住友銀行安宅産業の救済で負担した1132億円の全額償却

数期に分けて薄く落とすか、1期で捨てるか——2期分の経常利益にあたる損失をめぐる決算処理

時期 1977年9月
意思決定者(推定) 住友銀行 取締役会
論点 不良債権の処理と決算
概要
1977年、住友銀行は総合商社 安宅産業の救済で負担した1132億円を、1977年9月期決算で全額償却した。数期に分けて処理する道を選ばず、1期で落としきった判断にあたる。
背景
第一次石油ショックの傷が残る1975年12月、年商2兆円・負債総額1兆円の安宅産業の経営危機が表面化した。住友銀行は協和銀行とともに処理にあたり、約2000億円の救済融資のうち1132億円を負担した。
内容
安宅産業は1976年12月29日の合併覚書調印を経て1977年10月に伊藤忠商事へ吸収合併され、住友銀行は引き受けた1132億円を同年9月期決算で一括償却した。当時の経常利益の2期分にあたる損失を、1期の決算で消している。
含意
損失を繰り越さず先に出し切ったことで、翌期以降の決算は取引先の破綻と切り離して読めるようになった。1982年3月期の経常利益は1051億円と、償却額に並ぶ水準まで戻っている。
筆者の見解

損失を確定できるのは、確定に耐える体力がある側である

1132億円は、当時の住友銀行の2期分の経常利益に相当する。住友銀行はそれを1977年9月期の1期で落としきり、損失の大きさをそのまま決算に載せた。翌期以降の数字からは、取引先の破綻が切り離される。回収を見込んで資産に残す道も、数期に分けて薄く落とす道もあった。どちらを選んでも当座の決算は整うが、帳簿と実態の差は残り続ける。磯田一郎頭取が2年半後に「まぁ、すてたんです」と一言で振り返れたのは、その差を残さなかったからである。

ただ、この処理が成り立ったのは、1期分の損益が崩れても耐えられる体力が住友銀行にあったからでもある。同じ判断は、安宅産業の側から見れば、年商2兆円の商社が商号ごと消える過程の一部であった。1132億円を1期で捨てられる銀行と、捨てられて消える商社は、一つの処理の両側にいる。損失をいつ確定するかは、確定に耐える体力を先に持っているかどうかで決まる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

系列融資への批判と大口融資規制

昭和40年代の都市銀行は、大蔵省の護送船団行政のもとで系列企業への重点融資を続けていた。重化学工業から流通までを一通り抱えるワンセット主義の系列構造のなかで、資金の出し手はつねに都市銀行だった。系列企業への集中的な融資は高度成長を支える要因になった一方、それが企業の投機的な行動につながっているという批判も高まった。第一次石油ショック後の1974年11月、大蔵省は行政指導による大口融資規制を実施している[1]

規制が敷かれたころ、住友銀行の業績は伸びていた。1971年3月期に2351億円だった経常収益は1975年3月期に6480億円と4年で2.8倍になり、同じ期の経常利益は616億円、当期純利益は247億円である。一方、第一次石油ショックは商社業界に大きな傷跡を残しており、その傷は住友銀行が主力行を務める一社にも及んだ[2][3]

年商2兆円の商社が抱えていたもの

傷がまだ癒えない1975年12月の半ば過ぎ、業界9位の安宅産業の経営危機が突然表面化した。それから1カ月もたたない1976年1月12日、伊藤忠商事との業務提携が発表されている。当時の安宅産業は年商2兆円、負債総額1兆円、取引先3万5000社、国内の取引金融機関は223行を数えた。10大商社の一角が倒産すれば連鎖倒産が広がり、信用恐慌に至りかねない規模である[4]

危機の直接の原因は、カナダの石油精製事業のつまずきであった。ただ、産業史は崩壊の真の原因を杜撰な経営に求め、安宅産業自身がメインバンクを持たなかったことも数え上げている。終戦処理に当たった住友銀行によると、年商のうち健全な取引は約半分で、残りは赤字取引もしくは架空取引だったという。主力行が引き受けたのは、実態の見えない帳簿であった[5]

