1977年〜 技術誌の編集者3人が興した会社とパソコン産業の草創期(1977〜1986)
- 1977年 西和彦氏ら3名がアスキー出版を設立
- 1983年 パソコン統一規格「MSX」の提唱と国産メーカーの結集 規格の主導権を握るか、代理店として稼ぎ続けるか——マイクロソフトとの距離をめぐる選択
- 1985年 日本初のパソコン通信網「アスキーネット」を開始
- 1986年 マイクロソフトとの極東総代理店契約を解消
技術誌の編集部からの独立と出版の事業化
1977年[1]、技術誌『I/O』を出していた4人のうち3人が編集部を離れ、新しい出版社を興した。早稲田大学に在学していた[2]西和彦氏、郡司明郎氏、塚本慶一郎氏の3人であり、残る1人はのちに工学社社長となる星正明氏だった。西氏と星氏の対立が分裂を招き[3]、飛び出した3人は東京・南青山のマンションの一室を拠点に、学生ベンチャーとして事業を始めた[4]。1956年に神戸市で生まれた西氏[5]は、創業の年に21歳を迎えた。創業当初に創刊したパソコン雑誌『アスキー』が大きく売れ[6]、同社はそこからソフトウェア開発、LSI設計、通信ネットワークの構築へと事業を広げ[7]、以後20年にわたって日本のパソコン産業の中心に位置した。
- 週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」
- [1]1977年に西和彦氏・郡司明郎氏・塚本慶一郎氏の3名がアスキー出版を設立した
- [3]創業前は星正明氏を含む4人で技術誌『I/O』を出版しており、西氏と星氏の対立で3人が独立した
- 週刊東洋経済 2001年7月21日号「インタビュー アスキー特別顧問/西和彦 教育コンテンツで再挑戦したい」
- [2]西和彦氏は早稲田大学在学中にアスキー出版を設立した
- [5]西和彦氏は1956年に神戸市で生まれた
- [4]創業は1977年、東京・南青山のマンションの一室での学生ベンチャーだった
- [6]創業当初に創刊したパソコン雑誌『ASCII』が大きく売れた
- 証券アナリストジャーナル 1989年11月号
- [7]事業は出版に始まりソフトウェア開発・LSI設計・通信ネットワーク構築へ広がった
出版は創業から一貫して収益の中心にあり、『月刊アスキー』に続いて『ログイン』『MSXマガジン』『UNIXマガジン』を刊行し、書籍も年間数十点の速さで出した[8]。単行本の制作にコンピューターを使う体制を創業当初から社内に敷いたことで製作費と製作期間を削り、数を増やしにくい編集者の仕事量を倍にできたと西社長は説明した[9]。1985年には日本で最初のパソコン通信網「アスキーネット」を始め[10]、電子メディアで情報を届ける新しい出版の形を求めた。雑誌と書籍で得た読者を、そのまま次の媒体へ運ぶ試み[11]だった。
- 証券アナリストジャーナル 1989年11月号
- [8]『月刊アスキー』のほかログイン・MSXマガジン・UNIXマガジンを刊行し書籍は年間数十点だった
- [10]1985年に日本初のパソコン通信ネットワーク「アスキーネット」を開始した
- 証券アナリストジャーナル 1989年11月号「アスキー」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1989年10月9日講演要旨)
- [9]単行本の制作にコンピューターを使い製作コストと期間を下げ、編集者の仕事量を倍にしたと西社長が説明した
- [11]アスキーネットは電子メディアのネットワークによる新しい出版の形として位置づけられた
- 週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」
- [1]1977年に西和彦氏・郡司明郎氏・塚本慶一郎氏の3名がアスキー出版を設立した
- [3]創業前は星正明氏を含む4人で技術誌『I/O』を出版しており、西氏と星氏の対立で3人が独立した
- 週刊東洋経済 2001年7月21日号「インタビュー アスキー特別顧問/西和彦 教育コンテンツで再挑戦したい」
- [2]西和彦氏は早稲田大学在学中にアスキー出版を設立した
- [5]西和彦氏は1956年に神戸市で生まれた
- [4]創業は1977年、東京・南青山のマンションの一室での学生ベンチャーだった
- [6]創業当初に創刊したパソコン雑誌『ASCII』が大きく売れた
- 証券アナリストジャーナル 1989年11月号
- [7]事業は出版に始まりソフトウェア開発・LSI設計・通信ネットワーク構築へ広がった
- [8]『月刊アスキー』のほかログイン・MSXマガジン・UNIXマガジンを刊行し書籍は年間数十点だった
- [10]1985年に日本初のパソコン通信ネットワーク「アスキーネット」を開始した
- 証券アナリストジャーナル 1989年11月号「アスキー」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1989年10月9日講演要旨)
- [9]単行本の制作にコンピューターを使い製作コストと期間を下げ、編集者の仕事量を倍にしたと西社長が説明した
- [11]アスキーネットは電子メディアのネットワークによる新しい出版の形として位置づけられた
マイクロソフトとの提携とMSX規格の提唱
アスキーの名を業界に知らしめたのは、出版よりもマイクロソフトとの関係だった[12]。雑誌の成功で勢いを得た3人は米マイクロソフトと提携し、極東代理店としてアスキーマイクロソフトを設立してパソコンソフト事業へ参入した[13]。同社のBASICを販売して日本のパソコン産業が立ち上がる時期に深く関与し[14]、西氏自身もマイクロソフトへ出向して副社長を務めた[15]。ビル・ゲイツ氏との個人的な結びつきは、のちに両社が決別したあとも切れなかった[16]。マイクロソフト日本法人の社長を務めた成毛真氏は、ゲイツ氏にとって西氏は「最大の恩人」であり死ぬまで親友だろうと述べた[17]。
