竹中工務店 の歴史

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創業 1610年
創業者 竹中藤兵衛正高
創業地 愛知県
祖業 神社仏閣の造営
創業
慶長15年(1610年)、織田信長の普請奉行として清洲城下に住んだ竹中藤兵衛正高氏が名古屋へ移り、刀剣を捨てて神社仏閣の造営を業とした。当時の建築は流派を立てなければ工匠として立てず、正高氏は大隅流の絵様と祭事の規式を創始している。1873年、12代竹中藤五郎氏は名古屋鎮台営舎工事を引き受けたが、設計変更と物価高騰で請負高10万余円に対し5割近い赤字を出し、陸軍を提訴して大審院まで争って敗訴した。1899年2月、父の急逝から22日後に次男の錬一氏が神戸へ出て三井銀行小野浜倉庫の工事に着手し、この年を承業第1年と定める。1909年5月に合名会社竹中工務店を設立し、1937年9月には株式会社竹中工務店を大阪市で創立した。
決断・現況・競合について
決断
設計と施工を切り離さないことを、社名そのもので宣言した。1909年に商号を決めるとき、竹中建築事務所では設計だけを事業とすると受け取られ、工務所は先例の横河工務所が設計監督を主業としていた。設計と施工を一貫して進むのが本然の姿という父祖以来の信念を掲げる語として工務店を選び、店の一字で顧客への奉仕を第一義とした。1938年には地上で全地下部分を一体の函として構築し、掘削しながら沈める竹中式潜函工法を松坂屋に用い、敷地利用率を98%へ高めている。1953年の研究室を1959年に社長直轄の竹中建築技術研究所へ改組し、1976年2月には竹中錬一社長がTQCを導入して支店間・作業所間の品質のばらつきを消し、1979年11月に建設業で初のデミング賞実施賞を受けた。
現況
株式を公開しないまま、売上の9割を建設の請負で立てている。2025年12月期の連結売上高1兆6,148億円のうち、建設事業が1兆4,454億円・利益780億円、開発事業が855億円・利益94億円を占める。建設の内訳は国内1兆2,120億円に対し、海外はアジア1,397億円と欧州935億円にとどまる。営業利益929億円に対して当期純利益は1,030億円で、2013年12月期の71億円の14倍にあたる。連結従業員は14,006人、うち建設事業が12,136人である。開発事業は2020年12月期の356億円から倍増したものの構成比は5.3%にとどまり、資本を不動産へ移す動きは同業より小さい。
競合
土木を別法人に置き、本体は建築の請負だけで大手5社に並んでいる。1941年6月に設立へ参画した海外土木興業が現在の竹中土木にあたり、土木はこの法人が担う。関西では1991年時点の受注シェアが35%で、近畿営業本部を新設して関西の受注を立て直した清水建設の13%台や大林組の32%を上回った。創業家の扱いも分かれ、大林組が1989年に初の非同族社長を立てたのに対し、竹中工務店で創業家以外の社長が立ったのは2013年である。この交代は脱同族とみられて上場観測を呼んだが、株式は公開されないままとなった。四半期ごとの利益を問われない資本の形が、1件ごとの品質で受注を選ぶ余地を残している。
長期業績の推移 1950〜2025年
竹中工務店:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年12月期2025年12月期

創業ストーリー 大隅流の棟梁が設計施工一貫の会社を名乗るまで (1610年〜)

創業ストーリー(1)

一流一派を持たねば立てない業界での大隅流創始

竹中家の始祖竹中藤兵衛正高氏は、織田信長の普請奉行として清洲城下に住み、禄800石を受けていた[1]。織田氏の滅亡後、正高氏は仕官を断念して清洲から名古屋に移り住み、刀剣を捨てて神社仏閣の造営を業とした[2]。竹中工務店が創業を慶長15年(1610)としているのは、この年が清洲城下の武家も商工業者もその大部分が名古屋への移住を開始したいわゆる清洲越の年にあたるためである[3]。清洲越の以前に竹中家は既に名古屋へ移って棟梁として仕事をしており、真の創業といえばさらに数年を遡る[4]。名古屋に移った正高氏は居を菅原町に定め、以後この地で家業が継がれた[5]

  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第1編「前史(創立以前)」
    • [1]始祖竹中藤兵衛正高は織田信長の普請奉行として清洲城下に住み、禄800石を賜わっていた
    • [2]織田氏の滅亡後、始祖は仕官を断念し清洲から名古屋に移り住み、刀剣を捨てて神社仏閣の造営を業として一家をなした
    • [3]竹中工務店が創業を慶長15年(1610)としているのは、この年が清洲城下の武家も商工業者もその大部分が名古屋への移住を開始したいわゆる清洲越の年であるから
    • [4]清洲越の以前に竹中家が名古屋に移っていて既に棟梁として仕事をしていたことは事実であり、真の創業といえばさらに数年を遡る
    • [5]清洲から名古屋に移り住んだ始祖は居を菅原町に定め、爾来この地にあって家業がつがれた

室町時代以来、商工業では市と座が特定の人だけに市場を独占させ、建築ではこの組織網の上にさらに技術上の流派があり、一流一派を樹立しない限り工匠として立つことは望めなかった[6]。正高氏はこの必要から大隅流の絵様と祭事の規式を創始し、匠家として立つ足場を得た[7]。大隅流は大和流の分派としか伝えられていないが、明治に至るまで竹中が大隅屋と呼びならされていたのはこの流派に由来する[8]。技倆と功績は官位にも表れ、天保7年(1836)の棟札には正六位上がみえる[9]。徳川時代に工匠などへ授けられる官位は一般に従六位が最高とされていたから、正六位上はかなり抜群のものであった[10]

  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第1編「前史(創立以前)」
    • [6]室町時代の商工業は市と座が特定の人だけに市場を独占させ、建築ではこの組織網に加えて技術上の流派があり、一流一派を樹立しない限り工匠として立つことは到底望めなかった
    • [7]流派を持たない限り独立して業を営むことができず、この必要から生まれたのが大隅流の絵様と祭事の規式であった
    • [8]大隅流は大和流の分派としか伝えられておらず、明治に至るまで竹中が大隅屋と呼びならされていたのはこの大隅流に由来する
    • [9]棟札に散見される官位には正六位上があり、これは天保7年(1836)のものである
    • [10]徳川時代では工匠などに授けられる官位は一般に従六位が最高とされていたから、正六位上はかなり抜群のものであった

明治6年(1873)、12代竹中藤五郎氏は明治新政府が発注した名古屋鎮台営舎工事を引き受けた[11]。名古屋分営が鎮台へ昇格して兵舎の拡張が急がれたものの、関西の三棟梁と呼ばれた伊藤平左衛門家・鈴木幸右衛門家・竹中藤右衛門家はいずれも仏寺と神社の建築を主業とし、洋風まがいの大建築には手が出なかった[12]。竹中は合計30棟、延面積約5,000坪を明治6年4月から翌年11月にかけて順次竣工させたが、毎日のような設計変更と追加工事に物価と労銀の暴騰が重なり、請負高10万余円に対する赤字は50%近くに及んだ[13]。官尊民卑の時代に監督官の命ずるままに屈従させられた竹中は、設計変更と物価高騰を理由に陸軍を提訴して大審院まで争い、敗訴の判決書1枚を得ただけに終わった[14]。この鎮台工事の苦汁は家業の進展をすら妨げたが、失敗の事情に同情を寄せる人たちが増え、竹中は以後の民間工事に専念した[15]

