1895年12月には養子の藤本清兵衛氏が合資会社藤本銀行を設立[1]している。清兵衛氏は福島紡績や大日本製糖の役員を務めるかたわら藤本銀行を経営[2]しており、一般の銀行が短期の融通資金を調達する市場が国内になかった[3]ところに着目した。1902年5月、ビルブローカー業を開設すべく藤本ビルブローカーを大阪に設立[4]し、これがわが国におけるコール市場形成の第一歩[5]となった。
開業の翌1903年には神戸・京都・名古屋・東京へ支店を設けた[6]。1904年の日露戦争開戦にあたっては清兵衛氏が国庫債券を買い入れてロンドンへ輸出し、取扱高は1億7000万円に達したとされる[7]。サミュエル・サミュエル商会と業務提携して国庫債券をロンドンへ輸出[8]するなど、当時すでに取引は全国的な規模で行われていた。1906年10月には個人経営を株式会社組織へ改め、資本金20万円の株式会社藤本ビルブローカー[9]とした。1907年1月には、政府がビルブローカー業を銀行条例にもとづくべきものと規定したのに従って藤本ビルブローカー銀行へ改称し、資本金を100万円へ積み増している[10]。コール・銀行業・代弁業の併営を定款に明記し、証券業を事業目的へ加えた。
1909年1月13日、主要取引先だった大日本製糖が社長以下の役員の連帯辞職とともに支払を停止[11]した。同社は1906年に日本精製糖と日本精糖が合併して資本金1200万円で発足した当時最大の精糖会社[12]で、藤本清兵衛氏は設立時から監査役として関係していた[13]。砂糖消費税をめぐる投機的な原料の見込輸入と見込生産により1000万円に達する在庫を抱え[14]、経営難を深めていた。藤本ビルブローカー銀行は同社への164万2000円の債権を持つ最大の債権者[15]で、うち62万円は無担保、残る102万2000円の担保もすべて同社の社債[16]であった。前年末の資本金は100万円、運用資金は約2000万円[17]で、この不良債権は少額とはいえなかった。
1909年3月18日、藤本ビルブローカー銀行は担保の有無にかかわらず債権の回収を猶予してほしいという文書を各債権者へ発送[18]した。債権者は銀行84行と会社・個人31件、債権総額は1600万円弱[19]にのぼり、うち200万円が無担保で、その多くを地方銀行が占めた[20]。整理には、藤本清兵衛氏の年来の友人で三井銀行大阪支店長を務めた平賀敏氏が顧問として加わっている[21]。同年9月27日の臨時株主総会で清兵衛氏は引責辞職[22]し、翌1910年7月18日の定時株主総会で平賀氏が取締役会長に就いた[23]。清兵衛氏の持株の大部分は平賀氏と武藤山治氏へ譲渡され[24]、創業家は経営から離れている。営業再開は同年8月1日[25]で、朝吹英二氏・武藤氏・島徳蔵氏・八木与三郎氏・柳広蔵氏がそれぞれ2万円を預金[26]して再出発を支えた。
再建の後、1911年には大阪農工債券75万円を単独で引き受けた[27]のを皮切りに、公社債の引受へ積極的に乗り出した。取扱高の増加を受けて1916年には証券部を設け[28]、1918年には業務と資本の両面で銀行部と区分して専任の支配人を置いている[29]。1917年には第1回・第2回英国公債や英仏公債をニューヨーク市場で買い入れて国内の投資家へ提供[30]し、外貨債の輸入に先鞭をつけた[31]。ニューヨーク・ロンドン・アムステルダムには支店および取引店[32]を設けている。1920年には、ニューヨークのボンブライト商会内に事務所を構えた三木純吉氏[33]が、フランスやオランダで保有されていた仏貨四分利公債を買い付け、横浜正金銀行を通じて日本へ送った[34]。同公債は日本国内を元利金の支払場所とし258フランにつき100円の確定換算率を持っていたため、形式は外貨債でありながら実質は内国債と変わらなかった[35]。証券投資の啓蒙運動を行ったのもこの頃[36]である。1924年5月には米国にザ・フヂモトセキュリチーズ・カンパニーを設立し、ニューヨークとロサンゼルスで在外邦人の投資と外債の輸出入を扱った[37]。昭和の金融恐慌では鈴木商店の倒産と川崎造船の破綻の影響を受けたが、当時頻発した債券償還不能事件に対しては債権者擁護運動を展開[38]し、債券発行の正常化に関わった。
