四国電力伊方町からの誘致を受けた伊方原子力発電所の立地決定
需要が年率10%で膨らむ四国で、次の電源をどこに置くか——町からの陳情という入口を四国電力はどう扱ったか
- 概要
- 1966年に津島町で始めた原子力発電所の計画が地盤の問題で中止となったのち、四国電力は1969年に伊方町から届いた誘致の申し入れを受けて調査に入り、1970年9月に建設地点を伊方町に正式決定した。1972年11月に原子炉設置許可を得て、1977年9月に1号機が営業運転を始めた。
- 背景
- 臨海工業地帯の整備で四国の電力需要は年率10%前後で膨らみ、阿南・西条・坂出の3火力を並べても次の電源が要る状態にあった。最初の候補地であった津島町は地盤の問題等で1968年1月に断念していた。
- 内容
- 過疎に悩む伊方町が地域振興策として誘致を決議し、四国電力はこれを受けて立地を進めた。県議会の建設促進決議、電源開発調整審議会の承認、漁業補償契約の調印、原子炉設置許可という順で合意と許認可を積み上げた。
- 含意
- 伊方は1994年までに3基202.2万kWとなり、原子力の比率は1990年代後半に約40%へ達した。一方で1973年8月に設置許可の取消を求める訴訟が起こされ、福島第一原発事故後は3基が停止して3期連続の赤字を招くなど、四国電力の収益は伊方の稼働状況に強く連動する構造となった。
誰の求めで、どこに置いたのか
この決断を経営判断として見るとき、目を引くのは技術の選択よりも入口の作られ方である。津島町で候補地を失った四国電力は、次の用地を自力で探す立場にあった。そこへ、過疎に悩む町の側から誘致の申し入れが届き、町議会の決議、県議会の可決、漁業補償の調印という順で合意が積み上がっていった。用地取得という最も時間を要する工程を早く進められた一方で、地盤や環境の評価は買収と並行することになり、その順序が後年の安全論議で繰り返し参照される論点を残したとみることができる。
40年を隔てて見ると、この立地は四国電力に二つの顔を見せている。3基202.2万kWと原子力約40%という電源構成は1990年代の安定した収益を支え、同じ設備の停止は2010年代に3期連続の赤字と料金値上げを招いた。一つの立地判断が長期にわたって収益の振れ幅そのものを決めてしまう点に、地域独占の電気事業者が背負う時間の長さがうかがえる。海外発電や情報通信で収益源を分散させようとするその後の動きも、この振れ幅をどう和らげるかという問いの延長線上にあるとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
火力3拠点でも追いつかない需要の伸び
1960年代後半から1970年代前半にかけて、四国では石油化学・製紙・造船などの臨海工業地帯の整備が進み、電力需要は年率10%前後で膨らんだ。四国電力は1963年7月に最初の重油火力である阿南発電所1号機を動かし、1965年11月に西条発電所1号機、1971年7月には日本で初めて複合発電方式を採った坂出発電所1号機(19.5万kW)を運転に入れた。1965年3月に35億kWhであった電力需要は、1975年3月には約2.5倍まで伸びている[1][2]。
四国電力の事業は、国の電源開発政策に歩調を合わせ、需要予測に応じた発電所の建設と設備投資を毎年度の事業計画として積み上げるかたちで進んでいた。1971年3月期の単体売上高は553億円、経常利益51億円という規模であり、この収益で数年先の需要に間に合う電源を用意し続けなければならなかった。火力3拠点を並べてもなお次の電源が要るという計算が、原子力という選択肢を具体的な検討の対象へ押し上げた[3][4]。
津島町の断念と、伊方町からの陳情
四国で最初の原子力発電所の計画は、四国電力が1966年9月に津島町を候補地として立てたものであった。地質調査などを進めたものの、1968年1月に地盤の問題等を理由として建設計画の中止が発表された。候補地を白紙に戻したこの時点で、四国電力は需要の伸びに追われながら、あらためて用地を探す立場に置かれた。原子力の適地は地盤と冷却水の条件を同時に満たす必要があり、四国の海岸線でその条件に合う場所は限られていた[5]。
用地を探す側と、産業を求める側の関心がここで重なった。佐田岬半島の先端に位置する伊方町では過疎が進んでおり、津島町の計画中止を機に、地域振興策として原子力発電所を誘致する気運が高まって関係者の陳情が始まった。1969年には町長・地主・漁業関係者らが四国電力に対して誘致の陳情を行い、同年7月の臨時町議会は誘致を満場一致で決議している。候補地を探す電力会社にとって、地元がまとまった状態で申し入れてくる例は多くはなかった[6][7]。
