大和証券グループ本社 の歴史

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創業 1902年
母体 藤本証券+日本信託銀行
創業地 大阪府
創業
1902年5月、藤本商店5代目の藤本清兵衛氏が大阪で藤本ビルブローカーを設立した。銀行が短期の融通資金を調達する市場が国内になかったところへ入った事業で、わが国のコール市場形成の起点にあたる。1904年の日露戦争開戦にあたっては国庫債券を買い入れてロンドンへ輸出し、取扱高は1億7000万円に達した。1907年に藤本ビルブローカー銀行へ改称したのち、1927年の新銀行法が兼営を禁じたため、1933年1月に預金と為替を廃して藤本ビルブローカー証券として再出発する。1943年12月、藤本証券と日本信託銀行が対等合併して資本金1875万円の大和証券が設立され、本社を大阪から東京へ移した。
決断
規模で首位を下回る代わりに、制度の先回りで商品を作ってきた。投資信託が法律で認められていなかった1937年に、民法上の組合という形で『藤本有価証券投資組合』を組成したのが始まりで、戦後も1948年の転換社債、1952年のオープン型投資信託、1971年のアジアダラー債、1977年のユーロ円債と『日本初』を重ねた。同じ発想は資本の形にも及び、1999年4月には証券業界で初めて純粋持株会社へ移行し、ホールセールとリテールを別会社へ分けている。2011年には大和ネクスト銀行を開業して証券口座と預金口座をスイープで結び、銀行を持たない弱みを自前の預金基盤へ変えた。
現況
部門別の経常利益で最も大きいのは、ホールセールではなく個人向けである。2026年3月期の3部門合計の純営業収益6,684億円は、ウェルスマネジメント2,780億円、グローバル・マーケッツおよびインベストメント・バンキング2,555億円、アセットマネジメント1,349億円で構成され、経常利益ではウェルスマネジメントの1,120億円が最も大きい。連結では営業収益1兆4,680億円、経常利益2,345億円、親会社株主に帰属する当期純利益1,753億円である。2009年に三井住友との合弁を解消して以来、預金は自前で持つ設計を続けており、大和ネクスト銀行の預金残高は2026年1月に5兆円を超えた。
競合
対面証券の競争の焦点は、売買手数料から預かり資産へ移った。2023年にSBI証券が国内株式の売買手数料を恒久的に無料化し、単品の売買を仲介して手数料を得る形は対面でも成り立たなくなったため、大和は2024年4月に資産管理型ビジネスへの転換を宣言した。同じ転換を2019年に始めた野村ホールディングスより5年遅れた一方、店舗を減らさず対面接点を残した中田誠司社長の判断が、転換の前提を用意していた。銀行を持たない不利は自前で埋めるほかなく、2024年にはあおぞら銀行とかんぽ生命へ相次いで資本を入れ、自前主義から外部との提携へ運営を改めた。
大和証券グループ本社:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

設立ストーリー 米穀商の資金力から日本初のビルブローカーへ、そして証券専業への転換 (1902年〜)

米相場で得た資金が開いた日本初のコール市場

1895年12月には養子の藤本清兵衛氏が合資会社藤本銀行を設立[1]している。清兵衛氏は福島紡績や大日本製糖の役員を務めるかたわら藤本銀行を経営[2]しており、一般の銀行が短期の融通資金を調達する市場が国内になかった[3]ところに着目した。1902年5月、ビルブローカー業を開設すべく藤本ビルブローカーを大阪に設立[4]し、これがわが国におけるコール市場形成の第一歩[5]となった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大和証券」の項
    • [1]1895年12月 養子の藤本清兵衛が合資会社藤本銀行を設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [2]藤本清兵衛は福島紡績・大日本製糖の役員を務めつつ藤本銀行を経営
    • [3]一般の銀行に融通資金の短期的調達を行う市場がなかった
    • [4]1902年5月 藤本ビルブローカーを大阪に設立
    • [5]藤本ビルブローカーの設立はわが国におけるコール市場形成の第一歩

開業の翌1903年には神戸・京都・名古屋・東京へ支店を設けた[6]。1904年の日露戦争開戦にあたっては清兵衛氏が国庫債券を買い入れてロンドンへ輸出し、取扱高は1億7000万円に達したとされる[7]。サミュエル・サミュエル商会と業務提携して国庫債券をロンドンへ輸出[8]するなど、当時すでに取引は全国的な規模で行われていた。1906年10月には個人経営を株式会社組織へ改め、資本金20万円の株式会社藤本ビルブローカー[9]とした。1907年1月には、政府がビルブローカー業を銀行条例にもとづくべきものと規定したのに従って藤本ビルブローカー銀行へ改称し、資本金を100万円へ積み増している[10]。コール・銀行業・代弁業の併営を定款に明記し、証券業を事業目的へ加えた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [6]明治36年(1903年)に神戸・京都・名古屋・東京へ支店を設置
    • [8]サミュエル・サミュエル商会と業務提携し国庫債券をロンドンへ輸出、当時の取引は全国的規模
    • [9]1906年10月 個人経営を株式会社組織に改め資本金20万円の株式会社藤本ビルブローカーを設立
    • [10]1907年1月 政府がビルブローカー業を銀行条例にもとづくものと規定、藤本ビルブローカー銀行へ改称し資本金100万円へ増資
  • 日本会社史総覧 1995(東洋経済新報社, 1995)
    • [7]1904年 日露戦争に伴う国庫債券のロンドン輸出取扱高 1億7000万円
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大和証券」の項
    • [1]1895年12月 養子の藤本清兵衛が合資会社藤本銀行を設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [2]藤本清兵衛は福島紡績・大日本製糖の役員を務めつつ藤本銀行を経営
    • [3]一般の銀行に融通資金の短期的調達を行う市場がなかった
    • [4]1902年5月 藤本ビルブローカーを大阪に設立
    • [5]藤本ビルブローカーの設立はわが国におけるコール市場形成の第一歩
    • [6]明治36年(1903年)に神戸・京都・名古屋・東京へ支店を設置
    • [8]サミュエル・サミュエル商会と業務提携し国庫債券をロンドンへ輸出、当時の取引は全国的規模
    • [9]1906年10月 個人経営を株式会社組織に改め資本金20万円の株式会社藤本ビルブローカーを設立
    • [10]1907年1月 政府がビルブローカー業を銀行条例にもとづくものと規定、藤本ビルブローカー銀行へ改称し資本金100万円へ増資
  • 日本会社史総覧 1995(東洋経済新報社, 1995)
    • [7]1904年 日露戦争に伴う国庫債券のロンドン輸出取扱高 1億7000万円