1927年3月に公布された新銀行法[39]は、預金の受入と手形割引を併せ行うことを銀行業の要件とし、担保付社債信託業を除く兼営を禁じている[40]。資本金300万円を銀行部200万円・証券部100万円に分けていた[41]同行にとって、公社債の売買は明らかな兼業にあたった。コール・マネーも経済的性質は預金に準ずるとして法案の改訂を主張し、民政党代議士の小川郷太郎氏の助けもあって、ビルブローカー銀行を銀行とみなす政府解釈[42]と、兼業廃止の猶予期間の3年から5年への延長は引き出している[43]。それでも猶予の満了が迫った1932年7月の時点で方針は固まらず、川崎造船所をめぐる債権処理の帰趨が定まらないことが障害となっていた[44]。兼営業務を分離して別会社に営ませる案も立てたが、新会社と密接な関係を保つことは新銀行法の精神と相容れないため、預金と為替の業務を廃して[45]ビルブローカーと有価証券売買を主とする会社として存続するほうが利益になると判断している。1932年12月22日の臨時株主総会で定款変更が可決[46]され、翌1933年1月1日、銀行部と証券部を合わせた資本金300万円をそのまま引き継いで藤本ビルブローカー証券として再出発[47]した。もっとも創業以来の本業であるコールの仲介はその後も続き、短資業を手放したのは1948年の証券取引法の施行を待ってから[48]である。
1937年2月、専務取締役の三輪小十郎氏が英国のユニット・トラストに範をとって考案した『藤本有価証券投資組合』を発表[49]した。投資信託がまだ法律で認められていなかったため、信託関係の発生を避けて民法上の組合とし[50]、1口500円の出資200口・計10万円で1組合を組成する仕組み[51]としている。購入した証券は日本興業銀行大阪支店に保護預けとし、組合の存続期間は成立の日から3年[52]と定めた。日中戦争が始まった直後の同年7月に第1回を組成し、わが国における投資信託の先駆[53]となっている。1941年10月29日の大蔵次官談で投資信託の実行が認められる[54]と、翌1942年、藤本証券は野村証券に次いで投資信託業務を開始した[55]。
1942年4月の金融統制団体令にもとづいて証券引受会社統制会と短資業統制組合が結成される[56]と藤本ビルブローカー証券は双方へ加わり、会長の三輪小十郎氏が両方の理事に就いた。『ビル・ブローカー』が敵性用語とされたため、同年7月1日には社名を藤本証券へ改めている[57]。1943年3月には日本証券取引所法が公布されて11の取引所が単一の営団組織へ統合[58]され、取引員は476名から1944年6月末の217名へ半減した[59]。この整理統合のなかで、1943年12月27日、藤本証券と日本信託銀行が対等合併し、資本金1875万円の大和証券が設立された[60]。日本信託銀行は1920年3月設立の証券金融を主業務とする関係会社[61]で、大阪の短期清算取引市場向けの株式金融を営んでおり[62]、その銀行業務を除く両社の一切の業務を新会社が継承している。会長には三輪氏、社長には旧日本信託銀行社長の車谷馬太郎氏が就き、同時に本社を大阪から東京へ[63]移した。翌1944年2月には松永定一商店を買収し、同年7月には吉川証券を合併して資本金を1925万円[64]としている。戦時統制下の業界再編で規模を広げたところで、まもなく終戦を迎えた[65]。
戦後の再建は資本の整理から始まり、1948年7月には企業再建整備計画により資本金を962万5000円へ減資し、翌8月に5000万円へ増資[66]している。1949年2月に1億5000万円、同年3月に2億円、1952年4月に5億円、1953年3月に10億円[67]と、設備資金と運転資金を調達するため増資を重ねた。1948年5月に証券取引法が施行されると、同法の規定により短資業を廃止[68]している。1949年にはビルブローカー業務を東京投資へ譲渡[69]し、証券投資信託の委託会社としての業務、有価証券の貸借および保護預り、公社債の払込金の受入[70]などを新たに営んだ。
