分権主義の軌道修正と「請負業からの脱皮」への組織改革

戦後いち早く同族色を捨てた「組織の大成」は、低成長と市場成熟にどう組織を作り替えたか

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時期 1987年4月
意思決定者 里見泰男(社長)・佐古一 会長
論点 経営体制と業態転換
概要
大成建設が1970年代後半から1980年代にかけて、分権主義を土台にしたグループ経営の軌道修正と、設計部門を営業に組み込む「造注」路線への機構改革を重ねた一連の経営判断。戦後いち早く同族経営を脱した独自路線を、低成長と市場の成熟に合わせて作り替える試みであった。
背景
大倉財閥の解体を機に非同族の株主・従業員所有へ移った大成建設は、1965年の本部制に代表される徹底した分権で成長した。だが1970年代後半の低成長で、上場子会社の欠損や約2,000億円の保有土地といった分権主義の短所が表面化した。
内容
菅沢英夫社長のもとで親会社の統制を強め、土地処分のプロジェクトチーム設置・子会社の降格人事・グループ内発注の一般競争化に踏み切った。1987年には設計本部を営業総合本部に組み込み、企画立案から提案する「造注」体制へ機構を改めた。
含意
好況期に力を発揮した分権と、注文を待つ請負業の体質は、低成長と成熟市場では弱点に転じた。集権と分権の調和、そして請負からの脱皮という課題は、1987年度の受注高1兆円突破の裏で、その後の景気変動のたびに問われ続けた。
筆者の見解

分権と集権の間で、強みをどう活かすか

この一連の判断の核心は、財務の危機への応急処置ではなく、成功を支えてきた仕組みそのものへ手を入れた点にある。戦後いち早く同族を脱した大成建設にとって、現場と子会社に権限を委ねる分権主義は、求心力の代わりに社員の自立心を引き出す独自の武器であった。だが好況期に力を発揮したその仕組みは、低成長と成熟市場では土地の抱え込みや子会社の共食い、意思決定の遅さとして裏目に出た。強みと弱みが同じ根から生じるとき、経営はどこまで手を入れるべきか——大成建設の選択は、分権の基調を残しながら集権を加えるという、振り子を戻しすぎない調整であったとみることができる。

請負業からの脱皮という掛け声も、組織図を描き替えるだけでは実を結びにくかった。設計を営業に組み込む造注の理念は明快でも、図面を引く技術者が客に提案して回る人材へ変わるには、日々の育成と意識改革が要る。佐古会長が縦割りと横壁を繰り返し語ったのは、そのむずかしさの表れであった。規模を追うより、非同族という出自と分権という強みを、成熟した市場のどの事業構成で活かすか。大成建設が1970年代から1980年代にかけて問い続けたこの主題は、のちのバブル崩壊やリーマンショックのたびに、同じかたちで経営の前にあらわれることになる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

戦後いち早く同族色を捨てた独自路線

大成建設は、明治初めに大倉喜八郎が興した大倉組を源流とする。戦後の財閥解体に際して大倉財閥の保有株を役員・従業員が譲り受け、社名も現在のものに改めた。鹿島建設・清水建設・大林組・竹中工務店を加えた大手五社の多くが創業家を軸とする同族経営を続けたのに対し、大成建設は戦後いち早く同族色を一掃した。建設業界で最初に株式を公開し、早くからコンピューターを導入するなど、閉鎖的と評された業界のなかで経営の近代化を先に進めた会社であった[1]

非同族であることは、他の産業ではむしろ一般的である。だが「御一家」の多い建設業界では、逆に特異な存在に映った。鹿島建設が外務官僚を会長、通産官僚を社長に迎える華やかな同族経営を展開し、政治力による確度の高い受注情報を得ていたのに対し、大成建設は仕事を任せる側がサラリーマン経営という点で、有形無形のハンデを負った。1972年に日本で初めての本格的な超高層ビルとして着工した霞が関ビルの施工を鹿島に奪われたことは、その象徴として社内の士気に影を落とした[2]

「組織の大成」を支えた徹底した分権主義

同族の求心力に頼れない大成建設が独自の地歩を切り開いた土台には、分権主義があった。1965年に営業・事務・建築・土木の各本部が独立事業部のように機能する本部制を敷き、業界で「組織の大成」と呼ばれる分権モデルを社内に定着させた。建設現場は一種の独立採算制をとり、資材の購入から労働力の調達、設計変更や施主との折衝まで、一切の権限が現場所長に任された。予算以上に利益が出れば現場の者にボーナスが支給され、かつては一工事で家が一軒建つほどの利益分配があったという[3]

