野村證券グループの支援(1994年・三洋証券の決断)

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論点ノンバンクを抱えたまま再建できるか
三洋証券:業績の推移
売上高(億円)経常利益率(%)
系列ノンバンクの債務保証を抱えたままの、増資と劣後ローンによる延命

何をなぜ決めたか:系列ノンバンクの債務保証を抱えたままの、増資と劣後ローンによる延命

概要

1994年4月、三洋証券は系列ノンバンクに対する金利減免と第三者割当増資を中核とする再建計画をまとめた。同年10月、東京銀行・日本債券信用銀行・大和銀行の主力3行と野村證券グループを割当先とする200億円の第三者割当増資を発表し、野村證券はグループ企業とともに160億円を引き受けた。

1995年2月には日本生命保険など生保9社から200億円の劣後ローンを取り入れた。返済順位の低い借入金で、本体の資本を厚く見せる資金である。

背景

発端は1990年12月にさかのぼる。系列のベンチャーキャピタル、三洋ファイナンスが250億円を融資していた有豊化成が、過大な不動産投資で事実上倒産した。融資は投資140億円に対して1,700億円まで増加していた。

1991年の救済では、大蔵省が三洋証券本体の追加出資に難色を示し、30億円の増資の半分以上を土屋家の資産管理会社、日東土地建物が負った。土屋陽一社長は『日東土地は裸になってもしかたない』と一族の資産を差し出す覚悟を示したが、1994年の再建策で資金を出したのは主力3行・野村證券グループ・生保という外部の支援者だった。

内容

再建策を渋る各社に対し、大蔵省が示したのは三洋証券を倒産させないという約束だった。各社はこれを受けて支援に応じ、以後の三洋証券問題は大蔵省が決めるものになった。

ただ、資金の流れは変わらなかった。系列ノンバンクの三洋総合キャピタルは1,000億円近い借入金を抱え、その半分を三洋証券が債務保証していた。1995年10月には主力3行に借入金利のさらなる軽減を求めている。大株主の野村證券は『三洋本体からノンバンクへの資金流出を止めないことには三洋証券の再建は無理』として、追加の支援を拒んだ。

含意

160億円の増資で得た資金は、ほぼ全部が銀行に払う利息に回った。劣後ローンの返済期限は1996年1月に1年、1997年1月に6カ月、同年7月に3カ月と縮みながら三度延ばされ、そのつど生保は抜本的な改善策を求めた。1997年10月、主力3行が88億円を緊急融資したものの生保は延長を留保し、11月3日に会社更生法の適用を申請した。

破綻の直前には、野村證券も追加の増資を拒み、大蔵省が描いた国際証券との合併も実らなかった。日本生命の西岡忠夫専務は『三洋に劣後ローンを提供したこと自体がそもそも経営判断のミスだった』と、支援そのものを誤りと認めた。

いつ何が起きたか10件
考察:延命は何を先送りしたか
考察

考察:延命は何を先送りしたか

1994年の再建策は、三洋証券の再建計画というより、大蔵省の約束に値段を付けた取引だったとみられる。免許を与える官庁が倒産させないと請け合う相手に、銀行・大株主・生保が資金を出さない理由は見つけにくい。支援する会社が見ていたのは系列ノンバンクの処理の道筋ではなく、約束が守られるかどうかだった。だからこそ、増資の160億円がほとんど銀行への利払いに消えても、枠組みは三年半もった。

もっとも、約束が延ばしたのは時間であって、構図ではない。ノンバンクの借入金の半分を本体が保証する限り、本体を厚くした資金はノンバンクの利払いへ流れ出る。1991年に一族の資産で穴を埋めた手法を、1994年には外部の資金で繰り返したことになる。野村證券が求めた資金流出の遮断に誰も手をつけられなかった以上、生保が延長を留保した時点で終わるのは決まっていたのだろう。

Yutaka Sugiura, 2026年7月
参考文献

参考文献

参考
  • 日経ビジネス 1997年11月10日号
  • 日経ビジネス 1991年7月1日号
  • 日経ビジネス 1991年4月8日号
  • Decide 1995年(13巻8号)
  • Decide 1997年(15巻9号)

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