松井証券 の歴史

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創業 1918年
創業者 松井房吉
創業地 東京都中央区
創業
1918年5月、六人の相場師が米の仲買商・松井房吉商店を興し、同じ月に東京株式取引所の一般会員となって株式の売買にも加わった。1931年3月に株式会社松井商店を設立して法人組織へ改め、1947年12月に松井證券へ商号を変更、1948年8月に証券業の登録を受け、翌1949年4月には再開された東京証券取引所の正会員に加わった。ただし規模は小さい。1995年3月期の営業収益は21億円、従業員は128人で、東証での委託売買金額のシェアは0.17%にとどまった。国内証券222社のうち経常黒字を確保したのが20社という当時にあって松井証券はその1社であり、顧客の7割が信用取引を使う構成がこの収益を支えていた。
決断
手数料の自由化を待たず、自由化後の値段を先に付けた。1986年ごろ、人件費を抑えるために歩合給を圧縮したところ、反発した営業幹部5人が退社して顧客も離れ、営業部隊が壊滅した。売り込む人間を失った松井証券は新聞広告と電話で顧客を集める形へ移り、1996年4月に株式の保護預り手数料を無料にした。日本証券業協会は当初これを認めず、3年間100円へ下げる形で事実上の無料化としたうえで、他の手数料へ波及させないことを条件に同年3月下旬の容認を取り付けた。1997年2月には店頭登録株式の委託手数料を半額にし、完全自由化にあたる1999年10月には定額制のボックスレートを導入して、当初案の7割引を顧客の指摘で9割引へ改めている。
現況
委託手数料ではなく、顧客への貸付と品貸料が営業収益を作っている。2013年1月に始めたデイトレード限定の一日信用取引は手数料・金利・貸株料を原則無料とし、その日のうちに決済する取引へ対象を絞った。手数料を取らない代わりに売買の回転が上がれば、貸付から得る金融収支と、空売りに課す品貸料で収益が立つ設計である。2014年3月期には売買代金が3.1倍の39.5兆円に達し、営業収益は399億円と1.9倍に伸びた。2026年3月期の営業収益は527億円、経常利益238億円で、2006年3月期の571億円に次ぐ水準まで回復している。従業員227人で営業収益527億円を計上しており、一人あたり2.3億円という水準が対面証券との差を作っている。
競合
価格で先行した会社が、価格が無料になった時点で先行を失った。1999年の自由化で9割引を打ち出した松井証券は、2004年に個人の株式売買取次金額で野村證券を上回り、イー・トレード証券に次ぐ2位に立った。だが営業収益は2006年3月期の571億円を最高に減り、2012年3月期には177億円まで縮んでいる。2023年にSBI証券が国内株式の売買手数料を恒久的に無料化すると、価格そのものが差別化要因ではなくなった。松井証券は2016年11月に投資信託、2022年2月に米国株式、2023年10月に銀行サービスを加えたが、いずれも他社に10年前後遅れた追随である。現在の差は手数料率ではなく、取扱商品の幅と口座数で開いている。
松井証券:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

創業ストーリー 米の仲買から証券会社へ、兜町の地場証券として(1918〜1990) (1918年〜)

六人の相場師が興した米の仲買商から

松井証券の起源は、1918年5月に六人の相場師が興した米の仲買商、松井房吉商店[1]にさかのぼる。同じ月に東京株式取引所の一般会員となり、株式の売買にも加わった。1931年3月に株式会社松井商店を設立[2]して法人組織に改め、戦後の1947年12月には松井證券へ商号を変更した[3]。1948年8月に証券業の登録を受け[4]、翌1949年4月には再開された東京証券取引所の正会員に加わった。

  • 松井証券 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1918年5月に松井房吉商店を創業し、同月に東京株式取引所の一般会員となった
    • [2]1931年3月に株式会社松井商店を設立
    • [3]1947年12月に松井證券株式会社へ商号変更
    • [4]1948年8月に証券業の登録、1949年4月に東京証券取引所(再開)の正会員に加入

