アスキー の歴史

創業

1977年

創業者

西和彦

創業地

東京都港区南青山

Q なぜ1977年に技術誌の編集者3人はアスキーを興したのか
A アスキーは、技術誌『I/O』を出していた4人のうち西和彦氏と星正明氏が対立し、西氏、郡司明郎氏、塚本慶一郎氏の3人が編集部を飛び出し、1977年に東京・南青山のマンションで設立した会社である。早稲田大学に在学していた西氏は創業の年に21歳を迎えた。月刊誌『アスキー』の刊行を皮切りに、出版からソフトウェア開発、LSI設計、通信ネットワークの構築へと事業を広げ、以後20年にわたって日本のパソコン産業の中心に位置した
Q なぜ1991年に創業メンバーと決裂してまで拡大路線を選んだのか
A 1989年の株式店頭公開で掲げた目標が、新規事業を前提にしていたためである。西社長は西暦2000年までに東京証券取引所第一部へ上場して売上高1,120億円とする計画を示し、うち400億円から500億円は新規事業で得たいと語っていた。1991年7月1日の臨時役員会では映画などへ投資する拡大路線と本業に絞る堅実路線が争われ、西氏が採決直前の多数派工作の末に押し切り、郡司明郎氏と塚本慶一郎氏が退任した
Q なぜ2002年に株式市場から退場したのか
A 1998年にCSKグループの出資を受けたのち債務超過を解消できず、2001年に大川功氏が死去してCSKが追加支援を打ち切ったことによる。CSKは保有する51.7%の株式をアスキーへ無償で譲渡し、アスキーはこれを消却したうえで90%の減資を実施した。ユニゾン・キャピタルが2度の増資を引き受けて持株比率はおよそ95%に達し、1977年に3人で興した会社は創業から25年で株式市場から退場した。

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1977年〜 技術誌の編集者3人が興した会社とパソコン産業の草創期(1977〜1986)

  1. 1977年 西和彦氏ら3名がアスキー出版を設立
  2. 1983年 パソコン統一規格「MSX」の提唱と国産メーカーの結集 規格の主導権を握るか、代理店として稼ぎ続けるか——マイクロソフトとの距離をめぐる選択
  3. 1985年 日本初のパソコン通信網「アスキーネット」を開始
  4. 1986年 マイクロソフトとの極東総代理店契約を解消

技術誌の編集部からの独立と出版の事業化

1977年[1]、技術誌『I/O』を出していた4人のうち3人が編集部を離れ、新しい出版社を興した。早稲田大学に在学していた[2]西和彦氏、郡司明郎氏、塚本慶一郎氏の3人であり、残る1人はのちに工学社社長となる星正明氏だった。西氏と星氏の対立が分裂を招き[3]、飛び出した3人は東京・南青山のマンションの一室を拠点に、学生ベンチャーとして事業を始めた[4]。1956年に神戸市で生まれた西氏[5]は、創業の年に21歳を迎えた。創業当初に創刊したパソコン雑誌『アスキー』が大きく売れ[6]、同社はそこからソフトウェア開発、LSI設計、通信ネットワークの構築へと事業を広げ[7]、以後20年にわたって日本のパソコン産業の中心に位置した。

  • 週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」
    • [1]1977年に西和彦氏・郡司明郎氏・塚本慶一郎氏の3名がアスキー出版を設立した
    • [3]創業前は星正明氏を含む4人で技術誌『I/O』を出版しており、西氏と星氏の対立で3人が独立した
  • 週刊東洋経済 2001年7月21日号「インタビュー アスキー特別顧問/西和彦 教育コンテンツで再挑戦したい」
    • [2]西和彦氏は早稲田大学在学中にアスキー出版を設立した
    • [5]西和彦氏は1956年に神戸市で生まれた
    • [4]創業は1977年、東京・南青山のマンションの一室での学生ベンチャーだった
    • [6]創業当初に創刊したパソコン雑誌『ASCII』が大きく売れた
  • 証券アナリストジャーナル 1989年11月号
    • [7]事業は出版に始まりソフトウェア開発・LSI設計・通信ネットワーク構築へ広がった

出版は創業から一貫して収益の中心にあり、『月刊アスキー』に続いて『ログイン』『MSXマガジン』『UNIXマガジン』を刊行し、書籍も年間数十点の速さで出した[8]。単行本の制作にコンピューターを使う体制を創業当初から社内に敷いたことで製作費と製作期間を削り、数を増やしにくい編集者の仕事量を倍にできたと西社長は説明した[9]。1985年には日本で最初のパソコン通信網「アスキーネット」を始め[10]、電子メディアで情報を届ける新しい出版の形を求めた。雑誌と書籍で得た読者を、そのまま次の媒体へ運ぶ試み[11]だった。

  • 証券アナリストジャーナル 1989年11月号
    • [8]『月刊アスキー』のほかログイン・MSXマガジン・UNIXマガジンを刊行し書籍は年間数十点だった
    • [10]1985年に日本初のパソコン通信ネットワーク「アスキーネット」を開始した
  • 証券アナリストジャーナル 1989年11月号「アスキー」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1989年10月9日講演要旨)
    • [9]単行本の制作にコンピューターを使い製作コストと期間を下げ、編集者の仕事量を倍にしたと西社長が説明した
    • [11]アスキーネットは電子メディアのネットワークによる新しい出版の形として位置づけられた
  • 週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」
    • [1]1977年に西和彦氏・郡司明郎氏・塚本慶一郎氏の3名がアスキー出版を設立した
    • [3]創業前は星正明氏を含む4人で技術誌『I/O』を出版しており、西氏と星氏の対立で3人が独立した
  • 週刊東洋経済 2001年7月21日号「インタビュー アスキー特別顧問/西和彦 教育コンテンツで再挑戦したい」
    • [2]西和彦氏は早稲田大学在学中にアスキー出版を設立した
    • [5]西和彦氏は1956年に神戸市で生まれた
    • [4]創業は1977年、東京・南青山のマンションの一室での学生ベンチャーだった
    • [6]創業当初に創刊したパソコン雑誌『ASCII』が大きく売れた
  • 証券アナリストジャーナル 1989年11月号
    • [7]事業は出版に始まりソフトウェア開発・LSI設計・通信ネットワーク構築へ広がった
    • [8]『月刊アスキー』のほかログイン・MSXマガジン・UNIXマガジンを刊行し書籍は年間数十点だった
    • [10]1985年に日本初のパソコン通信ネットワーク「アスキーネット」を開始した
  • 証券アナリストジャーナル 1989年11月号「アスキー」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1989年10月9日講演要旨)
    • [9]単行本の制作にコンピューターを使い製作コストと期間を下げ、編集者の仕事量を倍にしたと西社長が説明した
    • [11]アスキーネットは電子メディアのネットワークによる新しい出版の形として位置づけられた

