三洋証券 の歴史

創業

1906年

創業者

土屋鋭太郎

創業地

東京市日本橋区兜町

直近売上高(1984/9)

585億円

長期業績と転換点(1975/9〜1997/9)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1906年に兜町で開かれた株式現物商は、三度も社名を替えて三洋証券になったのか
A 合併を重ねるたびに、どちらの家の名でもない社名が必要になったためである。1906年に土屋鋭太郎氏が東京・兜町で開いた土屋鋭太郎商店は、先代の死去にともない陽三郎氏が跡を継ぎ、1943年9月に資本金100万円の土屋證券として株式会社に改組した。翌1944年3月には戦時の企業統合で角〆証券を併合して日東証券となる。1971年10月には大阪・北浜の江口證券と大一呉証券を吸収して江口日東証券に改め、1973年1月に三洋証券へ商号を変更した。会社を最後まで率いたのは土屋家の人間だった。
Q なぜ1988年に準大手の証券会社は、資本金に匹敵する三百億円を一つの取引フロアに投じたのか
A 証券業務が人手から機械へ移ると読み、その設備を四大証券より先に持つことで規模の差を埋めようとしたためである。1985年12月に44歳で社長に就いた土屋陽一氏は、野村證券で17年を過ごして家業に戻った三代目にあたる。塩浜のトレーディングセンターは約6400平方メートルのワンフロアに端末3000台を並べ、ひとつの取引フロアとしては世界最大とされた。設備の費用は相場が悪くても毎期出ていくのに対し、それを賄う株式委託手数料は相場に連動する。三洋証券は1997年3月期まで六期続けて赤字を計上した
Q なぜ1997年の負債3736億円の破綻が、金額の規模を超えて金融危機の引き金になったのか
A 短期の資金を融通しあう銀行間市場の前提を壊したためである。11月3日に会社更生法の適用を申請した翌4日、資産保全命令によって無担保コールとレポの資金を返せなくなり、コール市場で戦後初めての債務不履行が生じた。取引相手が決済を履行できないリスクへの警戒が強まり、11月17日には北海道拓殖銀行が短期金融市場での調達難から業務の継続を断念した。一方で一般顧客の資産は保全処分の例外とされ、寄託証券補償基金が当初約361億円を支援している。守られたのは投資家であり、守られなかったのは無担保で資金を出した金融機関だった。

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1906年〜 兜町の株式現物商が戦時統合で社名を替え、投機を投資に変えると説くまで

  1. 1906年土屋鋭太郎が東京・兜町で株式現物商「土屋鋭太郎商店」を開業
  2. 1943年先代の死去にともない土屋陽三郎が事業を継ぎ、資本金100万円の土屋證券として株式会社に改組
  3. 1944年戦時の企業統合により角〆証券を併合し、社名を日東証券に改める
  4. 1949年東京証券取引所の発足とともに正会員となる
  5. 1949年宇都宮・結城に出張所を、新橋・新宿に支店を設ける
  6. 1951年大阪支店を開設し大阪証券取引所の会員となる
  7. 1954年野村證券との提携を強化する

三洋証券の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

創業者の名を商号から外すまでの三十八年

東京・兜町で土屋鋭太郎氏が株式現物商「土屋鋭太郎商店」を開いたのは1906年である。東京株式取引所の一般取引員として有価証券の売買を業とし、店の名は創業者その人の名前だった。創業年については日本大百科全書が1910年とするのに対し、1955年に刊行された『会社銀行八十年史』の日東証券の項は「明治三十九年」と書いている。後者は会社自身が提出した記載に基づく同時代の記録であり、本稿は1906年を採る。株式の現物商は、売買の相手方から信用を得ることそのものが元手になる商いであり、店に創業者個人の名を掲げることに意味があった。 [1][2]

    • [1]当社は明治三十九年、先代土屋鋭太郎氏が株式現物商を開業したのに始まる。その後東京株式取引所一般取引員となつて有価証券業を営んできた
  • 日本大百科全書「三洋証券」
    • [2]1910年土屋鋭太郎商店を創業。1943年土屋証券を設立

先代の死去にともない事業を継いだのは土屋陽三郎氏だった。1943年9月6日、資本金100万円の土屋證券として株式会社に改組し、陽三郎氏が社長に就いている。翌1944年3月、戦時の企業統合により角〆証券を併合し、社名を日東証券に改めた。創業から三十八年で商号から創業家の名が消えたことになるが、これは合併の副産物であって理念の表明ではない。統制のもとで証券業者の集約が進み、併合した相手と自分のどちらの名も残さない中立の社名が必要になった、というだけの話である。もっとも、この一度目の改名によって、社名を替えながら会社の規模を広げる道筋が開かれた。以後この会社は二度、合併のたびに名を替える。 [3][4]

    • [3]先代逝去に伴ない土屋現社長があとを継いで昭和十八年九月株式組織に改組し、資本金百万円の土屋証券として再発足した。十九年三月企業統合により角〆証券を併合し、社名を日東証券と改めた
    • [4]1943年9月6日設立、社長 土屋陽三郎、本社は東京都中央区日本橋兜町
    • [1]当社は明治三十九年、先代土屋鋭太郎氏が株式現物商を開業したのに始まる。その後東京株式取引所一般取引員となつて有価証券業を営んできた
    • [3]先代逝去に伴ない土屋現社長があとを継いで昭和十八年九月株式組織に改組し、資本金百万円の土屋証券として再発足した。十九年三月企業統合により角〆証券を併合し、社名を日東証券と改めた
    • [4]1943年9月6日設立、社長 土屋陽三郎、本社は東京都中央区日本橋兜町
  • 日本大百科全書「三洋証券」
    • [2]1910年土屋鋭太郎商店を創業。1943年土屋証券を設立

