富士銀行安田信託銀行の分割と財産管理3部門の第一勧業富士信託銀行への営業譲渡
芙蓉グループの信託銀行は救い、メインバンクを務めた山一証券は救わなかった——救済の線はどこに引かれたのか
- 概要
- 1998年11月、富士銀行は第一勧業銀行との信託業務の提携で合意し、同じ芙蓉グループの安田信託銀行を分割した。年金・カストディー・証券代行の財産管理3部門を、両行折半出資の第一勧業富士信託銀行へ約1400億円で営業譲渡させる内容であった。
- 背景
- 1997年11月の三洋証券・北海道拓殖銀行・山一証券の連鎖破綻で、次の標的とされたのが安田信託であった。富士銀行は1998年3月に約500億円の増資を引き受けて保有比率16.8%の大株主となったが、安田信託の株価は100円を割ったまま戻らなかった。
- 内容
- 1999年4月に富士・第一勧銀の信託子会社を対等合併させて新銀行を設立し、10月に3部門を移す。新銀行は不良債権を引き継がずに発足し、安田信託には1400億円の譲渡益が入って不良債権処理と株式含み損への備えに充てられる。
- 含意
- 富士銀行は系列内で処理を完結できず、系列外の第一勧業銀行と組んだ。当初案の資本注入は相手に退けられ、売却価格も言い値から引き下げられている。信託に限った提携は、翌1999年の3行統合合意の前段となった。
救えたのは、値のつく事業を持っていた相手だけだった
「赤字を垂れ流すものに対して、どんどんカネを貸していくということは、銀行のやれる限度を超えてしまう」。山本頭取のこの一言が、救う相手と救わない相手を分ける線であった。線を引いたのは芙蓉グループとの距離ではない。安田信託には年金・カストディー・証券代行という1400億円の値がつく部門があり、大倉商事にも山一証券にも、切り出して売れるものは見当たらなかった。再建の絵が描けるかどうかは、突き詰めればそこで決まったとみられる。
ただ、その線を引ききる体力が富士銀行にあったわけではない。1400億円の半分は第一勧業銀行が出し、当初案の資本注入は退けられ、価格も言い値から下げられている。救われる側の木南社長でさえ、一行依存を「軒先を借りているだけ」と退けた。系列の盟主が系列内で処理を完結できなかった事実は、分類債権比率6.4%という開示の数字よりも、当時の富士銀行の位置をよく示している。翌年の3行統合は、この提携の延長線上に生まれた。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
連鎖破綻のあと、次の標的とされた安田信託
バブル崩壊で銀行の不良債権は急拡大した。都市銀行・長期信用銀行・信託銀行の大手22行が抱える経営破綻先債権と延滞債権は、1994年3月末で13兆5741億円に達し、貸付金の3%を占めた。米銀が償却を急いで立ち直ったのに対し、日本の銀行は決算の悪化と経営責任の追及を恐れて処理を先送りした。この重荷を抱えたまま、1997年11月に三洋証券・北海道拓殖銀行・山一証券が相次いで破綻する[1]。
市場が次の標的としたのが、芙蓉グループの中核をなす安田信託銀行であった。格付け機関は同行を投機的水準へ引き下げ、市場には風説も流れた。「安田信託まで破綻したら……」と、大蔵省の元幹部は当時を振り返っている。芙蓉グループは戦前の安田財閥を母体とする金融色の濃い企業集団であり、その中核信託銀行の動揺は、盟主である富士銀行の信用力にそのまま跳ね返った[2]。
500億円を入れた相手、入れなかった相手
1998年2月6日、安田信託は総額1000億円の第三者割当増資を発表した。富士銀行はうち約500億円を引き受け、笠井副頭取を会長として送り込んだ。山本惠朗頭取によれば、当初は富士銀行・安田生命・安田火災・丸紅・大成建設の5社へ個別に話が持ち込まれ、「とりあえず五〇〇億円でやれますから」と始まった。再建計画を詰めるうちに必要額は倍に膨らんだ。引き受け後の保有比率は16.8%に達した[3][4]。
同じ時期、別の相手には手を差し伸べていない。メインバンクを務めた山一証券への融資は、本体でわずか25億円、グループ全体でも915億円であった。1997年3月、約1600億円の赤字へ転落する見通しとなった山一が劣後ローンの引き受けを求めたときも、これを断っている。同年11月14日、本店を訪れた野澤正平社長に、山本頭取は「全面協力ではなく、限界ある協力と理解してもらいたい」と告げた[5][6]。
救わない判断は山一に限らない。同じ年に倒産した芙蓉懇談会の大倉商事についても、山本頭取は丸紅の鳥海巖社長・大成建設の山本兵藏会長と何度か話し合ったうえで、再建の見通しが立たないと結論している。「赤字を垂れ流すものに対して、どんどんカネを貸していくということは、銀行のやれる限度を超えてしまう」。逆に、経営難の昭和海運は支援し、日本郵船との合併にこぎつけた。山一の破綻の最大の原因は同社の秘密主義にあり、この時点の対応は合理的だったとの見方も同時代に示された[7][8][9]。
決断
1400億円で財産管理3部門を切り出す
1998年11月6日、富士銀行と第一勧業銀行は信託業務での戦略的提携に合意したと発表した。中身は安田信託の解体と分割にあった。まず1999年4月1日に両行の信託子会社を対等合併させ、第一勧業富士信託銀行を設立する。ついで同年10月1日をめどに、安田信託が年金・カストディー・証券代行の財産管理3部門を新銀行へ営業譲渡する。譲渡価格は約1400億円で、富士銀行と第一勧業銀行が半分ずつ負担する[10]。