日糖事件の破綻から公社債引受と在外公債の逆輸入へ

1909年1月13日、主要取引先だった大日本製糖が社長以下の役員の連帯辞職とともに支払を停止[11]した。同社は1906年に日本精製糖と日本精糖が合併して資本金1200万円で発足した当時最大の精糖会社[12]で、藤本清兵衛氏は設立時から監査役として関係していた[13]。砂糖消費税をめぐる投機的な原料の見込輸入と見込生産により1000万円に達する在庫を抱え[14]、経営難を深めていた。藤本ビルブローカー銀行は同社への164万2000円の債権を持つ最大の債権者[15]で、うち62万円は無担保、残る102万2000円の担保もすべて同社の社債[16]であった。前年末の資本金は100万円、運用資金は約2000万円[17]で、この不良債権は少額とはいえなかった。

    • [11]1909年1月13日 大日本製糖が社長以下の役員の連帯辞職と支払停止
    • [12]1906年 日本精製糖と日本精糖が合併し資本金1200万円で発足した当時最大の精糖会社
    • [13]藤本清兵衛 大日本製糖の設立時から監査役
    • [14]砂糖消費税をめぐる投機的な見込輸入と見込生産で在庫1000万円
    • [15]大日本製糖への債権164万2000円で最大の債権者
    • [16]無担保62万円 担保付102万2000円の担保はすべて大日本製糖の社債
    • [17]1908年末 資本金100万円 運用資金約2000万円

1909年3月18日、藤本ビルブローカー銀行は担保の有無にかかわらず債権の回収を猶予してほしいという文書を各債権者へ発送[18]した。債権者は銀行84行と会社・個人31件、債権総額は1600万円弱[19]にのぼり、うち200万円が無担保で、その多くを地方銀行が占めた[20]。整理には、藤本清兵衛氏の年来の友人で三井銀行大阪支店長を務めた平賀敏氏が顧問として加わっている[21]。同年9月27日の臨時株主総会で清兵衛氏は引責辞職[22]し、翌1910年7月18日の定時株主総会で平賀氏が取締役会長に就いた[23]。清兵衛氏の持株の大部分は平賀氏と武藤山治氏へ譲渡され[24]、創業家は経営から離れている。営業再開は同年8月1日[25]で、朝吹英二氏・武藤氏・島徳蔵氏・八木与三郎氏・柳広蔵氏がそれぞれ2万円を預金[26]して再出発を支えた。

    • [18]1909年3月18日 担保の有無を問わず回収猶予を求める文書を各債権者へ発送
    • [19]債権者は銀行84行と会社および個人31件 債権総額1600万円弱
    • [20]無担保200万円 その多くが地方銀行向け
    • [21]平賀敏 藤本清兵衛の年来の友人で三井銀行大阪支店長の経歴 整理の顧問に就任
    • [22]1909年9月27日 臨時株主総会で藤本清兵衛が引責辞職
    • [23]1910年7月18日 定時株主総会で平賀敏が取締役会長に就任
    • [24]藤本清兵衛の持株の大部分を平賀敏・武藤山治へ譲渡し創業家は経営から離脱
    • [25]1910年8月1日 営業再開
    • [26]朝吹英二・武藤山治・島徳蔵・八木与三郎・柳広蔵が各2万円を預金し営業再開を援助

