補償の打ち切り・在外資産の喪失・復員者の受け入れに直面
    • [49]駐留軍工事・塩田工事で戦後の苦境をしのいだ
    • [51]1949年4月 建設業界初の技術研究所を設立
    • [52]朝鮮戦争を契機に産業界が技術革新・エネルギー革新を伴う高度成長期に入った
    • [53]電源開発ブームと臨海工業地帯の工場建設ブームで受注が増加
    • [54]新幹線・高速道路などのインフラ投資需要を取り込んだ
    • [55]日本初のアーチダム・名神高速道路山科工区・軟弱地盤の臨海工業地帯を施工
    • [56]1956年起工 東海村の日本原子力研究所第1号原子炉
    • [58]1957年8月 日本原研第1号原子炉が完成
    • [59]原子力発電本館の建設で業界一の実績
    • [63]1840年の創業から123年目が1963年にあたる
    • [64]1963年 年間受注高で世界1位
  • 鹿島建設 有価証券報告書【沿革】
    • [50]1947年12月 社名を鹿島建設株式会社に改称
    • [60]1961年10月 東京証券取引所・大阪証券取引所に上場
    • [57]東海村第1号原子炉は鹿島建設と清水建設の共同企業体による施工
    • [61]1961年の株式公開時の資本金は40億円
    • [62]1964年12月 資本金108億8,000万円で業界最大
    • [65]米エバスコ・モリソン・クヌードセンを年間受注で100億〜200億円上回った
    • [66]1964年前後の年間受注高1,368億円・完成工事高1,204億円
    • [67]技術研究所は調布にあり研究員161名
    • [68]研究投資は年約6億円、特許60件・実用新案16件を保有
    • [69]社員9,450名の72.5%が技術者
    • [70]海外工事は完成66億5,000万円・施工中76億5,000万円の計143億円
    • [71]日本の建設業者の海外工事総量の16.5%に相当

霞が関ビルと業界初の受注高1兆円達成

1968年4月、鹿島は三井不動産の霞が関三井ビルを完成させた[72]。地下3階・地上36階・高さ147メートル[73]は日本で初めての柔構造による本格的超高層ビル[74]で、改正建築基準法による特定街区指定建物の着工第1号[75]でもあった。当初は9階建ての計画[76]だったが、周辺の交通・日照・動線を検討した結果36階建てに改まり[77]、鹿島は企画の段階から施主・設計者とともに企画委員会へ加わった[78]。耐震構造の世界的権威である武藤清氏(東大名誉教授)を副社長に迎え[79]、電子計算機による構造計算と部材のプレハブ化[80]で工期を詰め、坪当たり30万円で仕上げた[81]。超高層の施工を通じて開発した特許・新案は80件を超え[82]、1990年代半ば時点で超高層ビルの施工実績は業界最大[83]となった。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [72]1968年4月 三井不動産の霞が関三井ビルを完成
    • [83]1990年代半ば時点で超高層ビルの施工実績は業界最大
  • 鹿島守之助『わが経営を語る第3集』(鹿島研究所出版会, 1971)
    • [73]霞が関ビルは地下3階・地上36階・高さ147メートル
    • [74]日本初の柔構造による本格的超高層ビル
    • [75]改正建築基準法による特定街区指定建物の着工第1号
    • [79]耐震構造の世界的権威 武藤清氏(東大名誉教授)を副社長に迎えた
    • [76]霞が関ビルの当初計画は9階建て
    • [77]交通・日照・動線の検討を経て36階建てに決定
    • [78]施主・設計事務所と企画委員会を作り基本計画の段階から参画
    • [80]電子計算機による構造計算とプレハブ化で工期を短縮
    • [81]坪当たり30万円程度で竣工
    • [82]超高層の施工を通じて開発した特許・新案は80件余

1971年1月、定款を変更して住宅事業と不動産取引に関する業務を事業目的へ加え[84]、1977年9月着工の志木ニュータウン[85]がデベロッパーとして初の本格的な開発事業[86]となった。1966年に社長へ就いた渥美健夫[87]は、1970年2月の講演[88]で、計画の段階から設計・施工まで一貫して参画する『システム産業』としての建設業を70年代の戦略に据える[89]と述べ、その発想の出発点を霞が関ビルの経験に置いた[90]。1969年11月期の受注工事高は1,559億円[91]で1966年以来8期連続の増加[92]、入札によらず信用で受注する特命比率は72%と業界最高[93]に達した。海外工事は1954年の進出以来34件・238億6,000万円[94]を積み上げ、講演直前の株主総会では英文社名をKajima Construction CompanyからKajima Corporationへ改めた[95]