もっとも、規模は小さかった[5]。1995年3月期の営業収益は21億円、従業員は128人、資本金は6億1000万円[6]で、東証での委託売買金額はバブル期の2.5倍にあたる約1500億円で、シェアは0.17%だった[7]。ただし国内証券222社のうち経常黒字を確保したのが20社だけ[8]という当時にあって、松井証券はその一社であり、当期利益も黒字を維持していた。顧客の7割が信用取引を使う構成[9]が、この収益を支えていた。

  • 日経ビジネス 1995年6月12日号
    • [5]1995年3月期の営業収益21億円・従業員128人で、東証正会員のなかでは小規模だった
    • [6]1995年3月期の営業収益21億円・従業員128人・資本金6億1000万円
    • [7]1995年3月期の東証での委託売買金額は約1500億円(バブル期の2.5倍)、シェア0.17%
    • [8]国内証券222社中、経常黒字は20社のみで松井証券はその一社だった
    • [9]1995年時点で顧客の7割が信用取引を利用していた
  • 松井証券 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1918年5月に松井房吉商店を創業し、同月に東京株式取引所の一般会員となった
    • [2]1931年3月に株式会社松井商店を設立
    • [3]1947年12月に松井證券株式会社へ商号変更
    • [4]1948年8月に証券業の登録、1949年4月に東京証券取引所(再開)の正会員に加入
  • 日経ビジネス 1995年6月12日号
    • [5]1995年3月期の営業収益21億円・従業員128人で、東証正会員のなかでは小規模だった
    • [6]1995年3月期の営業収益21億円・従業員128人・資本金6億1000万円
    • [7]1995年3月期の東証での委託売買金額は約1500億円(バブル期の2.5倍)、シェア0.17%
    • [8]国内証券222社中、経常黒字は20社のみで松井証券はその一社だった
    • [9]1995年時点で顧客の7割が信用取引を利用していた

営業部隊の崩壊と、婿養子として入った異業種の人

1986年ごろ、松井証券は人件費を抑えるために給与体系を変え[10]、営業マンの歩合給を大幅に圧縮した[11]。これに反発した営業部長・次長・課長といったエース級の営業幹部五人が退社し、重要な顧客も一緒に去った[12]。営業部隊は壊滅状態となり、残された手段として始めたのが新聞広告による集客だった[13]。売り込む人間がいないので、広告を見た顧客からの電話を受けるほかなかった[14]。この方法で集めた新規顧客は1996年には1日に50件を数える日もあり、口座数は3年前の3倍を超えて1万を上回った[15]。のちに外交営業の否定として語られる方針は、理念から出発したのではなく、営業部隊を失った会社の窮余の策だった。

  • 日経ビジネス 1995年6月12日号
    • [10]給与体系の変更に伴う営業幹部の離脱が、営業体制の組み替えの発端になった
    • [11]1986年ごろ人件費圧縮のため給与体系を変更し、営業マンの歩合給を大幅に圧縮した
    • [12]反発したエース級の営業幹部5人が退社し、重要顧客も離脱した
    • [13]営業部隊が壊滅状態になり、苦肉の策として広告営業を始めた
    • [14]営業部隊を失ったため、新聞広告を見た顧客からの電話を受ける形に切り替えた
  • 日経ビジネス 1996年8月5日号
    • [15]広告営業への転換後、1996年には1日50件の新規顧客を得る日もあり、口座数は3年前の3倍を超える1万口座に達した

タンカーや定期船を担当し、30歳で労働組合の書記長を務めた[16]。当初は家業を継ぐ気がなく、結婚の条件として継がないことを挙げていたが、義父がすでに70歳に達し、このままでは会社が他人の手に渡ると判断して決断した[17]。1988年に取締役、1990年に常務取締役営業本部長となり[18]、社内改革の実権を委ねられた。