投機の街のただ中で投資を説いた二十代

陽三郎氏がどういう証券マンだったかは、他社の社長の回想に残っている。のちに野村證券社長となる瀬川美能留氏は1939年10月に上京して株式課に配属され、読売新聞で証券界を担当していた同級生から一人の若い男を紹介された。瀬川氏はその男について「なかなかしっかりした識見をもっている」と書き、こう続けている。「土屋氏は、そのころ二十歳代半ばの理想に燃えた証券マンで、投機色の強い今の株式市場を産業資金調達の場である投資市場にしなければならない、そのためにはたくさんの人に株式をもってもらわなければならない、と説き、いずれわれわれの時代に必ずそうしようと目を輝かせていた」。 [5][6]

    • [5]これが若き日の土屋陽三郎氏(日東証券社長)であった。土屋氏は、そのころ二十歳代半ばの理想に燃えた証券マンで、投機色の強い今の株式市場を産業資金調達の場である投資市場にしなければならない、そのためにはたくさんの人に株式をもってもらわなければならない、と説き、いずれわれわれの時代に必ずそうしようと目を輝かせていたものだった
    • [6]瀬川美能留は昭和十四年十月に母と長男を伴って上京し、株式課に配属された。土屋陽三郎を紹介したのは大阪高商の同級生で読売新聞経済部の記者・松井常弥だった

株式の売買を投機から投資へ移すという主張は、当時の兜町では珍しい部類に入る。1939年といえば株価低落防止のために日本証券投資が設けられた年であり、市場は戦時統制のなかにあった。その環境で「たくさんの人に株式をもってもらう」という証券の大衆化を語った点に、この経営者の性格がよく出ている。ただし、理想を語ったことと、それを支える収益の仕組みを作れたかどうかは別の問題である。三洋証券が五十八年後に破綻したとき、経営を担っていたのは陽三郎氏の長男であり、彼もまた父とよく似た性格の理想を、まったく違う手段で追っていた。 [7]

    • [5]これが若き日の土屋陽三郎氏(日東証券社長)であった。土屋氏は、そのころ二十歳代半ばの理想に燃えた証券マンで、投機色の強い今の株式市場を産業資金調達の場である投資市場にしなければならない、そのためにはたくさんの人に株式をもってもらわなければならない、と説き、いずれわれわれの時代に必ずそうしようと目を輝かせていたものだった
    • [6]瀬川美能留は昭和十四年十月に母と長男を伴って上京し、株式課に配属された。土屋陽三郎を紹介したのは大阪高商の同級生で読売新聞経済部の記者・松井常弥だった
    • [7]昭和十五年にはいると、経済はようやく戦時色が濃くなり、株価低落防止機関として日本証券投資、翌十六年三月には日本協同証券が設立された

戦後十年で引受十三社の一角に入る

戦後の日東証券は、証券市場の回復にあわせて増資と出店を重ねた。1949年4月に資本金1000万円とし、翌5月の東京証券取引所発足とともに正会員となる。同年9月には宇都宮と結城に出張所を、新橋と新宿に支店を設けた。1951年3月には大阪支店を開いて大阪証券取引所の会員となり、1953年には大井と銀座にも支店を増やして資本金は7000万円に達している。1955年の時点で引受業務を担う十三社の一社に数えられ、株式売買高も毎月十位以内を占めていた。中堅ではあるが、業界の内側にきちんと位置を得た会社だった。 [8][9]

    • [8]戦後、証券市場の回復に伴ない、数次の増資を行つて二十四年四月一千万円となり、同年五月東京証券取引所発足とともに正会員となつた。同年九月には宇都宮、結城に出張所を、新橋、新宿に支店を設け、その後数次の増資を経て、二十八年八月には資本金七千万円となつた
    • [9]引受部門においては引受十三社の一社として活動しており、株式売買高も毎月十位以内を占めている。二十六年三月大阪支店を開設して大阪証券取引所会員となり、次いで二十八年には大井、銀座に支店を増設した

1954年8月、日東証券は野村證券との提携を強化した。1955年の記録はこの一行を最後に置いて日東証券の項を閉じている。四大証券の一角と中堅証券の関係がどこまで踏み込んだものだったかは、この記述だけでは分からない。ただ、四十三年後に三洋証券が経営危機に陥ったとき、大株主である野村證券は増資の要請を断り、その理由を「三洋証券は大蔵省の要請と当時の経営トップの個人的な関係で支援=出資したもので、系列会社ではない」と説明している。1954年に始まった関係は、資本を通じた支援にまで及びながら、系列と呼ぶには足りないところで止まっていた。 [10][11]

    • [10]二十九年八月から野村証券との提携を強化した
  • 週刊東洋経済 1997年11月1日号「三洋証券・崩れた救済合併のシナリオ」
    • [11]野村の姿勢は明確だ。「国際証券は人的な関係も含めて“野村系”だが、三洋証券は大蔵省の要請と当時の経営トップの個人的な関係で支援=出資したもので、系列会社ではない」というもの
    • [8]戦後、証券市場の回復に伴ない、数次の増資を行つて二十四年四月一千万円となり、同年五月東京証券取引所発足とともに正会員となつた。同年九月には宇都宮、結城に出張所を、新橋、新宿に支店を設け、その後数次の増資を経て、二十八年八月には資本金七千万円となつた
    • [9]引受部門においては引受十三社の一社として活動しており、株式売買高も毎月十位以内を占めている。二十六年三月大阪支店を開設して大阪証券取引所会員となり、次いで二十八年には大井、銀座に支店を増設した
    • [10]二十九年八月から野村証券との提携を強化した
  • 週刊東洋経済 1997年11月1日号「三洋証券・崩れた救済合併のシナリオ」
    • [11]野村の姿勢は明確だ。「国際証券は人的な関係も含めて“野村系”だが、三洋証券は大蔵省の要請と当時の経営トップの個人的な関係で支援=出資したもので、系列会社ではない」というもの