マイクロソフトとの提携とMSX規格の提唱

アスキーの名を業界に知らしめたのは、出版よりもマイクロソフトとの関係だった[12]。雑誌の成功で勢いを得た3人は米マイクロソフトと提携し、極東代理店としてアスキーマイクロソフトを設立してパソコンソフト事業へ参入した[13]。同社のBASICを販売して日本のパソコン産業が立ち上がる時期に深く関与し[14]、西氏自身もマイクロソフトへ出向して副社長を務めた[15]。ビル・ゲイツ氏との個人的な結びつきは、のちに両社が決別したあとも切れなかった[16]。マイクロソフト日本法人の社長を務めた成毛真氏は、ゲイツ氏にとって西氏は「最大の恩人」であり死ぬまで親友だろうと述べた[17]

  • 週刊東洋経済 2001年7月21日号「インタビュー アスキー特別顧問/西和彦 教育コンテンツで再挑戦したい」
    • [12]アスキーはマイクロソフトの極東総代理店としてパソコン産業の初期に大きな役割を果たした
    • [14]アスキーはマイクロソフトの極東総代理店としてBASICを販売した
    • [13]米マイクロソフトと提携し極東代理店としてアスキーマイクロソフトを設立、パソコンソフト事業に参入した
  • 週刊東洋経済 2023年6月24日号「伝説の起業家が見た天国と地獄 アスキー創業者 西和彦」
    • [15]西和彦氏は米マイクロソフトに出向し副社長を務めた
  • 週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」
    • [16]提携解消後もゲイツ氏と西氏の個人的な関係は続いた
    • [17]成毛真氏はゲイツ氏にとって西氏が最大の恩人だと述べた

1983年6月、西氏はばらばらだった国内のパソコン仕様を統一する規格として「MSX」を提唱した[18]。松下電器産業をはじめとする国産メーカーがこの規格のもとに集まり[19]、まだ20代後半だった西氏の手腕に業界の注目が集まった。異を唱えたのは同年代の孫正義氏で、ソード社長の椎名尭慶氏らとともに対抗する統一案を発表し[20]、ソフトハウスから多額の使用料を取るのは業界の慣習としておかしいと主張した。もっともこの正論の裏には、MSXの開発ツールをめぐる孫氏からの申し入れを西氏が断った[21]といういきさつもあり、対抗案は完成しないまま西氏がこの場を押し切った。

  • 週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」
    • [18]1983年6月に西和彦氏がパソコンの統一規格「MSX」を提唱した
    • [19]1983年6月にMSX規格のもとに国産メーカーがまとまり、提唱者は西和彦氏だった
    • [20]孫正義氏は椎名尭慶氏らとMSXに対抗する統一案を発表したが、背景に西氏との私的経緯があった
    • [21]MSXの開発ツールをめぐる孫氏の申し入れを西氏が断った経緯があり、対抗案は完成していなかった

MSXは結局ゲーム用途にとどまり、広くは普及しなかった[22]。より重い代償は規格の側ではなく本業に生じ、西氏がMSXへ傾斜したことでアスキーはマイクロソフト製品を売ってくれないとゲイツ氏が不満を示し、これが1986年3月の総代理店契約の解消を招く一因となった[23]。マイクロソフトはこののち日本に100%出資の新会社を設立し[24]、自ら市場の開拓に乗り出した。創業から10年で築いた最大の収益源を、アスキーは自らの規格戦略と引き換えに手放した。両社が和解したのは1994年[25]で、その間に日本のパソコン市場は米国勢の手で開かれた。

  • 週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」
    • [22]MSXはゲーム用途に限られ、その後大きく普及することはなかった
    • [23]MSXは普及せず、西氏のMSX傾斜が1986年のマイクロソフトとの提携解消の一因となり1994年に和解した
    • [25]アスキーとマイクロソフトは1994年に和解した
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)
    • [24]マイクロソフトはアスキーとの提携解消後に100%出資の新会社を設立して日本市場の開拓を強めた
  • 週刊東洋経済 2001年7月21日号「インタビュー アスキー特別顧問/西和彦 教育コンテンツで再挑戦したい」
    • [12]アスキーはマイクロソフトの極東総代理店としてパソコン産業の初期に大きな役割を果たした
    • [14]アスキーはマイクロソフトの極東総代理店としてBASICを販売した
    • [13]米マイクロソフトと提携し極東代理店としてアスキーマイクロソフトを設立、パソコンソフト事業に参入した
  • 週刊東洋経済 2023年6月24日号「伝説の起業家が見た天国と地獄 アスキー創業者 西和彦」
    • [15]西和彦氏は米マイクロソフトに出向し副社長を務めた
  • 週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」
    • [16]提携解消後もゲイツ氏と西氏の個人的な関係は続いた
    • [17]成毛真氏はゲイツ氏にとって西氏が最大の恩人だと述べた
    • [18]1983年6月に西和彦氏がパソコンの統一規格「MSX」を提唱した
    • [19]1983年6月にMSX規格のもとに国産メーカーがまとまり、提唱者は西和彦氏だった
    • [20]孫正義氏は椎名尭慶氏らとMSXに対抗する統一案を発表したが、背景に西氏との私的経緯があった
    • [21]MSXの開発ツールをめぐる孫氏の申し入れを西氏が断った経緯があり、対抗案は完成していなかった
    • [22]MSXはゲーム用途に限られ、その後大きく普及することはなかった
    • [23]MSXは普及せず、西氏のMSX傾斜が1986年のマイクロソフトとの提携解消の一因となり1994年に和解した
    • [25]アスキーとマイクロソフトは1994年に和解した
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)
    • [24]マイクロソフトはアスキーとの提携解消後に100%出資の新会社を設立して日本市場の開拓を強めた

