大成建設大成建設創業——大倉喜八郎の大倉組商会から業界初「建設」社名の採用へ

文明開化期の輸入貿易と政府発注の建設工事を両輪に、35歳・大倉喜八郎 氏が起こした大倉組商会はどう業界初の株式会社と「建設」社名へ至ったか

更新:

時期 1873年10月
意思決定者 大倉喜八郎 氏 創業者
論点 貿易と建設工事請負を両輪とする商会の起業(機械輸入と政府発注工事の同時取り込み)
概要
1873年10月、大倉喜八郎 氏は東京府第一大区日本橋通三丁目に資本金15万円で大倉組商会を創立し、機械・武器・洋酒・洋服の直輸入貿易と、明治政府の命による建設工事の請負を事業の両輪に据えた。土木部門は1887年に有限責任日本土木会社、1917年に株式会社大倉土木組として法人化と個人経営を往復し、1946年1月にGHQの財閥解体を受けて創業者の戒名「大成院」に由来する「大成建設株式会社」へ改称した。業界で初めて「建設」を社名に冠した会社であった。
背景
大倉喜八郎 氏は1837年に越後国蒲原郡新発田の名主層の家に生まれ、1854年に18歳で江戸へ出た。鰹節店・乾物店の奉公を経て1867年に大倉屋銃砲店を独立開業し、戊辰戦争前後の官軍向け武器取引で資本を蓄えている。1872年には私費で欧米視察に出て、英国・米国で洋式商社の組織と海外取引慣行に接して帰国した。文明開化期に広がる輸入需要と、明治政府が発注する公共工事需要の双方を同時に取り込む構想を、この視察から持ち帰っていた。
内容
大倉組商会は1883年11月に鹿鳴館を完工して公共建造物の施工実績を示し、個人請負では発注規模に応じきれなくなると、1887年3月に渋沢栄一 氏・藤田伝三郎 氏と資本金200万円で有限責任日本土木会社を設立した。日本における会社組織による土木建築業の最初の事例であった。1889年公布の会計法で官公庁工事が競争入札へ移り、同社は1892年11月に解散、事業は個人経営の大倉土木組を経て、1917年12月に建設業界初の株式会社となる株式会社大倉土木組として再独立した。
含意
戦後のGHQ財閥解体で大倉組は三井・三菱と並ぶ財閥指定を受け、大倉喜七郎 氏ら常務以上が公職追放となった。この処分を受けて1946年1月に社名を「大成建設」へ改め、1949年6月には持株会社整理委員会が管理していた大倉家保有株を役員・従業員が譲り受けて同族支配色を資本面でも一掃した。同族色を早く解消した会社は、1956年8月に建設業界初の株式を公開し、1957年9月に東京証券取引所へ上場して、戦後復興期の資本市場へ業界の先頭で接続した。
筆者の見解

二層の創業がたどり着いたもの

この創業が示すのは、会社の組織形態が制度環境に強く規定されていた経緯である。大倉喜八郎 氏個人の商会として発足した土木部門は、公共工事の拡大を受けて1887年に法人へ、会計法の競争入札移行を受けて1892年に再び個人へ差し戻され、1917年に株式会社として独立し直した。法人と個人を往復した二層の創業は、随意契約から競争入札へと移る官公需の制度が、建設会社の形そのものを規定していたことをうかがわせる。

もう一つ見えてくるのは、戦後の財閥解体を二重の転換として受け止めた点である。大倉家の同族支配色を資本面で一掃する作業と、近代的な業態名として「建設」を社名へ掲げる作業が、1946年から1949年にかけて同時に進んだ。創業者の戒名に由来する「大成」に集団で会社を育てる含意を重ねた改称は、一個人の商才に発した会社が、経営を特定の家から切り離して再出発する転換にあたったとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

越後新発田から大倉屋銃砲店へ——貿易と請負を束ねる前史

大倉喜八郎 氏は1837年に越後国蒲原郡新発田の名主層の家に生まれ、1854年に18歳で江戸へ出た[1]。鰹節店と乾物店の奉公を経て1857年に乾物店「大倉屋」を構え、1867年には業態を銃砲店「大倉屋銃砲店」へ転じている。戊辰戦争の前後には官軍向けの小銃・弾薬の取引で資本を蓄え、維新後の商機を見据える資金を手元に残した[2]。文明開化を迎えた東京で、輸入品の販売と公共の需要を同時に狙える立場に身を置いていた。

明治維新後の1872年、大倉喜八郎 氏は岩倉使節団とは別系統の私費で欧米視察に出発し、英国・米国で洋式商社の組織と海外取引の慣行に接して帰国した[3]。視察で得たのは、物産の輸入販売と組織的な請負を一つの商会に束ねる事業の型であった。銃砲店時代から続く政府・軍関係の取引網を基盤にすれば、文明開化期の輸入需要と、明治政府が求める公共工事の需要を同時に取り込めると見込んでいた。帰国の翌年に、その構想を実際の商会として形にしている。

