大倉喜八郎氏は1837年に越後国蒲原郡新発田の名主層の家に生まれ[1]、1854年に18歳で江戸へ出た。鰹節店や乾物店の奉公を経て、1867年には大倉屋銃砲店を開き[2]、戊辰戦争前後の官軍向け武器取引で資本を蓄えている。1872年には私費で欧米視察に出て[3]、洋式商社の組織と海外取引の慣行に接して帰国した。翌1873年10月、東京府第一大区日本橋通三丁目に資本金15万円で大倉組商会を創立し[4]、機械・武器・洋酒・洋服の直輸入貿易[5]と、明治政府の命による建設工事の請負を事業の両輪に据えた。この商会が大成建設の起源[6]にあたる。
1883年11月には鹿鳴館を完工し[7]、欧化政策の迎賓施設という国家的な建造物の施工実績を示した。ただし大倉喜八郎氏の個人請負では発注規模に応じきれず、1887年3月、渋沢栄一氏・藤田伝三郎氏とはかって資本金200万円の有限責任日本土木会社を設立した[8]。大倉組商会の業務のうち土木関係を分離して継承させた会社であり、日本における会社組織による土木建築業の最初の事例[9]となった。設立に際しては、別途構想されていた東京建築会社の設立計画もここへ統合している。
1889年に公布された会計法で官公庁工事が競争入札へ移る[10]と、随意契約を前提に組み立てられていた有限責任日本土木会社は役割を失った。同社は1892年11月に解散し[11]、事業は大倉喜八郎氏が単独で経営する大倉土木組へ継承された。会社組織はいったん個人経営へ戻り、大倉土木組の前期の店主は大倉粂馬氏が務めている[12]。1909年にはフランスから鉄筋コンクリート構造物の建設工法を導入し、全国の建設現場へ普及させる指導的な役割を担った。1911年11月には大倉土木組が株式会社大倉組へ合併され[13]、株式会社大倉組土木部となった。
1917年12月、株式会社大倉組から分離して資本金200万円の株式会社大倉土木組が発足した[14]。のちに取締役を務めた窪田重元氏は、この分離独立を『これが名実共に当社の誕生』[引用元][15]と説明している。1873年の大倉組商会創立から44年を経て[16]、土木建築の事業はようやく独立した法人格を得た。商号はその後も動き、1920年12月に日本土木株式会社、1924年6月に大倉土木株式会社と改めている[17]。
1927年1月、上野〜浅草間で日本初の地下鉄工事を完工[18]した。地下鉄では渋谷〜浅草間の工事の大部分を担い、建築でも帝国ホテル、中央郵便局、大蔵省庁舎を手がけ[19]、1957年の株式上場に際して主な実績として挙げられたのはこれらの工事だった。資本金は1936年12月に300万円を増資して500万円、1944年2月には1,200万円[20]まで積み増し、同年4月には大平工業株式会社を吸収合併[21]している。
戦時下の建設業者は、1941年の国家総動員法、1942年の企業整備、1943年の労務報国会、1945年の戦時建設団設立[22]を通じて請負営業の自由を制約された。工事は陸海軍と軍需工場のものが中心となり、大手業者の大部分は朝鮮・中国・東南アジアなど旧植民地や占領地域へ多数の社員を派遣した[23]。終戦により大倉土木は膨大な在外資産を失い[24]、特別経理会社となり、財閥会社であったため制限会社の指定を受け、公職追放令A項会社の指定で会長・社長・常務の人材を失った。大倉組は三井・三菱と並ぶ財閥に指定され、大倉喜七郎氏ら常務以上の役員が公職追放[25]となった。追放を免れた若手層が経営を引き継ぐ人事構造となり、本間嘉平氏は1946年に大阪支店長、1947年に取締役となった[26]。
大倉財閥の解体が進むなか[27]、大倉土木株式会社は1946年1月にいち早く大成建設株式会社へ商号を改めた[28]。『大成』は大倉喜八郎氏の戒名からとったもので、語源は孟子の『集大成』[29]にある。『建設』は英語Constructionの邦訳で、建設業者が社名にこの二文字を冠した最初の例[30]となった。1947年には鹿島組が鹿島建設、1948年には清水組が清水建設[31]、西松組が西松建設へと相次いで倣っている。
1947年、大倉鉱業が保有していた大成建設の全株式24万株は持株会社整理委員会の管理へ移り[32]、同社は同業他社に比べ不利な立場に置かれた。1949年6月、役員・従業員がこの全株式を譲り受け、制限会社の指定も解かれて混乱期を脱している[33]。譲受の時点で社員は約3,600名[34]を数えた。社員が個人の資金を出しあって株式を引き取った経緯から、大成建設の労働組合は協同組合的な色彩が濃くなった[35]。創業家の持株支配は、財閥解体から3年余りで資本の面からも解消[36]された。