- 週刊東洋経済 2001年7月21日号「インタビュー アスキー特別顧問/西和彦 教育コンテンツで再挑戦したい」
- [12]アスキーはマイクロソフトの極東総代理店としてパソコン産業の初期に大きな役割を果たした
- [14]アスキーはマイクロソフトの極東総代理店としてBASICを販売した
- [13]米マイクロソフトと提携し極東代理店としてアスキーマイクロソフトを設立、パソコンソフト事業に参入した
- 週刊東洋経済 2023年6月24日号「伝説の起業家が見た天国と地獄 アスキー創業者 西和彦」
- [15]西和彦氏は米マイクロソフトに出向し副社長を務めた
- 週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」
- [16]提携解消後もゲイツ氏と西氏の個人的な関係は続いた
- [17]成毛真氏はゲイツ氏にとって西氏が最大の恩人だと述べた
1983年6月、西氏はばらばらだった国内のパソコン仕様を統一する規格として「MSX」を提唱した[18]。松下電器産業をはじめとする国産メーカーがこの規格のもとに集まり[19]、まだ20代後半だった西氏の手腕に業界の注目が集まった。異を唱えたのは同年代の孫正義氏で、ソード社長の椎名尭慶氏らとともに対抗する統一案を発表し[20]、ソフトハウスから多額の使用料を取るのは業界の慣習としておかしいと主張した。もっともこの正論の裏には、MSXの開発ツールをめぐる孫氏からの申し入れを西氏が断った[21]といういきさつもあり、対抗案は完成しないまま西氏がこの場を押し切った。
- 週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」
- [18]1983年6月に西和彦氏がパソコンの統一規格「MSX」を提唱した
- [19]1983年6月にMSX規格のもとに国産メーカーがまとまり、提唱者は西和彦氏だった
- [20]孫正義氏は椎名尭慶氏らとMSXに対抗する統一案を発表したが、背景に西氏との私的経緯があった
- [21]MSXの開発ツールをめぐる孫氏の申し入れを西氏が断った経緯があり、対抗案は完成していなかった
MSXは結局ゲーム用途にとどまり、広くは普及しなかった[22]。より重い代償は規格の側ではなく本業に生じ、西氏がMSXへ傾斜したことでアスキーはマイクロソフト製品を売ってくれないとゲイツ氏が不満を示し、これが1986年3月の総代理店契約の解消を招く一因となった[23]。マイクロソフトはこののち日本に100%出資の新会社を設立し[24]、自ら市場の開拓に乗り出した。創業から10年で築いた最大の収益源を、アスキーは自らの規格戦略と引き換えに手放した。両社が和解したのは1994年[25]で、その間に日本のパソコン市場は米国勢の手で開かれた。
- 週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」
- [22]MSXはゲーム用途に限られ、その後大きく普及することはなかった
- [23]MSXは普及せず、西氏のMSX傾斜が1986年のマイクロソフトとの提携解消の一因となり1994年に和解した
- [25]アスキーとマイクロソフトは1994年に和解した
- 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)
- [24]マイクロソフトはアスキーとの提携解消後に100%出資の新会社を設立して日本市場の開拓を強めた
- 週刊東洋経済 2001年7月21日号「インタビュー アスキー特別顧問/西和彦 教育コンテンツで再挑戦したい」
- [12]アスキーはマイクロソフトの極東総代理店としてパソコン産業の初期に大きな役割を果たした
- [14]アスキーはマイクロソフトの極東総代理店としてBASICを販売した
- [13]米マイクロソフトと提携し極東代理店としてアスキーマイクロソフトを設立、パソコンソフト事業に参入した
- 週刊東洋経済 2023年6月24日号「伝説の起業家が見た天国と地獄 アスキー創業者 西和彦」
- [15]西和彦氏は米マイクロソフトに出向し副社長を務めた
- 週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」
- [16]提携解消後もゲイツ氏と西氏の個人的な関係は続いた
- [17]成毛真氏はゲイツ氏にとって西氏が最大の恩人だと述べた
- [18]1983年6月に西和彦氏がパソコンの統一規格「MSX」を提唱した
- [19]1983年6月にMSX規格のもとに国産メーカーがまとまり、提唱者は西和彦氏だった
- [20]孫正義氏は椎名尭慶氏らとMSXに対抗する統一案を発表したが、背景に西氏との私的経緯があった
- [21]MSXの開発ツールをめぐる孫氏の申し入れを西氏が断った経緯があり、対抗案は完成していなかった
- [22]MSXはゲーム用途に限られ、その後大きく普及することはなかった
- [23]MSXは普及せず、西氏のMSX傾斜が1986年のマイクロソフトとの提携解消の一因となり1994年に和解した
- [25]アスキーとマイクロソフトは1994年に和解した
- 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)
- [24]マイクロソフトはアスキーとの提携解消後に100%出資の新会社を設立して日本市場の開拓を強めた