新長期ビジョン「SHIMZ-21」の策定 ── 多角化路線の撤回と本業回帰

「三冠王」達成の勢いで攻めを掲げた今村治輔社長は、なぜ半年余りで多角化路線の撤回に転じたか

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時期 1991年2月
意思決定者 今村治輔 社長
論点 多角化路線の見直しと建設本業への回帰
概要
1991年2月、清水建設は今村治輔社長のもとで90年代の経営指針となる新長期ビジョン「SHIMZ-21」を策定し、1985年に打ち出した多角化路線を撤回して建設本業への回帰を宣言した経営判断。同時に受注シェアで劣勢だった関西地区の強化にも乗り出した。
背景
1985年策定の10年ビジョン「シミズスプリング計画」は本業以外の事業比率を10年で35%まで高める目標を掲げたが、直後の建設ブームで本業が予想以上に伸びて前提が崩れた。1990年のバブル崩壊で受注環境も急速に悪化し、路線の見直しが避けられなくなった。
内容
SHIMZ-21は2000年に売上高3兆円・経常利益2000億円を掲げつつ「本業はあくまでも建設」と明記し、開発・エンジニアリング・海外・新規事業の4事業は本業を支える位置づけへ後退させた。実現の第一歩として近畿営業本部を新設し、森井哲也氏を副社長・関西総支配人に昇格させた。
含意
社長就任からわずか8カ月前には「デベロッパーなど新規分野を広げる」と語っていた今村社長が、半年余りで多角化路線の縮小へ転じた、遅まきながらの本業回帰であった。
筆者の見解

好況の絶頂で立てた計画が、不況の入り口で覆される

この決断の芯にあるのは、好況の絶頂で立てた計画が、不況の入り口で覆されるという逆説である。1985年のシミズスプリング計画は、建設周辺から異業種まで裾野を広げる将来図を描いたが、その後の空前の建設ブームによって皮肉にも本業の存在感がかえって増し、多角化目標は宙に浮いた。今村社長が就任時に語った「デベロッパーなどの新規分野を広げていく」という攻めの構えも、就任からわずか半年ほどでバブル崩壊という現実に押し戻された形になった。「遅まきながら」という当時の評言が示すように、SHIMZ-21による本業回帰は、市場の反転を追いかけるように打ち出された判断とみることができる。

もっとも、この判断が単なる守りへの転換ではなかった点は見落とせない。本業回帰と同時に打ち出されたのは、長らく手薄だった関西市場への攻勢であり、近畿営業本部の新設や関西総支配人への権限集中は、縮小均衡ではなく新たな成長領域への再配分を意図していた。ただし業界の反応が「まずはお手並み拝見」にとどまったように、掲げた数値目標の実現にはなお時間を要する構えであったこともうかがえる。バブル崩壊後の受注低迷が長期化するなかで、経費削減が経営課題の中心に据えられていったことは、2000年に売上高3兆円を目指した長期ビジョン発表当初の熱量とは、いくぶん異なる展開であったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

「シミズスプリング計画」と崩れた多角化の前提

清水建設は1985年5月、10年後を見据えた事業ビジョン「シミズスプリング計画」を策定した。本業以外の事業比率を、当時の5%から10年間で35%まで引き上げる目標を掲げ、清水不動産(1985年設立)やシミズリフォーム(1986年設立)といった新会社を相次いで立ち上げ、建設周辺から異業種まで裾野を広げる計画であった[1][2]

計画が始動した1986年末、内需拡大策を機に建設需要は一挙に上向き、首都圏を中心にかつてない建設ブームが起きた。清水建設は得意とする民間建築の需要を直接取り込み、1987年9月には急な資金需要に対応して総額500億円の無担保転換社債を初めて発行、1989年度には売上高・受注高・経常利益で業界トップに立った。本業の伸びが、多角化計画の前提を大きく上回った[3][4]

「三冠王」達成と、攻めを掲げた新社長

今村治輔は1954年に東京大学工学部建築学科を卒業して清水建設に入社し、名古屋支店長などを経て1990年6月に社長へ就任した。90年3月期には売上高・受注高・経常利益のすべてで業界トップに立つ「三冠王」を達成しての社長交代であり、就任の抱負としてデベロッパーなど新規分野の拡大を挙げ、「守りの意識はない」とあくまで攻めの構えを語っていた[5][6]