再建の後、1911年には大阪農工債券75万円を単独で引き受けた[27]のを皮切りに、公社債の引受へ積極的に乗り出した。取扱高の増加を受けて1916年には証券部を設け[28]、1918年には業務と資本の両面で銀行部と区分して専任の支配人を置いている[29]。1917年には第1回・第2回英国公債や英仏公債をニューヨーク市場で買い入れて国内の投資家へ提供[30]し、外貨債の輸入に先鞭をつけた[31]。ニューヨーク・ロンドン・アムステルダムには支店および取引店[32]を設けている。1920年には、ニューヨークのボンブライト商会内に事務所を構えた三木純吉氏[33]が、フランスやオランダで保有されていた仏貨四分利公債を買い付け、横浜正金銀行を通じて日本へ送った[34]。同公債は日本国内を元利金の支払場所とし258フランにつき100円の確定換算率を持っていたため、形式は外貨債でありながら実質は内国債と変わらなかった[35]。証券投資の啓蒙運動を行ったのもこの頃[36]である。1924年5月には米国にザ・フヂモトセキュリチーズ・カンパニーを設立し、ニューヨークとロサンゼルスで在外邦人の投資と外債の輸出入を扱った[37]。昭和の金融恐慌では鈴木商店の倒産と川崎造船の破綻の影響を受けたが、当時頻発した債券償還不能事件に対しては債権者擁護運動を展開[38]し、債券発行の正常化に関わった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [27]明治44年(1911年)大阪農工債券75万円を単独引受、以後公社債引受へ本格進出
    • [28]大正5年(1916年)証券部を設置
    • [32]ニューヨーク・ロンドン・アムステルダムに支店および取引店を設置
    • [36]在外公債の逆輸入と同時期に証券投資の啓蒙運動を実施
    • [38]昭和の金融恐慌で鈴木商店の倒産・川崎造船の破綻の影響を受け、債権者擁護運動を展開して債券発行の正常化に関与
    • [29]大正7年(1918年)証券部を業務・資本の両面で銀行部と区分し専任の支配人を設置
    • [30]大正6年(1917年)第1回・第2回英国公債と英仏公債をニューヨーク市場で買入れ国内投資家へ提供
    • [31]外貨公債の輸入に先鞭をつけた
    • [33]三木純吉 ニューヨークのボンブライト商会内に藤本ビルブローカー銀行の事務所を設置
    • [34]大正9年(1920年)仏貨四分利公債をフランス・オランダで買付け横浜正金銀行を通じて日本へ送付
    • [35]仏貨四分利公債は日本内地が元利金支払場所 258フランにつき100円の確定換算率で形式は外貨債・実質は内国債
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大和証券」の項
    • [37]大正13年(1924年)5月 米国にザ・フヂモトセキュリチーズ・カンパニーを設立、ニューヨーク・ロサンゼルスに店舗を置き在外邦人の投資と外債の輸出入を取扱
    • [11]1909年1月13日 大日本製糖が社長以下の役員の連帯辞職と支払停止
    • [12]1906年 日本精製糖と日本精糖が合併し資本金1200万円で発足した当時最大の精糖会社
    • [13]藤本清兵衛 大日本製糖の設立時から監査役
    • [14]砂糖消費税をめぐる投機的な見込輸入と見込生産で在庫1000万円
    • [15]大日本製糖への債権164万2000円で最大の債権者
    • [16]無担保62万円 担保付102万2000円の担保はすべて大日本製糖の社債
    • [17]1908年末 資本金100万円 運用資金約2000万円
    • [18]1909年3月18日 担保の有無を問わず回収猶予を求める文書を各債権者へ発送
    • [19]債権者は銀行84行と会社および個人31件 債権総額1600万円弱
    • [20]無担保200万円 その多くが地方銀行向け
    • [21]平賀敏 藤本清兵衛の年来の友人で三井銀行大阪支店長の経歴 整理の顧問に就任
    • [22]1909年9月27日 臨時株主総会で藤本清兵衛が引責辞職
    • [23]1910年7月18日 定時株主総会で平賀敏が取締役会長に就任
    • [24]藤本清兵衛の持株の大部分を平賀敏・武藤山治へ譲渡し創業家は経営から離脱
    • [25]1910年8月1日 営業再開
    • [26]朝吹英二・武藤山治・島徳蔵・八木与三郎・柳広蔵が各2万円を預金し営業再開を援助
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [27]明治44年(1911年)大阪農工債券75万円を単独引受、以後公社債引受へ本格進出
    • [28]大正5年(1916年)証券部を設置
    • [32]ニューヨーク・ロンドン・アムステルダムに支店および取引店を設置
    • [36]在外公債の逆輸入と同時期に証券投資の啓蒙運動を実施
    • [38]昭和の金融恐慌で鈴木商店の倒産・川崎造船の破綻の影響を受け、債権者擁護運動を展開して債券発行の正常化に関与
    • [29]大正7年(1918年)証券部を業務・資本の両面で銀行部と区分し専任の支配人を設置
    • [30]大正6年(1917年)第1回・第2回英国公債と英仏公債をニューヨーク市場で買入れ国内投資家へ提供
    • [31]外貨公債の輸入に先鞭をつけた
    • [33]三木純吉 ニューヨークのボンブライト商会内に藤本ビルブローカー銀行の事務所を設置
    • [34]大正9年(1920年)仏貨四分利公債をフランス・オランダで買付け横浜正金銀行を通じて日本へ送付
    • [35]仏貨四分利公債は日本内地が元利金支払場所 258フランにつき100円の確定換算率で形式は外貨債・実質は内国債
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大和証券」の項
    • [37]大正13年(1924年)5月 米国にザ・フヂモトセキュリチーズ・カンパニーを設立、ニューヨーク・ロサンゼルスに店舗を置き在外邦人の投資と外債の輸出入を取扱

銀行業の廃止という二者択一と戦時統合による大和証券の誕生

1927年3月に公布された新銀行法[39]は、預金の受入と手形割引を併せ行うことを銀行業の要件とし、担保付社債信託業を除く兼営を禁じている[40]。資本金300万円を銀行部200万円・証券部100万円に分けていた[41]同行にとって、公社債の売買は明らかな兼業にあたった。コール・マネーも経済的性質は預金に準ずるとして法案の改訂を主張し、民政党代議士の小川郷太郎氏の助けもあって、ビルブローカー銀行を銀行とみなす政府解釈[42]と、兼業廃止の猶予期間の3年から5年への延長は引き出している[43]。それでも猶予の満了が迫った1932年7月の時点で方針は固まらず、川崎造船所をめぐる債権処理の帰趨が定まらないことが障害となっていた[44]。兼営業務を分離して別会社に営ませる案も立てたが、新会社と密接な関係を保つことは新銀行法の精神と相容れないため、預金と為替の業務を廃して[45]ビルブローカーと有価証券売買を主とする会社として存続するほうが利益になると判断している。1932年12月22日の臨時株主総会で定款変更が可決[46]され、翌1933年1月1日、銀行部と証券部を合わせた資本金300万円をそのまま引き継いで藤本ビルブローカー証券として再出発[47]した。もっとも創業以来の本業であるコールの仲介はその後も続き、短資業を手放したのは1948年の証券取引法の施行を待ってから[48]である。