  • 日経ビジネス 1996年8月5日号
    • [16]日本郵船ではタンカー・定期船部門を担当し、30歳で労働組合書記長を務めた
  • 日経ビジネス 1999年9月13日号
    • [17]当初は家業を継がないことを結婚の条件としていたが、義父が70歳に達し会社が人手に渡ると判断して継ぐことを決めた
  • 松井証券 有価証券報告書【役員の状況】
    • [18]1988年に取締役、1990年に常務取締役営業本部長に就任

松井道夫氏には、当時の証券界が不合理に見えた[19]。入社当時の印象を、のちに『こんなにぼろい商売があるのか』[引用元](日経ビジネス 1996/8/5)[20]と述べた。保護行政のもとにある証券業を、業と呼べるものではないとも突き放した[21]。免許制に守られ、顧客のリスクで手数料を得る構造そのものへの反発[22]が、以後の施策の動機となった。

  • 日経ビジネス 1996年8月5日号
    • [19]松井道夫氏は証券界の商習慣に強い違和感を表明していた
    • [20]松井証券社長の松井道夫氏による発言(1986年に証券界へ移った際の印象)
    • [21]松井証券社長の松井道夫氏による発言(保護行政下の証券業界について)
    • [22]免許制のもとで顧客のリスクにより収益を得る構造への反発が施策の動機になった
  • 日経ビジネス 1995年6月12日号
    • [10]給与体系の変更に伴う営業幹部の離脱が、営業体制の組み替えの発端になった
    • [11]1986年ごろ人件費圧縮のため給与体系を変更し、営業マンの歩合給を大幅に圧縮した
    • [12]反発したエース級の営業幹部5人が退社し、重要顧客も離脱した
    • [13]営業部隊が壊滅状態になり、苦肉の策として広告営業を始めた
    • [14]営業部隊を失ったため、新聞広告を見た顧客からの電話を受ける形に切り替えた
  • 日経ビジネス 1996年8月5日号
    • [15]広告営業への転換後、1996年には1日50件の新規顧客を得る日もあり、口座数は3年前の3倍を超える1万口座に達した
    • [16]日本郵船ではタンカー・定期船部門を担当し、30歳で労働組合書記長を務めた
    • [19]松井道夫氏は証券界の商習慣に強い違和感を表明していた
    • [20]松井証券社長の松井道夫氏による発言(1986年に証券界へ移った際の印象)
    • [21]松井証券社長の松井道夫氏による発言(保護行政下の証券業界について)
    • [22]免許制のもとで顧客のリスクにより収益を得る構造への反発が施策の動機になった
  • 日経ビジネス 1999年9月13日号
    • [17]当初は家業を継がないことを結婚の条件としていたが、義父が70歳に達し会社が人手に渡ると判断して継ぐことを決めた
  • 松井証券 有価証券報告書【役員の状況】
    • [18]1988年に取締役、1990年に常務取締役営業本部長に就任

営業マンと支店を減らし、電話に切り替える

1991年には銘柄を薦めない方針を新聞広告で打ち出した[23]。同じ年、割引金融債を流通市場の利回りで個人に売り出して同業者から強い批判を受けた[24]『個人にも証券市場に参加する権利はある』[引用元](日経ビジネス 1996/8/5)[25]というのがその理由だった。営業体制の組み替えは業績に響き、1991年度には経常赤字に陥った。ただし赤字はこの一期にとどまった[26]

  • 日経ビジネス 1996年8月5日号
    • [23]1991年に「株を薦めない」戦略として新聞広告の活用を打ち出した
    • [24]1991年に割引金融債を流通市場の利回りで個人に売り出し、同業者から強い批判を受けた
    • [25]松井証券常務(当時)の松井道夫氏による発言(割引金融債を流通市場レートで個人に売った理由)
    • [26]経常赤字に陥ったのは1991年度だけだった