1955年〜 東京の日東証券と大阪の江口證券が一つになり、総合証券として上場するまで

  1. 1971年大阪の江口證券と大一呉証券を吸収合併し、江口日東証券に商号を変更
  2. 1973年三洋証券に商号を変更し、総合証券会社となる

三洋証券の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

北浜の会社を吸収して社名を並べる

合併の相手となった江口證券は、1933年2月11日に江口治郎氏が大阪・北浜に資本金200万円で設立した会社である。1943年の企業整備令で香川琢磨商店と田中耕三商店を吸収し、戦後は特別経理会社の指定を受けたのち1949年に指定を解除された。1953年8月には丸二証券を合併して京都支店を開き、1955年2月に資本金1億円としている。同じ年の日東証券の資本金は7000万円だったから、資本の規模では大阪の江口證券が東京の日東証券を上回っていたことになる。会長の江口治郎氏に対し社長を務めた高橋要氏は、のちに大阪証券取引所の理事長に転じている。合併は、東京の会社が大阪の小さな会社を飲み込む形では起きていない。 [12][13]

    • [12]当社は昭和八年二月現会長江口治郎氏により資本金二百万円(うち払込済百万円)をもつて現在地に設立された。その後十八年企業整備令により香川琢磨商店および田中耕三商店を吸収合併した。同年八月丸二証券(資本金一千万円)を合併して資本金四千万円とし、同時に京都支店を開設した。二十九年二月には一億円に増資した
    • [13]高橋要江口証券会長(現大阪証券取引所理事長)

1971年10月、日東証券は大阪の江口證券と大一呉証券をあわせて吸収合併し、社名を江口日東証券に改めた。合併相手の名を先に置いた社名からは、吸収された側の顧客と人員をつなぎ止める配慮が読み取れる。東京の日東証券と大阪の江口證券という、それぞれ地元の取引所で会員資格を持つ二社が一つになったことで、全国に店舗網を持つ会社の骨格ができた。1960年代の証券不況を経て免許制へ移り、体力の乏しい業者の整理と集約が進んだ時期にあたる。合併で規模を確保する動きは、この会社に限ったものではない。ただし江口日東証券という社名は二年しか使われていない。 [14][15]

  • 日本大百科全書「三洋証券」
    • [14]1971年に江口証券・大一呉証券と合併して江口日東証券に商号変更し、1973年に三洋証券へ改称した
  • 週刊東洋経済 1998年7月11日号「続・人生二毛作」
    • [15]三洋証券の前身、江口証券(のち日東証券と合併して江口日東証券)に歩合外務員として採用され、二七年間株に携わってきた
    • [12]当社は昭和八年二月現会長江口治郎氏により資本金二百万円(うち払込済百万円)をもつて現在地に設立された。その後十八年企業整備令により香川琢磨商店および田中耕三商店を吸収合併した。同年八月丸二証券(資本金一千万円)を合併して資本金四千万円とし、同時に京都支店を開設した。二十九年二月には一億円に増資した
    • [13]高橋要江口証券会長(現大阪証券取引所理事長)
  • 日本大百科全書「三洋証券」
    • [14]1971年に江口証券・大一呉証券と合併して江口日東証券に商号変更し、1973年に三洋証券へ改称した
  • 週刊東洋経済 1998年7月11日号「続・人生二毛作」
    • [15]三洋証券の前身、江口証券(のち日東証券と合併して江口日東証券)に歩合外務員として採用され、二七年間株に携わってきた

三洋証券という社名に残されたもの

1973年1月、江口日東証券は三洋証券に商号を変更し、総合証券会社となった。合併で得た資本と店舗網を背景に、株式の売買取次だけでなく引受と募集までを担う体制に移ったことになる。その後は東京・大阪・名古屋の3取引所に上場する準大手証券として扱われた。創業から六十七年、法人化から三十年をかけて、兜町の現物商は準大手の上場証券会社になった。売買を取り次いで手数料を得る商いに、引受という自己の判断で残高を抱える仕事が加わったことになる。前者は相場が動けば収入になるが、後者は相場を見誤れば損失が残る。 [16]

  • 日本大百科全書「三洋証券」
    • [16]1973年1月に三洋証券株式会社と商号変更し、総合証券会社となった

二度の改名にはそれぞれ違う意味がある。1944年の日東証券は戦時統合の結果として与えられた名であり、1973年の三洋証券は合併を終えた会社が自分で選んだ名である。前者では創業家の名が消え、後者では合併相手の名が消えた。土屋家の持ち分がどれだけ残ったかを示す資料は手元にないが、社名から江口の二文字を外して新しい名を掲げた以上、統合の主導権が旧日東証券の側にあったと見てよいだろう。この会社を最後まで率いたのも土屋家の人間だった。社名から創業家の名も合併相手の名も消えた一方で、経営の実質は創業家に残り続けたことになる。 [17][18]

  • 日本大百科全書「三洋証券」
    • [17]1971年10月に江口日東証券へ商号変更し、1973年1月に三洋証券へ商号変更した
  • 日経ビジネス 1986年3月31日号「新社長登場 土屋陽一氏(三洋証券)」
    • [18]土屋陽一は土屋陽三郎の長男で、1981年に三洋証券に入り1985年12月に社長へ就任した
  • 日本大百科全書「三洋証券」
    • [16]1973年1月に三洋証券株式会社と商号変更し、総合証券会社となった
    • [17]1971年10月に江口日東証券へ商号変更し、1973年1月に三洋証券へ商号変更した
  • 日経ビジネス 1986年3月31日号「新社長登場 土屋陽一氏(三洋証券)」
    • [18]土屋陽一は土屋陽三郎の長男で、1981年に三洋証券に入り1985年12月に社長へ就任した

1975年〜 野村で十七年を過ごした三代目が、情報化に会社を賭けるまで

  1. 1981年土屋陽三郎の長男・陽一が野村證券を退社して三洋証券に入り、同年12月に副社長となる
  2. 1984年ジュネーブに現地法人「三洋セキュリティーズ・アンド・ファイナンス」を置く
  3. 1985年土屋陽一が社長に就任する
  4. 1988年東京・江東区塩浜にトレーディングセンターを建てる

三洋証券の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

父に相談せず野村證券を受けた学生

土屋陽一氏は1941年11月29日に東京で生まれ、1964年に慶応義塾大学商学部を出て野村證券に入った。株式部、公社債部、外国証券部、梅田支店営業課長、金融法人部次長と証券業務全般を経験し、1981年3月に野村證券を退社して4月に三洋証券へ移る。同年9月に国際営業本部長、12月に副社長となり、1985年12月、44歳で社長に就いた。家業を継ぐまでに他社で十七年を過ごした計算になる。株式の売買から債券、海外、そして支店の営業と法人取引まで、証券会社の主要な部門をひととおり見たうえで戻ったことになり、家業に入ってから四年で社長に就いた速さも、この経歴があってのものだった。 [19]

