この判断を乾燥機という設備への投資として読むと、規模を見誤る。米国のウーリッツアーやガルブランセンはすでに立派な乾燥室を備えており、機械そのものを輸入で揃える選択肢もあったのではないか。にもかかわらず川上源一社長が選んだのは、奨学生を米国の大学へ送って乾燥技術の理論から学ばせ、その人間に欧州で乾燥機を設計させる経路である。獲得の対象は乾燥機ではなく、乾燥機を設計し直せる工程能力そのものだった。ピアノは下請けの部品供給も他社のノウハウも使えず、工作機械まで自社で開発するほかない製品で、自社で設計した機械のノウハウは市販機を据えた他社へは移らない。垂直統合を工作機械の層まで下ろしたことが、後発の模倣しにくい原価構造を作った。
もっとも、この投資の回収期間は長い。乾燥機の製作だけで5〜6年を費やす間、費用は本体が負担し続けた。1953年4月期に7.0%だった経常利益率は1957年4月期に3.3%へ低下し、その後も3%台で推移している。売上高が拡大しても利益率は上向かず、量産への移行は薄い収益と引き換えに進んだ。この投資が返したのは利益率ではなく、生産量を増やしても品質が崩れない工程能力だったのだろう。1958年10月の通産大臣賞とわが国初のピアノへのJIS表示認可は、その能力が社外から検査できる状態になったことを示す。利益率の低下と引き換えに得た工程能力が、1968年の月産1万台という世界最大の生産規模を支えた。