顧客の側の条件も変え[27]た。大手が最低1000万円としていた信用取引の保証金を200万円に下げ[28]、有価証券の保護預り手数料も業界横並びの年3000円から1000円へ引き下げた[29]。同業他社からは『そんなことをしたら証券業界から村八分になるぞ』[引用元][30](日経ビジネス 1995/6/12)と脅された。1995年5月には本店営業部に多い日で140件の問い合わせが入り、同年4月に入社した17人のうち10人を本店営業部へ配し、全社員の3分の1にあたる40人体制で電話を受けた[31]松井道夫氏が社長に就いたのは、その翌月にあたる1995年6月である[32]

  • 日経ビジネス 1995年6月12日号
    • [27]信用取引の保証金と保護預り手数料を引き下げ、顧客側の取引条件を変えた
    • [28]大手が最低1000万円とした信用取引の保証金を200万円に引き下げた
    • [29]有価証券の保護預り手数料を業界横並びの年3000円から3分の1の1000円へ引き下げた
    • [30]同業他社による発言(松井証券の手数料引き下げに対する反発)
    • [31]1995年5月に本店営業部へ多い日で140件の問い合わせがあり、40人体制(全社員の3分の1)で対応した
  • 松井証券 有価証券報告書【役員の状況】
    • [32]松井道夫氏は1995年6月に代表取締役社長に就任した
  • 日経ビジネス 1996年8月5日号
    • [23]1991年に「株を薦めない」戦略として新聞広告の活用を打ち出した
    • [24]1991年に割引金融債を流通市場の利回りで個人に売り出し、同業者から強い批判を受けた
    • [25]松井証券常務(当時)の松井道夫氏による発言(割引金融債を流通市場レートで個人に売った理由)
    • [26]経常赤字に陥ったのは1991年度だけだった
  • 日経ビジネス 1995年6月12日号
    • [27]信用取引の保証金と保護預り手数料を引き下げ、顧客側の取引条件を変えた
    • [28]大手が最低1000万円とした信用取引の保証金を200万円に引き下げた
    • [29]有価証券の保護預り手数料を業界横並びの年3000円から3分の1の1000円へ引き下げた
    • [30]同業他社による発言(松井証券の手数料引き下げに対する反発)
    • [31]1995年5月に本店営業部へ多い日で140件の問い合わせがあり、40人体制(全社員の3分の1)で対応した
  • 松井証券 有価証券報告書【役員の状況】
    • [32]松井道夫氏は1995年6月に代表取締役社長に就任した

保護預かり料の無料化からボックスレートへ

手数料をめぐる攻防は、業界団体との交渉から始まった[33]。1996年1月、松井証券は日本証券業協会に保護預り手数料を無料にしたいと打診したが、徴収しないことは許可できないという回答を受けた[34]。そこで同年2月に『3年間100円』へ引き下げて事実上の無料化とし[35]、広告には今後も引き下げの努力を続けると明記した。協会が他の手数料に波及させないことを条件に無料化を容認したのは同年3月下旬[36]で、実施は同年4月だった[37]。翌1997年2月には店頭登録株式の委託手数料を半額にした[38]。株式委託手数料の完全自由化は1999年10月[39]であり、いずれもそれに先んじた。

  • 日経ビジネス 1996年8月5日号
    • [33]保護預り手数料の無料化は日本証券業協会への打診から始まった
    • [34]1996年1月に日本証券業協会へ保護預り手数料の無料化を打診し、「徴収しないことは許可できない」と回答された
    • [35]1996年2月に保護預り手数料を「3年間100円」へ引き下げ、事実上の無料化とした
    • [36]1996年3月下旬に協会が「他の手数料に波及させない」条件つきで保護預かり手数料ゼロを容認した
  • 松井証券 有価証券報告書【沿革】
    • [37]有報【沿革】は1996年4月に株式保護預かり料を無料化したと記載する
    • [38]1997年2月に店頭登録株式の委託手数料を半額にした
    • [39]株式委託手数料の完全自由化は1999年10月で、保護預かり料無料化・店頭株半額化はいずれもそれ以前だった