  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第1編「前史(創立以前)」
    • [11]明治6年(1873)に明治新政府によって発注された名古屋鎮台営舎工事を12代藤五郎が引き受けた
    • [12]明治6年1月に名古屋分営が名古屋鎮台に昇格して兵舎の拡張が急がれたが、関西の三棟梁と呼ばれた伊藤平左衛門・鈴木幸右衛門・竹中藤右衛門の三家は仏寺と神社の建築を主業としており、洋風まがいの大建築には手が出なかった
    • [13]合計30棟・延面積約5,000坪が明治6年4月から翌年11月にかけて順次竣工したが、毎日のような設計変更と追加工事、物価・労銀の暴騰により、請負高10万余円に対して50%近い赤字となった
    • [15]鎮台工事による苦汁はその後の竹中に大きな影響を与え家業の進展をすら妨げたが、失敗の事情に同情を寄せる人たちも多くなり、これが竹中が以後民間工事に専念する大きな力となった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 45_諸工業「竹中工務店」
    • [14]当時官尊民卑の時代で監督官の命ずるままに屈従させられ莫大な損失を被り、設計変更・追加工事・物価・労銀の高騰を理由に陸軍を相手に提訴して大審院まで持ち込んだが、結果は敗訴の判決書1枚を得ただけであった
  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第1編「前史(創立以前)」
    • [1]始祖竹中藤兵衛正高は織田信長の普請奉行として清洲城下に住み、禄800石を賜わっていた
    • [2]織田氏の滅亡後、始祖は仕官を断念し清洲から名古屋に移り住み、刀剣を捨てて神社仏閣の造営を業として一家をなした
    • [3]竹中工務店が創業を慶長15年(1610)としているのは、この年が清洲城下の武家も商工業者もその大部分が名古屋への移住を開始したいわゆる清洲越の年であるから
    • [4]清洲越の以前に竹中家が名古屋に移っていて既に棟梁として仕事をしていたことは事実であり、真の創業といえばさらに数年を遡る
    • [5]清洲から名古屋に移り住んだ始祖は居を菅原町に定め、爾来この地にあって家業がつがれた
    • [6]室町時代の商工業は市と座が特定の人だけに市場を独占させ、建築ではこの組織網に加えて技術上の流派があり、一流一派を樹立しない限り工匠として立つことは到底望めなかった
    • [7]流派を持たない限り独立して業を営むことができず、この必要から生まれたのが大隅流の絵様と祭事の規式であった
    • [8]大隅流は大和流の分派としか伝えられておらず、明治に至るまで竹中が大隅屋と呼びならされていたのはこの大隅流に由来する
    • [9]棟札に散見される官位には正六位上があり、これは天保7年(1836)のものである
    • [10]徳川時代では工匠などに授けられる官位は一般に従六位が最高とされていたから、正六位上はかなり抜群のものであった
    • [11]明治6年(1873)に明治新政府によって発注された名古屋鎮台営舎工事を12代藤五郎が引き受けた
    • [12]明治6年1月に名古屋分営が名古屋鎮台に昇格して兵舎の拡張が急がれたが、関西の三棟梁と呼ばれた伊藤平左衛門・鈴木幸右衛門・竹中藤右衛門の三家は仏寺と神社の建築を主業としており、洋風まがいの大建築には手が出なかった
    • [13]合計30棟・延面積約5,000坪が明治6年4月から翌年11月にかけて順次竣工したが、毎日のような設計変更と追加工事、物価・労銀の暴騰により、請負高10万余円に対して50%近い赤字となった
    • [15]鎮台工事による苦汁はその後の竹中に大きな影響を与え家業の進展をすら妨げたが、失敗の事情に同情を寄せる人たちも多くなり、これが竹中が以後民間工事に専念する大きな力となった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 45_諸工業「竹中工務店」
    • [14]当時官尊民卑の時代で監督官の命ずるままに屈従させられ莫大な損失を被り、設計変更・追加工事・物価・労銀の高騰を理由に陸軍を相手に提訴して大審院まで持ち込んだが、結果は敗訴の判決書1枚を得ただけであった
創業ストーリー(2)

神戸進出と工務店の呼称に込めた設計施工一貫

明治32年(1899)1月25日、三井銀行小野浜倉庫の受注交渉のため名古屋と大阪を往復していた12代竹中藤五郎氏が、僅かな負傷を破傷風にこじらせて急逝した[16]。銀行から工事の下命が伝えられたのは2月4日で、次男の錬一氏が棟梁の佐橋銀次郎氏を伴い、雪の朝に神戸へ向かった[17]。錬一氏は父の急逝から僅か22日後の2月16日、現場近くに仮の住居を借り受け、父の名をそのまま屋号とする神戸支店を開いた[18]。竹中はこの一歩を承業第1年と定めた[19]。長男の昇太郎氏が名古屋にとどまって13代藤五郎を襲名し在来の日本建築を担当したため、神戸では専ら近代建築に志すこととなった[20]

  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
    • [16]三井銀行小野浜倉庫の工事受注交渉のために名古屋・大阪間を往復していた12代藤五郎は、僅かの負傷が悪化して破傷風となり、明治32年(1899)1月25日に急逝した
    • [17]2月4日に銀行から工事下命が伝えられ、次男の錬一が棟梁佐橋銀次郎を伴って雪の朝に神戸へ向かった
    • [18]神戸の現場近くに仮の住居を借り受けて竹中藤五郎神戸支店としたのが2月16日で、父の急逝後僅か22日のことであり、これを承業第1年とした
    • [19]神戸の現場近くに仮の住居を借り受けて竹中藤五郎神戸支店としたのが2月16日で、父の急逝後僅か22日のことであり、これを承業第1年とした
    • [20]長男昇太郎は名古屋にとどまって家業を継ぎ13代藤五郎を襲名して在来の日本建築を担当し、神戸では専ら近代建築に志すこととなった

小野浜倉庫は煉瓦造瓦葺平家建の倉庫24棟、面積1,280坪で、明治32年2月下旬に着工し翌年3月に完成した[21]。当時の手間賃は大工35銭、人夫25銭、煉瓦工と石工40銭ほどで、坪単価46.50円から総工費は59,520円となった[22]。従来縁故のなかった土地へ急に出たため労力も資材も不足し、煉瓦積みには名古屋の三井製糸場で経験を積んだ職人を呼び寄せねばならなかった[23]。神戸では大工や左官を1人得るにも困難が伴い、こうした人たちを名古屋から呼び寄せる状態が何年も続いた[24]。精算の結果は漸く赤字を出さずに済み、協力業者と専門工の確保がその後の大きな課題として残った[25]