    • [39]昭和2年(1927年)3月 新銀行法を公布
    • [40]新銀行法は預金の受入と手形割引の併営を銀行業の要件とし、担保付社債信託業を除く兼営を禁止
    • [41]資本金300万円を銀行部200万円・証券部100万円に配分しており兼業に該当
    • [42]民政党代議士 小川郷太郎の助けでビルブローカー銀行を銀行とみなす政府解釈を獲得
    • [43]兼業廃止の猶予期間を3年から5年へ延長させた
    • [44]1932年7月時点で方針は未定 川崎造船所をめぐる債権処理が障害
    • [45]兼営業務を分離し別会社に営ませる計画も立てたが新銀行法の精神と相容れないと判断、預金と為替を廃して証券業を主とする道を選択
    • [46]1932年12月22日 臨時株主総会で銀行業廃止に伴う定款変更を可決
    • [47]1933年1月1日 藤本ビルブローカー証券として再出発、資本金は銀行部・証券部を合わせた300万円を継承
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大和証券」の項
    • [48]1948年5月の証券取引法施行にともない短資業を廃止

1937年2月、専務取締役の三輪小十郎氏が英国のユニット・トラストに範をとって考案した『藤本有価証券投資組合』を発表[49]した。投資信託がまだ法律で認められていなかったため、信託関係の発生を避けて民法上の組合とし[50]、1口500円の出資200口・計10万円で1組合を組成する仕組み[51]としている。購入した証券は日本興業銀行大阪支店に保護預けとし、組合の存続期間は成立の日から3年[52]と定めた。日中戦争が始まった直後の同年7月に第1回を組成し、わが国における投資信託の先駆[53]となっている。1941年10月29日の大蔵次官談で投資信託の実行が認められる[54]と、翌1942年、藤本証券は野村証券に次いで投資信託業務を開始した[55]

    • [49]昭和12年(1937年)2月 藤本ビルブローカー証券が藤本有価証券投資組合を発表
    • [50]投資信託が未公認のため信託関係の発生を避けて民法上の組合とした
    • [51]1口500円の出資200口・計10万円で1組合が成立
    • [52]購入証券は日本興業銀行大阪支店に保護預け、組合の存続期間は成立の日から3年
    • [53]1937年7月 日中戦争の勃発直後に第1回組合を組成、わが国における投資信託の先駆
    • [54]1941年10月29日 大蔵次官談でユニット・トラスト式投資信託の実行を承認
    • [55]昭和17年(1942年)藤本証券が野村証券に次いで投資信託業務を開始

1942年4月の金融統制団体令にもとづいて証券引受会社統制会と短資業統制組合が結成される[56]と藤本ビルブローカー証券は双方へ加わり、会長の三輪小十郎氏が両方の理事に就いた。『ビル・ブローカー』が敵性用語とされたため、同年7月1日には社名を藤本証券へ改めている[57]。1943年3月には日本証券取引所法が公布されて11の取引所が単一の営団組織へ統合[58]され、取引員は476名から1944年6月末の217名へ半減した[59]。この整理統合のなかで、1943年12月27日、藤本証券と日本信託銀行が対等合併し、資本金1875万円の大和証券が設立された[60]。日本信託銀行は1920年3月設立の証券金融を主業務とする関係会社[61]で、大阪の短期清算取引市場向けの株式金融を営んでおり[62]、その銀行業務を除く両社の一切の業務を新会社が継承している。会長には三輪氏、社長には旧日本信託銀行社長の車谷馬太郎氏が就き、同時に本社を大阪から東京へ[63]移した。翌1944年2月には松永定一商店を買収し、同年7月には吉川証券を合併して資本金を1925万円[64]としている。戦時統制下の業界再編で規模を広げたところで、まもなく終戦を迎えた[65]