決断

日本橋の大倉組商会——貿易と建設の両輪

1873年10月、大倉喜八郎 氏は東京府第一大区日本橋通三丁目に資本金15万円で大倉組商会を創立した[4]。機械・武器・洋酒・洋服の直輸入貿易と、明治政府の命による建設工事の請負を事業の両輪に据え、文明開化期の輸入需要と公共工事需要を同時に取り込む構えで出発している[5]。屋号「大倉組」は喜八郎 氏個人が営む商会で、銃砲店時代から築いてきた政府・軍関係の取引網が、貿易と請負の双方に販路を開く土台になっていた。

大倉組商会は1883年11月、明治政府の欧化政策を象徴する迎賓施設・鹿鳴館を担当して完工させ、公共建造物の施工実績を示した[6]。以後、官庁施設・鉄道敷設・港湾築造の発注先として指名される機会が増えたが、個人請負を前提とした業態では拡大する発注規模に応じきれなくなった。1887年3月、喜八郎 氏は渋沢栄一 氏・藤田伝三郎 氏と相はかり、資本金200万円で有限責任日本土木会社を設立した[7]。日本における会社組織による土木建築業の最初の事例で、個人請負が常態だった業界に法人組織を導入する制度的な画期となった。

会計法と二層創業——法人と個人を往復した土木部門

明治政府は1889年に会計法を公布し、官公庁工事の発注を随意契約から競争入札制度へ移した。政府との随意契約を前提に建設業界の枠を超えた共同出資で組まれていた有限責任日本土木会社は、入札制度のもとで法人として工事を取りに行く優位を失い、1892年11月に解散した[8]。解散後の土木請負は大倉喜八郎 氏個人経営の「大倉土木組」が継承し、法人組織から個人組織へ一度差し戻された形で個別案件ごとの請負を担った。制度の変化が、会社の形そのものを組み替えさせていた。

1909年、大倉土木組はフランスから鉄筋コンクリート構造物建設の工法を導入し、以後これを全国へ普及させた[9]。1911年11月に株式会社大倉組へ合併されて同社の土木部となったのち、1917年12月、株式会社大倉組から分離して資本金200万円の株式会社大倉土木組として再独立し、建設業界で初めて株式会社形態の法人となった[10]。この会社が現在の大成建設の直接の法的な源にあたる。1927年1月には日本最初の地下鉄である上野〜浅草間の工事を完工し、当時の土木技術の到達点を示している[11]

結果

財閥解体と業界初の「建設」社名

1945年8月の敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は財閥解体を進め、大倉組は三井・三菱・住友などとともに財閥指定を受けた[12]。大倉喜八郎 氏の長男・大倉喜七郎 氏は来社できず、常務以上の役員は公職追放となり、土木・工業・商事の各社が一律に処分された。当時大阪支店長だった本間嘉平 氏は後年、「三井、三菱と同じ財閥に指定されて」「常務以上はみんな追放になっちゃった」(事業の世界 1971/9)と、指定の重さを振り返っている[13]。財閥色を消すことが、戦後の再出発の前提になっていた。

1946年1月、社名は「大成建設株式会社」へ改められた。「大成」は創業者・大倉喜八郎 氏の戒名「大成院」から取り、「建設」は英語 Construction の邦訳として、業界で初めて社名に冠された[14]。本間嘉平 氏は改称の由来を、「大器晩成という意味ではなくて」「集大成ということ」(経済展望 1964/6/15)だと説明し、優秀な社員が力を合わせて会社を育てる含意を込めたと述べている[15]。長く「組」を名乗ってきた鹿島・清水・西松も、後年この「建設」への改称に倣った。

同族色の解消から業界初の株式公開へ

1946年1月の社名変更と同時に、大倉家が保有していた株式を役員・従業員が譲り受ける動きが始まった。1949年6月、持株会社整理委員会が管理していた大倉家保有の全株式を役員・従業員が正式に譲り受け、創業家による同族支配色を資本面でも一掃した[16]。この譲受の時点で社員は約3,600名を数え、戦後復興期の施工を担う人員の基盤を整えている[17]。同族支配色の濃い建設業界のなかで、戦後いち早く資本と経営を切り離した動きであった。

この資本政策を経て、1956年8月には6億円の増資に際し、建設業界として初めて株式を公開した。翌1957年9月に東京証券取引所へ上場し、1959年10月には大阪・名古屋の両証券取引所にも株式を上場している[18]。同族色を1949年に解消したことで公開企業化の社内体制が業界他社より早く整い、戦後復興期の資本市場へ業界の先頭で接続した[19]。1956年9月には関西電力黒部川第四発電所工事への参画も決まり、戦後の電源開発と都市建築の需要を取り込む足場を固めている。

出典・参考
  • 有価証券報告書(沿革)
  • 証券調査(140) 1982/5
  • 証券調査(205) 1987/10
  • 事業の世界 1971/9
  • 経済展望 1964/6/15

免責事項およびポリシー