  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
    • [21]神戸・三井銀行小野浜倉庫は煉瓦造瓦葺平家建倉庫24棟・1,280坪で、明治32年2月下旬に着工し翌年3月にかけて完成した
    • [22]当時の手間賃は大工35銭、人夫25銭、煉瓦工と石工40銭ぐらいで、工事の坪単価は46.50円、総工費は59,520円であった
    • [23]従来縁故のなかった土地へ急に出てきたため労力も資材も困難が伴い、煉瓦積には名古屋の三井製糸場で経験のあった職人を呼び寄せねばならなかった
    • [24]神戸では大工、左官1人を得るにも困難が伴い、必要に応じてこれらの人たちを名古屋から呼び寄せねばならないことが何年も続いた
    • [25]精算の結果としては漸く赤字を出さないで済み、協力業者と専門工の確保がその後の大きな課題となった

明治42年(1909)5月16日、竹中は合名会社竹中工務店を設立し、本店を神戸、支店を名古屋として従来の個人営業を継承した[26]。社員は竹中藤右衛門氏と竹中藤五郎氏の2名で、代表社員を置かない共同責任制をとった[27]。個人営業時代は名古屋が本店、神戸が支店だったが、新興建築において名古屋とその周辺が立地条件として不利であることが実績から明らかになり、本支店を入れ替えた[28]。呼称は最初に竹中建築事務所と決めて諸帳簿まで整えたものの、設計を事業とするかに受け取られる点が気になり、工務所も既に横河工務所があって設計監督が主業だった[29]。設計と施工を一貫して進むのが本然の姿という父祖以来の信念を標榜する名称として工務店を選び、店の一字で顧客への奉仕を第一義とすることを示した[30]

  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
    • [26]明治42年(1909)5月16日、合名会社竹中工務店が設立され、本店を神戸に、支店を名古屋において従来の個人営業を継承した
    • [27]社員は竹中藤右衛門、竹中藤五郎の2名で、代表社員を置かず両名の共同責任制をとった
    • [28]個人営業時代は本店を名古屋、支店を神戸に置いていたが、新興建築に関して名古屋とその周辺が立地条件として不利であることが実績からも明らかであり、本支店を転換した
    • [29]最初に決定した名称は竹中建築事務所で諸帳簿もこれで調整されたが、設計を事業とするかに受けとられる点が気になり、工務所も既に横河工務所があって設計監督が主業であった
    • [30]設計と施工とを一貫して進むのが本然の姿であり父祖以来のしきたりでも信念でもあったため、この信念を標榜する名称として工務店を考え出し、店によって顧客への奉仕を第一義とすることを示そうとした
  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
    • [16]三井銀行小野浜倉庫の工事受注交渉のために名古屋・大阪間を往復していた12代藤五郎は、僅かの負傷が悪化して破傷風となり、明治32年(1899)1月25日に急逝した
    • [17]2月4日に銀行から工事下命が伝えられ、次男の錬一が棟梁佐橋銀次郎を伴って雪の朝に神戸へ向かった
    • [18]神戸の現場近くに仮の住居を借り受けて竹中藤五郎神戸支店としたのが2月16日で、父の急逝後僅か22日のことであり、これを承業第1年とした
    • [19]神戸の現場近くに仮の住居を借り受けて竹中藤五郎神戸支店としたのが2月16日で、父の急逝後僅か22日のことであり、これを承業第1年とした
    • [20]長男昇太郎は名古屋にとどまって家業を継ぎ13代藤五郎を襲名して在来の日本建築を担当し、神戸では専ら近代建築に志すこととなった
    • [21]神戸・三井銀行小野浜倉庫は煉瓦造瓦葺平家建倉庫24棟・1,280坪で、明治32年2月下旬に着工し翌年3月にかけて完成した
    • [22]当時の手間賃は大工35銭、人夫25銭、煉瓦工と石工40銭ぐらいで、工事の坪単価は46.50円、総工費は59,520円であった
    • [23]従来縁故のなかった土地へ急に出てきたため労力も資材も困難が伴い、煉瓦積には名古屋の三井製糸場で経験のあった職人を呼び寄せねばならなかった
    • [24]神戸では大工、左官1人を得るにも困難が伴い、必要に応じてこれらの人たちを名古屋から呼び寄せねばならないことが何年も続いた
    • [25]精算の結果としては漸く赤字を出さないで済み、協力業者と専門工の確保がその後の大きな課題となった
    • [26]明治42年(1909)5月16日、合名会社竹中工務店が設立され、本店を神戸に、支店を名古屋において従来の個人営業を継承した
    • [27]社員は竹中藤右衛門、竹中藤五郎の2名で、代表社員を置かず両名の共同責任制をとった
    • [28]個人営業時代は本店を名古屋、支店を神戸に置いていたが、新興建築に関して名古屋とその周辺が立地条件として不利であることが実績からも明らかであり、本支店を転換した
    • [29]最初に決定した名称は竹中建築事務所で諸帳簿もこれで調整されたが、設計を事業とするかに受けとられる点が気になり、工務所も既に横河工務所があって設計監督が主業であった
    • [30]設計と施工とを一貫して進むのが本然の姿であり父祖以来のしきたりでも信念でもあったため、この信念を標榜する名称として工務店を考え出し、店によって顧客への奉仕を第一義とすることを示そうとした
創業ストーリー(3)

本店の大阪移転と株式会社竹中工務店の設立

大正9年(1920)4月、店主の竹中藤右衛門氏は設計部の島本四郎氏を帯同して渡米し、11月に帰国した[31]。ニューヨーク市五番街の妻沼建築事務所の一室を借りて島本氏に大阪の堂ビルなどの設計を進めさせる一方、自身は各地を飛びまわり、調査の結果を神戸本店へ次々と送った[32]。7月の第3回調査報告書では、一人でどしどし平面を進めて他の人々の意見を問わないことを大欠点と指弾し、平面を3通りでも4通りでも作って衆議に問うこと、他の図面にあることを重ねて図解しないことを設計部に求めた[33]。帰国後はまず製作部門の拡充と施工の機械化に着手し、テーラーの科学的管理法の著書をアメリカから将来して社員に専攻させた[34]

  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
    • [31]大正9年(1920)4月、竹中藤右衛門は設計部の島本四郎を帯同してアメリカに渡り、11月に帰国した
    • [32]ニューヨーク市五番街の妻沼建築事務所の一室を借り受けて島本四郎に大阪の堂ビルや某銀行の設計に当たらせ、自身は各地を飛びまわって調査結果を次々と神戸本店宛に送った
    • [33]7月の第3回調査報告書は、一人でどしどし平面を進めて他の人々の意見を問うことなきは大欠点であるとし、平面は3通りでも4通りでも作って衆議に問うこと、他の図面にあることを再び図面にのせないことを設計部に求めた
    • [34]帰国後第一に着手されたのが製作部門の強化拡充と施工の機械化で、テーラーの著書 The Principles of Scientific management をアメリカから将来して社員にこれを専攻させた

