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超高層・耐震技術への先行投資と開発事業への進出

1968年実施

日本初の柔構造超高層「霞が関ビル」を、鹿島守之助会長はどのような布石のうえで完成させたか

時期 1968年4月
意思決定者 鹿島守之助(会長)
論点 超高層・耐震技術への先行投資と開発事業の多角化
概要
1968年4月、鹿島建設は三井不動産の発注で日本初の本格的超高層ビル「霞が関ビル」を完成させた。柔構造・耐震技術への先行投資と、施主・設計者・施工者の三位一体体制でこれを成し遂げ、1971年には定款を変更して開発事業へ進む布石とした経営判断。
背景
地下3階・地上36階・高さ147メートルの日本初の柔構造超高層は、貸ビルとしての採算から予算と工期の制約が厳しく、鹿島守之助会長が「未知への挑戦」と呼ぶ未踏の工事だった。受注高で世界1位に立った総合建設業の最大手にとっても、超高層は耐震構造の確立という難題を抱える領域だった。
内容
超高層の実現を期して調査研究を重ね、電子計算組織を導入し、耐震構造の世界的権威・武藤清東大名誉教授を副社長に迎えて態勢を整えた。着工にあたっては施主・設計者・施工者の三位一体体制を組み、設計段階から施工上の問題を織り込んで予算と工期の制約を守った。
含意
この1棟で鹿島建設の声価が高まり、以後の超高層ビル受注を呼び込んで1990年代半ばには超高層で業界最大の施工実績を持つに至った。1971年の定款変更による開発事業への進出は、請負一辺倒の事業構造を多角化する布石となった。
筆者の見解

請負一辺倒から、技術と開発で稼ぐ会社へ

この経営判断の核心は、目の前の1棟を受注することにとどまらず、まだ誰も手がけていない超高層・耐震という領域へ、人と組織を先回りして投じた点にある。耐震構造の第一人者を副社長に迎え、構造計算のための計算機を社内に持つという備えは、工事の依頼が来てから整えられるものではない。鹿島守之助会長が語った「着々態勢を整えていた」という言葉は、成功した会社が次の技術的難所を見越して布石を打っていたことを示している。

もっとも、霞が関ビルは鹿島単独の作品ではなく、施主・設計者・多くの関係者との協同の成果である。それでも、この工事で得た技術の声価を土台に、1971年の定款変更で請負から開発事業へ踏み出した一連の選択は、のちの鹿島建設が請負の景気変動を開発の回収サイクルで補おうとする長い試みの出発点にあたる。規模を追うより、次に必要となる技術と事業の柱をどこに置くか――この決断は、その問いに早い時期から答えようとした点で示唆に富む。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

受注高世界一まで登った技術主導の総合建設業

鹿島建設は、1961年に東京証券取引所・大阪証券取引所へ上場して資金調達力を強め、1963年には年間受注高で世界1位に立った。1957年に東海村の日本原研第1号原子炉を完成させて以来、原子力発電本館の建設で業界一の実績を積み、先端技術を要する工事を技術主導で引き受けてきた総合建設業の最大手であった。もっとも、地震の多い日本で高層建築を建てるには耐震構造の確立という難題が残り、本格的な超高層ビルはまだ誰も手がけていない領域だった[1][2]

「未知への挑戦」だった日本初の柔構造超高層

1968年4月に竣工した三井不動産の霞が関ビルは、地下3階・地上36階・高さ147メートル、延べ面積15万平方メートル余という、当時の東洋では例のない規模だった。日本で初めて柔構造を採った本格的超高層であり、改正建築基準法による特定街区指定建物の着工第1号でもあった。加えて貸ビルとしての採算から予算と工期の条件が厳しく、鹿島守之助会長は竣工に寄せて、その遂行を「わが建築界未踏のもの」であり「工事の遂行はいわば未知への挑戦であった」と記した。技術・制度・採算のいずれの面でも前例のない工事に、鹿島建設は正面から取り組んだ[3]

決断

武藤清氏の副社長招聘と電子計算組織の導入

鹿島建設がこの工事を託されたのは、超高層の実現を期して早くから態勢を整えていたからだった。鹿島守之助会長によれば、鹿島建設は調査研究を重ね、電子計算組織を導入し、耐震構造の世界的権威である東大名誉教授・武藤清博士を副社長に迎えるなど、着々と準備を進めていた。地震国で高層建築を成立させる鍵が耐震設計にある以上、その第一人者を経営陣に据え、構造計算を支える計算機を社内に持つことは、未踏の工事を引き受けるための先行投資だった。三井不動産が鹿島建設に厚い信用を寄せた根底にも、この蓄積があった[4]

施主・設計者・施工者の三位一体体制

もう一つの布石は、着工前の企画段階から施主・設計者・施工者が一体で当たる協同体制だった。建築のコストは設計で決まるため、予定のコストを維持するには施工上の問題を設計に十分反映しなければならない――こう考えた鹿島建設は、あえてこの方式を提案した。鹿島守之助会長は、これをわが国で従来見られなかった全くの新方式だと記している。予算と工期の制約が厳しい工事を破綻させないための実務的な仕組みが、日本初の超高層を予定どおり完成させる支えとなった[5]

結果

声価の向上と、開発事業への進出

霞が関ビルが予定どおり無事完成したことで、鹿島守之助会長は「この工事によって当社の声価が大いに高まった」と記した。この1棟が都市開発の幕開けを飾り、以後、鹿島建設は数々の超高層ビルを施工して、1990年代半ば時点で超高層ビルの施工実績は業界最大とされた。地震国での高層建築という難題を先に解いたことが、その後の受注の土台となった[6]

技術で得た信用は、事業構造そのものの見直しにもつながった。鹿島建設は1971年に定款を変更して住宅事業・不動産取引業務を事業目的に加え、請負にとどまらない開発事業へ進んだ。1977年に着工した志木ニュータウンが、デベロッパーとして初の本格的な開発事業となった。景気変動を受けやすい請負一本の収益構造を、みずから工事を発注する側の開発事業で補おうとする多角化の布石が、ここで打たれた[7][8]

出典・参考
  • 鹿島守之助『わが経営を語る第3集』(鹿島研究所出版会, 1971)
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
  • 鹿島建設 有価証券報告書【沿革】