    • [56]1942年4月 金融統制団体令にもとづき証券引受会社統制会と短資業統制組合が結成、藤本は双方に参加し会長 三輪小十郎が理事に就任
    • [57]1942年7月1日 敵性用語の使用禁止により藤本証券へ改称
    • [58]1943年3月 日本証券取引所法を公布、11の取引所を単一の営団組織へ統合
    • [59]取引員は476名から1944年6月30日の217名へ半減
    • [62]日本信託銀行は大阪の短期清算取引市場向けの株式金融を営んでいた
  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [60]1943年12月27日 藤本証券と日本信託銀行が対等合併し大和証券を設立、資本金1875万円
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大和証券」の項
    • [61]日本信託銀行は大正9年(1920年)3月設立、銀行業務を除く両社の一切の業務を大和証券が継承
    • [63]会長に旧藤本証券会長の三輪小十郎、社長に旧日本信託銀行社長の車谷馬太郎が就任、本社を大阪から東京へ移転
    • [64]1944年2月 松永定一商店を買収、同年7月 吉川証券を合併し資本金1925万円
    • [65]吉川証券の合併ののち、まもなく終戦
    • [39]昭和2年(1927年)3月 新銀行法を公布
    • [40]新銀行法は預金の受入と手形割引の併営を銀行業の要件とし、担保付社債信託業を除く兼営を禁止
    • [41]資本金300万円を銀行部200万円・証券部100万円に配分しており兼業に該当
    • [42]民政党代議士 小川郷太郎の助けでビルブローカー銀行を銀行とみなす政府解釈を獲得
    • [43]兼業廃止の猶予期間を3年から5年へ延長させた
    • [44]1932年7月時点で方針は未定 川崎造船所をめぐる債権処理が障害
    • [45]兼営業務を分離し別会社に営ませる計画も立てたが新銀行法の精神と相容れないと判断、預金と為替を廃して証券業を主とする道を選択
    • [46]1932年12月22日 臨時株主総会で銀行業廃止に伴う定款変更を可決
    • [47]1933年1月1日 藤本ビルブローカー証券として再出発、資本金は銀行部・証券部を合わせた300万円を継承
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大和証券」の項
    • [48]1948年5月の証券取引法施行にともない短資業を廃止
    • [61]日本信託銀行は大正9年(1920年)3月設立、銀行業務を除く両社の一切の業務を大和証券が継承
    • [63]会長に旧藤本証券会長の三輪小十郎、社長に旧日本信託銀行社長の車谷馬太郎が就任、本社を大阪から東京へ移転
    • [64]1944年2月 松永定一商店を買収、同年7月 吉川証券を合併し資本金1925万円
    • [65]吉川証券の合併ののち、まもなく終戦
    • [49]昭和12年(1937年)2月 藤本ビルブローカー証券が藤本有価証券投資組合を発表
    • [50]投資信託が未公認のため信託関係の発生を避けて民法上の組合とした
    • [51]1口500円の出資200口・計10万円で1組合が成立
    • [52]購入証券は日本興業銀行大阪支店に保護預け、組合の存続期間は成立の日から3年
    • [53]1937年7月 日中戦争の勃発直後に第1回組合を組成、わが国における投資信託の先駆
    • [54]1941年10月29日 大蔵次官談でユニット・トラスト式投資信託の実行を承認
    • [55]昭和17年(1942年)藤本証券が野村証券に次いで投資信託業務を開始
    • [56]1942年4月 金融統制団体令にもとづき証券引受会社統制会と短資業統制組合が結成、藤本は双方に参加し会長 三輪小十郎が理事に就任
    • [57]1942年7月1日 敵性用語の使用禁止により藤本証券へ改称
    • [58]1943年3月 日本証券取引所法を公布、11の取引所を単一の営団組織へ統合
    • [59]取引員は476名から1944年6月30日の217名へ半減
    • [62]日本信託銀行は大阪の短期清算取引市場向けの株式金融を営んでいた
  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [60]1943年12月27日 藤本証券と日本信託銀行が対等合併し大和証券を設立、資本金1875万円

減資と増資を重ねた戦後再建と投資信託の委託会社

戦後の再建は資本の整理から始まり、1948年7月には企業再建整備計画により資本金を962万5000円へ減資し、翌8月に5000万円へ増資[66]している。1949年2月に1億5000万円、同年3月に2億円、1952年4月に5億円、1953年3月に10億円[67]と、設備資金と運転資金を調達するため増資を重ねた。1948年5月に証券取引法が施行されると、同法の規定により短資業を廃止[68]している。1949年にはビルブローカー業務を東京投資へ譲渡[69]し、証券投資信託の委託会社としての業務、有価証券の貸借および保護預り、公社債の払込金の受入[70]などを新たに営んだ。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大和証券」の項
    • [66]1948年7月 企業再建整備計画により資本金962万5000円へ減資、同年8月 5000万円へ増資
    • [67]1949年2月 1億5000万円、同年3月 2億円、1952年4月 5億円、1953年3月 10億円へ増資
    • [68]1948年5月 証券取引法施行にともない短資業を廃止
    • [70]証券投資信託の委託会社としての業務、有価証券の貸借および保護預り、公社債の払込金の受入などを営む
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [69]昭和24年(1949年)ビルブローカー業務を東京投資へ譲渡

再建は商品でも進み、1948年8月に発行した転換社債は私募ながらわが国初の転換社債となった。1948年10月には証券取引法による証券業者登録を行い[71]、1949年4月には東京証券取引所へ会員として加入[72]している。1951年に『ヒノマル投信』を設定し、1952年6月にはわが国初のオープン型投資信託を実施[73]した。従来のユニット型が買戻しは可能でも追加設定のできないセミ・クローズド型であったのに対し、オープン型は買戻しと追加設定の双方を認める完全な形態[74]で、信託期間もユニット型の2年に対し10年と長く、信託報酬には実績主義をとっている[75]。他社がこれに続いたのは5年以上あと[76]であった。実施に先立って1950年1月には米国の会社型投資信託を紹介し、1951年2月には英国のユニット・トラストの運営実務をまとめ、1952年2月には参考資料を各部店へ配る[77]など、研究を積み重ねている。1954年6月には、ドル平均法を適用した日本初の累積投資制度『積立オープン』を発足させた。

