{"title":"アスキーの歴史概略","sections":[{"start_year":1977,"end_year":1986,"main_title":"技術誌の編集者3人が興した会社とパソコン産業の草創期（1977〜1986）","subsections":[{"title":"技術誌の編集部からの独立と出版の事業化","text":"1977年、技術誌『I/O』を出していた4人のうち3人が編集部を離れ、新しい出版社を興した。早稲田大学に在学していた西和彦氏、郡司明郎氏、塚本慶一郎氏の3人であり、残る1人はのちに工学社社長となる星正明氏だった。西氏と星氏の対立が分裂を招き、飛び出した3人は東京・南青山のマンションの一室を拠点に、学生ベンチャーとして事業を始めた。1956年に神戸市で生まれた西氏は、創業の年に21歳を迎えた。創業当初に創刊したパソコン雑誌『アスキー』が大きく売れ、同社はそこからソフトウェア開発、LSI設計、通信ネットワークの構築へと事業を広げ、以後20年にわたって日本のパソコン産業の中心に位置した。\n\n出版は創業から一貫して収益の中心にあり、『月刊アスキー』に続いて『ログイン』『MSXマガジン』『UNIXマガジン』を刊行し、書籍も年間数十点の速さで出した。単行本の制作にコンピューターを使う体制を創業当初から社内に敷いたことで製作費と製作期間を削り、数を増やしにくい編集者の仕事量を倍にできたと西社長は説明した。1985年には日本で最初のパソコン通信網「アスキーネット」を始め、電子メディアで情報を届ける新しい出版の形を求めた。雑誌と書籍で得た読者を、そのまま次の媒体へ運ぶ試みだった。","references":[{"title":"週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年7月21日号「インタビュー アスキー特別顧問／西和彦 教育コンテンツで再挑戦したい」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2023年6月24日号「伝説の起業家が見た天国と地獄 アスキー創業者 西和彦」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1989年11月号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"近代中小企業 1991年10月号（中小企業経営研究会）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"マイクロソフトとの提携とMSX規格の提唱","text":"アスキーの名を業界に知らしめたのは、出版よりもマイクロソフトとの関係だった。雑誌の成功で勢いを得た3人は米マイクロソフトと提携し、極東代理店としてアスキーマイクロソフトを設立してパソコンソフト事業へ参入した。同社のBASICを販売して日本のパソコン産業が立ち上がる時期に深く関与し、西氏自身もマイクロソフトへ出向して副社長を務めた。ビル・ゲイツ氏との個人的な結びつきは、のちに両社が決別したあとも切れなかった。マイクロソフト日本法人の社長を務めた成毛真氏は、ゲイツ氏にとって西氏は「最大の恩人」であり死ぬまで親友だろうと述べた。\n\n1983年6月、西氏はばらばらだった国内のパソコン仕様を統一する規格として「MSX」を提唱した。松下電器産業をはじめとする国産メーカーがこの規格のもとに集まり、まだ20代後半だった西氏の手腕に業界の注目が集まった。異を唱えたのは同年代の孫正義氏で、ソード社長の椎名尭慶氏らとともに対抗する統一案を発表し、ソフトハウスから多額の使用料を取るのは業界の慣習としておかしいと主張した。もっともこの正論の裏には、MSXの開発ツールをめぐる孫氏からの申し入れを西氏が断ったといういきさつもあり、対抗案は完成しないまま西氏がこの場を押し切った。\n\nMSXは結局ゲーム用途にとどまり、広くは普及しなかった。より重い代償は規格の側ではなく本業に生じ、西氏がMSXへ傾斜したことでアスキーはマイクロソフト製品を売ってくれないとゲイツ氏が不満を示し、これが1986年3月の総代理店契約の解消を招く一因となった。マイクロソフトはこののち日本に100%出資の新会社を設立し、自ら市場の開拓に乗り出した。創業から10年で築いた最大の収益源を、アスキーは自らの規格戦略と引き換えに手放した。両社が和解したのは1994年で、その間に日本のパソコン市場は米国勢の手で開かれた。","references":[{"title":"週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年7月21日号「インタビュー アスキー特別顧問／西和彦 教育コンテンツで再挑戦したい」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2023年6月24日号「伝説の起業家が見た天国と地獄 アスキー創業者 西和彦」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1989年11月号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"近代中小企業 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あのアスキー西和彦副会長が経営の第一線に復帰！？」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年7月21日号「インタビュー アスキー特別顧問／西和彦 教育コンテンツで再挑戦したい」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2005年1月8日号「2005年に挑む40代経営者」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1989年11月号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"拡大路線をめぐる創業メンバー3人の訣別","text":"公開で得た資金は、映画や地域開発を含む多角化に向かった。