  • 日経ビジネス 1986年3月31日号「新社長登場 土屋陽一氏(三洋証券)」
    • [19]つちや・よういち 昭和16年11月29日、東京生まれ。44歳。39年慶応義塾大学商学部卒業。同年野村証券に入社。株式部、公社債部、外国証券部、梅田支店営業課長、金融法人部次長と証券業務全般の経験を積む。56年3月退社し、4月に三洋証券入り。同年9月国際営業本部長、12月に副社長。60年12月社長就任

野村證券に入った経緯そのものが、この人物の性格を示している。1963年春、慶応の学生だった陽一氏は同級生二人とともに、当時の野村證券会長・奥村綱雄氏を自宅に訪ねた。同級生の一人が奥村氏の家で家庭教師をしていた縁だという。三人を前に奥村氏は「野村証券はインベストメント・バンクになるんだ。証券業界もこれからどんどん大きくなる。君たち、ぜひ野村に来なさい」と語った。陽一氏は父の陽三郎氏に相談しないまま野村證券を受け、あとで人事部長が陽三郎氏に「おたくの息子さんですか」と問い合わせている。家業がありながら他社の会長の言葉で就職先を決めた、ということになる。 [20][21]

  • 日経ビジネス 1986年3月31日号「新社長登場 土屋陽一氏(三洋証券)」
    • [20]昭和38年春のある日、まだ慶応の学生だった土屋さんは、仲の良い2人の同級生と一緒に当時、野村証券の会長だった奥村綱雄氏を訪ねた。3人の若者たちを前に奥村氏は「野村証券はインベストメント・バンク(投資銀行)になるんだ。証券業界もこれからどんどん大きくなる。君たち、ぜひ野村に来なさい」と語りかけた
    • [21]この話をきいて、土屋さんは父親の陽三郎氏(現三洋証券会長)にも相談せずに野村証券を受けた。あとで人事部長が陽三郎氏に「おたくの息子さんですか」と問い合わせてきたという

社長就任の直後、陽一氏はこの体験の意味を語っている。入社してみると「現実の仕事と奥村さんのインベストメント・バンク論の間には相当ギャップがある」と感じたが、裏切られたとは思わなかった。「奥村さんは20年先を読んで布石を打っていた。今、それが現実になってきている。それに会社の方向が明確に示されたことが、現場の社員にとってどれだけ励みになったかわからない」。記事はこれを受けて、経営者として大局観を持つことの大切さを学んだ陽一氏が、三洋証券のトップとなったいま自分の布石として情報化戦略を選んでいる、と結んでいる。二十年先を読んで方向を示すことが経営者の仕事である、という理解が、この後の投資の規模を決めた。 [22]

  • 日経ビジネス 1986年3月31日号「新社長登場 土屋陽一氏(三洋証券)」
    • [22]「奥村さんは20年先を読んで布石を打っていた。今、それが現実になってきている。それに会社の方向が明確に示されたことが、現場の社員にとってどれだけ励みになったかわからない」——土屋さんは経営者として大局観を持つことがいかに大切かを学んだ。そして三洋証券のトップとなった今、土屋さん自身は情報化戦略という形で独自の布石を打とうとしている
  • 日経ビジネス 1986年3月31日号「新社長登場 土屋陽一氏(三洋証券)」
    • [19]つちや・よういち 昭和16年11月29日、東京生まれ。44歳。39年慶応義塾大学商学部卒業。同年野村証券に入社。株式部、公社債部、外国証券部、梅田支店営業課長、金融法人部次長と証券業務全般の経験を積む。56年3月退社し、4月に三洋証券入り。同年9月国際営業本部長、12月に副社長。60年12月社長就任
    • [20]昭和38年春のある日、まだ慶応の学生だった土屋さんは、仲の良い2人の同級生と一緒に当時、野村証券の会長だった奥村綱雄氏を訪ねた。3人の若者たちを前に奥村氏は「野村証券はインベストメント・バンク(投資銀行)になるんだ。証券業界もこれからどんどん大きくなる。君たち、ぜひ野村に来なさい」と語りかけた
    • [21]この話をきいて、土屋さんは父親の陽三郎氏(現三洋証券会長)にも相談せずに野村証券を受けた。あとで人事部長が陽三郎氏に「おたくの息子さんですか」と問い合わせてきたという
    • [22]「奥村さんは20年先を読んで布石を打っていた。今、それが現実になってきている。それに会社の方向が明確に示されたことが、現場の社員にとってどれだけ励みになったかわからない」——土屋さんは経営者として大局観を持つことがいかに大切かを学んだ。そして三洋証券のトップとなった今、土屋さん自身は情報化戦略という形で独自の布石を打とうとしている

世界最大の取引フロアに三百億円を投じる

情報化戦略はまず海外から形になった。1984年、ジュネーブに現地法人「三洋セキュリティーズ・アンド・ファイナンス」を置いている。そして1988年、東京・江東区塩浜にトレーディングセンターを建てた。約6400平方メートルのワンフロアに端末を3000台並べ、最大800人のディーラーを収容できる規模で、ひとつの取引フロアとしては世界最大とされた。投資額は約300億円である。破綻時の資本金が約398億円だったから、資本金に匹敵する額を一つの建物と一つのシステムに投じた勘定になる。準大手の一社が動かせる資金としては、常識を外れた規模だった。 [23][24]

この投資を後知恵で笑うのは易しいが、当時の判断としては筋が通っていた。陽一氏は21世紀の初めには個人が三台ほどのコンピューターを持つようになると見ており、ホールセールをトレーディングセンターで、リテールをホームトレードで、という組み立てを描いていた。証券業務が人手から機械に移るという読みは、その後の三十年でほぼそのとおりになっている。誤算があったとすれば読みの中身ではなく、投資を回収するまでの時間と、それを支える収益の水準だった。設備とシステムの費用は相場が悪くても毎期出ていくのに対し、それを賄う手数料収入は相場に連動する。 [25][26]