しかし社長就任からわずか半年ほどで経営環境は暗転した。1990年のバブル崩壊で建設需要は急速に萎縮し、バブル期に売上高の2倍あった手持ち工事は1.4〜1.5倍まで減少していった。新規分野の拡大を掲げて船出した今村社長は、就任からほどなく守りを固める判断を迫られた[7]

決断

「本業中心」を明記した新長期ビジョン

1991年2月、清水建設は90年代の経営指針となる新長期ビジョン「SHIMZ-21」を発表した。2000年に売上高3兆円・経常利益2000億円の達成を掲げつつ「本業はあくまでも建設」というスタンスを明記し、開発事業・エンジニアリング事業・海外事業・新規事業の4事業の強化はうたいながらも、それらを本業を支える位置づけに後退させた。5%から35%への多角化比率を掲げた旧「シミズスプリング計画」からの明確な路線転換であった[8]

SHIMZ-21の実現には関西市場の強化が不可欠であった。関西新国際空港(1994年開港予定)を核に大阪湾岸で大型プロジェクトが相次いで立ち上がり、財団法人関西産業活性化センターの調査では、関西圏の10億円超プロジェクトは682件、判明分だけで総事業費28兆5000億円にのぼった。それでも東京を拠点とする清水建設の関西地区受注シェアは13%台にとどまり、地元資本の竹中工務店・大林組が3割を超えるシェアを握る構造に切り込めずにいた[9][10]

関西総支配人の新設という一手

1991年4月2日、今村治輔社長と森井哲也副社長がそろって関西の有力企業や官庁への挨拶回りに動いた。表向きは森井氏の副社長・関西総支配人就任の挨拶であったが、実際の狙いは関西地区での営業強化を印象づけることにあった。同社は4月1日付で近畿営業本部を新設し、企画・営業・開発営業・地域開発の各部門に設計・企画のスペシャリストを集約し、東京本社などから約30人を投入した。神戸営業所も支店に昇格させ、大阪支店・神戸支店を近畿営業本部が束ねる体制を敷いた[11]

森井氏は関西地区のシェアを「2000年くらいまでに15〜16%に高めたい」と語り、開発事業の売上高を年間約100億円から2、3年後に倍の200億円へ引き上げる目標を掲げた。これまで受け身であった営業を、自ら仕事をつくる開発主導型へ転換する狙いであった。ただし業界の受け止めは冷静で、大手ゼネコン幹部からは「まずはお手並み拝見」と静観する声も聞かれた[12][13]

結果

芝浦新本社移転と、長引く受注低迷

SHIMZ-21策定の2カ月後、1991年4月に清水建設は本店を東京都中央区から港区芝浦の新社屋へ移転した。だが移転直後から受注低迷は本格化し、バブル期の余熱で着手した不動産開発や関連投資の採算は悪化していった。今村社長は1992年のインタビューで「受注がいつまで低迷するか、非常に気になる」と述べ、94年度には売上高がマイナス成長に転じかねないとの見通しを語った[14][15]

業績の圧迫は経営目標にも表れた。今村社長は単体で受注高の5%、連結で7%の利益率を目安に据え、それを満たすための経費削減を進めると説明した。1993年度には約300億円、94年度には250億〜300億円の経費削減を計画し、95年度はさらに積み増す方針を示した。2000年に売上高3兆円・経常利益2000億円を掲げたSHIMZ-21の当初目標は、発表直後から逆風にさらされる形になった[16]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1991年4月22日号「清水建設。遅まきながら関西強化 多角化修正、本業帰り」
  • 日経ビジネス 1990年11月12日号増刊号「新社長登場 今村治輔氏(清水建設)」
  • 日経ビジネス 1992年2月10日号「編集長インタビュー 今村治輔氏[清水建設社長]」
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
  • 清水建設 有価証券報告書【沿革】
  • 清水建設 会社年鑑(連結・1992年3月期)