決断
1970年9月の立地決定と、地元同意を先に固める順序
四国電力は伊方町の申し入れを受けて1969年から立地調査に入り、1970年9月、発電所の建設地点を伊方町に正式決定した。翌10月には愛媛県議会が建設促進を賛成多数で可決し、町・県の双方の意思表示が出そろった。国の許認可を求める前に地元の合意を取りつけておくこの順序は、津島町の計画が中止に至った経験を経たあとの立地では、技術的な適否と同じ重さを持つ手続きとなっていた[8][9]。
伊方町自身は、この立地の性格を「誘致活動によりスタートし、地盤調査などのいわゆる環境調査に先立って用地買収が進められたこと」に見ている。通常であれば調査で適否を確かめてから土地の交渉に入るところを、地元の求めが先にあったために順序が入れ替わった。四国電力から見れば、用地の取得という最も時間のかかる作業を早い段階で進められた反面、地盤や環境の評価は買収と並行して行うことになり、後年の安全論議に持ち越される論点も残った[10]。
電源開発調整審議会の承認から原子炉設置許可まで
立地決定の後、四国電力は国の手続きと地元補償を並べて進めた。1972年2月の第58回電源開発調整審議会で計画が承認され、同年4月には漁業補償契約の最終調印に至った。そして1972年11月、内閣総理大臣から原子炉設置許可が下りた。1969年の陳情から数えて3年余り、津島町の計画中止からは4年10か月が経過していた。翌1973年6月には原子炉基盤の掘削工事が始まっている[11]。
建設が始まって数か月後の1973年10月、第一次石油危機が起きた。火力の燃料をほぼ重油に頼っていた四国電力は、原油価格が1年で約4倍に跳ね上がる事態に直面し、燃料費の急増で1974年3月期は減益となった。伊方の立地はこの危機より前に決まっていたが、石油に集中した電源構成の弱さが表に出たことで、建設中の原子力は需要増への備えという当初の意味に加えて、燃料を分散させる手段という意味を後から帯びた。1976年3月に安全協定を締結し、1977年9月、1号機(56.6万kW)が営業運転に入った。誘致陳情から8年3か月であった[12][13]。
結果
訴訟と並走した3基体制の完成
建設中の1973年8月27日、周辺住民が1号炉の設置許可処分の取消を求めて松山地方裁判所に提訴した。日本で原子炉設置許可処分の取消を争った初期の行政訴訟であり、審理は長期に及んだ。1978年4月25日の第一審判決は原告らの請求を棄却し、1984年12月14日の高松高等裁判所判決も第一審を支持して控訴を棄却、1992年10月29日に最高裁判所が上告を棄却して判決が確定した。訴訟が続くあいだも建設と運転は進み、四国電力は司法手続きと設備計画を並走させた[14]。
電源としての伊方は、四国電力の収益構造を作り替えた。1982年に2号機、1994年12月に3号機(89万kW)が運転を開始し、3基の総出力は202.2万kWに達した。発電量に占める原子力の比率は1990年代後半に約40%まで上がり、燃料費の低い原子力でベースロードを担い、火力でピークを調整する電源構成が固まった。1980年代後半から1990年代にかけての四国電力は、9電力のなかでも比較的安定した収益基盤を保つ会社の一つとなった[15][16]。
福島事故後に反転した、伊方への依存
2011年3月の福島第一原発事故と、その後の新規制基準の制定・審査の長期化により、伊方1〜3号機は2011年から2015年にかけて順次停止した。発電量の約40%を担っていた電源が動かないなか、火力の稼働率を上げて需給を保つ運用が続き、燃料費が急増した。2013年3月期は経常損失570億円・純損失429億円を計上し、2012年3月期から2014年3月期まで3期連続の赤字となった。2013年2月、千葉昭社長は家庭向け規制料金の平均10.94%の値上げを経済産業省に申請し、年平均281億円のコスト削減を3年間で実施する経営合理化計画をあわせて示した[17][18]。
設備の側でも縮小が続いた。1号機は2016年5月、2号機は2018年5月に運転を終了して廃炉が決まり、伊方発電所は3号機1基・89万kWとなった。3号機は2016年8月に再稼働したものの、2017年12月と2020年1月に広島高等裁判所の運転差止めの決定を受けて停止と再開を繰り返した。原子力の比率は震災前の約40%から10%台へ下がり、1970年の立地決定が四国電力にもたらした収益の安定は、40年余りを経て、同じ設備への依存という負担へ反転した[19][20]。