破綻の原因を一つに絞るなら情報化投資を挙げたくなるが、それでは説明が足りない。少なくとも四つの条件が重なっている。第一に、バブル期の積極採用と店舗拡大が人件費と固定費を押し上げたこと。第二に、300億円規模のシステム投資が償却負担として残ったこと。第三に、系列ノンバンクが不動産融資で不良債権を抱え、本体がその債務を保証していたこと。第四に、株式の売買手数料に収益を依存する構造から抜け出せず、1997年3月期まで六期続けて赤字を出したことである。どれか一つが欠けても同じ結末にはならなかった。そして四つのうち三つまでは、業界の中堅以下に共通する事情でもあった。 [27][28]

  • 週刊東洋経済 1997年11月1日号「三洋証券・崩れた救済合併のシナリオ」
    • [27]三洋の最大の懸案は「三洋総合キャピタル」を中心とする系列ノンバンクが抱える公表不良債権八〇〇億円。三洋本体はこのノンバンクの利払いを事実上肩代わりし続けている。三洋は同社の債務に対して、五一五億円の保証予約をしている
    • [28]上場二五社中、前期経常赤字の会社は一四社だが、今中間期には一七社に拡大した。株式、債券、投信が収益の三本柱だが、株に代わる収益源が育てられなかった
    • [23]1988年5月、東京都江東区塩浜に建てられたトレーディングセンターは約6400平方メートルで、300億円を投じ、3000台の端末を備え最大800人のディーラーを収容できた。ワンフロアの取引室としては世界最大とされた
    • [25]土屋陽一社長は証券業務のコンピューター化を掲げ、21世紀初頭には個人が3台程度のコンピューターを持つようになると予測した。トレーディングセンターによるホールセールと、ホームトレードによるリテール拡大を組み合わせる構想だった
    • [26]バブル崩壊後、巨額のコンピューター投資に加え、積極採用と店舗拡大による人件費・固定費が経営を圧迫し、1997年3月期まで6期連続の赤字となった
  • 日経ビジネス 1986年3月31日号「新社長登場 土屋陽一氏(三洋証券)」
    • [24]1984年、ジュネーブの三洋証券スイス現地法人「三洋セキュリティーズ・アンド・ファイナンス」。ミシェル・ノスバーマー社長、秋葉滋副社長
  • 週刊東洋経済 1997年11月1日号「三洋証券・崩れた救済合併のシナリオ」
    • [27]三洋の最大の懸案は「三洋総合キャピタル」を中心とする系列ノンバンクが抱える公表不良債権八〇〇億円。三洋本体はこのノンバンクの利払いを事実上肩代わりし続けている。三洋は同社の債務に対して、五一五億円の保証予約をしている
    • [28]上場二五社中、前期経常赤字の会社は一四社だが、今中間期には一七社に拡大した。株式、債券、投信が収益の三本柱だが、株に代わる収益源が育てられなかった

1994年〜 支援の連鎖が切れ、コール市場に戦後初の穴が開くまで

  1. 1994年主力3行と野村證券グループによる第三者割当増資160億円を柱とする再建策がまとまる
  2. 1995年日本生命保険など生保9社から劣後ローン200億円を取り入れる
  3. 1996年生保9社が劣後ローンの返済期限を1年間延長する
  4. 1997年11月3日、東京地方裁判所に会社更生法の適用を申請する
  5. 1997年翌4日の資産保全命令により無担保コールとレポの資金を返せなくなり、コール市場で戦後初の債務不履行が生じる
  6. 1997年国際証券への営業権譲渡と三和銀行による国際証券の子会社化が報じられ、両社が全面否定する
  7. 1999年12月28日、破産宣告を受ける

支援の期限が三度縮んだ三年半の延命

支援の枠組みができたのは1994年である。同年4月、東京銀行・日本債券信用銀行・大和銀行の主力三行と大株主の野村證券が160億円の第三者割当増資を引き受け、日本生命保険など生保九社が劣後ローンを供与する再建策がまとまった。ただし増資で入った資金のほとんどは銀行への利払いに消えている。1995年2月には生保九社から劣後ローン200億円を取り入れた。これは自己資本規制比率120%を維持するための資本性資金であり、この比率を割ると当局から是正命令を受ける立場にあった。銀行と生保と証券が、それぞれ別の形で一社を支える枠組みができあがったことになる。 [29][30]

  • 日経ビジネス 1997年11月10日号「三洋証券処理、大蔵省の神通力は消失」
    • [29]1994年4月、主力3行と野村証券グループに200億円の第三者割当増資を発表。1995年2月、生保9社から劣後ローン200億円取り入れ。前回、160億円の増資に応じたが、ほとんどが銀行への利払いに消えてしまった
  • 週刊東洋経済 1997年11月1日号「三洋証券・崩れた救済合併のシナリオ」
    • [30]三洋が自己資本規制比率一二〇%(これを切ると当局による是正命令)を維持するために、生保九社から取り入れている劣後ローン二〇〇億円の期限延長を生保側が拒否

以後の三年は延長の繰り返しになる。1996年1月31日に生保九社が返済期限を1年延ばし、1997年1月31日に6カ月、7月31日にさらに3カ月延ばした。延長の幅が1年から6カ月、3カ月へと縮んでいく経過は、支援する側の見切りの過程をそのまま示している。劣後ローンは返済期限まで1年以上ないと自己資本に算入できない決まりであり、1998年10月末という期限が近づくほど、延長は自己資本を維持する効果を失っていった。1997年10月末に自己資本規制比率が急落することは、この時点で計算できていた。 [31][32]

  • 日経ビジネス 1997年11月10日号「三洋証券処理、大蔵省の神通力は消失」
    • [31]96年1月31日 生保9社が劣後ローンの返済期限を1年間延長、97年1月31日 劣後ローンの返済期限を6カ月延長、7月31日 劣後ローンの返済期限を3カ月延長
  • 週刊東洋経済 1997年11月1日号「三洋証券・崩れた救済合併のシナリオ」
    • [32]返済期限は98年10月末で、返済期限まで一年以上ないと自己資本に算入できないため、この10月末で自己資本規制比率が大幅に低下する事態に追い込まれている