大正6年(1917)以降、竹中工務店は神戸の橋本汽船ビル、大阪の三越西館、三井物産神戸支店、横浜正金銀行神戸支店、大阪の高島屋と、鉄骨鉄筋造や鉄筋コンクリート造の建物を相次いで施工した[35]。明治から大正にかけて煉瓦や石の建築に習熟し、耐震耐火構造の技術を吸収した時期にあたる[36]。大正12年(1923)9月の関東大震災は焼けるものと倒れるものを冷厳に選別し、地震国である日本にアメリカ式建築をそのまま応用することの危険さを露呈させた[37]。震災の救援に忙殺されている最中に施工中の大阪の堂島ビルディングが竣工したため、12月1日に本店を神戸江戸町から移し、大阪出張所を廃して神戸を支店とした[38]。合名会社設立以来、神戸に本店を置くことは満14年6カ月に及んだ[39]

  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
    • [35]大正6年(1917)以後、震災までの竣工では神戸の橋本汽船ビル、大阪の三越西館、三井物産神戸支店、横浜正金銀行神戸支店、大阪の高島屋などがあり、既に数多くの鉄骨鉄筋造やR・C造が建っていた
    • [37]大正12年9月の関東大震災で焼けるものは焼け倒れるものは倒れるという冷厳な審判を受け、アメリカ式建築が地震国である日本にそのまま応用されることの危険さが如実に示された
    • [38]関東大震災の救援に忙殺されている最中に施工中の大阪の堂島ビルディングが竣工したため、大正12年12月1日をもって本店を神戸江戸町からここに移し、従来の大阪出張所を廃止して神戸を支店とした
    • [39]合名会社設立以来、神戸に本店を置くこと満14年6カ月に及んだ
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「竹中工務店」
    • [36]明治から大正にかけて煉瓦や石の建築に習熟するとともに、耐震耐火構造の建築と取り組みその技術を吸収した

昭和12年(1937)9月1日、合名会社竹中工務店は株式会社竹中工務店の創立総会を開き、資本金150万円、本店を大阪市、支店を東京・名古屋・神戸・福岡・京都に置いた[40]。取締役社長には竹中藤右衛門氏が就き、専務取締役に山脇友三郎氏、常務取締役に福本常太郎氏を据えた[41]。株式会社は昭和13年1月1日現在をもって合名会社を吸収合併し、合名会社は同25日に解散した[42]。大陸への進出が始まったのもこの改組の年からで、それまでの外地工事は昭和9年の朝日新聞京城支局の新築があるだけだった[43]。竹中工務店は名古屋で神社仏閣の造営を始めた1610年を創業年、14代竹中藤右衛門氏が神戸へ出た1899年を創立第1年として、双方を沿革に掲げている[44]

  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
    • [40]昭和12年9月1日に株式会社竹中工務店の創立総会を開催し、資本金150万円、本店は大阪市、支店は東京市・名古屋市・神戸市・福岡市・京都市であった
    • [41]取締役社長は竹中藤右衛門、専務取締役は山脇友三郎、常務取締役は福本常太郎であった
    • [42]株式会社は昭和13年1月1日現在をもって合名会社を吸収合併し、合名会社は同25日に解散した
    • [43]大陸への進出を開始したのは合名会社を株式会社に改組した昭和12年からで、それまでは昭和9年の朝日新聞京城支局の新築が最初であり外地での工事は絶無であった
  • 竹中工務店 有価証券報告書【沿革】
    • [44]1610年に初代竹中藤兵衛正高が名古屋で創業し神社仏閣の造営に従事、1899年に14代竹中藤右衛門が神戸に店舗を開設して創立第1年とすることを、いずれも沿革に記載している
  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
    • [31]大正9年(1920)4月、竹中藤右衛門は設計部の島本四郎を帯同してアメリカに渡り、11月に帰国した
    • [32]ニューヨーク市五番街の妻沼建築事務所の一室を借り受けて島本四郎に大阪の堂ビルや某銀行の設計に当たらせ、自身は各地を飛びまわって調査結果を次々と神戸本店宛に送った
    • [33]7月の第3回調査報告書は、一人でどしどし平面を進めて他の人々の意見を問うことなきは大欠点であるとし、平面は3通りでも4通りでも作って衆議に問うこと、他の図面にあることを再び図面にのせないことを設計部に求めた
    • [34]帰国後第一に着手されたのが製作部門の強化拡充と施工の機械化で、テーラーの著書 The Principles of Scientific management をアメリカから将来して社員にこれを専攻させた
    • [35]大正6年(1917)以後、震災までの竣工では神戸の橋本汽船ビル、大阪の三越西館、三井物産神戸支店、横浜正金銀行神戸支店、大阪の高島屋などがあり、既に数多くの鉄骨鉄筋造やR・C造が建っていた
    • [37]大正12年9月の関東大震災で焼けるものは焼け倒れるものは倒れるという冷厳な審判を受け、アメリカ式建築が地震国である日本にそのまま応用されることの危険さが如実に示された
    • [38]関東大震災の救援に忙殺されている最中に施工中の大阪の堂島ビルディングが竣工したため、大正12年12月1日をもって本店を神戸江戸町からここに移し、従来の大阪出張所を廃止して神戸を支店とした
    • [39]合名会社設立以来、神戸に本店を置くこと満14年6カ月に及んだ
    • [40]昭和12年9月1日に株式会社竹中工務店の創立総会を開催し、資本金150万円、本店は大阪市、支店は東京市・名古屋市・神戸市・福岡市・京都市であった
    • [41]取締役社長は竹中藤右衛門、専務取締役は山脇友三郎、常務取締役は福本常太郎であった
    • [42]株式会社は昭和13年1月1日現在をもって合名会社を吸収合併し、合名会社は同25日に解散した
    • [43]大陸への進出を開始したのは合名会社を株式会社に改組した昭和12年からで、それまでは昭和9年の朝日新聞京城支局の新築が最初であり外地での工事は絶無であった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「竹中工務店」
    • [36]明治から大正にかけて煉瓦や石の建築に習熟するとともに、耐震耐火構造の建築と取り組みその技術を吸収した
  • 竹中工務店 有価証券報告書【沿革】
    • [44]1610年に初代竹中藤兵衛正高が名古屋で創業し神社仏閣の造営に従事、1899年に14代竹中藤右衛門が神戸に店舗を開設して創立第1年とすることを、いずれも沿革に記載している
創業ストーリー(4)

地下を丸ごと沈める潜函工法と、戦後の経営陣一新

1938年1月、合名会社竹中工務店を吸収合併し、東京・名古屋・九州の各支店を開設した[45]。同じ年、地上で全地下部分を一体の潜函体として構築し、下部の地盤を掘削しながら所定の支持地盤へ定着させる竹中式潜函工法を、銅座松坂屋と上野松坂屋に用いた[46]。在来の小規模な沈井工法に改良を加えたこの工法は、敷地利用率を98%まで高め、振動騒音を抑え、潜函体の沈下と地上階の躯体構築を同時に進めることで工期を縮めた[47]。仮設の山止めが不要になるため、工費も抑えられた[48]。1941年6月には、海外土木興業(後の竹中土木)の設立に参画した[49]