1949年8月には企業再建整備の実行のため1,800万円を増資し、資本金を3,000万円とした[37]。同年9月、建設業法の施行にともない綜合建設業者として建設大臣に登録している[38]。終戦直後は新旧勘定が分離していたが、1949年に企業再建整備計画が完了し、1950年3月期には初めて1割の配当を実施した[39]。以後1952年3月期からは12年間にわたり2割以上の配当[40]を続けている。
1950年に勃発した朝鮮動乱を契機に[41]、日本経済の復興は軌道に乗った。売上高は1951年3月期の47億円から1955年3月期には171億円へ[42]、4年で3.6倍に拡大している。資本金も1951年8月に6,000万円、1952年8月に1億5,000万円、1954年7月に3億円[43]と、工事量の増加に合わせて積み増した。1953年4月には有楽土地株式会社を東京都中央区に設立し[44]、グループで最初の子会社としている。1950年代当初の建設工事量は年間約1兆円と推定され、清水・大成・鹿島・大林・竹中のいわゆる大手五社の年間完成工事高は200億円に達しようとしていた[45]。
1956年5月、電源開発調整審議会が黒部川第四発電所の開発主体を関西電力と決め[46]、同年7月に各社と特命で工事契約が結ばれた。大成建設が請け負った第五工区は、地下150メートル・広さ200メートル平方・高さ50メートルの洞穴に発電所を格納する工事[47]で、請負金は23億100万円、1956年6月着手・1960年10月完成の予定だった[48]。全体の工費は当初の370億円を大きく超えて500億円余に達し、竣工式は1963年6月[49]に行われている。機械化による工期短縮も進み、トンネル工事の掘進は1日2〜3メートルから10〜15メートルへ伸びた[50]。売上高対利益率は従前の2%前後から、1956年9月期以降は4%以上へ改善している[51]。1957年時点の主な手持工事には、三菱地所の第3丸ビル新築工事21億5,600万円、国立競技場第1回建築工事5億5,800万円[52]、日本道路公団の笹子トンネル工事が並んでいる。
1956年9月、資本金3億円を6億円へ倍額増資するにあたり、大成建設は株式を東京店頭市場へ公開した[53]。ゼネラルコントラクターの株式が終始非公開だった業界で最初の公開であり、売出価格80円にはただちに160円の値がついている[54]。公開には業界からも社内からも批判の声があったが[55]、思いきって踏み切った。1957年3月期の完成工事高は152億8,697万円と前期の約5割増、当期純利益は7億3,320万円に達した[56]。1957年9月9日には東京証券取引所へ上場し、上場株式数は1,200万株、社員は2,428名[57]を数えた。1959年10月には大阪・名古屋両証券取引所へも上場[58]している。同年には戦後初の海外建築工事として、インドネシアの首都ジャカルタでホテル・インドネシアの建設に着手した[59]。
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| 1873〜1926年大倉組商会の創立から建設業界初の株式会社となる大倉土木組まで | 大成建設創業——大倉喜八郎氏の大倉組商会から業界初「建設」社名の採用へ 1873年10月、大倉喜八郎氏は東京府第一大区日本橋通三丁目に資本金15万円で大倉組商会を創立し、機械・武器・洋酒・洋服の直輸入貿易と、明治政府の命による建設工事の請負を事業の両輪に据えた。土木部門は1887年に有限責任日本土木会社、1917年に株式会社大倉土木組として法人化と個人経営を往復し、1946年1月にGHQの財閥解体を受けて創業者の戒名に由来する『大成建設株式会社』へ改称した。業界で初めて『建設』を社名に冠した会社であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 有限責任日本土木会社を設立 | ★ | |||
| 大倉土木組に事業継承 | ★ | |||
| 鉄筋コンクリート工法を導入 | ★ | |||
| 大倉土木組として独立し名実ともに誕生 | ★ | |||
| 日本土木に商号変更 | ★ | |||
| 大倉土木に商号変更 | ★ | |||
| 1927〜1959年日本初の地下鉄工事と戦時統制を経て、業界に先んじた株式公開へ | 日本初の地下鉄工事(上野〜浅草)を完工 | ★ | ||
| 財閥解体と「大成建設」への改称——社員の会社としての再建 1946年、大倉財閥の解体を受けて、大倉土木を母体とする建設会社が『大成建設株式会社』へ社名を改め、大倉家が保有していた全株式を役員・従業員が譲り受けた資本政策。同族支配を資本と経営の両面で解消し、『社員の会社』として戦後の再建体制を整えた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 役員・従業員が全株式を譲り受け同族支配を解消 | ★★ | |||