支援が続いた三年半のあいだ、抜本的な改善策は打たれていない。生保側にも言い分があり、日本生命の専務は「三洋に劣後ローンを提供したこと自体がそもそも経営判断のミスだった。抜本的な改善策がない限り、同じ過ちは繰り返せない」と述べている。支援を受ける側から見れば、系列ノンバンクを清算して保証を実行すれば自己資本規制比率が100%を割り、業務縮小の計画提出を求められ、最悪の場合は業務停止もありうる。ノンバンクを清算すれば本体も清算に追い込まれる。その関係に縛られたまま、増資で資本を積み増す以外に手がなかった。 [33][34]

  • 日経ビジネス 1997年11月10日号「三洋証券処理、大蔵省の神通力は消失」
    • [33]生保も「三洋に劣後ローンを提供したこと自体がそもそも経営判断のミスだった。抜本的な改善策がない限り、同じ過ちは繰り返せない」(日本生命の西岡忠夫専務)と主張した
  • 週刊東洋経済 1997年11月1日号「三洋証券・崩れた救済合併のシナリオ」
    • [34]ノンバンクを清算し保証を実行すると、三洋自体の自己資本規制比率が一〇〇%を切り、業務縮小などの改善計画の提出が必要になる。最悪の場合は業務停止も否定できない。ノンバンクの清算=三洋証券の清算になってしまうという図式だ
  • 日経ビジネス 1997年11月10日号「三洋証券処理、大蔵省の神通力は消失」
    • [29]1994年4月、主力3行と野村証券グループに200億円の第三者割当増資を発表。1995年2月、生保9社から劣後ローン200億円取り入れ。前回、160億円の増資に応じたが、ほとんどが銀行への利払いに消えてしまった
    • [31]96年1月31日 生保9社が劣後ローンの返済期限を1年間延長、97年1月31日 劣後ローンの返済期限を6カ月延長、7月31日 劣後ローンの返済期限を3カ月延長
    • [33]生保も「三洋に劣後ローンを提供したこと自体がそもそも経営判断のミスだった。抜本的な改善策がない限り、同じ過ちは繰り返せない」(日本生命の西岡忠夫専務)と主張した
  • 週刊東洋経済 1997年11月1日号「三洋証券・崩れた救済合併のシナリオ」
    • [30]三洋が自己資本規制比率一二〇%(これを切ると当局による是正命令)を維持するために、生保九社から取り入れている劣後ローン二〇〇億円の期限延長を生保側が拒否
    • [32]返済期限は98年10月末で、返済期限まで一年以上ないと自己資本に算入できないため、この10月末で自己資本規制比率が大幅に低下する事態に追い込まれている
    • [34]ノンバンクを清算し保証を実行すると、三洋自体の自己資本規制比率が一〇〇%を切り、業務縮小などの改善計画の提出が必要になる。最悪の場合は業務停止も否定できない。ノンバンクの清算=三洋証券の清算になってしまうという図式だ

崩れた救済合併と、十一月三日の申請

最後の救済策は合併だった。1997年9月26日、三洋証券が国際証券に営業権を譲渡し、三和銀行が国際証券を将来子会社化するという新聞報道が出る。三和銀行の側には、投信に強い国際証券を取り込んで販売網を厚くする計算があり、関係者は「うまくいけば、野村と新国際が証券大手二社になるかもしれない」とまで語っていた。しかし報道は両社の全面否定で終わる。増資を要請された野村證券は「三洋証券は大蔵省の要請と当時の経営トップの個人的な関係で支援=出資したもので、系列会社ではない」として断り、国際証券も8月上旬に打診を拒んでいた。10月6日には主力三行が88億円を緊急融資したが、生保は劣後ローンの延長を留保した。 [35][36]

  • 週刊東洋経済 1997年11月1日号「三洋証券・崩れた救済合併のシナリオ」
    • [35]9月26日、「三洋証券が国際証券に営業権を譲渡、三和銀行が国際証券を将来子会社化」との新聞報道は両社の全面否定で幕を閉じた。この合併劇は大蔵省関係者のリークといわれる
  • 日経ビジネス 1997年11月10日号「三洋証券処理、大蔵省の神通力は消失」
    • [36]97年10月6日 主力3行が88億円の緊急融資、生保、劣後ローン延長を留保。国際証券は7月に受けた大蔵省の打診を、8月上旬に拒否した

支援が集まらなくなった理由は、支援を求めた側の説得力ではなく、支援する側の前提が変わったところにある。1994年の再建策のとき、大蔵省は受け入れを渋る各社に対して、要するに三洋証券を倒産させないから支援してくれという約束を与えていた。この約束があったから各社は応じた。ある証券会社の幹部はこの経緯を「大蔵省の振り出した手形が決済できなかった」と表現している。1997年6月の証券取引審議会が市場原理に任せる方向を最終報告で打ち出したあとでは、日産生命を破綻させて三洋証券を生かす理屈が立たない。再度の増資に応じれば株主代表訴訟の対象になるという懸念も、支援を拒む理由として働いた。 [37][38]

  • 日経ビジネス 1997年11月10日号「三洋証券処理、大蔵省の神通力は消失」
    • [37]このとき、再建策の受け入れを渋る各社に、大蔵省が切った「手形」は、要するに三洋証券を倒産させないから支援してくれというものだった。ある証券会社の幹部は、この経営破綻の構図を「大蔵省の振り出した手形が決済できなかった」と表現した
  • 週刊東洋経済 1997年11月1日号「三洋証券・崩れた救済合併のシナリオ」
    • [38]再建見通しのないまま再度、増資に応じては、株主代表訴訟の対象になるという不安があった。大蔵省内部でも「6月の証券取引審議会の最終報告で市場原理に任せる、再編淘汰やむなしとの結論を出したのに、無理やりに救済しようというのはおかしい」という声は強い。日産生命を潰して三洋を生かす理屈は成り立たない

