この創業が示すのは、会社の組織形態が制度環境に強く規定されていた経緯である。大倉喜八郎氏個人の商会として発足した土木部門は、公共工事の拡大を受けて1887年に法人へ、会計法の競争入札移行を受けて1892年に再び個人へ差し戻され、1917年に株式会社として独立し直した。法人と個人を往復した二層の創業は、随意契約から競争入札へと移る官公需の制度が、建設会社の形そのものを規定していたことをうかがわせる。
もう一つ見えてくるのは、戦後の財閥解体を二重の転換として受け止めた点である。大倉家の同族支配色を資本面で一掃する作業と、近代的な業態名として"建設"を社名へ掲げる作業が、1946年から1949年にかけて同時に進んだ。創業者の戒名に由来する"大成"に集団で会社を育てる含意を重ねた改称は、一個人の商才に発した会社が、経営を特定の家から切り離して再出発する転換にあたったのだろう。