1987年〜 株式公開で得た資金と、拡大路線をめぐる創業者の訣別(1987〜1991)

  1. 1987年 西和彦氏が社長に就任
  2. 1987年 川崎に研究開発拠点用地2,000坪を12億円で取得
  3. 1989年 株式を店頭公開
  4. 1991年 映画・地域開発を含む拡大路線の採用と、創業メンバー2名の退任 本業に絞るか、公開資金で広げるか——採決を分けた1票

株式店頭公開と西暦2000年への長期目標

1987年、創業からの10年を技術者として過ごした西氏が社長に就いた[26]。1989年には株式を店頭公開し[27]、同年10月9日、西社長は日本証券アナリスト協会の企業分析部会で長期目標を語った。西暦2000年までに東京証券取引所第一部へ上場し、その時点で売上高1,120億円、従業員900人の規模にする[28]という内容である。当時の売上高予想は275億円だった[29]から、11年で4倍にする計画だった。事業が順調に伸びれば2000年より前に実現できるかもしれないとも述べ、うち400億円から500億円は新規事業で得たいと語った[30]

  • 週刊東洋経済 2001年7月21日号「インタビュー アスキー特別顧問/西和彦 教育コンテンツで再挑戦したい」
    • [26]西和彦氏は1987年から1998年まで社長を務めた
  • 週刊東洋経済 2005年1月8日号「2005年に挑む40代経営者」
    • [27]アスキーは1989年に株式を店頭公開した
  • 証券アナリストジャーナル 1989年11月号
    • [28]株式公開時に2000年までの東証一部上場と売上高1,120億円・従業員900人を長期目標に掲げた
  • 証券アナリストジャーナル 1989年11月号「アスキー」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1989年10月9日講演要旨)
    • [29]1990年3月期の売上高予想は275億円だった
    • [30]長期目標のうち400億〜500億円は新規事業で得たいと西社長が述べた

公開時のアスキーは、出版とソフトウェアと半導体の3事業を事業部制の独立採算で運営していた[31]。西社長はこれらを「ニューインク」という自作の語でくくり[32]、出版は紙の上のインクのしみを売る商売であり、ソフトウェアはフロッピーディスク上の磁気のしみを売る商売であると説明した。紙と磁気とシリコンのどこに載せるかが違うだけで、売っているものは同じだという整理である[33]。4番目の事業としてデジタルオーディオビデオへ進み、日本と米国と欧州に研究所を置く構想も示した[34]。1987年には川崎市に2,000坪の用地を12億円で取得し[35]、研究開発の拠点を建てた。

  • 証券アナリストジャーナル 1989年11月号「アスキー」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1989年10月9日講演要旨)
    • [31]アスキーは事業部制をとり各事業部が独立採算で運営されていた
    • [33]紙・磁気・シリコンのいずれに載せるかが違うだけだとして3事業をニューインク事業と呼んだ
    • [34]4番目の事業としてデジタルオーディオビデオへ進み日米欧に研究所を置く構想を示した
  • 証券アナリストジャーナル 1989年11月号
    • [32]西社長は出版・ソフトウェア・半導体を「ニューインク事業」と定義した
    • [35]1987年に川崎の2,000坪の土地を12億円で購入し研究開発センターを建設した
  • 週刊東洋経済 2001年7月21日号「インタビュー アスキー特別顧問/西和彦 教育コンテンツで再挑戦したい」
    • [26]西和彦氏は1987年から1998年まで社長を務めた
  • 週刊東洋経済 2005年1月8日号「2005年に挑む40代経営者」
    • [27]アスキーは1989年に株式を店頭公開した
  • 証券アナリストジャーナル 1989年11月号
    • [28]株式公開時に2000年までの東証一部上場と売上高1,120億円・従業員900人を長期目標に掲げた
    • [32]西社長は出版・ソフトウェア・半導体を「ニューインク事業」と定義した
    • [35]1987年に川崎の2,000坪の土地を12億円で購入し研究開発センターを建設した
  • 証券アナリストジャーナル 1989年11月号「アスキー」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1989年10月9日講演要旨)
    • [29]1990年3月期の売上高予想は275億円だった
    • [30]長期目標のうち400億〜500億円は新規事業で得たいと西社長が述べた
    • [31]アスキーは事業部制をとり各事業部が独立採算で運営されていた
    • [33]紙・磁気・シリコンのいずれに載せるかが違うだけだとして3事業をニューインク事業と呼んだ
    • [34]4番目の事業としてデジタルオーディオビデオへ進み日米欧に研究所を置く構想を示した

拡大路線をめぐる創業メンバー3人の訣別

公開で得た資金は、映画や地域開発を含む多角化に向かった[36]。西氏は後年、社長になって最初の5年は公開で手に入った資金で「いろいろとやり過ぎた」と認めた[37]。方針の違いは1991年7月1日の臨時役員会で決着がつき[38]、役員には2つの経営計画案が配られた。西氏の案は映画などマルチメディアへ積極的に投資する拡大路線、郡司氏と塚本氏の案は本業の出版とソフトに投資を絞る堅実路線である[39]。政策論争として伝えられてきたが、実際には採決の前から役員への働きかけが行われていた[40]。3人を除く役員は応援演説を求められ[41]、どちらに付くかの選択を迫られていた。

  • 週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」
    • [36]公開後の多角化は映画や地域開発に向かった
    • [37]西氏は公開で得た資金で過剰な投資を行ったと後年認めている
    • [38]1991年7月1日の臨時役員会で西氏の拡大路線案と郡司・塚本両氏の堅実路線案が争われた
    • [39]郡司・塚本両氏の案は本業の出版とソフトに投資を絞る堅実路線だった
    • [40]政策論争として伝えられたが実際には裏で派閥工作が行われていた
    • [41]3人を除く役員は応援演説を求められ、いずれに付くかの選択を迫られた