西氏は後年、社長になって最初の5年は公開で手に入った資金で「いろいろとやり過ぎた」と認めた。方針の違いは1991年7月1日の臨時役員会で決着がつき、役員には2つの経営計画案が配られた。西氏の案は映画などマルチメディアへ積極的に投資する拡大路線、郡司氏と塚本氏の案は本業の出版とソフトに投資を絞る堅実路線である。政策論争として伝えられてきたが、実際には採決の前から役員への働きかけが行われていた。3人を除く役員は応援演説を求められ、どちらに付くかの選択を迫られていた。\n\n採決の直前、西氏は態度を決めていない役員を個別に呼び出し、給料と昇進を材料に説得して回った。結果は棄権が出て西氏の案が通り、郡司氏と塚本氏の辞表は7月3日に受理され、創業3人の関係はここで切れた。塚本氏は当時をふり返り、「僕が一番反対していたのは映画と地域開発だった」と語った。塚本氏はのちにインプレスを興し、同社は2000年に東京証券取引所第一部へ上場した。郡司氏は個人事務所を構え、アスキー株を売った資金でインターネット関連の会社へ投資する側に回った。争点は事業の選び方にあったが、決着のつけ方は多数派工作だった。","references":[{"title":"週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年10月21日号「復活 あのアスキー西和彦副会長が経営の第一線に復帰！？」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年7月21日号「インタビュー アスキー特別顧問／西和彦 教育コンテンツで再挑戦したい」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2005年1月8日号「2005年に挑む40代経営者」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1989年11月号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1992,"end_year":1997,"main_title":"銀行の管理下で進めた再建と、外部人材による立て直し（1992〜1997）","subsections":[{"title":"銀行の管理下に入った再建と二度目の内紛","text":"多額の海外投資とグループ会社の失敗で資金繰りが悪化し、1992年に転換社債の発行が止まった。銀行団の協調融資を受けて以後、アスキーは実質的に銀行の管理下で再建を進め、この協調融資にともなう転換社債は164億円にのぼった。有利子負債はリストラの最中も増え続け、1997年3月期にようやく448億円から414億円へ減り、5年を費やして初めて減少に転じた。西社長はこの5年について、リストラがなければ自分は金儲け一辺倒で突っ走っていたと述べ、社員が楽しく働ける会社にする方法を考えるようになったと語った。\n\n再建の途中で、経営陣はもう一度割れ、1996年6月に役員が大量に退社した。発端は、カンパニー制へ移る際に出版部門を分割する案が出たことで、役員側が出版は自分たちが作ったものだと反発し、西社長はこれを乗っ取りの動きと受け止めた。1991年の訣別と同じく、事業の切り分け方をめぐる対立が人の入れ替えで決着した。カンパニー制は同年10月に動き出し、6つの区分のうち4つを外部から招いた人材が率いた。1997年4月には資金ショートの寸前まで行き、会社の負債と社長個人の借金が債務保証で絡み合うオーナー企業のありようが、返済の重みをそのまま西社長個人へ及ぼした。","references":[{"title":"週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年1月17日号「企業CSK 大川王国「再編」への序章」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年5月16日号「フラッシュ CSK アスキー出資の“誤算”」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"外部人材の登用と『週刊アスキー』の創刊","text":"西社長は経営の前線から退く方針を掲げ、外部から専門家を集めた。日本IBMから廣瀬禎彦氏、東京大学計算センター教授を定年退官した石田晴久氏、日本経済新聞の編集委員だった中島洋氏が加わり、日本興業銀行出身の橋本孝久副社長を含む4人が最高意思決定機関を構成した。廣瀬氏はゲーム、石田氏はインターネットサービス、中島氏は研究開発の各部門を率いた。西社長は社内報に、会社にいること自体が役割を果たすような存在になりたいと記した。過去の失敗を自ら認めて経営を他人に委ねる決断だったが、人事抗争はこれからも起きるという声が退社した幹部からは出た。\n\n1997年5月、創立20周年の記念事業として一般誌『週刊アスキー』を創刊した。投資額はおよそ10億円で、失敗すればパソコン雑誌に戻すと西社長は説明した。同誌の不振もあって同年度の経常利益は7.6億円にとどまり、銀行団に示した借入金の返済計画はその年が71億円、翌年が67億円、翌々年が66億円である。虎の子だった米AMD株も同年上期に売り尽くし、返済に回せる余裕資金は残っていなかった。パソコン雑誌の専門出版社から一般誌へ広げる試みは、返済の重みに耐えられる時間を確保できないまま進んだ。","references":[{"title":"週刊東洋経済 1997年7月26日号「企業アスキー西和彦 20年目の出直し」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年1月17日号「企業CSK 大川王国「再編」への序章」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年5月16日号「フラッシュ CSK アスキー出資の“誤算”」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1997,"end_year":2002,"main_title":"CSKグループ入りから、ユニゾン・キャピタルへの譲渡と退場（1997〜2002）","subsections":[{"title":"CSKグループからの出資と債務超過への転落","text":"1997年11月ごろ、主力銀行の日本興業銀行はアスキーの出資先候補として松下電器産業、ダイエー、任天堂の3社を挙げた。