1997年11月3日、三洋証券は東京地方裁判所に会社更生法の適用を申請した。負債総額は3736億円。上場している証券会社に会社更生法が適用されたのは戦後初めてである。免許を受けた業種の破綻は、それまで行政の内側で処理されてきた。証券会社の破綻なら証券業界が、業界で背負いきれなければ銀行と生保に負担を散らす、というやり方である。三洋証券ではこれが使えなかった。損失が大きすぎたことも、証券界そのものが疲弊していたことも理由だが、結局は普通の会社と同じ枠組みで処理された。同時代の誌面はこれを近代金融史の分水嶺と見ている。 [39][40]

  • 週刊東洋経済 1997年11月29日号「画期的な三洋証券の更生法処理」
    • [39]三洋証券は1997年11月3日に東京地裁へ会社更生法の適用を申請し、負債総額は3736億円だった。上場証券会社への会社更生法適用は戦後初
    • [40]これまでの金融破綻処理は行政内部で行われた。証券会社の破綻の場合、証券業界だけで無理な場合は、銀行・生保といった周辺業界に負担を散らし、問題を先送りしてきた。しかし、三洋証券ではこうした手法が使えなかった。損失が大きすぎた、証券界が疲弊しているなどの事情もあったが、結局は普通の会社と同じ枠組みの処理に向かった。旧来型の免許業者救済のスキームは終わった。後の人はこれを近代金融史の分水嶺と見るのではないか
  • 週刊東洋経済 1997年11月1日号「三洋証券・崩れた救済合併のシナリオ」
    • [35]9月26日、「三洋証券が国際証券に営業権を譲渡、三和銀行が国際証券を将来子会社化」との新聞報道は両社の全面否定で幕を閉じた。この合併劇は大蔵省関係者のリークといわれる
    • [38]再建見通しのないまま再度、増資に応じては、株主代表訴訟の対象になるという不安があった。大蔵省内部でも「6月の証券取引審議会の最終報告で市場原理に任せる、再編淘汰やむなしとの結論を出したのに、無理やりに救済しようというのはおかしい」という声は強い。日産生命を潰して三洋を生かす理屈は成り立たない
  • 日経ビジネス 1997年11月10日号「三洋証券処理、大蔵省の神通力は消失」
    • [36]97年10月6日 主力3行が88億円の緊急融資、生保、劣後ローン延長を留保。国際証券は7月に受けた大蔵省の打診を、8月上旬に拒否した
    • [37]このとき、再建策の受け入れを渋る各社に、大蔵省が切った「手形」は、要するに三洋証券を倒産させないから支援してくれというものだった。ある証券会社の幹部は、この経営破綻の構図を「大蔵省の振り出した手形が決済できなかった」と表現した
  • 週刊東洋経済 1997年11月29日号「画期的な三洋証券の更生法処理」
    • [39]三洋証券は1997年11月3日に東京地裁へ会社更生法の適用を申請し、負債総額は3736億円だった。上場証券会社への会社更生法適用は戦後初
    • [40]これまでの金融破綻処理は行政内部で行われた。証券会社の破綻の場合、証券業界だけで無理な場合は、銀行・生保といった周辺業界に負担を散らし、問題を先送りしてきた。しかし、三洋証券ではこうした手法が使えなかった。損失が大きすぎた、証券界が疲弊しているなどの事情もあったが、結局は普通の会社と同じ枠組みの処理に向かった。旧来型の免許業者救済のスキームは終わった。後の人はこれを近代金融史の分水嶺と見るのではないか

コール市場に開いた穴と、清算までの十一年

会社更生法を選んだことは、破綻した会社の外側に別の問題を生んだ。翌4日に資産保全命令が出ると、三洋証券が無担保コール市場とレポ市場から取り入れていた資金が返せなくなり、コール市場で戦後初めての債務不履行が生じた。銀行どうしが短期の資金を融通しあう市場は、相手が必ず返すという前提の上に成り立っている。その前提が崩れ、取引相手が決済できない可能性を警戒する動きが一気に強まった。11月14日、北海道拓殖銀行は準備預金の積み期間の最終営業日に必要な残高を確保できず、17日に業務の継続が困難になったと発表している。三洋証券の破綻は金額としては大きくない。それでも波及したのは、金額ではなく前提を壊したからである。 [41][42]

    • [41]三洋証券が短期金融市場の無担保コール取引によって調達していた資金の債務弁済ができなくなり、コール市場で初めて債務不履行が生じた。このため短期金融市場では、既に芽生えていたカウンターパーティーリスクを警戒する動きが、さらに強まった
    • [42]11月17日、北海道拓殖銀行は「短期金融市場における調達環境の悪化」から業務の継続が困難になったと発表した。前の週の金曜日(14日)に、当日が準備預金の積み期間の最終営業日だったにもかかわらず、必要な残高を確保できなかった。拓銀は三洋証券の破綻で強まったカウンターパーティーリスク回避の影響を受けた

顧客の資産は守られた。会社更生法を適用すると資産保全命令によって顧客資産の返却が進まなくなるおそれがあり、当初は適用が難しいと見られていたが、寄託証券補償基金に顧客資産相当額を肩代わりさせる案が裁判所に認められて処理が動いた。基金の補償には一社20億円という限度があったにもかかわらず、借入れを含む特例処理によって当初約361億円、債権回収額を考慮すると約288億円が支援に充てられている。守られたのは投資家であり、守られなかったのは無担保で資金を出した金融機関だった。会社そのものは残らなかった。1997年12月20日に破産手続へ移り、1998年6月には経営再建を断念している。1999年12月28日に破産宣告を受け、2009年3月25日に破産手続が終結して法人が消滅した。 [43][44][45][46]