この形をとると、新銀行は不良債権を引き継がずに発足できる。第一勧銀の杉田力之頭取は「信用リスク、市場リスクから解放された銀行になる」と述べた。安田信託には1400億円の譲渡益が入り、不良債権処理と株式含み損への備えに回る。木南隆彦社長は、3000億円の株式評価損に対し自己資本が2500億円という現状を「実質自己資本はマイナスやんか」と認め、対策後は15%程度の自己資本比率を保てると試算した[11][12]。
交渉の主導権は第一勧銀にあった
交渉が始まったのは発表の約半年前であった。富士銀行が第一勧業銀行へ最初に持ちかけたのは、安田信託への資本注入である。第一勧銀はこれを受けず、不良債権を切り離したうえで財産管理部門だけを分離する形を逆提案した。安田信託の株価は100円を割り込んだまま低迷を続けていた。追い込まれた富士銀行は第一勧銀が投げた高い玉を受け取り、売却価格も言い値より引き下げたという。交渉の主導権は第一勧銀にあった[13]。
山本頭取は分割の狙いを顧客基盤の拡大に置き、「アイデアは富士銀行です」と語った。だが金融界では、富士銀行一行ではもはや安田信託を救えなかったためとの見方が主流であった。実質は財産管理部門を700億円で第一勧銀へ売ったのと同じだと評する大手信託銀行の幹部もいた。相手の選択を、富士銀行のOBはこう説明する。「自力では無理。プライドに傷がつかないのは、都銀上位行を巻き込むことだ。しかも住友、三和の関西勢ではだめ。ガツガツしないDKBが最適だ」[14][15][16]。
救われる側も、一行への依存を望んではいなかった。なぜ富士銀行一行に1400億円を出してもらわなかったのかと問われた木南社長は、「それだったら、今までのF(芙蓉)グループの軒先を借りているだけで、全然発展性がない」と答えている。加えて、安田信託の株価が下がれば富士銀行の株価も連動するという関係を、この分割は断ち切った。木南社長は分割の理由に時間との競争も挙げ、自力での処理は可能だが客観情勢が前倒しを求めたと説明した[17][18]。
結果
新銀行の発足と、統合への前段
分割は予定どおり実行された。1999年4月、第一勧業富士信託銀行が両行の折半出資で設立され、同年10月に安田信託からホールセール信託部門を譲り受けて実質的に営業を始めた。社長には、安田信託で年金運用部長から副社長まで務めた山田正次が就いた。年金の受託残高で首位に立つことを当面の目標に掲げ、ムーディーズの財務格付けはCと、出資2行を含む邦銀のなかでも最高水準にあった[19]。
信託に限って手を結んだ相手とは、翌年さらに深く組む。1999年12月の誌面は、信託での提携と新銀行の設立が「後の興銀・一勧・富士『大統合』へつながるきっかけとなった、とも言える」と記した。もっとも山本頭取は、第一勧銀と証券や銀行の業務でも提携するのかと問われ、「その手の議論をやってしまうと、議論することが多すぎて決まらない」と否定していた。信託だけに絞ったことが、この提携をまとめた条件でもあった[20][21]。
富士銀行に残ったもの
安田信託問題の処理は、富士銀行自身への疑いまでは消さなかった。1998年9月30日、同行は大手行の先陣を切って同年3月末の分類債権額を公表した。2兆3244億円で総与信の6.4%にあたり、都銀・信託・長信銀の大手19行平均11.1%を大きく下回る。それでも短期金融市場では、1カ月ものの譲渡性預金で東京三菱・三和・住友より0.3%ほど高い金利を払わなければ資金が取れなかった[22][23]。
2000億円の増資と税効果会計の導入で自己資本は4500億円ほどかさ上げされる見込みであったが、稼ぐ力の弱さは残った。不良債権が少ないと説明しながら、国内業務粗利益は他の上位行に見劣りし、株式の保有額は自己資本の2.9倍に達していた。証券分野の空白も埋まらないままであった。証券代行業務は新信託銀行へ移り、山一証券という取引の太い証券会社は失われている。山本頭取は証券の技術力と海外との接点を外資に、顧客基盤を国内の銀行に求めると語った[24][25]。
- 週刊東洋経済 1998年2月28日号「編集長インタビュー 山本惠朗 富士銀行頭取 分類債権の公表もひとつの選択肢」
- 週刊東洋経済 1998年11月28日号「富士銀行 分類債権額も公表、安田信託問題にもケリつけ反撃に転ず」
- 週刊東洋経済 1998年11月28日号「インタビュー 富士銀行頭取 山本惠朗 第一勧銀との温度差は小さい」
- 週刊東洋経済 1998年11月28日号「インタビュー 安田信託銀行社長 木南隆彦 不良債権も評価損も余裕で吸収」
- 週刊東洋経済 1998年11月28日号「遅れる芙蓉グループの証券戦略 山一破綻の後遺症 巨大証券を失った富士銀行の限界」
- 週刊東洋経済 1998年11月28日号「富士銀を憂うる OBが語る抜本的改革 官僚から現場に実権を移せ」
- 週刊東洋経済 1999年12月18日号「トップの履歴書 第一勧業富士信託銀行社長 山田正次 統合3行の信託として立場を鮮明に」
- 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」