再建は商品でも進み、1948年8月に発行した転換社債は私募ながらわが国初の転換社債となった。1948年10月には証券取引法による証券業者登録を行い[71]、1949年4月には東京証券取引所へ会員として加入[72]している。1951年に『ヒノマル投信』を設定し、1952年6月にはわが国初のオープン型投資信託を実施[73]した。従来のユニット型が買戻しは可能でも追加設定のできないセミ・クローズド型であったのに対し、オープン型は買戻しと追加設定の双方を認める完全な形態[74]で、信託期間もユニット型の2年に対し10年と長く、信託報酬には実績主義をとっている[75]。他社がこれに続いたのは5年以上あと[76]であった。実施に先立って1950年1月には米国の会社型投資信託を紹介し、1951年2月には英国のユニット・トラストの運営実務をまとめ、1952年2月には参考資料を各部店へ配る[77]など、研究を積み重ねている。1954年6月には、ドル平均法を適用した日本初の累積投資制度『積立オープン』を発足させた。
投資信託の委託会社として扱った額は、1955年7月までにセミ・クローズド型が36回で280億5000万円、オープン型が17次設定で19億9475万円と、合計300億円を超えた[78]。同月時点では東京本店のほか全国主要都市に支店24か所、出張所その他の営業所31か所を擁し、従業員は1900名[79]を数えている。1953年10月から翌年9月までの第17期の有価証券総取扱金額は1400億円で、うち株式売買高が59.45%、公社債の引受および募集高が21.24%を占めた[80]。1953年11月には加藤和根社長が取締役会長へ、岡村新市専務取締役が取締役社長へ就き[81]、翌1954年11月には副社長制を新設して福田千里専務取締役がその地位に就いている[82]。1954年1月には本店ビル建設のため大和土地建物を設立[83]し、1959年12月には大和証券投資信託委託を分離設立[84]して投信業務を機能別の子会社へ切り出した。
海外拠点の設置は1959年6月のニューヨーク駐在員事務所[85]から本格化した。1964年4月にロンドン駐在員事務所を開き、同年12月にはニューヨークへ大和セキュリティーズアメリカInc.を設立[86]している。1968年4月には改正証券取引法による総合証券会社として大蔵大臣の免許を受け[87]、1970年2月には東京・大阪・名古屋の各証券取引所市場第一部へ指定替え[88]となった。1970年12月には香港へ大和証券国際(香港)有限公司を、1972年6月にはシンガポールへDBS・大和セキュリティーズインターナショナルLtd.を設立[89]し、アジアへ拠点を広げた。
国内では1961年10月に東京・大阪・名古屋の各証券取引所市場第二部へ上場[90]した。1968年時点の資本金は80億円、従業員は5704名で、大手4社の一社として全国に80余の店舗[91]を構えている。海外にはニューヨークの現地法人とロンドンの事務所[92]を置いていた。1965年に至る証券不況期には他社に先んじて合理化を進め、『堅実経営の大和』[93]と呼ばれている。経営効率化の柱としてオンラインシステムを導入し、社員教育では高度の試験によるコンサルタント制度[94]を業界に先んじて整えた。1975年8月には大和コンピューターサービスを設立し、のちの大和総研の母体[95]とした。
1971年、初のアジアダラー債であるシンガポール開銀債を代表幹事として引き受けた[96]。1970年代半ばにわが国株式市場が初めて本格的な外人投資を迎えた際には、米国の大手投信ドレイファスから短期間に1億3000万ドルの買い注文を獲得[97]している。1973年にはそのドレイファスファンドを国内で販売し、外国投信の国内販売第1号となった。同年6月には大和投資顧問を設立し、1977年には初のユーロ円債である欧州投資銀行債の発行を手掛けている。1980年には米国でMMF(マネー・マーケット・ファンド)を販売[98]した。