  • 竹中工務店 有価証券報告書【沿革】
    • [45]1938年1月、合名会社竹中工務店を吸収合併し、東京・名古屋・九州の各支店を開設した
    • [49]1941年6月、海外土木興業(後の竹中土木)の設立に参画した
  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
    • [46]竹中式潜函工法は地上に全地下部分を一体の潜函体として構築し、潜函の下部の地盤を掘削しながら所定の支持地盤に定着させる工法で、戦前は朝日新聞名古屋支局(昭和11年)、銅座松坂屋(13年)、上野松坂屋(13年)に施工した
    • [47]在来の小規模な沈井工法に改良を加えた工法で、敷地利用率が98%まで可能、振動騒音が極めて小さい、潜函体の沈下作業と同時に地上階の躯体作業ができ工期が短縮できる、といった利点がある
    • [48]仮設の山止めが不用になるので工費の節減が図れる

1945年2月11日、竹中工務店は経営陣の一新を断行した[50]。第14代・竹中藤右衛門社長が取締役会長に、竹中錬一副社長が社長に、軍属としてタイ国に出張中の竹中宏平取締役が副社長に就任し、1899年の創立以来46年にわたる経営の責任は竹中藤右衛門氏から竹中錬一社長へ移った[51]。翌1946年には相談役制を設け、竹中藤右衛門氏が相談役として経営陣の後見に当たった[52]。終戦後は、復員者や帰還者をなるべく郷里に近い場所へ配置する方針から、各地に44の出張所を新設した[53]。しかし職員が定着する傾向を是正しきれず、業界の不況も重なった1950年6月末、出張所の整理を断行し、支店9・営業所7・出張所26まで絞り込んだ[54]

  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
    • [50]昭和20年8月15日の終戦の日に先立つ半年前の2月11日に、当社は経営陣の一新を断行した
    • [51]第14代・竹中藤右衛門社長は取締役会長に、竹中錬一副社長が社長に、軍属としてタイ国に出張中の竹中宏平取締役が副社長に就任し、明治32年創立以来46年の長きにわたる経営の責任は竹中藤右衛門から新社長竹中錬一に継承された
    • [52]翌21年には相談役制を設け、竹中藤右衛門会長は相談役に就任し、経営陣の後見に当たることになった
    • [53]復員者・帰還者はなるべくその郷里に近いところに配置する方針から出張所を各地に開設し、44の出張所を新設した
    • [54]職員が定着する傾向の是正が進まず、業界の不況も大きな原因となって25年6月末をもって整理を断行し、支店9・営業所7・出張所26が残置された

潜函工法は第2次世界大戦による中断を経て、日比谷の日活国際会館で大規模建築に適用された[55]。1950年1月着工、1952年3月完工のこのビルでは、地上で打設した巨大なコンクリートの箱が1日平均5センチの速度で沈み、町を行く人々の目を引きつけた[56]。日活国際会館はその位置・規模・技術から戦後第一次ビルブームの象徴となり、戦前に一定の建設技術を獲得していた日本の建設界が約10年の停滞の後に水準を回復した状況を示すものとなった[57]。この工事での業績は第三回毎日工業技術賞の受賞対象に選ばれ、竹中式潜函工法は大阪の第一生命ビルなど1969年までに20件の建物で採用された[58]

  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
    • [55]第2次世界大戦による中断時期を経て、大規模建築物において劇的な成功を収め、建設業界、国内外の脚光を浴びた日比谷の日活国際会館を皮切りとした
    • [58]日活国際会館における本工法の業績は26年の第三回毎日工業技術賞の受賞対象に選ばれ、大阪の第一生命ビルなど44年までに20件の建物で採用した
  • 日本産業史 第2巻 建設・不動産(日本経済新聞社、1994年)「建設-新工法・新技術相次ぐ」
    • [56]二十五年一月着工、二十七年三月完工した日比谷角地の日活国際会館ビルで竹中工務店は潜凾(ケーソン)工法を採用し、地上で打設した巨大なコンクリートの箱が一日五センチの平均速度で沈んでゆく様子は、町を行く人々の目をひきつけた
    • [57]日活国際会館ビルはその位置、規模、技術などから戦後第一次のビルブームの象徴的地位を占め、戦前すでに一定の建設技術を獲得していた日本の建設界が約一〇年の停滞の後に再びその水準を回復した状況を示したものだった
  • 竹中工務店 有価証券報告書【沿革】
    • [45]1938年1月、合名会社竹中工務店を吸収合併し、東京・名古屋・九州の各支店を開設した
    • [49]1941年6月、海外土木興業(後の竹中土木)の設立に参画した
  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
    • [46]竹中式潜函工法は地上に全地下部分を一体の潜函体として構築し、潜函の下部の地盤を掘削しながら所定の支持地盤に定着させる工法で、戦前は朝日新聞名古屋支局(昭和11年)、銅座松坂屋(13年)、上野松坂屋(13年)に施工した
    • [47]在来の小規模な沈井工法に改良を加えた工法で、敷地利用率が98%まで可能、振動騒音が極めて小さい、潜函体の沈下作業と同時に地上階の躯体作業ができ工期が短縮できる、といった利点がある
    • [48]仮設の山止めが不用になるので工費の節減が図れる
    • [50]昭和20年8月15日の終戦の日に先立つ半年前の2月11日に、当社は経営陣の一新を断行した
    • [51]第14代・竹中藤右衛門社長は取締役会長に、竹中錬一副社長が社長に、軍属としてタイ国に出張中の竹中宏平取締役が副社長に就任し、明治32年創立以来46年の長きにわたる経営の責任は竹中藤右衛門から新社長竹中錬一に継承された
    • [52]翌21年には相談役制を設け、竹中藤右衛門会長は相談役に就任し、経営陣の後見に当たることになった
    • [53]復員者・帰還者はなるべくその郷里に近いところに配置する方針から出張所を各地に開設し、44の出張所を新設した
    • [54]職員が定着する傾向の是正が進まず、業界の不況も大きな原因となって25年6月末をもって整理を断行し、支店9・営業所7・出張所26が残置された
    • [55]第2次世界大戦による中断時期を経て、大規模建築物において劇的な成功を収め、建設業界、国内外の脚光を浴びた日比谷の日活国際会館を皮切りとした
    • [58]日活国際会館における本工法の業績は26年の第三回毎日工業技術賞の受賞対象に選ばれ、大阪の第一生命ビルなど44年までに20件の建物で採用した
  • 日本産業史 第2巻 建設・不動産(日本経済新聞社、1994年)「建設-新工法・新技術相次ぐ」
    • [56]二十五年一月着工、二十七年三月完工した日比谷角地の日活国際会館ビルで竹中工務店は潜凾(ケーソン)工法を採用し、地上で打設した巨大なコンクリートの箱が一日五センチの平均速度で沈んでゆく様子は、町を行く人々の目をひきつけた
    • [57]日活国際会館ビルはその位置、規模、技術などから戦後第一次のビルブームの象徴的地位を占め、戦前すでに一定の建設技術を獲得していた日本の建設界が約一〇年の停滞の後に再びその水準を回復した状況を示したものだった
創業ストーリー(5)

