大成建設分権主義の軌道修正と「請負業からの脱皮」への組織改革
- 概要
- 大成建設が1970年代後半から1980年代にかけて、分権主義を土台にしたグループ経営の軌道修正と、設計部門を営業に組み込む"造注"路線への機構改革を重ねた一連の経営判断。戦後いち早く同族経営を脱した独自路線を、低成長と市場の成熟に合わせて作り替える試みであった。
- 背景
- 大倉財閥の解体を機に非同族の株主・従業員所有へ移った大成建設は、1965年の本部制に代表される徹底した分権で成長した。だが1970年代後半の低成長で、上場子会社の欠損や約2,000億円の保有土地といった分権主義の短所が表面化した。
- 内容
- 菅沢英夫社長のもとで親会社の統制を強め、土地処分のプロジェクトチーム設置・子会社の降格人事・グループ内発注の一般競争化に踏み切った。1987年には設計本部を営業総合本部に組み込み、企画立案から提案する"造注"体制へ機構を改めた。
- 含意
- 好況期に力を発揮した分権と、注文を待つ請負業の体質は、低成長と成熟市場では弱点に転じた。集権と分権の調和、そして請負からの脱皮という課題は、1987年度の受注高1兆円突破の裏で、その後の景気変動のたびに問われ続けた。
筆者の見解
分権と集権の間で、強みをどう活かすか
この一連の判断の核心は、財務の危機への応急処置ではなく、成功を支えてきた仕組みそのものへ手を入れた点にある。戦後いち早く同族を脱した大成建設にとって、現場と子会社に権限を委ねる分権主義は、求心力の代わりに社員の自立心を引き出す独自の武器であった。だが好況期に力を発揮したその仕組みは、低成長と成熟市場では土地の抱え込みや子会社の共食い、意思決定の遅さとして裏目に出た。強みと弱みが同じ根から生じるとき、経営はどこまで手を入れるべきか——大成建設の選択は、分権の基調を残しながら集権を加えるという、振り子を戻しすぎない調整であったとみることができる。
請負業からの脱皮という掛け声も、組織図を描き替えるだけでは実を結びにくかった。設計を営業に組み込む造注の理念は明快でも、図面を引く技術者が客に提案して回る人材へ変わるには、日々の育成と意識改革が要る。佐古一会長が縦割りと横壁を繰り返し語ったのは、そのむずかしさの表れであった。規模を追うより、非同族という出自と分権という強みを、成熟した市場のどの事業構成で活かすか。大成建設が1970年代から1980年代にかけて問い続けたこの主題は、のちのバブル崩壊やリーマンショックのたびに、同じかたちで経営の前にあらわれることになる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
同じ問いに直面した会社
- 日経ビジネス 1974年12月9日号(日経マグロウヒル社)
- 日経ビジネス 1977年7月4日号(日経マグロウヒル社)
- 日経ビジネス 1987年5月11日号(日経マグロウヒル社)
- 日経ビジネス 1988年5月23日号(佐古一 大成建設会長/日経マグロウヒル社)
- 大成建設 有価証券報告書【沿革】