採決の直前、西氏は態度を決めていない役員を個別に呼び出し、給料と昇進を材料に説得して回った[42]。結果は棄権が出て西氏の案が通り、郡司氏と塚本氏の辞表は7月3日に受理され[43]、創業3人の関係はここで切れた。塚本氏は当時をふり返り、「僕が一番反対していたのは映画と地域開発だった」と語った[44]。塚本氏はのちにインプレスを興し、同社は2000年に東京証券取引所第一部へ上場した[45]。郡司氏は個人事務所を構え[46]、アスキー株を売った資金でインターネット関連の会社へ投資する側に回った。争点は事業の選び方にあったが、決着のつけ方は多数派工作だった。

  • 週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」
    • [42]採決直前に西氏が役員を個別に呼び出し給料と昇進を材料に説得した
    • [43]採決で棄権が出て西氏の案が通り、郡司氏と塚本氏の辞表は7月3日に受理された
    • [44]塚本慶一郎氏は映画と地域開発への投資に最も反対していたと述べた
    • [46]郡司明郎氏は南青山に個人事務所を構えインターネット関連の会社へ投資していた
  • 週刊東洋経済 2000年10月21日号「復活 あのアスキー西和彦副会長が経営の第一線に復帰!?」
    • [45]塚本氏が率いるインプレスは2000年に東証一部へ上場した
  • 週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」
    • [36]公開後の多角化は映画や地域開発に向かった
    • [37]西氏は公開で得た資金で過剰な投資を行ったと後年認めている
    • [38]1991年7月1日の臨時役員会で西氏の拡大路線案と郡司・塚本両氏の堅実路線案が争われた
    • [39]郡司・塚本両氏の案は本業の出版とソフトに投資を絞る堅実路線だった
    • [40]政策論争として伝えられたが実際には裏で派閥工作が行われていた
    • [41]3人を除く役員は応援演説を求められ、いずれに付くかの選択を迫られた
    • [42]採決直前に西氏が役員を個別に呼び出し給料と昇進を材料に説得した
    • [43]採決で棄権が出て西氏の案が通り、郡司氏と塚本氏の辞表は7月3日に受理された
    • [44]塚本慶一郎氏は映画と地域開発への投資に最も反対していたと述べた
    • [46]郡司明郎氏は南青山に個人事務所を構えインターネット関連の会社へ投資していた
  • 週刊東洋経済 2000年10月21日号「復活 あのアスキー西和彦副会長が経営の第一線に復帰!?」
    • [45]塚本氏が率いるインプレスは2000年に東証一部へ上場した

1992年〜 銀行の管理下で進めた再建と、外部人材による立て直し(1992〜1997)

  1. 1992年 転換社債の発行停止に伴い銀行団の協調融資を受け実質的な管理下に
  2. 1994年 マイクロソフトと和解
  3. 1996年 経営体制をめぐる対立により役員が大量に退社
  4. 1996年 事業単位ごとに権限を委ねるカンパニー制を導入
  5. 1997年 創立20周年記念事業として一般誌『週刊アスキー』を創刊

銀行の管理下に入った再建と二度目の内紛

多額の海外投資とグループ会社の失敗で資金繰りが悪化し、1992年に転換社債の発行が止まった[47]。銀行団の協調融資を受けて以後、アスキーは実質的に銀行の管理下で再建を進め、この協調融資にともなう転換社債は164億円にのぼった[48]。有利子負債はリストラの最中も増え続け、1997年3月期にようやく448億円から414億円へ減り[49]、5年を費やして初めて減少に転じた。西社長はこの5年について、リストラがなければ自分は金儲け一辺倒で突っ走っていた[50]と述べ、社員が楽しく働ける会社にする方法を考えるようになったと語った。

  • 週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」
    • [47]1992年の転換社債発行停止に伴う銀行団の協調融資後、実質的に銀行管理下で再建を進めた
    • [48]1992年の銀行団協調融資にともなう転換社債は164億円だった
    • [49]有利子負債は1997年3月期に448億円から414億円へ初めて減少した
    • [50]西社長はリストラがなければ金儲け一辺倒で突っ走っていたと述べた

再建の途中で、経営陣はもう一度割れ、1996年6月に役員が大量に退社した[51]。発端は、カンパニー制へ移る際に出版部門を分割する案が出たことで、役員側が出版は自分たちが作ったものだと反発し[52]、西社長はこれを乗っ取りの動きと受け止めた。1991年の訣別と同じく、事業の切り分け方をめぐる対立が人の入れ替えで決着した。カンパニー制は同年10月に動き出し、6つの区分のうち4つを外部から招いた人材が率いた[53]。1997年4月には資金ショートの寸前まで行き[54]、会社の負債と社長個人の借金が債務保証で絡み合うオーナー企業のありようが、返済の重みをそのまま西社長個人へ及ぼした。

  • 週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」
    • [51]1996年6月にカンパニー制移行と出版部門の分割をめぐる対立から役員が大量退社した
    • [52]カンパニー制移行に伴う出版部門の分割案に役員側が反発した
    • [53]6つのカンパニーのうち4つのプレジデントを外部から招いた人材が務めた
  • 週刊東洋経済 1998年5月16日号「フラッシュ CSK アスキー出資の“誤算”」
    • [54]1997年4月に資金ショート寸前となり、負債と社長個人の借金が債務保証で絡むオーナー企業だった
  • 週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」
    • [47]1992年の転換社債発行停止に伴う銀行団の協調融資後、実質的に銀行管理下で再建を進めた
    • [48]1992年の銀行団協調融資にともなう転換社債は164億円だった
    • [49]有利子負債は1997年3月期に448億円から414億円へ初めて減少した
    • [50]西社長はリストラがなければ金儲け一辺倒で突っ走っていたと述べた
    • [51]1996年6月にカンパニー制移行と出版部門の分割をめぐる対立から役員が大量退社した
    • [52]カンパニー制移行に伴う出版部門の分割案に役員側が反発した
    • [53]6つのカンパニーのうち4つのプレジデントを外部から招いた人材が務めた
  • 週刊東洋経済 1998年5月16日号「フラッシュ CSK アスキー出資の“誤算”」
    • [54]1997年4月に資金ショート寸前となり、負債と社長個人の借金が債務保証で絡むオーナー企業だった