  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [71]1948年10月 証券取引法による証券業者登録
    • [72]1949年4月 東京証券取引所に会員として加入
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [73]昭和26年(1951年)ヒノマル投信、昭和27年(1952年)わが国初のオープン投信を開発
    • [74]ユニット型は買戻し可能だが追加設定ができないセミ・クローズド型、オープン型は買戻しと追加設定の双方を認める完全なオープン型
    • [75]信託期間はユニット型2年に対しオープン型10年、信託報酬は実績主義
    • [76]他社がオープン型に追随したのは5年以上あと
    • [77]1950年1月に米国の会社型投資信託を紹介、1951年2月に英国ユニット・トラストの運営実務、1952年2月に参考資料を各部店へ頒布

投資信託の委託会社として扱った額は、1955年7月までにセミ・クローズド型が36回で280億5000万円、オープン型が17次設定で19億9475万円と、合計300億円を超えた[78]。同月時点では東京本店のほか全国主要都市に支店24か所、出張所その他の営業所31か所を擁し、従業員は1900名[79]を数えている。1953年10月から翌年9月までの第17期の有価証券総取扱金額は1400億円で、うち株式売買高が59.45%、公社債の引受および募集高が21.24%を占めた[80]。1953年11月には加藤和根社長が取締役会長へ、岡村新市専務取締役が取締役社長へ就き[81]、翌1954年11月には副社長制を新設して福田千里専務取締役がその地位に就いている[82]。1954年1月には本店ビル建設のため大和土地建物を設立[83]し、1959年12月には大和証券投資信託委託を分離設立[84]して投信業務を機能別の子会社へ切り出した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大和証券」の項
    • [78]1955年7月までの投信取扱額 セミ・クローズド型36回280億5000万円、オープン型17次設定19億9475万円、計300億円超
    • [79]1955年7月現在 東京本店のほか支店24か所・出張所その他営業所31か所、従業員1900名
    • [80]第17期(1953年10月〜1954年9月)の有価証券総取扱金額1400億円、株式売買高59.45%、公社債引受募集高21.24%
    • [83]1954年1月 本店ビル建設のため大和土地建物を設立
    • [81]1953年11月 加藤和根社長が取締役会長へ、岡村新市専務取締役が取締役社長へ就任
    • [82]1954年11月 副社長制を新設し福田千里専務取締役が就任
  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [84]12月 大和証券投資信託委託(現大和アセットマネジメント)設立(沿革は1959年6月の続きで年を省略)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大和証券」の項
    • [66]1948年7月 企業再建整備計画により資本金962万5000円へ減資、同年8月 5000万円へ増資
    • [67]1949年2月 1億5000万円、同年3月 2億円、1952年4月 5億円、1953年3月 10億円へ増資
    • [68]1948年5月 証券取引法施行にともない短資業を廃止
    • [70]証券投資信託の委託会社としての業務、有価証券の貸借および保護預り、公社債の払込金の受入などを営む
    • [78]1955年7月までの投信取扱額 セミ・クローズド型36回280億5000万円、オープン型17次設定19億9475万円、計300億円超
    • [79]1955年7月現在 東京本店のほか支店24か所・出張所その他営業所31か所、従業員1900名
    • [80]第17期(1953年10月〜1954年9月)の有価証券総取扱金額1400億円、株式売買高59.45%、公社債引受募集高21.24%
    • [83]1954年1月 本店ビル建設のため大和土地建物を設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [69]昭和24年(1949年)ビルブローカー業務を東京投資へ譲渡
    • [73]昭和26年(1951年)ヒノマル投信、昭和27年(1952年)わが国初のオープン投信を開発
  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [71]1948年10月 証券取引法による証券業者登録
    • [72]1949年4月 東京証券取引所に会員として加入
    • [84]12月 大和証券投資信託委託(現大和アセットマネジメント)設立(沿革は1959年6月の続きで年を省略)
    • [74]ユニット型は買戻し可能だが追加設定ができないセミ・クローズド型、オープン型は買戻しと追加設定の双方を認める完全なオープン型
    • [75]信託期間はユニット型2年に対しオープン型10年、信託報酬は実績主義
    • [76]他社がオープン型に追随したのは5年以上あと
    • [77]1950年1月に米国の会社型投資信託を紹介、1951年2月に英国ユニット・トラストの運営実務、1952年2月に参考資料を各部店へ頒布
    • [81]1953年11月 加藤和根社長が取締役会長へ、岡村新市専務取締役が取締役社長へ就任
    • [82]1954年11月 副社長制を新設し福田千里専務取締役が就任

業界2位が選んだ海外拠点の先行配置

海外拠点の設置は1959年6月のニューヨーク駐在員事務所[85]から本格化した。1964年4月にロンドン駐在員事務所を開き、同年12月にはニューヨークへ大和セキュリティーズアメリカInc.を設立[86]している。1968年4月には改正証券取引法による総合証券会社として大蔵大臣の免許を受け[87]、1970年2月には東京・大阪・名古屋の各証券取引所市場第一部へ指定替え[88]となった。1970年12月には香港へ大和証券国際(香港)有限公司を、1972年6月にはシンガポールへDBS・大和セキュリティーズインターナショナルLtd.を設立[89]し、アジアへ拠点を広げた。

  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [85]1959年6月 ニューヨーク駐在員事務所を開設
    • [86]1964年4月 ロンドン駐在員事務所開設、同年12月 ニューヨークに大和セキュリティーズアメリカInc.設立
    • [87]1968年4月 改正証券取引法による総合証券会社として大蔵大臣の免許取得
    • [88]1970年2月 東京・大阪・名古屋の各証券取引所市場第一部に指定替え
    • [89]12月 香港に大和証券国際(香港)有限公司設立(沿革は1970年2月の続きで年を省略)/1972年6月 シンガポールにDBS・大和セキュリティーズインターナショナルLtd.設立