1998年5月には国内初の本格的なインターネット取引『ネットストック』を始め、同時にインターネットによる信用取引も開始した[40]。翌1999年6月には株式売買の受付をネットへ一本化することを決めた[41]。受付業務を失った顧客サポート部門は、顧客の声を集めて新商品を開発する部署へ役割を変えた[42]

  • 松井証券 有価証券報告書【沿革】
    • [40]1998年5月に国内初の本格的インターネット取引「ネットストック」と、国内初のインターネット信用取引を開始
  • 日経ビジネス 2003年10月6日号
    • [41]1999年6月に株式売買の受付業務をネットへ一本化することを決めた
    • [42]受付業務を失った顧客サポート部は、顧客の声を集めて新商品を開発する部署へ転換した

1999年10月1日、株式委託手数料の完全自由化にあわせて定額制の『ボックスレート』を導入した[43]。割引率は当初7割を想定していたが、過大評価だったという顧客からの指摘を受けて9割に改めた[44]。ネット口座は1999年9月末の1万4300から10月末に1万8800へ増え、同年11月にはインターネットだけで単月1979億円の売買を仲介した[45]。当時の役職員は140人[46]である。

  • 松井証券 有価証券報告書【沿革】
    • [43]1999年10月1日に株式委託手数料の完全自由化にあわせ定額制「ボックスレート」を導入した
  • 日経ビジネス 1999年9月13日号
    • [44]割引率は当初7割の想定だったが、顧客からの指摘を受けて9割に改めた
    • [46]1999年時点の役職員数は140人だった
  • 日経ビジネス 1999年12月20日号
    • [45]ネット口座は1999年9月末1万4300から10月末1万8800へ増え、11月には単月1979億円の売買を仲介した
  • 日経ビジネス 1996年8月5日号
    • [33]保護預り手数料の無料化は日本証券業協会への打診から始まった
    • [34]1996年1月に日本証券業協会へ保護預り手数料の無料化を打診し、「徴収しないことは許可できない」と回答された
    • [35]1996年2月に保護預り手数料を「3年間100円」へ引き下げ、事実上の無料化とした
    • [36]1996年3月下旬に協会が「他の手数料に波及させない」条件つきで保護預かり手数料ゼロを容認した
  • 松井証券 有価証券報告書【沿革】
    • [37]有報【沿革】は1996年4月に株式保護預かり料を無料化したと記載する
    • [38]1997年2月に店頭登録株式の委託手数料を半額にした
    • [39]株式委託手数料の完全自由化は1999年10月で、保護預かり料無料化・店頭株半額化はいずれもそれ以前だった
    • [40]1998年5月に国内初の本格的インターネット取引「ネットストック」と、国内初のインターネット信用取引を開始
    • [43]1999年10月1日に株式委託手数料の完全自由化にあわせ定額制「ボックスレート」を導入した
  • 日経ビジネス 2003年10月6日号
    • [41]1999年6月に株式売買の受付業務をネットへ一本化することを決めた
    • [42]受付業務を失った顧客サポート部は、顧客の声を集めて新商品を開発する部署へ転換した
  • 日経ビジネス 1999年9月13日号
    • [44]割引率は当初7割の想定だったが、顧客からの指摘を受けて9割に改めた
    • [46]1999年時点の役職員数は140人だった
  • 日経ビジネス 1999年12月20日号
    • [45]ネット口座は1999年9月末1万4300から10月末1万8800へ増え、11月には単月1979億円の売買を仲介した