  • 鹿島建設 有価証券報告書【沿革】
    • [84]1971年1月 住宅事業・不動産取引業務を事業目的に追加
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [85]1977年9月 志木ニュータウン着工
    • [86]志木ニュータウンはデベロッパーとして初の本格的な開発事業
  • 日経ビジネス 1973年8月20日号
    • [87]渥美健夫氏は1966年に鹿島建設の社長へ就任
    • [88]1970年2月6日 日本証券アナリスト協会 企業分析第1部会での講演
    • [89]計画から設計・施工まで一貫参画する「システム産業」を70年代の戦略に掲げた
    • [90]システム的な取り組みを初めて経験したのが霞が関ビルだと述べた
    • [91]1969年11月期の受注工事高1,559億円(前期比16.5%増)
    • [92]1966年以来8期連続の受注増
    • [93]特命比率72%で業界最高
    • [94]1954年の海外進出以来34件・238億6,000万円の海外工事
    • [95]英文社名をKajima Construction CompanyからKajima Corporationへ変更

1973年の第1次石油危機は建設市場に需要の低迷をもたらし[96]、その2年後の1975年には1938年から経営を率いた鹿島守之助会長が没した[97]。1978年2月[98]、女婿の石川六郎[99]が社長へ就いた。東京大学工学部土木工学科を出て運輸省に入り[100]、1955年に取締役として鹿島建設へ移った[101]経歴の持ち主で、就任にあたり『鹿島しかやれないものを目指す』[引用元][102]と述べた。低成長期の経営体質改善の基本課題にはTQC(総合的品質管理)の実施を据え[103]、製造業で実績のあった品質管理の手法を建設業へ持ち込んだ[104]。収益は1980年度から上向き[105]、1981年度の受注高は業界で初めて1兆円に達した[106]。1982年8月にはデミング賞実施賞を受け[107]、1984年に鹿島昭一氏が社長へ就いた[108]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [96]1973年 第1次石油危機で建設市場の需要が低迷
    • [97]1975年 鹿島守之助会長が逝去
    • [98]1978年2月 石川六郎氏が社長に就任
    • [99]石川六郎氏は鹿島守之助氏の女婿
    • [103]低成長期の経営体質改善の基本課題にTQCの実施を据えた
    • [104]製造業で実績のあった品質管理手法を建設業へ導入
    • [105]収益は1980年度から上向いた
    • [106]1981年度 受注高が業界初の1兆円に到達
    • [107]1982年8月 デミング賞実施賞を受賞
    • [108]1984年 鹿島昭一氏が社長に就任
  • 日経ビジネス 1978年7月17日号
    • [100]石川六郎氏は東京大学工学部土木工学科を卒業し運輸省へ入省
    • [101]1955年 石川六郎氏が取締役として鹿島建設に入社
    • [102]鹿島建設社長の石川六郎氏による発言
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [72]1968年4月 三井不動産の霞が関三井ビルを完成
    • [83]1990年代半ば時点で超高層ビルの施工実績は業界最大
    • [85]1977年9月 志木ニュータウン着工
    • [86]志木ニュータウンはデベロッパーとして初の本格的な開発事業
    • [96]1973年 第1次石油危機で建設市場の需要が低迷
    • [97]1975年 鹿島守之助会長が逝去
    • [98]1978年2月 石川六郎氏が社長に就任
    • [99]石川六郎氏は鹿島守之助氏の女婿
    • [103]低成長期の経営体質改善の基本課題にTQCの実施を据えた
    • [104]製造業で実績のあった品質管理手法を建設業へ導入
    • [105]収益は1980年度から上向いた
    • [106]1981年度 受注高が業界初の1兆円に到達
    • [107]1982年8月 デミング賞実施賞を受賞
    • [108]1984年 鹿島昭一氏が社長に就任
  • 鹿島守之助『わが経営を語る第3集』(鹿島研究所出版会, 1971)
    • [73]霞が関ビルは地下3階・地上36階・高さ147メートル
    • [74]日本初の柔構造による本格的超高層ビル
    • [75]改正建築基準法による特定街区指定建物の着工第1号
    • [79]耐震構造の世界的権威 武藤清氏(東大名誉教授)を副社長に迎えた
    • [76]霞が関ビルの当初計画は9階建て
    • [77]交通・日照・動線の検討を経て36階建てに決定
    • [78]施主・設計事務所と企画委員会を作り基本計画の段階から参画
    • [80]電子計算機による構造計算とプレハブ化で工期を短縮
    • [81]坪当たり30万円程度で竣工
    • [82]超高層の施工を通じて開発した特許・新案は80件余
    • [88]1970年2月6日 日本証券アナリスト協会 企業分析第1部会での講演
    • [89]計画から設計・施工まで一貫参画する「システム産業」を70年代の戦略に掲げた
    • [90]システム的な取り組みを初めて経験したのが霞が関ビルだと述べた
    • [91]1969年11月期の受注工事高1,559億円(前期比16.5%増)
    • [92]1966年以来8期連続の受注増
    • [93]特命比率72%で業界最高
    • [94]1954年の海外進出以来34件・238億6,000万円の海外工事
    • [95]英文社名をKajima Construction CompanyからKajima Corporationへ変更
  • 鹿島建設 有価証券報告書【沿革】
    • [84]1971年1月 住宅事業・不動産取引業務を事業目的に追加
  • 日経ビジネス 1973年8月20日号
    • [87]渥美健夫氏は1966年に鹿島建設の社長へ就任
  • 日経ビジネス 1978年7月17日号
    • [100]石川六郎氏は東京大学工学部土木工学科を卒業し運輸省へ入省
    • [101]1955年 石川六郎氏が取締役として鹿島建設に入社
    • [102]鹿島建設社長の石川六郎氏による発言