外部人材の登用と『週刊アスキー』の創刊

西社長は経営の前線から退く方針を掲げ[55]、外部から専門家を集めた。日本IBMから廣瀬禎彦氏、東京大学計算センター教授を定年退官した石田晴久氏、日本経済新聞の編集委員だった中島洋氏が加わり、日本興業銀行出身の橋本孝久副社長を含む4人が最高意思決定機関を構成した[56]。廣瀬氏はゲーム、石田氏はインターネットサービス、中島氏は研究開発の各部門を率いた[57]。西社長は社内報に、会社にいること自体が役割を果たすような存在になりたいと記した[58]。過去の失敗を自ら認めて経営を他人に委ねる決断だったが、人事抗争はこれからも起きるという声が退社した幹部からは出た[59]

  • 週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」
    • [55]西社長は前線から身を引き外部から招いた専門家に経営を委ねる方針をとった
    • [56]日本IBM出身の廣瀬禎彦氏・東大の石田晴久氏・日経の中島洋氏を招き、橋本孝久副社長と4人で経営を決めた
    • [57]廣瀬氏はエンタテインメント、石田氏はインターネットサービス、中島氏はインスティチュートのプレジデントを務めた
    • [58]西社長は社内報で自らが前線から退く方針を示した
    • [59]退社した元首脳は西氏の人格は変わらずこれからも人事抗争は起こると述べた

1997年5月、創立20周年の記念事業として一般誌『週刊アスキー』を創刊した[60]。投資額はおよそ10億円[61]で、失敗すればパソコン雑誌に戻すと西社長は説明した。同誌の不振もあって同年度の経常利益は7.6億円にとどまり、銀行団に示した借入金の返済計画はその年が71億円、翌年が67億円、翌々年が66億円である[62]。虎の子だった米AMD株も同年上期に売り尽くし[63]、返済に回せる余裕資金は残っていなかった。パソコン雑誌の専門出版社から一般誌へ広げる試みは、返済の重みに耐えられる時間を確保できないまま進んだ。

  • 週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」
    • [60]1997年5月に創立20周年記念事業として『週刊アスキー』を創刊し投資は約10億円だった
    • [61]『週刊アスキー』への投資額はおよそ10億円で、失敗すればパソコン雑誌に戻すと西社長は述べた
  • 週刊東洋経済 1998年1月17日号「企業CSK 大川王国「再編」への序章」
    • [62]借入金返済計画は3年で71億円・67億円・66億円、経常利益は7.6億円にとどまりAMD株も売却済みだった
    • [63]米AMD株を1997年度上期に売り尽くし返済に回せる余裕資金がなかった
  • 週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」
    • [55]西社長は前線から身を引き外部から招いた専門家に経営を委ねる方針をとった
    • [56]日本IBM出身の廣瀬禎彦氏・東大の石田晴久氏・日経の中島洋氏を招き、橋本孝久副社長と4人で経営を決めた
    • [57]廣瀬氏はエンタテインメント、石田氏はインターネットサービス、中島氏はインスティチュートのプレジデントを務めた
    • [58]西社長は社内報で自らが前線から退く方針を示した
    • [59]退社した元首脳は西氏の人格は変わらずこれからも人事抗争は起こると述べた
    • [60]1997年5月に創立20周年記念事業として『週刊アスキー』を創刊し投資は約10億円だった
    • [61]『週刊アスキー』への投資額はおよそ10億円で、失敗すればパソコン雑誌に戻すと西社長は述べた
  • 週刊東洋経済 1998年1月17日号「企業CSK 大川王国「再編」への序章」
    • [62]借入金返済計画は3年で71億円・67億円・66億円、経常利益は7.6億円にとどまりAMD株も売却済みだった
    • [63]米AMD株を1997年度上期に売り尽くし返済に回せる余裕資金がなかった

1997年〜 CSKグループ入りから、ユニゾン・キャピタルへの譲渡と退場(1997〜2002)

  1. 1997年 創立20周年記念事業として一般誌『週刊アスキー』を創刊
  2. 1998年 債務超過の責任を負い西和彦氏が社長を退任
  3. 1998年 CSKグループからの95億円の第三者割当増資の受け入れ 誰の資本を入れるか——続投を保証する相手を選んだ先に何が起きたか
  4. 1998年 特別損失455億円を計上し132億円の債務超過に転落
  5. 2001年 西和彦氏が取締役を退任し特別顧問に就任
  6. 2001年 ユニゾン・キャピタルへの経営権譲渡で基本合意
  7. 2002年 90パーセント減資とユニゾン・キャピタルへの第三者割当増資により上場廃止

CSKグループからの出資と債務超過への転落

1997年11月ごろ、主力銀行の日本興業銀行はアスキーの出資先候補として松下電器産業、ダイエー、任天堂の3社を挙げた[64]。西社長はこのうちオーナー系ではなく、自身の続投を最も保証してくれそうな松下に近づいた[65]が、色よい返事は得られなかった。次に頼ったのが、10年以上前から親交のあったCSK会長の大川功氏[66]である。12月24日夜、赤坂で両社の首脳が会い、アスキーが1998年1月に行う95億円の第三者割当増資をCSK側が引き受けることが決まった[67]。CSKとセガと大川氏で株式の45%を握り[68]、アスキーはCSKグループに入った。

  • 週刊東洋経済 1998年1月17日号「企業CSK 大川王国「再編」への序章」
    • [64]興銀は松下電器産業・ダイエー・任天堂を出資先候補に挙げ、西社長は松下に接触したが不調だった
    • [65]西社長はオーナー系でなく自身の続投を最も保証してくれそうな松下に接触した
    • [66]西社長は10年以上前から知る大川功CSK会長を頼った
    • [67]1997年12月24日のトップ会談を経て1998年1月の95億円増資をCSK側が引き受け、45%を握った
    • [68]CSK・セガ・大川会長で計45%の株式を握りアスキーはCSKグループに入った

大川氏にとってアスキーへの出資は、セガの次世代ゲーム機を支える人材の確保という面を持っていた[69]。日本IBM出身の廣瀬禎彦専務を得ることが目的の一つで、100億円で人を借りたようなものだという受け止めが社内にはあった[70]。大川氏は当初、個人で全額を出資する予定だったが、個人筆頭株主の座は譲れないという西社長の要請を容れ、CSKとセガを通じた出資に切り替えた[71]。この変更がのちに株主への説明を難しくした[72]。資産家である大川氏が単独で出資し、再建が進んでからCSKとセガへ株式を売る方法もありえた[73]からである。