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松井証券の沿革1918〜2023年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1918〜1990年米の仲買から証券会社へ、兜町の地場証券として(1918〜1990)松井房吉商店を創業★★★
東京株式取引所の一般会員に加入
松井商店を設立★★
松井證券に商号変更
証券業の登録
東京証券取引所の正会員に加入★★
1990〜1999年外交営業の否定から手数料自由化の先取りへ(1990〜1999)松井道夫松井道夫氏が社長に就任★★
松井道夫外交営業の否定と広告・電話営業への転換、株式保護預り手数料の無料化

1990年代前半、松井証券が対面の外交営業を捨てて新聞広告と電話による集客へ移り、1996年には業界がほぼ横並びで年3000円を徴収していた有価証券の保護預り手数料を事実上無料にした判断。日本証券業協会の拒否を、3年間100円という値づけでかわした。

詳細を読む
★★★
松井道夫店頭登録株式の委託手数料を半額化★★
松井道夫国内初の本格的インターネット取引「ネットストック」を開始★★★
松井道夫国内初のインターネット信用取引を開始★★
松井道夫日経平均株価指数オプション取引の買建を取扱開始
松井道夫定額制手数料「ボックスレート」の導入と、当初案7割引から9割引への変更

1999年10月1日の株式委託手数料の完全自由化に合わせ、松井証券が定額制の手数料体系『ボックスレート』を導入した経営判断。売買金額300万円まで3回まで3000円という水準は、自由化前の固定手数料のほぼ10分の1にあたる。松井道夫社長の主導による。

詳細を読む
★★★
2000〜2012年ネット証券の先頭に立ち、そこから退いた十年(2000〜2012)松井道夫松井証券に商号変更
松井道夫外国為替証拠金取引(FX)サービスを開始★★
松井道夫東京証券取引所市場第一部に上場
松井道夫第1回ポーター賞を受賞
松井道夫無期限信用取引を開始★★
松井道夫本社を東京都千代田区麹町に移転
松井道夫取引ツール「ネットストック・ハイスピード」を導入
松井道夫スマートフォン向け投資情報アプリ「株touch」を導入
2013〜2026年デイトレードへの特化と、創業家からの承継(2013〜2026)松井道夫デイトレード限定「一日信用取引」の導入と、委託手数料に依存しない収益構造への移行

2013年1月、松井証券が信用取引の保証金に関する府令改正に合わせ、返済期限を当日限りとするデイトレード限定の『一日信用取引』を導入した経営判断。手数料と金利・貸株料を原則無料にした業界初のサービスで、松井道夫社長のもとで7期続いた減収を反転させた。

詳細を読む
★★★
松井道夫一日信用取引の「プレミアム空売りサービス」を開始
松井道夫デイトレード限定の「一日先物取引」を導入
松井道夫投資信託の取扱いとポートフォリオ提案「投信工房」を開始★★
松井道夫投資信託の販売手数料を完全無料化★★
松井道夫「投信毎月現金還元サービス」を開始
和里田聰和里田聰氏が社長に就任★★★
和里田聰「短期信用取引」とクロス注文のオンライン受付を開始
和里田聰投資情報メディア「マネーサテライト」を開設
和里田聰スマートフォンアプリ「松井証券 株アプリ」を導入
和里田聰監査等委員会設置会社へ移行
和里田聰米国株式サービスを開始★★
和里田聰投資情報ツール「マーケットラボ」を導入
和里田聰コーポレートブランドとロゴを刷新
和里田聰FX自動売買機能の提供を開始
和里田聰銀行サービス「MATSUI Bank」を開始★★
和里田聰米国株式の信用取引を提供開始
出典・参考
  • 松井証券 有価証券報告書【沿革】
  • 松井証券 有価証券報告書【役員の状況】
  • 日経ビジネス 1995年6月12日号
  • 日経ビジネス 1996年8月5日号
  • 日経ビジネス 1999年9月13日号
  • 日経ビジネス 1999年12月20日号
  • 日経ビジネス 2003年10月6日号

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