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鹿島建設の沿革1840〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1840〜1946年洋風建築第1号から鉄道専業・戦時工場建築へ鹿島建設創業——江戸京橋の大工棟梁「大岩」から「鉄道の鹿島」へ

1840年、大工棟梁の鹿島岩吉氏が江戸京橋付近に『大岩』の屋号で店を構え、松平越中守邸など諸大名の江戸屋敷の普請を得意とする個人棟梁として独立した。1860年に横浜で英一番館を施工して洋風建築に加わり、1880年には2代目・岩蔵氏が『鹿島方』を解散して鉄道専業の鹿島組へ転じた。1930年に3代目・精一氏が資本金300万円で株式会社鹿島組を設立し、1947年に『鹿島建設』へ改称、1961年に東京・大阪両証券取引所へ上場した。

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★★★
英一番館(ジャーディン・マセソン商会)を施工
鹿島組を創立
鉄道請負業に参入★★
鹿島組を設立
丹那トンネルを完成
鹿島守之助氏が社長に就任
1947〜1989年原子炉から受注高世界一・1兆円時代への飛躍社名を鹿島建設に商号変更
建設業界初の技術研究所を設立
建設業法により建設大臣登録を取得
大興物産の株式を譲受
日本原研第1号原子炉を完成★★
鹿島製作所を吸収合併
東京証券取引所・大阪証券取引所に上場
年間受注高で世界1位を達成
丸善鋪道の株式を譲受
渥美健夫超高層・耐震技術への先行投資と開発事業への進出

1968年4月、鹿島建設は三井不動産の発注で日本初の本格的超高層ビル『霞が関ビル』を完成させた。柔構造・耐震技術への先行投資と、施主・設計者・施工者の三位一体体制でこれを成し遂げ、1971年には定款を変更して開発事業へ進む布石とした経営判断。

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★★★
渥美健夫本店所在地を変更
渥美健夫住宅事業・不動産取引業務を事業目的に追加
渥美健夫鹿島守之助会長が逝去
渥美健夫志木ニュータウン着工
渥美健夫北陸支店開設
石川六郎石川六郎社長のTQC導入による経営体質改善

1978年2月、鹿島守之助会長の女婿として社長を継いだ石川六郎氏が、TQC(総合的品質管理)の実施を経営の基本課題に据え、製造業で実績のあった品質管理手法を建設業に持ち込んで経営体質の改善に取り組んだ経営判断。

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★★★
石川六郎受注高が業界初の1兆円を達成
石川六郎鹿島昭一氏が社長に就任
鹿島昭一カジマUSAを設立★★
鹿島昭一カジマヨーロッパBVを設立
鹿島昭一カジマオーバーシーズアジアを設立
1990〜2014年ゼネコン汚職と営業利益率1%の低収益構造宮崎明宮崎明氏が社長に就任
宮崎明長期経営計画(KE21)を策定
宮崎明通称を「鹿島」に変更
宮崎明茨城県知事贈賄事件で副社長が起訴★★
梅田貞夫梅田貞夫氏が社長に就任
中村満義東京土木支店、東京建築支店、海外支店を開設
中村満義中村満義氏が社長に就任
中村満義本店所在地を変更
中村満義カジマヨーロッパリミテッドを設立
中村満義初の連結純損失を計上★★
中村満義鹿島道路を株式交換により完全子会社化
中村満義初の連結営業赤字を計上
2015〜2026年開発事業1兆円と利益率1%脱出 ── 押味・天野・桐生の3社長体制中村満義カジマオーストラリアを設立
押味至一押味至一氏が社長に就任
押味至一鹿島グループ中期経営計画(2018〜2020)を策定
天野裕正天野裕正氏が社長に就任
天野裕正Rodgers Builders社を買収★★
押味至一天野裕正氏が急逝
押味至一押味至一氏が社長に再任
出典・参考

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