主幹事の引受実績にも先行が表れ、アジアダラー債では市場が発足した1971年12月から1981年10月までに大和が37件を引き受け、野村の7件、山一の4件を上回った[99]。ユーロ円債でも1977年4月の発足から1981年10月までに大和が8件、野村が4件、日興と山一が各1件[100]と差がついている。国際機関が発行するユーロ円債や、わが国企業が為替リスクを避ける資金調達をねらうドル建て円リンク債の引受に先鞭をつけたのも大和[101]であった。1980年12月には債券型の外国投信を出し、欧州のドレスナー銀行などと合弁でルクセンブルクに運用委託会社を設立[102]している。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/8601/manifest.json https://the-shashi.com/api/8601/history.json https://the-shashi.com/api/8601/timeline.json https://the-shashi.com/api/8601/executives.json https://the-shashi.com/api/8601/shareholders.json https://the-shashi.com/api/8601/financials.json https://the-shashi.com/api/8601/financials-longterm.json https://the-shashi.com/api/8601/segments.json https://the-shashi.com/api/8601/regions.json https://the-shashi.com/api/8601/workforce.json | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1902〜1943年米穀商の資金力から日本初のビルブローカーへ、そして証券専業への転換 | 藤本ビルブローカー創業 | ★ | ||
| 藤本ビルブローカーを設立 | ★ | |||
| 藤本ビルブローカー銀行に商号変更 | ★ | |||
| 藤本ビルブローカー証券に商号変更 | ★ | |||
| 日本初の投資信託「藤本有価証券投資組合」を発足 | ★★ | |||
| 藤本証券に商号変更 | ★ | |||
| 日本信託銀行と合併し大和証券誕生 | ★★ | |||
| 1944〜1980年戦後再建と「日本初」を重ねた商品開発、業界2位が選んだ国際業務 | 日本初の転換社債(私募)を発行 | ★ | ||
| 証券取引法による証券業者登録 | ★ | |||
| 東京証券取引所に会員として加入 | ★ | |||
| 日本初のオープン型投資信託を発足 | ★★ | |||
| 日本初の累積投資制度(積立オープン)を発足 | ★ | |||
| 福田千里 | ニューヨーク駐在員事務所開設 | ★ | ||
| 福田千里 | 大和証券投資信託委託を設立 | ★ | ||
| 福田千里 | 大和証券投資信託販売を設立 | ★ | ||
| 福田千里 | 東京・大阪・名古屋各証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 安部志雄 | ロンドン駐在員事務所開設 | ★ | ||
| 安部志雄 | NYに大和セキュリティーズアメリカInc.設立 | ★ | ||
| 安部志雄 | 改正証券取引法による総合証券会社として大蔵大臣の免許取得 | ★ | ||
| 山内隆博 | 初のアジアダラー債を代表幹事として引受 | ★ | ||
| 山内隆博 | DBS・大和セキュリティーズインターナショナルLtd.をシンガポールに設立 | ★ | ||
| 山内隆博 | ドレイファスファンドを国内販売 | ★ | ||
| 山内隆博 | 大和投資顧問を設立 | ★ | ||
| 菊一岩夫 | 初のユーロ円債(欧州投資銀行債)を発行 | ★ | ||
| 1981〜1998年人事抗争のあとの立て直しから2度の赤字と住友銀行との資本提携へ | 土井定包 | ロンドンに大和ヨーロッパリミテッド設立 | ★ | |
| 土井定包 | 大和証券経済研究所を設立 | ★ | ||
| 土井定包 | 世銀の主幹事で大名債を発行 | ★ | ||
| 土井定包 | 大和コンピューターサービス・大和証券経済研究所・大和システムサービスが合併 | ★ | ||