社長直轄の研究所、東京タワー、そして海外設計事務所

1953年、大阪と東京に研究室を設けた[59]。技術革新と工事量の増加で従来の規模では処理しきれなくなったため、1959年に研究室を改組し、社長直轄の竹中建築技術研究所とした[60]。原子力・建築設備・建築生産・建築環境・建築材料・建築構造・地下構造の専門分科を置き、建築技術全般の調査研究に加えて、各店への機能的な指導・提案・援助と各店からの委託実験を担わせた[61]。あわせて大阪には企画室を新設し、建築技術以外の分野の企画や調査、統計の業務を割り当てた[62]。1964年12月には土木部門の研究を加え、名称を竹中技術研究所に改めた[63]

  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
    • [59]昭和28年、大阪と東京に研究室を設置した
    • [60]技術革新と工事量の増加に伴い従来の規模では処理しがたくなり、34年に研究室を改組して社長直轄の機関である「竹中建築技術研究所」とした
    • [61]原子力、建築設備・建築生産・建築環境・建築材料・建築構造・地下構造の専門分科を置き、建築技術全般に関する調査研究を行うとともに、各店に対して機能的な指導、提案、援助を行い、各店の委託、実験等をも併せ行うこととした
    • [62]研究所の開設に伴い大阪には新しく「企画室」を置き、建築技術以外の分野の諸事項について企画調査統計などの業務を担当させた
    • [63]従来の竹中建築技術研究所の研究項目に土木部門の研究を加えたため、39年12月以降、名称も「竹中技術研究所」と改めた

1955年頃から、鋼管内の土砂をオーガースクリューで排土しながら鋼管を地中深く押し込み、先端からコンクリートを注入して鋼管コンクリート杭を形成する竹中式オーガーパイル工法を開発し、1957年に大阪市内の作業所で実施した[64]。無騒音・無振動で周辺地盤の沈下を起こさないこの工法は、崩壊性土質の多い大阪市内で特に有効だった[65]。オーガーマシンの改良で径の大きい大深度の杭が打てるようになり、1962年には従来不可能とされていた地下5階以上の建物を施工できる竹中式深礎工法が生まれた[66]。1958年に完成した東京タワーでは、良質でない地盤に4,000トンの重量を持つ鉄塔を安定させるため深礎工法を用い、鉄骨とアンテナの吊り上げにはわが国初のせり上げ工法を考案した[67]。年中無休、1日12時間労働の突貫工事を1年7カ月続け、無災害で竣工にこぎつけた[68]

  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
    • [64]竹中式オーガーパイル工法は昭和30年頃より開発し、オーガーマシンにより鋼管のなかの土砂をオーガースクリューで掘削排土しながら鋼管を地中深く押し込み、先端からコンクリートを注入しながら引抜いて鋼管コンクリート杭を形成する工法で、32年に大阪市内の作業所で実施された
    • [65]この工法は無騒音、無振動であり、周辺地盤の沈下などを起こさず、特に崩壊性土質の多い大阪市内では極めて有効な工法であった
    • [66]オーガーマシンが改良され、より径の大きい、より大深度の鋼管コンクリート杭の施工が可能になり、37年には従来不可能とされていた地下5階以上の建物が施工できる「竹中式深礎工法」を開発した
    • [67]東京タワーは当社施工により昭和33年に完成し、良質でない地盤に4,000トンの重量をもつ鉄塔を安定させるために当社独特の深礎工法を用い、鉄骨及びアンテナの吊り上げにわが国初の「せり上げ工法」を考案、実施した
    • [68]東京タワーの建設工事は年中無休、1日12時間労働という突貫工事で、1年7カ月の短期間に無災害で成し遂げられた

サンフランシスコに駐在員を派遣した1959年の前後から、在来の日本商社や銀行筋から建築設計の委託を受けることが増えた[69]。1960年12月16日、構築物の設計・監理を目的とする現地法人 TAKENAKA & ASSOCIATES, INC.(略称SFTA)を資本金10万ドルでサンフランシスコに設立した[70]。少数のスタッフで東京銀行や日本航空の各事務所を設計し、日本文化センターの設計コンペでは1位となった[71]。1963年にバンコクでタイ・トーレ・テキスタイル・ミルズ工場第I期工事を施工したのが東南アジアでの建設活動の始まりで、1965年4月に海外事業本部を新設し、1972年には国際事業本部へ改称して組織と陣容を強化した[72]。サンパウロ、デュッセルドルフ、テヘラン、ブラッセル、シンガポール、香港、ホノルルの各都市にも現地法人または駐在員事務所を置いた[73]

  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
    • [69]昭和34年、サンフランシスコに駐在員を派遣した前後には、在来日本商社または銀行筋から建築設計の委託を受けることが多くなっていった
    • [70]米国竹中工務店設計事務所(略称SFTA)は昭和35年(1960)12月16日設立、所在地サンフランシスコ市、資本金10万ドル、目的は構築物の設計・監理とこれに付随する一切の業務
  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第3編 本史-2「最近20年のあゆみ(1969-1989)」
    • [71]少数のスタッフながら、東京銀行、日本航空、住友銀行などの各事務所の設計を行い、日本文化センターの設計コンペにおいて1位となった
    • [72]バンコクにおいてタイ・トーレ・テキスタイル・ミルズ(T.T.T.M)工場第I期工事を38年に施工したのが東南アジアにおける建設活動の嚆矢となり、40年(1965)4月に「海外事業本部」を新設、47年にそれまでの海外事業本部を「国際事業本部」に改称し組織・陣容を強化した
    • [73]海外においても、サンパウロ、デュッセルドルフ、テヘラン、ブラッセル、シンガポール、香港、ホノルルの各都市に現地法人または駐在員事務所を設置した
  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
    • [59]昭和28年、大阪と東京に研究室を設置した
    • [60]技術革新と工事量の増加に伴い従来の規模では処理しがたくなり、34年に研究室を改組して社長直轄の機関である「竹中建築技術研究所」とした
    • [61]原子力、建築設備・建築生産・建築環境・建築材料・建築構造・地下構造の専門分科を置き、建築技術全般に関する調査研究を行うとともに、各店に対して機能的な指導、提案、援助を行い、各店の委託、実験等をも併せ行うこととした
    • [62]研究所の開設に伴い大阪には新しく「企画室」を置き、建築技術以外の分野の諸事項について企画調査統計などの業務を担当させた
    • [63]従来の竹中建築技術研究所の研究項目に土木部門の研究を加えたため、39年12月以降、名称も「竹中技術研究所」と改めた
    • [64]竹中式オーガーパイル工法は昭和30年頃より開発し、オーガーマシンにより鋼管のなかの土砂をオーガースクリューで掘削排土しながら鋼管を地中深く押し込み、先端からコンクリートを注入しながら引抜いて鋼管コンクリート杭を形成する工法で、32年に大阪市内の作業所で実施された
    • [65]この工法は無騒音、無振動であり、周辺地盤の沈下などを起こさず、特に崩壊性土質の多い大阪市内では極めて有効な工法であった
    • [66]オーガーマシンが改良され、より径の大きい、より大深度の鋼管コンクリート杭の施工が可能になり、37年には従来不可能とされていた地下5階以上の建物が施工できる「竹中式深礎工法」を開発した
    • [67]東京タワーは当社施工により昭和33年に完成し、良質でない地盤に4,000トンの重量をもつ鉄塔を安定させるために当社独特の深礎工法を用い、鉄骨及びアンテナの吊り上げにわが国初の「せり上げ工法」を考案、実施した
    • [68]東京タワーの建設工事は年中無休、1日12時間労働という突貫工事で、1年7カ月の短期間に無災害で成し遂げられた
    • [69]昭和34年、サンフランシスコに駐在員を派遣した前後には、在来日本商社または銀行筋から建築設計の委託を受けることが多くなっていった
    • [70]米国竹中工務店設計事務所(略称SFTA)は昭和35年(1960)12月16日設立、所在地サンフランシスコ市、資本金10万ドル、目的は構築物の設計・監理とこれに付随する一切の業務
  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第3編 本史-2「最近20年のあゆみ(1969-1989)」
    • [71]少数のスタッフながら、東京銀行、日本航空、住友銀行などの各事務所の設計を行い、日本文化センターの設計コンペにおいて1位となった
    • [72]バンコクにおいてタイ・トーレ・テキスタイル・ミルズ(T.T.T.M)工場第I期工事を38年に施工したのが東南アジアにおける建設活動の嚆矢となり、40年(1965)4月に「海外事業本部」を新設、47年にそれまでの海外事業本部を「国際事業本部」に改称し組織・陣容を強化した
    • [73]海外においても、サンパウロ、デュッセルドルフ、テヘラン、ブラッセル、シンガポール、香港、ホノルルの各都市に現地法人または駐在員事務所を設置した
創業ストーリー(6)