  • 週刊東洋経済 1998年5月16日号「フラッシュ CSK アスキー出資の“誤算”」
    • [69]大川氏はセガの次世代ゲーム機開発のため廣瀬専務を早期に必要としていた
    • [70]廣瀬専務の獲得が出資の動機の一つで、100億円で人を借りたとの受け止めがあった
    • [71]大川氏は個人で全額出資する予定だったが西社長の要請でCSK・セガを通じた出資に変えた
    • [72]CSK・セガの株主から背任で代表訴訟が提起される恐れが指摘された
    • [73]大川氏が単独出資し再建後にCSK・セガへ株式を売る方法もありえたと指摘された

出資の条件として、アスキーは1997年12月に関連会社への出資金放棄など151億円の特別損失を計上した[74]。CSKの福島吉治社長は「出資の条件として徹底的に損を出させた」と述べ、将来は利益を生むかもしれない部分まで切ったと説明し、経営は基本的に西社長以下の現経営陣へ任せる予定であった[75]。ところが4カ月後、特別損失はさらに243億円積み増され、1998年3月期の特別損失は455億円に膨らみ、132億円の債務超過に転落した[76]。大川氏は「半分驚き、半分あきれた」と語り[77]、西氏は債務超過の責任を負って社長を退いて取締役に降格した。

  • 週刊東洋経済 1998年5月16日号「フラッシュ CSK アスキー出資の“誤算”」
    • [74]1997年12月に関連会社への出資金放棄など151億円の特別損失を計上した
    • [75]出資時点では経営を西社長以下の現経営陣に任せる予定だった
    • [76]特別損失は151億円から243億円積み増され455億円となり132億円の債務超過に転落した
    • [77]大川氏は損失額の食い違いについて「半分驚き、半分あきれた」と述べた
  • 週刊東洋経済 1998年1月17日号「企業CSK 大川王国「再編」への序章」
    • [64]興銀は松下電器産業・ダイエー・任天堂を出資先候補に挙げ、西社長は松下に接触したが不調だった
    • [65]西社長はオーナー系でなく自身の続投を最も保証してくれそうな松下に接触した
    • [66]西社長は10年以上前から知る大川功CSK会長を頼った
    • [67]1997年12月24日のトップ会談を経て1998年1月の95億円増資をCSK側が引き受け、45%を握った
    • [68]CSK・セガ・大川会長で計45%の株式を握りアスキーはCSKグループに入った
  • 週刊東洋経済 1998年5月16日号「フラッシュ CSK アスキー出資の“誤算”」
    • [69]大川氏はセガの次世代ゲーム機開発のため廣瀬専務を早期に必要としていた
    • [70]廣瀬専務の獲得が出資の動機の一つで、100億円で人を借りたとの受け止めがあった
    • [71]大川氏は個人で全額出資する予定だったが西社長の要請でCSK・セガを通じた出資に変えた
    • [72]CSK・セガの株主から背任で代表訴訟が提起される恐れが指摘された
    • [73]大川氏が単独出資し再建後にCSK・セガへ株式を売る方法もありえたと指摘された
    • [74]1997年12月に関連会社への出資金放棄など151億円の特別損失を計上した
    • [75]出資時点では経営を西社長以下の現経営陣に任せる予定だった
    • [76]特別損失は151億円から243億円積み増され455億円となり132億円の債務超過に転落した
    • [77]大川氏は損失額の食い違いについて「半分驚き、半分あきれた」と述べた

経営責任の所在と店頭登録廃止の瀬戸際

西氏個人にも負債が残った[78]。CSKが出資する際、アスキーで利益を生んでいない不良債権の部分を西氏が個人で引き取っており、その額はおよそ40億円にのぼる[79]。会社がよくなれば株価が上がり、その株で不良債権を償却できると考えていたと本人はのちに述べた[80]。保有株は最盛期に300億円の評価があったが、150万株を一度も売らなかった[81]ため手元には残らず、以後20年以上にわたって借金を抱えた。創業者が会社の損失を個人で引き受ける形は、株式を公開した企業のものというより、公開前のオーナー企業のそれに近かった。

  • 週刊東洋経済 2023年6月24日号「伝説の起業家が見た天国と地獄 アスキー創業者 西和彦」
    • [78]西氏はアスキーの不良債権部分を個人で引き取り借金を負った
    • [79]西氏はアスキーの不良債権部分を個人で引き取り約40億円の借金を負った
    • [80]会社がよくなれば株価が上がりその株で不良債権を償却できると考えていたと西氏は述べた
    • [81]保有株はピーク時300億円の評価だったが150万株を売らなかった

1999年、アスキーは店頭登録の廃止という期限に直面した[82]。1998年度は2期ぶりに経常黒字へ戻ったものの、パソコン雑誌の伸び悩みとゲームの発売遅れで最終利益を8億円から5,000万円へ下方修正し、連結では15億円の赤字が確実だった[83]。1999年度中に債務超過を解消できなければ登録は取り消される決まりで、期首の債務超過は123億円あり[84]、期間利益での解消は見込めなかった。CSK出身の鈴木憲一社長は興銀など6行と交渉し、借入金のうち200億円を無担保転換社債へ振り替えた[85]。転換価格は1,400円で[86]、株価がこれを上回って転換が進めば債務超過が減る仕組みである。同年2月に600円台だった株価は、4月末に1,200円まで戻した[87]

  • 週刊東洋経済 1999年5月15日号「皮算用 店頭登録廃止の危機に連結赤字でも余裕? アスキーの“秘策”とは」
    • [82]アスキーは店頭登録廃止の瀬戸際にあった
    • [83]1998年度は経常黒字に転換したが最終利益を8億円から5,000万円へ下方修正し連結は15億円の赤字だった
    • [84]1998年度期首の債務超過は123億円で期間利益での解消は絶望的だった
    • [85]1999年度中に債務超過を解消できなければ店頭登録が廃止される状況で、200億円を無担保転換社債に振り替えた
    • [86]無担保転換社債の転換価格は1,400円だった
    • [87]株価は1999年2月の600円台から4月末に1,200円へ上昇した