決断

約2000億円のうち1132億円

経営危機の表面化からちょうど1年後の1976年12月29日、住友・協和両銀行の仲介で、安宅産業が伊藤忠商事に吸収合併されることが本決まりとなり、合併覚書に調印した。合併の実行は1977年10月で、70年の伝統を持つ安宅産業の歴史はここで閉じている。救済融資は約2000億円に上り、そのうち住友銀行の負担は1132億円であった。両行で分けた負担の過半を、住友銀行が持った[6][7]

1132億円という額は、当時の住友銀行の稼ぎで測ると2年分に近い。1972年3月期の経常利益は530億円、伸びたあとの1975年3月期でも616億円である。損失をどの期にどれだけ計上するかには経営の裁量が働き、複数の期に分けて薄く落とす道も残されていた。一度に落とせば、その期の損益は崩れる[8]

1期で落としきる処理と、名を残さない形

住友銀行は、1132億円を1977年9月期決算で全額償却した。数期に散らす処理を選ばず、1期で落としきっている。回収の可能性を見込んで資産に残せば、以後の各期の利益はその分だけ実態から離れる。1期で消せば、翌期からの数字は取引先の破綻と切り離して読める。銀行の信用は期ごとの決算で測られる。住友銀行は、その決算を1期だけ壊して残りを守った[9]

処理の進め方にも住友銀行の判断が表れている。安宅産業を取引先として残さず、伊藤忠商事へ渡して商号ごと畳んだうえで、損失だけを引き受けた。伊部恭之助最高顧問は住友の行動原理を、明治30年代の総理事 伊庭貞剛氏の言葉に求めている——「住友の資本だけでできない、社会に必要な大きな仕事があれば、名前や従来のいきさつなどにこだわらず、大いに他の資本と共にやれ」。名を残すことより、処理を終えることが先に立った[10]

結果

償却後の2年半

償却の翌春、日経ビジネスは1978年3月13日号で「ケーススタディ。住友銀行-挫折からの再出発-」を組んだ。36ページから48ページまで、13ページにわたる特集である。一つの銀行の一つの決算に、経済誌がこれだけの枠を割いた。見出しには挫折の語が立つ一方、副題は再出発に置かれている。誌面の関心は、償却そのものより次の一手にあった[11]

2年後の1980年2月25日号で、日経ビジネスは磯田一郎頭取のインタビューを載せている。主題は「銀行も情報産業、顧客志向でニーズに対応」で、安宅処理の総括ではない。磯田頭取が1132億円について「まぁ、すてたんです」と一言で振り返ったのも、この誌面であった。捨てたと過去形で語れる位置に、償却から2年半で戻っている[12]

戻った数字と、消えた商社

数字は数年で戻った。1982年3月期の経常収益は1兆6013億円、経常利益は1051億円、当期純利益は556億円である[13]。償却前で実数をたどれる最後の期は1975年3月期で、経常利益は616億円だった。1051億円はその1.7倍で、稼ぐ力は償却前の水準を超えている。1132億円という損失は、4年半後には1期の経常利益とほぼ並ぶ額になっている。

商社の側では、安宅産業の合併をもって再編が終わった。1954年の三菱商事の大合同から始まった20数年の再編劇は伊藤忠商事による安宅産業の合併で区切りがつき、総合商社は9社体制に落ち着いている。住友銀行が1132億円と取引先1社の消滅と引き換えに得たのは、損失を先に出し切って翌期から通常の決算に戻すという処理の作法であった。この作法は後年の不良債権処理でも繰り返される[14]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1978年3月13日号「ケーススタディ。住友銀行-挫折からの再出発-」
  • 日経ビジネス 1980年2月25日号「編集長インタビュー 磯田一郎氏(住友銀行頭取)銀行も情報産業、顧客志向でニーズに対応」
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「自動車-国際化の幕開け」
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-銀行再編成の時代」
  • 週刊東洋経済 2000年1月15日号「特集 20世紀の企業家列伝 伊部恭之助(住友銀行最高顧問)が語る」
  • 会社年鑑(1976年版)/会社年鑑(1986年版)

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