| 有楽土地を設立 | ★ | |||
| 加藤一衛 | 建設業界初の株式公開 | ★★ | ||
| 加藤一衛 | 東京証券取引所に上場 | ★ | ||
| 加藤一衛 | 戦後初の海外建築工事(ホテル・インドネシア)に着手 | ★ | ||
| 加藤一衛 | 大阪・名古屋両証券取引所に上場 | ★ | ||
| 1960〜1999年合議経営と本部制による分権、その短所を突いた低成長と信用低下 | 水嶋篤次 | 大成道路を設立 | ★ | |
| 本間嘉平 | 大成プレハブを設立 | ★ | ||
| 本間嘉平 | 「集大成」の合議経営と本部制への移行 戦後に大倉家の同族支配を解消した大成建設が、経営方針を常務会に諮り社長は議長に徹する合議経営を制度化し、1965年1月に本部制(営業・事務・建築・土木)を導入して分権体制を敷いた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 本間嘉平 | 村上建設を吸収合併 | ★ | ||
| 南幸治 | 住宅・不動産業務を事業目的に追加 | ★ | ||
| 南幸治 | 大成道路が東京証券取引所1部に上場 | ★ | ||
| 南幸治 | 大成プレハブが本店を品川区に移転 | ★ | ||
| 南幸治 | 大成プレハブが東京証券取引所2部に上場 | ★ | ||
| 南幸治 | 有楽土地が東京証券取引所2部に上場 | ★ | ||
| 佐古一 | 本社を新宿区に移転 | ★ | ||
| 里見泰男 | 事業目的の変更・追加 | ★ | ||
| 里見泰男 | 分権主義の軌道修正と「請負業からの脱皮」への組織改革 大成建設が1970年代後半から1980年代にかけて、分権主義を土台にしたグループ経営の軌道修正と、設計部門を営業に組み込む『造注』路線への機構改革を重ねた一連の経営判断。戦後いち早く同族経営を脱した独自路線を、低成長と市場の成熟に合わせて作り替える試みであった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 里見泰男 | 大成プレハブが東京証券取引所1部に上場 | ★ | ||
| 里見泰男 | 大成道路が大成ロテックに商号変更 | ★ | ||
| 2000〜2026年初の営業赤字からグループ統合と過去最高益、そして業界再編の主導へ | 葉山莞児 | 大成プレハブが大成ユーレックに商号変更 | ★ | |
| 葉山莞児 | 大成ユーレックを完全子会社化 | ★ | ||
| 山内隆司 | 有楽土地が東京証券取引所1部に上場 | ★ | ||
| 山内隆司 | 初の営業赤字・純損失を計上 | ★★ | ||
| 山内隆司 | 大成ロテックを完全子会社化 | ★ | ||
| 山内隆司 | 有楽土地を完全子会社化 | ★ | ||
| 村田誉之 | 村田誉之氏が社長に就任(山内隆司氏から交代) | ★ | ||
| 村田誉之 | リニア談合事件での起訴と「談合ではない」とする否認・徹底抗戦 2017年末から2018年にかけて、リニア中央新幹線の建設工事をめぐる大手ゼネコン4社の入札談合事件が表面化した。大成建設は元役員が逮捕され独占禁止法違反で起訴されたが、受注調整の事実は認めつつ『談合ではない』として容疑を否認し、罪状を認めた大林組・清水建設と対照的に公判で争う道を選んだ経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 相川善郎 | 相川善郎氏が社長に就任(村田誉之氏から交代) | ★ | ||
| 相川善郎 | ピーエス三菱のTOB買収と垂直統合M&Aの始動 2023年11月、大成建設はプレストレストコンクリート(PC)橋大手のピーエス三菱に対する株式公開買い付け(TOB)を公表し、同年12月に成立させた。買い付け金額は約240億円で所有割合は50%超となり、ピーエス三菱は上場を維持したまま子会社となった。成長戦略に掲げるM&Aを実地に移し、垂直統合型の業界再編に動いた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 相川善郎 | 平和不動産との資本業務提携 | ★ | ||
| 相川善郎 | 海洋土木大手・東洋建設のTOBによる買収と完全子会社化 2025年8月8日、大成建設が海洋土木(マリコン)大手の東洋建設を1株1750円のTOBで買収すると発表した経営判断。買収総額は約1600億円で、建設会社どうしのM&Aとしては過去最大級となった。9月25日にTOBが成立し、同月30日に連結子会社化、12月に完全子会社化した。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(大成建設)