債務超過の解消は、本業の利益ではなく株価に託された[88]。子会社のアスキーECは1999年7月下旬にインターネットの玄関サイトを立ち上げる計画を立て、広告収入に依存するヤフーとは違う形として、商品の仕入れ販売と仲介販売を柱に据えた[89]。初年度の売上高は27億円を見込み[90]、ヤフーの1998年度の売上高19億円を上回る計画である。株価が転換価格を超えて転換が進めば債務超過が減り、増資などその後の資本政策の選択肢も広がるという筋書きだった[91]。返済の重みを事業の利益で減らすのではなく、市場の評価によって軽くしようとする組み立てである。

  • 週刊東洋経済 1999年5月15日号「皮算用 店頭登録廃止の危機に連結赤字でも余裕? アスキーの“秘策”とは」
    • [88]期間利益による債務超過の解消は見込めず株価上昇による転換に望みが託された
    • [89]アスキーECは広告依存のヤフーとは異なり商品の仕入れ販売と仲介販売を柱に据えた
    • [90]アスキーECは1999年7月下旬にポータルサイトを立ち上げ、初年度売上高27億円を計画した
    • [91]株式転換が進めば債務超過が減り資本政策の選択肢も広がると鈴木社長は述べた
  • 週刊東洋経済 2023年6月24日号「伝説の起業家が見た天国と地獄 アスキー創業者 西和彦」
    • [78]西氏はアスキーの不良債権部分を個人で引き取り借金を負った
    • [79]西氏はアスキーの不良債権部分を個人で引き取り約40億円の借金を負った
    • [80]会社がよくなれば株価が上がりその株で不良債権を償却できると考えていたと西氏は述べた
    • [81]保有株はピーク時300億円の評価だったが150万株を売らなかった
  • 週刊東洋経済 1999年5月15日号「皮算用 店頭登録廃止の危機に連結赤字でも余裕? アスキーの“秘策”とは」
    • [82]アスキーは店頭登録廃止の瀬戸際にあった
    • [83]1998年度は経常黒字に転換したが最終利益を8億円から5,000万円へ下方修正し連結は15億円の赤字だった
    • [84]1998年度期首の債務超過は123億円で期間利益での解消は絶望的だった
    • [85]1999年度中に債務超過を解消できなければ店頭登録が廃止される状況で、200億円を無担保転換社債に振り替えた
    • [86]無担保転換社債の転換価格は1,400円だった
    • [87]株価は1999年2月の600円台から4月末に1,200円へ上昇した
    • [88]期間利益による債務超過の解消は見込めず株価上昇による転換に望みが託された
    • [89]アスキーECは広告依存のヤフーとは異なり商品の仕入れ販売と仲介販売を柱に据えた
    • [90]アスキーECは1999年7月下旬にポータルサイトを立ち上げ、初年度売上高27億円を計画した
    • [91]株式転換が進めば債務超過が減り資本政策の選択肢も広がると鈴木社長は述べた

大川功氏の死とユニゾン・キャピタルへの譲渡

2001年3月16日に大川氏が死去し、同年5月11日には西氏がアスキーの取締役を退いた[92]。3年間保留になっていた死刑が執行されたようなものだ[93]と本人は述べ、1998年に社長を退いた時点で本来は取締役に残れなかったところを大川氏の配慮で続けられたと明かした。7月、CSKの青園雅紘社長は資本関係の再編に言及し、セガとCSK・エレクトロニクスとアスキーの3社が連結欠損金622億円の主因であり、これ以上の増資による支援は行わないと明言した[94]。出資を決めた当人が去ったことが、アスキーの帰属先を変える直接の理由になった。

  • 週刊東洋経済 2001年7月21日号「インタビュー アスキー特別顧問/西和彦 教育コンテンツで再挑戦したい」
    • [92]西氏は2001年5月11日に取締役を退任し、大川氏の配慮で3年間取締役に残っていたと述べた
    • [93]西氏は取締役退任を3年間保留された死刑の執行にたとえ、大川氏の配慮で残れていたと述べた
  • 週刊東洋経済 2001年8月4日号「売却 CSKのグループ再編対象はセガ、アスキー?」
    • [94]セガ・CSKエレクトロニクス・アスキーの3社が連結欠損金622億円の主因で、CSKは追加支援をしないと明言した

アスキーへの出資はもともと、セガの家庭用ゲーム機「ドリームキャスト」を支えるためのものだった[95]。その機種からセガが撤退した以上[96]、CSKがアスキーを持ち続ける理由は乏しくなっていた。2001年10月末、CSKは代理人を通じてユニゾン・キャピタルに経営権の譲渡を打診し、短期間の資産査定を経て11月26日に基本合意した[97]。ユニゾンは米ゴールドマン・サックスの日本法人立ち上げに加わった江原伸好氏らが設立した運用会社である[98]。新しいアスキーの経営に西氏が加わることはなく、鈴木社長も翌年3月末をめどに退く見通しとなった[99]

  • 週刊東洋経済 2001年8月4日号「売却 CSKのグループ再編対象はセガ、アスキー?」
    • [95]アスキーへの資本参加はドリームキャストを支えるためのもので、その意味が失われていた
    • [96]セガはドリームキャストから撤退し、CSKがアスキーを持つ意味はほとんどなくなった
  • 週刊東洋経済 2001年12月8日号「CSKグループ アスキー出直し、社長も交代へ」
    • [97]2001年10月末に打診し11月26日に基本合意、西氏と鈴木社長は新体制に加わらない
    • [98]ユニゾン・キャピタルは米ゴールドマン・サックス日本法人の立ち上げに加わった江原伸好氏らが設立した
    • [99]鈴木憲一社長は2002年3月末をめどに退任する公算だった