| 土井定包 | 大和総研が発足 | ★ | ||
| 同前雅弘 | NYに大和アメリカCorporation設立 | ★ | ||
| 江坂元穂 | 大和インターナショナル信託銀行を設立 | ★ | ||
| 江坂元穂 | 営業赤字を計上 | ★★ | ||
| 1999〜2026年業界初の純粋持株会社化、銀行との合弁と解消、資産管理型への転換 | 原良也 | 大和全球証券設立 | ★ | |
| 原良也 | 住友銀行との資本提携と証券業界初の純粋持株会社化 証券不況とビッグバンに直面した大和証券が、1998年に住友銀行との資本提携を決断し、1999年4月26日に日本の上場会社として初の純粋持株会社『大和証券グループ本社』へ移行した経営判断。ホールセール証券業務を住友銀行との合弁・大和証券SBキャピタル・マーケッツへ、リテール証券業務を新・大和証券へ分け、業態別の二層構造を敷いた。原良也社長のもとで進められた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 原良也 | さくら証券から営業全部を譲受、大和証券エスエムビーシーに商号変更 | ★★ | ||
| 原良也 | 大和証券エスエムビーシープリンシパル・インベストメンツ設立 | ★ | ||
| 鈴木茂晴 | 大和総研が会社分割し大和総研HDス体制へ | ★ | ||
| 鈴木茂晴 | ダヴィンチ・セレクトの全株式を取得 | ★ | ||
| 鈴木茂晴 | 大和証券SMBCの合弁解消と三井住友保有40%株の買取による完全子会社化 2009年9月10日、大和証券グループ本社が三井住友フィナンシャルグループ(SMFG)と大和証券SMBCの合弁解消で合意し、同年12月31日にSMFGが保有する40%株を当初支払額1,739億円で取得して完全子会社化、2010年1月に大和証券キャピタル・マーケッツへ商号変更した経営判断。鈴木茂晴社長のもとで独立系総合証券への回帰を選んだ。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 鈴木茂晴 | 三井住友FGとのホールセール証券事業の合弁を解消 | ★★ | ||
| 鈴木茂晴 | 親会社株主帰属当期純損失▲373億円で赤字転落 | ★★ | ||
| 日比野隆司 | 日比野隆司氏が社長に就任 | ★ | ||
| 日比野隆司 | 大和ネクスト銀行の設立による証券グループの銀行業参入 三井住友との合弁を解消して独立系総合証券へ回帰した大和証券グループ本社が、銀行を持たない証券会社の弱みを補うため、2009年10月の役員会でインターネット専業銀行の設立を決め、2011年に大和ネクスト銀行を100%子会社として開業した経営判断。証券総合口座と預金口座を自動で結ぶスイープ(のちのツインアカウント)で、顧客の余裕資金を自グループに取り込む狙いであった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 中田誠司 | 中田誠司氏が社長に就任 | ★ | ||
| 荻野明彦 | 単品売買モデルから顧客の資産価値最大化を掲げる資産管理型ビジネスへの転換 手数料自由化とネット証券の台頭で株式・債券を売買する単品売買の証券モデルが行き詰まるなか、中田誠司社長の逆張り店舗拡大で対面接点を残した大和証券グループ本社が、2024年4月に荻野明彦社長のもとで顧客の資産価値最大化を掲げ、創業以来の売買仲介から資産管理型(ウェルス・マネジメント)へビジネスモデルを転換した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 荻野明彦 | あおぞら銀行と資本業務提携契約を締結し持分法適用関連会社化 | ★★ | ||
| 荻野明彦 | かんぽ生命と資産運用分野で資本業務提携、大和アセットマネジメントへ資本受入れ | ★ | ||
| 荻野明彦 | Airborne Capital Limitedとの合弁会社・大和エアボーンを発足 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(大和証券グループ本社)