万博の集中管理体制と、建設業初のデミング賞実施賞

1965年以降の5年間、日本万国博覧会への取り組みは、施工における組織、技術、システム化に関する生産体制の大きな実験となった[74]。最終年の1969年までにソ連館をはじめ23件のパビリオンと5件の会場施設を受注して完成させ、その請負総額は125億円、延5万坪に達した[75]。28のパビリオン及び施設の工事単位に対して総合事務所を設け、渉外・技術・調達・コスト・事務・設計・設備の7担当を置き、毎週火曜日には全担当が各作業所と会議を持った[76]。大阪本店の各部だけでなく、技術研究所・電算センター・各支店・各製作所・各竹和会・各協力会社が持つ技術と知識と機能をシステム化し、集中管理体制という組織的な工事管理で成果を収めた[77]

  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第3編 本史-2「最近20年のあゆみ(1969-1989)」
    • [74]昭和40年以降、日本万国博と取り組んでの5年間は、施工における組織、技術、システム化などに関する生産体制の大きな実験であった
    • [75]その最終の年であった44年、当社はソ連館をはじめとして23件のパビリオンと5件の会場施設を受注、完成させ、その請負総額は125億円、延5万坪に達した
    • [76]28のパビリオン及び施設の工事単位に対し総合事務所を設け、渉外、技術、調達、コスト、事務、設計、設備という7つの各担当を設置し、毎週火曜日にはすべての担当が各作業所と会議を持った
    • [77]大阪本店の各部はもちろん、技術研究所、電算センターをはじめ各支店、各製作所、各竹和会、各協力会社など、各々が持っている技術や知識、機能をシステム化することができ、集中管理体制という組織的な工事管理によって大きな成果を収めた

高度成長のもとでの受注拡大は、品質に徹する竹中工務店にとって一つの試練の期間でもあった[78]。仕事が急に増えて生産が限界に近づくと品質の確保が難しくなり、支店間・作業所間の品質のばらつきが目立ち、補償工事費は年とともに増えた[79]。1965年に品質管理の導入の可能性を調査したものの、当時の品質管理はもっぱら製造業で行われるもので、注文一品生産である建築への適用に理解が及ばず、いったん断念した[80]。かわりに1967年5月にZD運動を導入し、作業所をはじめ各部署でZDグループを編成して10年間続けたが、成果は作業員レベルにとどまり、経営者・管理者レベルでは見るべきものを上げられなかった[81]。1973年のオイルショックに伴う建設資材の高騰と物不足は、資材の安定供給の上に経営を行ってきた建設業界の存立基盤を大きく揺るがした[82]

  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第3編 本史-2「最近20年のあゆみ(1969-1989)」
    • [78]昭和30年代半ばから始まる高度成長で当社も厳しい競争のなかで受注高を伸ばしたが、同時に品質に徹しようとする当社にとっては一つの試練の期間であった
    • [79]急激に仕事が増えると生産が限界に近づき品質の確保が難しくなり、工事量の増大に伴って支店間、作業所間の品質のばらつきも目立ち始め、補償工事費は年とともに増加してきた
    • [80]40年に品質管理の導入の可能性について調査を行ったが、当時は品質管理は専ら製造業で行われており、注文一品生産である建築の分野に導入する可能性について十分に理解するに至らず断念した
    • [81]42年5月にZD運動を導入し、作業所を始めとする各部署でZDグループを編成して10年にわたり続けたが、経営者、管理者レベルでは見るべき成果を上げることはできなかった
    • [82]48年のオイルショックによる同年秋からの建設資材の高騰と物不足で、資材の安定供給のうえに経営を行ってきた建設業界はその存立の基盤を大きく揺るがせられた

業績の低迷を打開するには、営業活動を活発にして受注を伸ばすだけでは足りず、作品の品質の維持・向上が欠かせなかった[83]。改めて調査すると、全社的品質管理が高度経済成長の原動力の一つであり、組立産業である自動車業界で大きな成功を収めた事実が確認された[84]。建設業でも品質管理活動を展開できるという確信を得て、1976年2月、竹中錬一社長がTQCの導入に踏み切った[85]。目的を企業体質の改善と作品の品質向上、業績の向上と定め、ZD運動の反省から、経営者と経営幹部が率先して実践すること、管理者のリーダーシップで全社に徹底すること、企画設計段階における品質を充実させることの三つを重視した[86]。同月1日の社員総会で社長がQCスタートを宣言し、24日の第1回QC推進中央委員会でQC推進基本方針を決めた[87]。1979年11月12日、建設業として初めてデミング賞実施賞を受賞した[88]

