1918年に遠山元一氏が東京日本橋で創業した川島屋商店が起源。
1944年の合併で日興證券となり、1999年にシティグループと日興ソロモン・スミス・バーニー証券を共同設立した。大手証券の一角を占めたが、2008年にシティグループの完全子会社となり上場を廃止した。
遠山元一氏は1918年7月7日、東京市日本橋区坂本町で現物商の川島屋商店を個人で開業した。屋号は埼玉県比企郡にある郷里の川島郷にちなみ、父の従弟が営む遠山芳三商店と名が重なるのを避けた。欧州大戦が終わって株式市場は閑散としており、遠山元一氏自身も店開きには遅い時期だと見ていた。それでも親類の遠山芳三氏に相談すると、規模は小さくても自分の店を持つよう励まされ、現物店の開業を決めた。用意した3万円は店の改装、電話、開店披露でほぼ使い切った。才取人として電話で売買していた大阪の現物問屋の番頭格と取引をつなぎ、東京と大阪の値差を突く鞘取に近い商いで業績を上げた。顧客を持たない才取人出身の店主にとって、同業者を相手にする鞘取は小さな資本で始められる商いだったとみられる。
川島屋商店の売買は開業から4〜5ヵ月で1日数千株に増え、多い日には3万株に達した。1919年3月ころ、遠山元一氏は弱気の現物屋である栗原商店と南部商店から、市場より1〜2円安い新東株を場外で仕入れ、場内や大阪の取引先へ売っていた。5月ころに帳簿を整理すると、2店からの買い分は受渡しが済まないまま2万株を越えていた。相場は約定値より30〜40円上がり、大阪の取引先は受渡しの履行を求めてきた。遠山元一氏は場外の買い分を市場で買い直して大阪への受渡しを終え、現物屋には時価より5円安く売り渡して売買を相殺し、差金を回収した。その後も相場は上昇を続け、処理を遅らせていれば危機を越えられなかったと社史は記している。損失を負ってでも大阪への受渡しを先に済ませたことが、開業1年の店の信用を保ったと思われる。
遠山元一氏は1920年4月、個人の川島屋商店を株式会社に改め、資本金を300万円とした。大戦後の好況期には公社債専業者の設立や仲買人の組織変更が相次いでいた。遠山元一氏は開業時から、株式会社による近代的な証券業を目指していた。遠山元一氏は法人の方が便利と見て1919年末から改組を計画し、2月から売買と手持ち株を減らしていたため、3月の株価暴落の打撃を避けられた。2月28日の発起人会で6万株のうち4万5,700株を発起人が引き受け、1万4,300株を縁故募集とした。応募者147名に失権者は出ず、4月15日に開業して遠山元一氏が社長に就任した。12月には定期仲買人の権利を親店の津田信太郎氏から5万円で譲り受けて免許を得て、現物・定期・信託の3部門をそろえた。
1920年6月16日、日本興業銀行の別働機関として旧日興證券株式会社が創立された。同年3月の戦後恐慌で興銀は大規模な救済融資に出ており、その資金を預金部などの政府資金から市場資金へ移そうとしていた。新会社の役割は、興業債券の公募消化を担う販売機関にあった。構想の起点は、副総裁の小野英二郎氏が1916年の渡米でナショナル・シティ銀行が証券業務を子会社に分けて成果を上げているのを見たことにある。資本金1,000万円のうち興銀が半額の10万株を払い込み、元興銀理事の岩井重太郎氏が初代社長に就任した。7月1日、興銀本店の一室で8人の陣容で営業を始めた。この旧日興證券が、のちに川島屋證券と合併して日興證券となる。銀行業務と証券業務を分ける米国の形を移した点で、旧日興證券は興銀の債券消化を補う役割を担っていたと考えられる。
1927年の金融恐慌から1930年の金解禁にかけて、川島屋商店は創業以来の苦境に置かれた。社員は1927年5月期の109名から1930年5月期末で86名まで減り、1927年5月期から1931年5月期までの9期の損益を通算すると25万1,038円の欠損を計上した。株式の売買が沈むなか、遠山元一氏は1928年の起債の拡大に合わせ、東京現物団の4社が公社債引受を切り離した共同証券株式会社の設立に参加した。共同証券は8月25日に資本金300万円で設立され、川島屋商店は他の3社と同じ1万3,800株を引き受けた。証券業者は社債を銀行から下引受して売る機能が主であり、川島屋商店は下引受業務の拡充をねらった。1932年3月には東京株式取引所の一般取引員免許を受け、遠山元一氏の個人名義から法人取引員へ切り替えた。
川島屋商店は1938年10月8日、有価証券引受業法の免許を第1号で受けた。それまで地方債は共同証券を介し、株式は東京現物団を通じて引き受けており、業務が広がるにつれてその枠が制約になっていた。1936年11月、遠山元一氏と取締役の高橋義四郎氏は共同証券の役員を辞任した。12月には共同証券と東京現物団から離れ、単独で引受募集を営む体制に移った。以後、1937年4月の安田銀行・安田信託を皮切りに、銀行や信託会社の下引受団へ単独で加盟した。川島屋商店は1938年7月1日、有価証券引受業法の施行日に大蔵大臣へ免許を申請した。共同証券を離れて単独の引受を広げてきた川島屋商店にとって、第1号の免許は独立した引受業者の地位を公に裏づけたと推察される。
川島屋商店は1939年3月1日、引受を担う別会社として川島屋證券株式会社を設立した。日本興業銀行が組む下引受団には単独で加わる見通しが立たず、1938年12月28日の取締役会で、引受業法に依る新会社を設けて加盟させる方針を決めた。決議には、新会社が免許を得たら川島屋商店の引受業務を廃業する条件が付いていた。資本金500万円の新会社は、1939年2月28日に大蔵大臣から有価証券引受業、商工大臣から有価証券業の免許を取得し、3月3日に営業を始めた。川島屋商店は3月23日の臨時株主総会で定款の業務から公債と社債の引受を外し、その業務を川島屋證券へ譲渡した。遠山元一氏は後年、川島屋商店から川島屋證券への移行を振り返っている。引受と売買を2社に分けたのは、興銀の下引受団に入るための資格を整える手段だったのだろう。
川島屋證券は1943年6月28日に川島屋商店との合併契約を結び、9月30日現在で資産・負債と取引員の業務を引き継いだ。6月に戦力増強企業整備要綱が発表され、7月1日には日本証券取引所が発足して企業整備資金措置法も施行された。川島屋商店の株主には、川島屋證券の新株を対等の比率で割り当てた。川島屋證券は9月13日に大蔵大臣の認可を得て、10月1日に資本金1,200万円で引受業と有価証券業、取引員を兼ねる会社として再出発した。旧日興證券も10月5日に共同証券の吸収合併契約に調印し、理由として日本証券取引所の発足や社債募集市場の変質と、大蔵省の斡旋を挙げた。合併は12月20日に実行され、旧日興證券は共同証券の投資信託業務を承継した。遠山元一氏は、川島屋證券がその後旧日興證券と合併して日興證券となったと回想している。
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事実根拠:出所(日興コーディアルグループ)