国内では1961年10月に東京・大阪・名古屋の各証券取引所市場第二部へ上場[90]した。1968年時点の資本金は80億円、従業員は5704名で、大手4社の一社として全国に80余の店舗[91]を構えている。海外にはニューヨークの現地法人とロンドンの事務所[92]を置いていた。1965年に至る証券不況期には他社に先んじて合理化を進め、『堅実経営の大和』[93]と呼ばれている。経営効率化の柱としてオンラインシステムを導入し、社員教育では高度の試験によるコンサルタント制度[94]を業界に先んじて整えた。1975年8月には大和コンピューターサービスを設立し、のちの大和総研の母体[95]とした。

  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [90]1961年10月 東京・大阪・名古屋各証券取引所市場第二部に上場
    • [95]1975年8月 大和コンピューターサービス設立(のちの大和総研ホールディングス)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [91]1968年時点の資本金80億円・従業員5704名、大手4社の一社として全国に80余の店舗
    • [92]海外はニューヨークに現地法人、ロンドンに事務所を設置
    • [93]昭和40年(1965年)に至る証券不況期に他社に先駆けて合理化を推進し「堅実経営の大和」と称された
    • [94]経営効率化の柱としてオンラインシステムを導入、高度の試験によるコンサルタント制度は業界の先端
  • 大和証券グループ本社 有価証券報告書 第88期(2025年3月期)【沿革】
    • [85]1959年6月 ニューヨーク駐在員事務所を開設
    • [86]1964年4月 ロンドン駐在員事務所開設、同年12月 ニューヨークに大和セキュリティーズアメリカInc.設立
    • [87]1968年4月 改正証券取引法による総合証券会社として大蔵大臣の免許取得
    • [88]1970年2月 東京・大阪・名古屋の各証券取引所市場第一部に指定替え
    • [89]12月 香港に大和証券国際(香港)有限公司設立(沿革は1970年2月の続きで年を省略)/1972年6月 シンガポールにDBS・大和セキュリティーズインターナショナルLtd.設立
    • [90]1961年10月 東京・大阪・名古屋各証券取引所市場第二部に上場
    • [95]1975年8月 大和コンピューターサービス設立(のちの大和総研ホールディングス)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [91]1968年時点の資本金80億円・従業員5704名、大手4社の一社として全国に80余の店舗
    • [92]海外はニューヨークに現地法人、ロンドンに事務所を設置
    • [93]昭和40年(1965年)に至る証券不況期に他社に先駆けて合理化を推進し「堅実経営の大和」と称された
    • [94]経営効率化の柱としてオンラインシステムを導入、高度の試験によるコンサルタント制度は業界の先端

アジアダラー債とユーロ円債で先行した商品開発

1971年、初のアジアダラー債であるシンガポール開銀債を代表幹事として引き受けた[96]。1970年代半ばにわが国株式市場が初めて本格的な外人投資を迎えた際には、米国の大手投信ドレイファスから短期間に1億3000万ドルの買い注文を獲得[97]している。1973年にはそのドレイファスファンドを国内で販売し、外国投信の国内販売第1号となった。同年6月には大和投資顧問を設立し、1977年には初のユーロ円債である欧州投資銀行債の発行を手掛けている。1980年には米国でMMF(マネー・マーケット・ファンド)を販売[98]した。

  • 日経ビジネス 1981年12月28日号
    • [96]1971年 初のアジアダラー債(シンガポール開銀債)を代表幹事として引受
    • [97]わが国株式市場が初の本格的外人投資を迎えた際、米大手投信ドレイファスから短期間に1億3000万ドルの買い注文を獲得
    • [98]昭和55年(1980年)米国でMMF(マネー・マーケット・ファンド)を販売

主幹事の引受実績にも先行が表れ、アジアダラー債では市場が発足した1971年12月から1981年10月までに大和が37件を引き受け、野村の7件、山一の4件を上回った[99]。ユーロ円債でも1977年4月の発足から1981年10月までに大和が8件、野村が4件、日興と山一が各1件[100]と差がついている。国際機関が発行するユーロ円債や、わが国企業が為替リスクを避ける資金調達をねらうドル建て円リンク債の引受に先鞭をつけたのも大和[101]であった。1980年12月には債券型の外国投信を出し、欧州のドレスナー銀行などと合弁でルクセンブルクに運用委託会社を設立[102]している。

  • 日経ビジネス 1981年12月28日号
    • [99]アジアダラー債主幹事引受実績(1971年12月発足〜1981年10月)大和37件・野村7件・山一4件・日興0件
    • [100]ユーロ円債主幹事引受実績(1977年4月発足〜1981年10月)大和8件・野村4件・日興1件・山一1件
    • [101]国際機関発行のユーロ円債やドル建て円リンク債の引受に先鞭をつけたのは大和
    • [102]1980年12月 債券型外国投信を発売、欧州のドレスナー銀行などと合弁でルクセンブルクに運用委託会社を設立
  • 日経ビジネス 1981年12月28日号
    • [96]1971年 初のアジアダラー債(シンガポール開銀債)を代表幹事として引受
    • [97]わが国株式市場が初の本格的外人投資を迎えた際、米大手投信ドレイファスから短期間に1億3000万ドルの買い注文を獲得
    • [98]昭和55年(1980年)米国でMMF(マネー・マーケット・ファンド)を販売
    • [99]アジアダラー債主幹事引受実績(1971年12月発足〜1981年10月)大和37件・野村7件・山一4件・日興0件
    • [100]ユーロ円債主幹事引受実績(1977年4月発足〜1981年10月)大和8件・野村4件・日興1件・山一1件
    • [101]国際機関発行のユーロ円債やドル建て円リンク債の引受に先鞭をつけたのは大和
    • [102]1980年12月 債券型外国投信を発売、欧州のドレスナー銀行などと合弁でルクセンブルクに運用委託会社を設立