  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第3編 本史-2「最近20年のあゆみ(1969-1989)」
    • [83]この苦境のもとで業績の低迷を打開するためには、単に営業活動を活発化して受注を伸ばすだけではなく、従来の当社の基本方針である作品の品質の維持・向上は欠かすことができなかった
    • [84]改めて調査した結果、全社的品質管理すなわちTQCはわが国の高度経済成長の原動力の一つであった事実が確認され、特に組立産業である自動車業界においてTQCが大きな成功を収めたということがヒントとなった
    • [85]建設業においても品質管理活動の展開が可能であるという確信が得られ、51年2月、竹中錬一社長はTQCの導入を決断した
    • [86]導入の目的を「企業体質を改善し、作品の品質を向上させ、業績を高めること」と定め、ZD運動の反省に基づき、経営者・経営幹部自身が率先してTQCを理解し実践すること、管理者のリーダーシップによって全社に徹底を図ること、企画設計段階における品質を充実させることの三つを重視した
    • [88]昭和54年度デミング賞受賞式は11月12日に行われ、当社が建設業として初めてデミング賞実施賞を受賞した
  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)年表
    • [87]昭和51年2月1日、社員総会で社長「QCスタート」宣言、2月24日、第1回QC推進中央委員会開催(当社における「QC推進基本方針」決定)
  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第3編 本史-2「最近20年のあゆみ(1969-1989)」
    • [74]昭和40年以降、日本万国博と取り組んでの5年間は、施工における組織、技術、システム化などに関する生産体制の大きな実験であった
    • [75]その最終の年であった44年、当社はソ連館をはじめとして23件のパビリオンと5件の会場施設を受注、完成させ、その請負総額は125億円、延5万坪に達した
    • [76]28のパビリオン及び施設の工事単位に対し総合事務所を設け、渉外、技術、調達、コスト、事務、設計、設備という7つの各担当を設置し、毎週火曜日にはすべての担当が各作業所と会議を持った
    • [77]大阪本店の各部はもちろん、技術研究所、電算センターをはじめ各支店、各製作所、各竹和会、各協力会社など、各々が持っている技術や知識、機能をシステム化することができ、集中管理体制という組織的な工事管理によって大きな成果を収めた
    • [78]昭和30年代半ばから始まる高度成長で当社も厳しい競争のなかで受注高を伸ばしたが、同時に品質に徹しようとする当社にとっては一つの試練の期間であった
    • [79]急激に仕事が増えると生産が限界に近づき品質の確保が難しくなり、工事量の増大に伴って支店間、作業所間の品質のばらつきも目立ち始め、補償工事費は年とともに増加してきた
    • [80]40年に品質管理の導入の可能性について調査を行ったが、当時は品質管理は専ら製造業で行われており、注文一品生産である建築の分野に導入する可能性について十分に理解するに至らず断念した
    • [81]42年5月にZD運動を導入し、作業所を始めとする各部署でZDグループを編成して10年にわたり続けたが、経営者、管理者レベルでは見るべき成果を上げることはできなかった
    • [82]48年のオイルショックによる同年秋からの建設資材の高騰と物不足で、資材の安定供給のうえに経営を行ってきた建設業界はその存立の基盤を大きく揺るがせられた
    • [83]この苦境のもとで業績の低迷を打開するためには、単に営業活動を活発化して受注を伸ばすだけではなく、従来の当社の基本方針である作品の品質の維持・向上は欠かすことができなかった
    • [84]改めて調査した結果、全社的品質管理すなわちTQCはわが国の高度経済成長の原動力の一つであった事実が確認され、特に組立産業である自動車業界においてTQCが大きな成功を収めたということがヒントとなった
    • [85]建設業においても品質管理活動の展開が可能であるという確信が得られ、51年2月、竹中錬一社長はTQCの導入を決断した
    • [86]導入の目的を「企業体質を改善し、作品の品質を向上させ、業績を高めること」と定め、ZD運動の反省に基づき、経営者・経営幹部自身が率先してTQCを理解し実践すること、管理者のリーダーシップによって全社に徹底を図ること、企画設計段階における品質を充実させることの三つを重視した
    • [88]昭和54年度デミング賞受賞式は11月12日に行われ、当社が建設業として初めてデミング賞実施賞を受賞した
  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)年表
    • [87]昭和51年2月1日、社員総会で社長「QCスタート」宣言、2月24日、第1回QC推進中央委員会開催(当社における「QC推進基本方針」決定)

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歴史年表 1610〜2025年

竹中工務店の沿革1610〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1610〜1937年大隅流の棟梁が設計施工一貫の会社を名乗るまで初代竹中藤兵衛正高が名古屋で創業、神社仏閣の造営に従事★★★
名古屋鎮台兵舎が竣工、洋風建築に着手★★
14代竹中藤右衛門が神戸に店舗を開設、創立第1年★★★
合名会社竹中工務店を設立、本店を神戸に設置★★
商店建築で日本初の鉄筋コンクリート造となる高島屋京都店が竣工★★
本店を神戸から大阪に移転★★
合名会社竹中工務店を株式会社に改組★★★
1938〜1979年潜函工法で名を上げ、全社的品質管理で作品のばらつきを消す竹中式潜函工法を開発、松坂屋上野店などに適用★★
合名会社竹中工務店を吸収合併、東京・名古屋・九州の各支店を開設★★
海外土木興業(後の竹中土木)の設立に参画
竹中藤右衛門氏が会長に、竹中錬一氏が社長に就任★★
東京・大阪に研究室(竹中技術研究所の前身)を新設★★
日本電波塔(東京タワー)が竣工★★
TAKENAKA & ASSOCIATES INC. をサンフランシスコに設立、海外事業を本格化★★★
財団法人竹中育英会を設立
朝日土木を竹中土木に商号変更
創立70周年を機に竹中技術研究所を東京に新築
日本万国博覧会(大阪万博)で23のパビリオンに関与★★
ヨーロッパ竹中を設立★★
タイ竹中・インドネシア竹中・シンガポール事務所を設立★★
TQC(Total Quality Control)を導入★★
非製造業として初のデミング賞実施賞を受賞★★
1980〜2009年作品で受注する流儀を継ぎ、価格競争の時代に入るまで竹中統一竹中錬一氏が会長に、竹中統一氏が社長に就任★★
竹中統一チャンギ国際空港ターミナルビル(シンガポール)が竣工
竹中統一竹中大工道具館を開館
竹中統一日本初の屋根付き多目的スタジアムとなる東京ドームが竣工★★
竹中統一デミング賞大賞を受賞、竹中工務店地球環境憲章を制定★★
竹中統一日本初の屋根開閉式多目的スタジアムとなる福岡ドームが竣工★★
竹中統一創立100周年
竹中統一中国竹中を設立
竹中統一東京本店を東京都江東区に新築移転★★
2010〜2025年創業家が退いた社長の座と、規模を追わない受注竹中統一執行役員制度を導入、創業400年目を迎える★★
竹中統一TAKリアルティを吸収合併
宮下正裕竹中統一氏が会長に、宮下正裕氏が社長に就任★★★
宮下正裕日本一の高さとなるあべのハルカス(大阪)が竣工★★
宮下正裕社章・社名ロゴを刷新、コーポレートカラーを制定
佐々木正人宮下正裕氏が会長に、佐々木正人氏が社長に就任★★
佐々木正人国内最高層の木造建築「フラッツ ウッズ 木場」が竣工
佐々木正人うめきた2期地区開発事業「グラングリーン大阪」が先行まちびらき★★
佐々木正人大阪・関西万博 大屋根リング(西工区)の実施設計・施工を担当★★
出典・参考 8件
出典・参考
  • 竹中工務店 有価証券報告書【沿革】
  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第1編「前史(創立以前)」
  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第3編 本史-2「最近20年のあゆみ(1969-1989)」
  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)年表
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 45_諸工業「竹中工務店」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「竹中工務店」
  • 日本産業史 第2巻 建設・不動産(日本経済新聞社、1994年)「建設-新工法・新技術相次ぐ」

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