この分権を徹底するため、子会社にも自由裁量権を大幅に与え、次々と設立していった。その結果、建設業界では例をみない子会社連邦を形成し、有楽土地・大成道路・大成プレハブなど三つの上場子会社を含む十三社の子会社群を擁するに至った。上場子会社を三社持つ企業は建設業界で他になく、業界トップの鹿島でさえ上場子会社を持たなかった。戦線を拡大して互いに競争させる分権主義は、市場が広がる高度成長期には図に当たった経営のかたちであった[4]

決断

低成長で露呈した短所と親会社の統制強化

高度成長から低成長への転換は、分権主義の短所を表に出した。上場三子会社のうち有楽土地・大成プレハブが前3月期の経常損益でそれぞれ1億3,000万円・16億円の欠損を計上し、大成道路も42.3%の大幅減益に陥った。本体を含む大成建設・有楽土地・大成プレハブ三社の保有土地は合計で約2,000億円に達し、その大半を借入金で買っていたため、金利負担がグループの経常利益分に匹敵した。子会社がばらばらに動いてグループとしてのまとまりを欠き、住宅部門ではグループ間の共食いが目立ち始めた[5]

菅沢英夫社長は、こうした状態を「自由放任から、しつけを少し厳しくする時期がきている」と受けとめ、分権主義の軌道修正に踏み切った。親会社に土地処分のプロジェクトチームを設け、有楽土地は保有土地を五年で半分に減らす方針を打ち出した。業績不振の子会社を中心に経営陣を刷新し、有楽土地では副社長・専務・常務を一階級降格させる、グループでは初めての降格人事に踏み込んだ。子会社への発注も一般企業と同じ基準で臨むと定め、親子間のもたれ合いを断とうとした。三十年続いてきた分権の基調は守りつつ、時代に即した集権を加える調整であった[6]

設計を営業に組み込む「造注」体制

1980年代に入ると、大成建設は「造注」という耳慣れない言葉を社内で使い始めた。注文を受けてから建設にとりかかる請負業ではなく、ニーズを先取りして客に提案し、受注そのものを造り出すという意味であった。都心の地価高騰と円高不況のなかで、施主は土地の有効利用を真剣に考え始めていた。この土地に何を建てれば利益が上がるのか——その問いに答えるには、設計や企画といったソフトの力を営業の第一線に据える必要があった。技術面でゼネコン各社の差が縮まった成熟市場で、勝負の場はハードからソフトへ移りつつあった[7]

1987年4月1日、大成建設は営業総合本部を新設し、建築本部にあった設計本部をその傘下に組み込んだ。設計・エンジニアリングというソフト部門を営業に集約し、第一線の戦略部隊に据える改革であった。里見泰男社長が「客先に向いた組織作り」として繰り返し掲げてきた方針の具体化であり、設計本部を営業総合本部の一部門にした点は「大成が業界で初めて」と経営企画部長は語った。あわせて管理部門では二割にあたる約260人を削減し、その多くを企画関連部門へ振り向けて、間接部門を軽くした[8]

結果

受注高1兆円と、縦割り・横壁への問いかけ

一連の組織改革は、外形の上では成果に結びついた。政府の内需拡大策の浸透と民間設備投資の回復を受け、1987年度に大成建設の受注高は初めて1兆円の大台を突破した。銀座コア・六本木コアなどの都市開発に参入し、企画立案から一括で担う脱請負の路線が、バブル景気への回復軌道と重なった。もっとも、営業総合本部の新設は、従来の本部の上にさらに総本部が加わる「屋上屋」を重ねる面もはらんでおり、意思決定に時間がかかる分権の弱点をただちに解いたわけではなかった[9]

組織の作り替えを主導した佐古一は、社長から会長に退いたのちも、残る課題を縦割りと横壁という言葉で語った。土木と建築が同じ屋根の下にあっても別会社のようで人事交流がほとんど行われない縦割りの弊害、そして新しいことをしようとすると部長級の中間管理層が拒絶反応を起こす横断層の障壁——その二つを断つことが大きな課題だと述べ、部門ごとの研修の垣根を取り払う意識改革に取り組んだと明かした。同族色を早く捨てた会社が、請負という受け身の体質から抜け出すには、組織図の改革以上に、命令系統と人事評価にしみついた垢をぬぐう時間が要った[10]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1974年12月9日号「大成建設。正念場迎えた"脱同族経営"」(日経マグロウヒル社)
  • 日経ビジネス 1977年7月4日号「大成建設。軌道修正迫られる"分権主義の雄"」(日経マグロウヒル社)
  • 日経ビジネス 1987年5月11日号「大成建設 設計部隊を営業部門に」(日経マグロウヒル社)
  • 日経ビジネス 1988年5月23日号「有訓無訓 タテ割り"ヨコ壁"の弊害を断て」(佐古一 大成建設会長/日経マグロウヒル社)
  • 大成建設 有価証券報告書【沿革】