譲渡の手続きは、会社更生法の適用下で行う再建に近いものだった[100]。CSKは保有する51.7%の株式をアスキーへ無償で譲渡し[101]、アスキーはこれを消却したうえで90%の減資を実施した。そのうえでユニゾンが2度の増資を引き受け、持株比率はおよそ95%に達した[102]。CSKは268億円の経営移行損失と、約70億円の債権放棄[103]を計上した。事業はIT関連出版のアスキーとゲーム雑誌出版のエンターブレインに分けられ[104]、持株会社の下に置かれた。1977年に3人で興した会社は、創業から25年で株式市場から退場した[105]

  • 週刊東洋経済 2001年12月8日号「CSKグループ アスキー出直し、社長も交代へ」
    • [100]譲渡のスキームは会社更生法適用下の再建に近いものだった
    • [104]事業はアスキーとエンターブレインの2社に分けられ持株会社の下に再編された
  • 週刊東洋経済 2002年3月9日号「グループ再編 CSKの痛みを伴う構造改革」
    • [101]CSK保有株51.7%を無償譲渡・消却し90%減資、ユニゾンが2度の増資で約95%を保有した
    • [102]ユニゾンは2度の増資を引き受け持株比率は約95%となった
    • [103]CSKは268億円の経営移行損失と約70億円の債権放棄を計上した
    • [105]1977年創業のアスキーは2002年に非上場化され株式市場から姿を消した
  • 週刊東洋経済 2001年7月21日号「インタビュー アスキー特別顧問/西和彦 教育コンテンツで再挑戦したい」
    • [92]西氏は2001年5月11日に取締役を退任し、大川氏の配慮で3年間取締役に残っていたと述べた
    • [93]西氏は取締役退任を3年間保留された死刑の執行にたとえ、大川氏の配慮で残れていたと述べた
  • 週刊東洋経済 2001年8月4日号「売却 CSKのグループ再編対象はセガ、アスキー?」
    • [94]セガ・CSKエレクトロニクス・アスキーの3社が連結欠損金622億円の主因で、CSKは追加支援をしないと明言した
    • [95]アスキーへの資本参加はドリームキャストを支えるためのもので、その意味が失われていた
    • [96]セガはドリームキャストから撤退し、CSKがアスキーを持つ意味はほとんどなくなった
  • 週刊東洋経済 2001年12月8日号「CSKグループ アスキー出直し、社長も交代へ」
    • [97]2001年10月末に打診し11月26日に基本合意、西氏と鈴木社長は新体制に加わらない
    • [98]ユニゾン・キャピタルは米ゴールドマン・サックス日本法人の立ち上げに加わった江原伸好氏らが設立した
    • [99]鈴木憲一社長は2002年3月末をめどに退任する公算だった
    • [100]譲渡のスキームは会社更生法適用下の再建に近いものだった
    • [104]事業はアスキーとエンターブレインの2社に分けられ持株会社の下に再編された
  • 週刊東洋経済 2002年3月9日号「グループ再編 CSKの痛みを伴う構造改革」
    • [101]CSK保有株51.7%を無償譲渡・消却し90%減資、ユニゾンが2度の増資で約95%を保有した
    • [102]ユニゾンは2度の増資を引き受け持株比率は約95%となった
    • [103]CSKは268億円の経営移行損失と約70億円の債権放棄を計上した
    • [105]1977年創業のアスキーは2002年に非上場化され株式市場から姿を消した

アスキーの沿革1977〜2002年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
西和彦氏ら3名がアスキー出版を設立★★★
パソコン統一規格「MSX」の提唱と国産メーカーの結集規格の主導権を握るか、代理店として稼ぎ続けるか——マイクロソフトとの距離をめぐる選択 詳細を読む★★★
日本初のパソコン通信網「アスキーネット」を開始★★
マイクロソフトとの極東総代理店契約を解消★★
西和彦氏が社長に就任★★
川崎に研究開発拠点用地2,000坪を12億円で取得
株式を店頭公開
映画・地域開発を含む拡大路線の採用と、創業メンバー2名の退任本業に絞るか、公開資金で広げるか——採決を分けた1票 詳細を読む★★★
転換社債の発行停止に伴い銀行団の協調融資を受け実質的な管理下に★★
マイクロソフトと和解
経営体制をめぐる対立により役員が大量に退社★★
事業単位ごとに権限を委ねるカンパニー制を導入
創立20周年記念事業として一般誌『週刊アスキー』を創刊★★
債務超過の責任を負い西和彦氏が社長を退任★★
借入金のうち200億円を無担保転換社債へ振り替え
CSKグループからの95億円の第三者割当増資の受け入れ誰の資本を入れるか——続投を保証する相手を選んだ先に何が起きたか 詳細を読む★★★
特別損失455億円を計上し132億円の債務超過に転落★★
西和彦氏が取締役を退任し特別顧問に就任★★
ユニゾン・キャピタルへの経営権譲渡で基本合意★★
90パーセント減資とユニゾン・キャピタルへの第三者割当増資により上場廃止★★★
出典・参考
  • 週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」
  • 週刊東洋経済 2001年7月21日号「インタビュー アスキー特別顧問/西和彦 教育コンテンツで再挑戦したい」
  • 近代中小企業 1991年10月号(中小企業経営研究会)
  • 証券アナリストジャーナル 1989年11月号
  • 証券アナリストジャーナル 1989年11月号「アスキー」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1989年10月9日講演要旨)
  • 週刊東洋経済 2023年6月24日号「伝説の起業家が見た天国と地獄 アスキー創業者 西和彦」
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)
  • 週刊東洋経済 2005年1月8日号「2005年に挑む40代経営者」
  • 週刊東洋経済 2000年10月21日号「復活 あのアスキー西和彦副会長が経営の第一線に復帰!?」
  • 週刊東洋経済 1998年5月16日号「フラッシュ CSK アスキー出資の“誤算”」
  • 週刊東洋経済 1998年1月17日号「企業CSK 大川王国「再編」への序章」
  • 週刊東洋経済 1999年5月15日号「皮算用 店頭登録廃止の危機に連結赤字でも余裕? アスキーの“秘策”とは」
  • 週刊東洋経済 2001年8月4日号「売却 CSKのグループ再編対象はセガ、アスキー?」
  • 週刊東洋経済 2001年12月8日号「CSKグループ アスキー出直し、社長も交代へ」
  • 週刊東洋経済 2002年3月9日号「グループ再編 CSKの痛みを伴う構造改革」

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