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財閥解体と「大成建設」への改称——社員の会社としての再建

1946年実施

大倉財閥の解体で常務以上が公職追放となるなか、大倉土木を母体とする建設会社はなぜ大倉家の全株を社員へ移し、業界で初めて「建設」を社名に掲げたのか

時期 1946年1月
意思決定者 大倉家の支配を離れた戦後の再建経営陣
論点 資本構成と社名
概要
1946年、大倉財閥の解体を受けて、大倉土木を母体とする建設会社が「大成建設株式会社」へ社名を改め、大倉家が保有していた全株式を役員・従業員が譲り受けた資本政策。同族支配を資本と経営の両面で解消し、「社員の会社」として戦後の再建体制を整えた。
背景
終戦後、GHQの財閥解体で大倉組は三井・三菱と並ぶ財閥指定を受け、大倉喜七郎氏ら常務以上の役員が公職追放となった。創業家による持株支配の構造を、戦後体制のもとで解く必要に迫られた。
内容
1946年1月に「大成建設株式会社」へ改称し、「建設」を業界で初めて社名に掲げた。あわせて大倉家保有の全株式を役員・従業員が譲り受け、1949年6月に持株会社整理委員会が管理していた全株式の譲受を完了した。
含意
同族支配色の濃い建設業界のなかで、戦後いち早く資本と経営を大倉家から切り離した。鹿島・清水・西松も後に「建設」の社名へ倣い、1956年の業界初の株式公開と翌年の東証上場につながる社内体制が整った。
筆者の見解

同族支配の解消が開いた公開企業への道

この資本政策の核心は、財閥解体という外部からの強制を、資本と経営を大倉家から切り離す機会として使い切った点にある。常務以上の追放で創業家の求心力が失われた状況を、同社は同族支配の温存ではなく、株式を社員へ移して「社員の会社」に作り替える方向で受け止めた。社名から「大倉」を外し、業界でまだ例のなかった「建設」を掲げたことは、旧財閥の看板を降ろして近代法人としての業態を明示する選択でもあった。

もっとも、「建設」の社名は鹿島・清水・西松などが後に倣ったことで業界標準となり、大成建設だけの独自色ではなくなった。それでも、同族色の解消を戦後の早い時期に済ませたことで、株式公開と東証上場を業界の先頭で実行できた先行は残った。創業家のワンマン支配を欠いた資本構成は、次の「集大成」の合議経営を成り立たせる前提条件にもなった。財務上の危機からではなく、支配構造そのものの組み替えから戦後の再建を始めた点に、この判断の性格がうかがえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

大倉財閥の一翼としての戦前

大成建設の源流は、1873年(明治6)に大倉喜八郎氏が資本金15万円で創立した大倉組商会にある。貿易を主としながら、政府の命による建設工事の請負を両輪に据えて出発し、1883年の鹿鳴館などの国家事業を担った。1887年に渋沢栄一氏・藤田伝三郎氏らと日本初の法人建設会社・有限責任日本土木会社を設立し、1917年には建設業界初の株式会社・大倉土木組として大倉組から分離独立する。戦前までの同社は、大倉喜八郎氏が築いた大倉財閥の建設部門として発展を続けた[1]

財閥指定と常務以上の追放

1945年8月の敗戦後、連合軍総司令部の日本民主化政策のもとで大倉組は三井・三菱・住友と並ぶ財閥に指定され、大倉家の企業支配力は排除の対象となった。創業者の長男・大倉喜七郎氏は来社できず、常務以上の役員は土木・工業・商事の各社が一律に公職追放となった。追放を免れた若手層が事業を引き継ぐ過渡期に入り、創業家の求心力に頼ってきた経営の前提そのものが崩れた。当時大阪支店長だった本間嘉平氏(後の会長)は、この経緯を後年こう振り返っている[2][3]

決断

「大成建設」への改称——業界で初めて「建設」を掲げる

1946年1月、同社は資本のうえでも独立して「大成建設株式会社」へ社名を改めた。「大成」は創業者・大倉喜八郎氏の戒名に由来し、「建設」は英語のConstructionを訳して社名に採った表現である。「建設」という文字を社名に用いたのは業界初で、鹿島・清水・西松など古くから「組」を名乗ってきた同業他社も、この後に大成へ倣って「建設」へ切り替えた。1948年7月に設置された建設省の省名も、この命名がきっかけとされるとの指摘がある[4]

大倉家全株の社員への譲渡

社名変更と同じ流れで、大倉家が保有していた全株式を役員・従業員が譲り受け、同族支配色を資本面から一掃した。1949年6月には、持株会社整理委員会が管理していた全株式を役員・従業員が正式に譲り受けて譲受を完了し、名実ともに社員の会社として再建体制を整えた。社名の変更と株式の譲受をあわせて、資本と経営の双方を大倉家から切り離した点に、この一連の資本政策の性格があった[5][6]

結果

「建設」の社名の広がりと業界初の株式公開

同族支配色の濃い建設業界にあって、大成建設は戦後いち早く同族色を解消し、最初に「建設」という社名を採用し、他社に先駆けて株式を公開するという道を先頭で歩んだ。同族色を1946〜1949年に解消したことで、公開企業として資本市場へ参加する社内体制が業界他社より早く整った。1956年8月には6億円へ増資した際に建設業界で初めて株式を公開し、翌1957年9月に東京証券取引所へ上場する[7][8]

出典・参考
  • 証券調査(140)(新日本証券調査センター, 1982年5月)
  • 証券調査(205)(新日本証券調査センター, 1987年10月)
  • 事業の世界 1971年9月号「よい仕事をするための日建連」