    • [43]会社更生法を適用すると資産保全命令が出され顧客資産返却が進まなくなるおそれがあるとの見地から同法の適用は難しいのではないかと考えられていた模様であるが、寄託証券補償基金に顧客資産相当額を肩代わりさせるという案が裁判所にも認められたために可能となった。補償は一社20億円までという限度があったが、同基金は借入れも含む特例処理を行うことで対応し、当初は約361億円、債権回収額を考慮すると約288億円の支援を行った
    • [45]翌12月20日に破産手続に移行され、1999年12月28日に破産宣告を受け、2009年3月25日に破産手続終結の決定がなされている
    • [44]一般顧客の資産は保全処分の例外とされたことや、自主再建が難しくなりつつある状況に関して、ある程度推測が成り立ち得る経過をたどったことから、即座に金融危機を引き起こす事態には至らなかった
  • 日経ビジネス 1997年11月10日号「三洋証券処理、大蔵省の神通力は消失」
    • [46]「製造業のように生産設備があるわけでもなく、営業の継続を前提とした更生計画は立てようがない」(企業倒産に詳しい三宅省三弁護士)。更生法が適用されたとしても「三洋の買い手が現れるかは疑問」という声が証券界では強い

兜町の現物商から数えて九十一年の会社だった。父は1939年に、投機の市場を投資の市場に変え、たくさんの人に株式を持ってもらうと語った。息子は1985年に、二十年先を読んで方向を示すのが経営者の仕事だと語り、世界最大の取引フロアを建てた。二人が見ていた方向はそれほど違わない。証券業が人手の商いから装置と情報の産業に変わるという読みも、個人が市場に参加するという読みも、その後に起きたことと大きくは食い違っていない。読み違えたのは方向ではなく、そこに到達するまで会社が保つかどうかだった。株式の売買手数料に頼る収益構造のまま装置産業の費用を抱えた会社は、相場が戻らない六年を越えられなかった。 [47][48]

    • [41]三洋証券が短期金融市場の無担保コール取引によって調達していた資金の債務弁済ができなくなり、コール市場で初めて債務不履行が生じた。このため短期金融市場では、既に芽生えていたカウンターパーティーリスクを警戒する動きが、さらに強まった
    • [42]11月17日、北海道拓殖銀行は「短期金融市場における調達環境の悪化」から業務の継続が困難になったと発表した。前の週の金曜日(14日)に、当日が準備預金の積み期間の最終営業日だったにもかかわらず、必要な残高を確保できなかった。拓銀は三洋証券の破綻で強まったカウンターパーティーリスク回避の影響を受けた
    • [44]一般顧客の資産は保全処分の例外とされたことや、自主再建が難しくなりつつある状況に関して、ある程度推測が成り立ち得る経過をたどったことから、即座に金融危機を引き起こす事態には至らなかった
    • [43]会社更生法を適用すると資産保全命令が出され顧客資産返却が進まなくなるおそれがあるとの見地から同法の適用は難しいのではないかと考えられていた模様であるが、寄託証券補償基金に顧客資産相当額を肩代わりさせるという案が裁判所にも認められたために可能となった。補償は一社20億円までという限度があったが、同基金は借入れも含む特例処理を行うことで対応し、当初は約361億円、債権回収額を考慮すると約288億円の支援を行った
    • [45]翌12月20日に破産手続に移行され、1999年12月28日に破産宣告を受け、2009年3月25日に破産手続終結の決定がなされている
  • 日経ビジネス 1997年11月10日号「三洋証券処理、大蔵省の神通力は消失」
    • [46]「製造業のように生産設備があるわけでもなく、営業の継続を前提とした更生計画は立てようがない」(企業倒産に詳しい三宅省三弁護士)。更生法が適用されたとしても「三洋の買い手が現れるかは疑問」という声が証券界では強い
    • [47]バブル崩壊後、巨額のコンピューター投資に加え、積極採用と店舗拡大による人件費・固定費が経営を圧迫し、1997年3月期まで6期連続の赤字となった
  • 週刊東洋経済 1997年11月1日号「三洋証券・崩れた救済合併のシナリオ」
    • [48]1999年秋からは株式委託手数料も完全に自由化される。手数料率が平均五割下がれば、野村、日興、大和、国際以外黒字化する証券会社はないという予想もある。株式、債券、投信が収益の三本柱だが、株に代わる収益源が育てられなかったためだ

三洋証券の沿革1906〜2009年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
土屋鋭太郎が東京・兜町で株式現物商「土屋鋭太郎商店」を開業★★★
先代の死去にともない土屋陽三郎が事業を継ぎ、資本金100万円の土屋證券として株式会社に改組★★
戦時の企業統合により角〆証券を併合し、社名を日東証券に改める★★
東京証券取引所の発足とともに正会員となる★★
宇都宮・結城に出張所を、新橋・新宿に支店を設ける
大阪支店を開設し大阪証券取引所の会員となる
数次の増資を経て資本金7000万円となる
野村證券との提携を強化する★★
大阪の江口證券と大一呉証券を吸収合併し、江口日東証券に商号を変更★★★
三洋証券に商号を変更し、総合証券会社となる★★★
土屋陽三郎の長男・陽一が野村證券を退社して三洋証券に入り、同年12月に副社長となる★★
ジュネーブに現地法人「三洋セキュリティーズ・アンド・ファイナンス」を置く★★
土屋陽一が社長に就任する★★★
東京・江東区塩浜にトレーディングセンターを建てる★★★
主力3行と野村證券グループによる第三者割当増資160億円を柱とする再建策がまとまる★★★
日本生命保険など生保9社から劣後ローン200億円を取り入れる★★
生保9社が劣後ローンの返済期限を1年間延長する★★
劣後ローンの返済期限をさらに6カ月延長
劣後ローンの返済期限をさらに3カ月延長
国際証券への営業権譲渡と三和銀行による国際証券の子会社化が報じられ、両社が全面否定する★★
主力3行が88億円を緊急融資する一方、生保は劣後ローンの延長を留保する★★
11月3日、東京地方裁判所に会社更生法の適用を申請する★★★
翌4日の資産保全命令により無担保コールとレポの資金を返せなくなり、コール市場で戦後初の債務不履行が生じる★★★
更生手続から破産手続に移行する。顧客資産は寄託証券補償基金が肩代わりした★★
経営再建を断念する★★
12月28日、破産宣告を受ける★★★
3月25日、破産手続が終結し法人が消滅する★★
出典・参考

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