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大和証券グループ本社の沿革1902〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1902〜1943年米穀商の資金力から日本初のビルブローカーへ、そして証券専業への転換藤本ビルブローカー創業
藤本ビルブローカーを設立
藤本ビルブローカー銀行に商号変更
藤本ビルブローカー証券に商号変更
日本初の投資信託「藤本有価証券投資組合」を発足★★
藤本証券に商号変更
日本信託銀行と合併し大和証券誕生★★
1944〜1980年戦後再建と「日本初」を重ねた商品開発、業界2位が選んだ国際業務日本初の転換社債(私募)を発行
証券取引法による証券業者登録
東京証券取引所に会員として加入
日本初のオープン型投資信託を発足★★
日本初の累積投資制度(積立オープン)を発足
福田千里ニューヨーク駐在員事務所開設
福田千里大和証券投資信託委託を設立
福田千里大和証券投資信託販売を設立
福田千里東京・大阪・名古屋各証券取引所市場第二部に上場
安部志雄ロンドン駐在員事務所開設
安部志雄NYに大和セキュリティーズアメリカInc.設立
安部志雄改正証券取引法による総合証券会社として大蔵大臣の免許取得
山内隆博初のアジアダラー債を代表幹事として引受
山内隆博DBS・大和セキュリティーズインターナショナルLtd.をシンガポールに設立
山内隆博ドレイファスファンドを国内販売
山内隆博大和投資顧問を設立
菊一岩夫初のユーロ円債(欧州投資銀行債)を発行
1981〜1998年人事抗争のあとの立て直しから2度の赤字と住友銀行との資本提携へ土井定包ロンドンに大和ヨーロッパリミテッド設立
土井定包大和証券経済研究所を設立
土井定包世銀の主幹事で大名債を発行
土井定包大和コンピューターサービス・大和証券経済研究所・大和システムサービスが合併
土井定包大和総研が発足
同前雅弘NYに大和アメリカCorporation設立
江坂元穂大和インターナショナル信託銀行を設立
江坂元穂営業赤字を計上★★
1999〜2026年業界初の純粋持株会社化、銀行との合弁と解消、資産管理型への転換原良也大和全球証券設立
原良也住友銀行との資本提携と証券業界初の純粋持株会社化

証券不況とビッグバンに直面した大和証券が、1998年に住友銀行との資本提携を決断し、1999年4月26日に日本の上場会社として初の純粋持株会社『大和証券グループ本社』へ移行した経営判断。ホールセール証券業務を住友銀行との合弁・大和証券SBキャピタル・マーケッツへ、リテール証券業務を新・大和証券へ分け、業態別の二層構造を敷いた。原良也社長のもとで進められた。

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原良也さくら証券から営業全部を譲受、大和証券エスエムビーシーに商号変更★★
原良也大和証券エスエムビーシープリンシパル・インベストメンツ設立
鈴木茂晴大和総研が会社分割し大和総研HDス体制へ
鈴木茂晴ダヴィンチ・セレクトの全株式を取得
鈴木茂晴大和証券SMBCの合弁解消と三井住友保有40%株の買取による完全子会社化

2009年9月10日、大和証券グループ本社が三井住友フィナンシャルグループ(SMFG)と大和証券SMBCの合弁解消で合意し、同年12月31日にSMFGが保有する40%株を当初支払額1,739億円で取得して完全子会社化、2010年1月に大和証券キャピタル・マーケッツへ商号変更した経営判断。鈴木茂晴社長のもとで独立系総合証券への回帰を選んだ。

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鈴木茂晴三井住友FGとのホールセール証券事業の合弁を解消★★
鈴木茂晴親会社株主帰属当期純損失▲373億円で赤字転落★★
日比野隆司日比野隆司氏が社長に就任
日比野隆司大和ネクスト銀行の設立による証券グループの銀行業参入

三井住友との合弁を解消して独立系総合証券へ回帰した大和証券グループ本社が、銀行を持たない証券会社の弱みを補うため、2009年10月の役員会でインターネット専業銀行の設立を決め、2011年に大和ネクスト銀行を100%子会社として開業した経営判断。証券総合口座と預金口座を自動で結ぶスイープ(のちのツインアカウント)で、顧客の余裕資金を自グループに取り込む狙いであった。

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中田誠司中田誠司氏が社長に就任
荻野明彦単品売買モデルから顧客の資産価値最大化を掲げる資産管理型ビジネスへの転換

手数料自由化とネット証券の台頭で株式・債券を売買する単品売買の証券モデルが行き詰まるなか、中田誠司社長の逆張り店舗拡大で対面接点を残した大和証券グループ本社が、2024年4月に荻野明彦社長のもとで顧客の資産価値最大化を掲げ、創業以来の売買仲介から資産管理型(ウェルス・マネジメント)へビジネスモデルを転換した経営判断。

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荻野明彦あおぞら銀行と資本業務提携契約を締結し持分法適用関連会社化★★
荻野明彦かんぽ生命と資産運用分野で資本業務提携、大和アセットマネジメントへ資本受入れ
荻野明彦Airborne Capital Limitedとの合弁会社・大和エアボーンを発足
出典・参考

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