アスキーCSKグループからの95億円の第三者割当増資の受け入れ

誰の資本を入れるか——続投を保証する相手を選んだ先に何が起きたか

時期 1997年12月
意思決定者(推定) 西和彦 社長
論点 資本の受け入れ先と経営の独立
概要
1997年12月24日のトップ会談を経て、アスキーは1998年1月に95億円の第三者割当増資をCSK側に引き受けてもらった。CSKとセガ、大川功会長が株式の45%を握り、アスキーはCSKグループに入った。
背景
有利子負債は414億円あり、銀行団に示した返済計画は3年で204億円に達していた。1997年4月には資金ショートの寸前まで行き、虎の子の米AMD株も売り尽くしていた。
内容
主力銀行の日本興業銀行は松下電器産業・ダイエー・任天堂を出資先候補に挙げたが、西社長はオーナー系ではなく自身の続投を最も保証してくれそうな松下に近づき、不調に終わった。次に頼ったのが10年以上前から親交のあった大川氏だった。
含意
出資の4カ月後、特別損失は243億円積み増されて455億円に達し、132億円の債務超過に転落した。西氏は責任を負って社長を退き、不良債権部分を個人で引き取って約40億円の借金を抱えた。
筆者の見解

続投を条件にした資本と、その代償

出資先を選ぶ基準に自身の続投が入った時点で、選べる相手は限られていた。興銀が挙げた3社のうちオーナー系を避けて松下に向かい、断られたのち10年来の知己に頼るという順序は、資本の質ではなく経営者個人の立場を軸に並んでいる。個人筆頭株主の座を譲れないという要請でCSKとセガを経由させたことも同じ線上にあり、結果として大川氏が個人で出資して再建後に売却するという、セガ買収で実際に用いた手順は取られなかった。この形の違いが、4カ月後に株主への説明を難しくしたとみられる。

もっとも、損失の見立てが4カ月で243億円もずれた責任を西氏だけに帰すのは公平でない。出資の条件として徹底的に損を出させたはずのCSK側も、その額を確かめきれていなかった。負債と経営者個人の借金が債務保証で絡む会社では、どこまでが会社の損でどこからが個人の損かの境目自体が曖昧になる。西氏は不良債権にあたる部分を個人で引き取って約40億円の借金を負い、保有株300億円は一度も売らずに手元に残らなかった。オーナー企業のまま株式を公開した会社が、危機に際して支払った代償がここに現れている。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

返済計画と資金ショートの瀬戸際

1992年の転換社債の発行停止以来、アスキーは実質的に銀行の管理下で再建を進めてきた。有利子負債はリストラの最中も増え続け、1997年3月期にようやく448億円から414億円へ減り、5年を費やして初めて減少に転じている。負債の重みは、事業の選択肢そのものを狭めていた[1]

銀行団に示した借入金の返済計画は、その年が71億円、翌年が67億円、翌々年が66億円であった。これに対し1997年度の経常利益は、同年5月に創刊した『週刊アスキー』の不振もあって7.6億円にとどまっている。虎の子の米AMD株も同年上期に売り尽くし、返済に回せる余裕資金は残っていなかった。1997年4月には資金ショートの寸前まで行っている[2][3]

外部人材による立て直しの途中で

西社長は経営の前線から退く方針を掲げ、外部から専門家を集めていた。日本IBMから廣瀬禎彦氏、東京大学計算センター教授を定年退官した石田晴久氏、日本経済新聞の編集委員だった中島洋氏が加わり、日本興業銀行出身の橋本孝久副社長を含む4人が最高意思決定機関を構成している。1996年10月にはカンパニー制も動き出した[4]

経営陣の顔ぶれは整いつつあったが、資本の構造は変わっていなかった。アスキーの負債と西社長個人の借金は債務保証で密接に絡み合っており、典型的なオーナー企業の形が残っていた。借金の返済に追われる限り、教育とインターネットという新しい柱に思い切った資金を投じることはできない。人を替えるだけでは動かせない部分が残っていた[5]

決断

興銀が挙げた3社と、松下への接触

1997年11月ごろ、主力銀行の日本興業銀行はアスキーの出資先候補として松下電器産業、ダイエー、任天堂の3社を挙げた。西社長はこのうちオーナー系ではなく、自身の続投を最も保証してくれそうな松下に近づいている。資本を入れる相手を選ぶ基準に、経営者自身が残れるかどうかが入っていた[6]

しかし松下からは色よい返事が得られなかった。同社もEAビクターからの撤退などグループを挙げてリストラを進めている最中であった。次に頼ったのが、10年以上前から親交のあったCSK会長の大川功氏である。西社長にとって大川氏は最後の頼みの綱にあたり、この時点で相手を選ぶ余地はほとんど残っていなかった[7]

95億円の第三者割当増資と、出資形態の変更

1997年12月24日夜、赤坂で両社の首脳が会った。CSK側は大川会長と福島吉治社長、アスキー側は西社長と橋本副社長、廣瀬専務、中島特別顧問が出席し、セガからも入交昭一郎副社長らが同席している。議題はアスキーが1998年1月に行う95億円の第三者割当増資であり、CSKとセガ、大川氏で株式の45%を握ることが決まった[8]

大川氏は当初、個人で全額を出資する予定であった。ところが個人筆頭株主の座は譲れないという西社長の要請を容れ、CSKとセガを通じた出資に切り替えている。大川氏にはセガの次世代ゲーム機を支える廣瀬専務を早く得たいという事情があり、100億円で人を借りたようなものだという受け止めが社内にはあった[9]

結果

特別損失455億円と、社長退任

出資の条件として、アスキーは1997年12月に関連会社への出資金放棄など151億円の特別損失を計上した。福島社長は出資の条件として徹底的に損を出させたと述べ、将来は利益を生むかもしれない部分まで切ったと説明している。ところが4カ月後、特別損失はさらに243億円積み増され、1998年3月期の特別損失は455億円に膨らみ、132億円の債務超過に転落した[10][11]

大川氏は半分驚き、半分あきれたと語った。出資したCSKとセガの株主から代表訴訟が提起される恐れも指摘され、CSK主導で新しい役員人事が組まれている。西氏は債務超過の責任を負って社長を退き、取締役に降格した。4月24日に進退伺いを出した際には慰留を期待していたという[12][13]

損失は会社だけにとどまらなかった。CSKが出資する際、アスキーで利益を生んでいない不良債権の部分を西氏が個人で引き取っており、その額はおよそ40億円にのぼる。会社がよくなれば株価が上がり、その株で不良債権を償却できると考えていたと本人はのちに述べた。保有株は最盛期に300億円の評価があったが、150万株を一度も売らなかったため手元には残らず、以後20年以上にわたって借金を抱えた[14][15]

出典・参考
  • 週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」
  • 週刊東洋経済 1998年1月17日号「企業CSK 大川王国「再編」への序章」
  • 週刊東洋経済 1998年5月16日号「フラッシュ CSK アスキー出資の“誤算”」
  • 週刊東洋経済 2023年6月24日号「伝説の起業家が見た天国と地獄 アスキー創業者 西和彦」

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