西社長はこのうちオーナー系ではなく、自身の続投を最も保証してくれそうな松下に近づいたが、色よい返事は得られなかった。次に頼ったのが、10年以上前から親交のあったCSK会長の大川功氏である。12月24日夜、赤坂で両社の首脳が会い、アスキーが1998年1月に行う95億円の第三者割当増資をCSK側が引き受けることが決まった。CSKとセガと大川氏で株式の45%を握り、アスキーはCSKグループに入った。\n\n大川氏にとってアスキーへの出資は、セガの次世代ゲーム機を支える人材の確保という面を持っていた。日本IBM出身の廣瀬禎彦専務を得ることが目的の一つで、100億円で人を借りたようなものだという受け止めが社内にはあった。大川氏は当初、個人で全額を出資する予定だったが、個人筆頭株主の座は譲れないという西社長の要請を容れ、CSKとセガを通じた出資に切り替えた。この変更がのちに株主への説明を難しくした。資産家である大川氏が単独で出資し、再建が進んでからCSKとセガへ株式を売る方法もありえたからである。\n\n出資の条件として、アスキーは1997年12月に関連会社への出資金放棄など151億円の特別損失を計上した。CSKの福島吉治社長は「出資の条件として徹底的に損を出させた」と述べ、将来は利益を生むかもしれない部分まで切ったと説明し、経営は基本的に西社長以下の現経営陣へ任せる予定であった。ところが4カ月後、特別損失はさらに243億円積み増され、1998年3月期の特別損失は455億円に膨らみ、132億円の債務超過に転落した。大川氏は「半分驚き、半分あきれた」と語り、西氏は債務超過の責任を負って社長を退いて取締役に降格した。","references":[{"title":"週刊東洋経済 1998年1月17日号「企業CSK 大川王国「再編」への序章」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年5月16日号「フラッシュ CSK アスキー出資の“誤算”」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年5月15日号「皮算用 店頭登録廃止の危機に連結赤字でも余裕？ アスキーの“秘策”とは」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年7月21日号「インタビュー アスキー特別顧問／西和彦 教育コンテンツで再挑戦したい」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年8月4日号「売却 CSKのグループ再編対象はセガ、アスキー？」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年12月8日号「CSKグループ アスキー出直し、社長も交代へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年3月9日号「グループ再編 CSKの痛みを伴う構造改革」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2023年6月24日号「伝説の起業家が見た天国と地獄 アスキー創業者 西和彦」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"経営責任の所在と店頭登録廃止の瀬戸際","text":"西氏個人にも負債が残った。CSKが出資する際、アスキーで利益を生んでいない不良債権の部分を西氏が個人で引き取っており、その額はおよそ40億円にのぼる。会社がよくなれば株価が上がり、その株で不良債権を償却できると考えていたと本人はのちに述べた。保有株は最盛期に300億円の評価があったが、150万株を一度も売らなかったため手元には残らず、以後20年以上にわたって借金を抱えた。創業者が会社の損失を個人で引き受ける形は、株式を公開した企業のものというより、公開前のオーナー企業のそれに近かった。\n\n1999年、アスキーは店頭登録の廃止という期限に直面した。1998年度は2期ぶりに経常黒字へ戻ったものの、パソコン雑誌の伸び悩みとゲームの発売遅れで最終利益を8億円から5,000万円へ下方修正し、連結では15億円の赤字が確実だった。1999年度中に債務超過を解消できなければ登録は取り消される決まりで、期首の債務超過は123億円あり、期間利益での解消は見込めなかった。CSK出身の鈴木憲一社長は興銀など6行と交渉し、借入金のうち200億円を無担保転換社債へ振り替えた。転換価格は1,400円で、株価がこれを上回って転換が進めば債務超過が減る仕組みである。同年2月に600円台だった株価は、4月末に1,200円まで戻した。\n\n債務超過の解消は、本業の利益ではなく株価に託された。子会社のアスキーECは1999年7月下旬にインターネットの玄関サイトを立ち上げる計画を立て、広告収入に依存するヤフーとは違う形として、商品の仕入れ販売と仲介販売を柱に据えた。初年度の売上高は27億円を見込み、ヤフーの1998年度の売上高19億円を上回る計画である。株価が転換価格を超えて転換が進めば債務超過が減り、増資などその後の資本政策の選択肢も広がるという筋書きだった。返済の重みを事業の利益で減らすのではなく、市場の評価によって軽くしようとする組み立てである。","references":[{"title":"週刊東洋経済 1998年1月17日号「企業CSK 大川王国「再編」への序章」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年5月16日号「フラッシュ CSK アスキー出資の“誤算”」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年5月15日号「皮算用 店頭登録廃止の危機に連結赤字でも余裕？ アスキーの“秘策”とは」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年7月21日号「インタビュー アスキー特別顧問／西和彦 教育コンテンツで再挑戦したい」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年8月4日号「売却 CSKのグループ再編対象はセガ、アスキー？」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年12月8日号「CSKグループ アスキー出直し、社長も交代へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年3月9日号「グループ再編 CSKの痛みを伴う構造改革」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2023年6月24日号「伝説の起業家が見た天国と地獄 アスキー創業者 西和彦」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"大川功氏の死とユニゾン・キャピタルへの譲渡","text":"2001年3月16日に大川氏が死去し、同年5月11日には西氏がアスキーの取締役を退いた。3年間保留になっていた死刑が執行されたようなものだと本人は述べ、1998年に社長を退いた時点で本来は取締役に残れなかったところを大川氏の配慮で続けられたと明かした。7月、CSKの青園雅紘社長は資本関係の再編に言及し、セガとCSK・エレクトロニクスとアスキーの3社が連結欠損金622億円の主因であり、これ以上の増資による支援は行わないと明言した。出資を決めた当人が去ったことが、アスキーの帰属先を変える直接の理由になった。\n\nアスキーへの出資はもともと、セガの家庭用ゲーム機「ドリームキャスト」を支えるためのものだった。その機種からセガが撤退した以上、CSKがアスキーを持ち続ける理由は乏しくなっていた。2001年10月末、CSKは代理人を通じてユニゾン・キャピタルに経営権の譲渡を打診し、短期間の資産査定を経て11月26日に基本合意した。ユニゾンは米ゴールドマン・サックスの日本法人立ち上げに加わった江原伸好氏らが設立した運用会社である。新しいアスキーの経営に西氏が加わることはなく、鈴木社長も翌年3月末をめどに退く見通しとなった。\n\n譲渡の手続きは、会社更生法の適用下で行う再建に近いものだった。CSKは保有する51.7%の株式をアスキーへ無償で譲渡し、アスキーはこれを消却したうえで90%の減資を実施した。そのうえでユニゾンが2度の増資を引き受け、持株比率はおよそ95%に達した。CSKは268億円の経営移行損失と、約70億円の債権放棄を計上した。事業はIT関連出版のアスキーとゲーム雑誌出版のエンターブレインに分けられ、持株会社の下に置かれた。1977年に3人で興した会社は、創業から25年で株式市場から退場した。","references":[{"title":"週刊東洋経済 1998年1月17日号「企業CSK 大川王国「再編」への序章」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年5月16日号「フラッシュ CSK アスキー出資の“誤算”」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年5月15日号「皮算用 店頭登録廃止の危機に連結赤字でも余裕？ アスキーの“秘策”とは」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年7月21日号「インタビュー アスキー特別顧問／西和彦 教育コンテンツで再挑戦したい」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年8月4日号「売却 CSKのグループ再編対象はセガ、アスキー？」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年12月8日号「CSKグループ アスキー出直し、社長も交代へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年3月9日号「グループ再編 CSKの痛みを伴う構造改革」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2023年6月24日号「伝説の起業家が見た天国と地獄 アスキー創業者 西和彦」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]}],"summary":{"title":"サマリー","text":"","qa":[{"q":"なぜ1977年に技術誌の編集者3人はアスキーを興したのか","a":"アスキーは、技術誌『I/O』を出していた4人のうち西和彦氏と星正明氏が対立し、西氏、郡司明郎氏、塚本慶一郎氏の3人が編集部を飛び出し、1977年に東京・南青山のマンションで設立した会社である。早稲田大学に在学していた西氏は創業の年に21歳を迎えた。月刊誌『アスキー』の刊行を皮切りに、出版からソフトウェア開発、LSI設計、通信ネットワークの構築へと事業を広げ、以後20年にわたって日本のパソコン産業の中心に位置した。"},{"q":"なぜ1991年に創業メンバーと決裂してまで拡大路線を選んだのか","a":"1989年の株式店頭公開で掲げた目標が、新規事業を前提にしていたためである。西社長は西暦2000年までに東京証券取引所第一部へ上場して売上高1,120億円とする計画を示し、うち400億円から500億円は新規事業で得たいと語っていた。1991年7月1日の臨時役員会では映画などへ投資する拡大路線と本業に絞る堅実路線が争われ、西氏が採決直前の多数派工作の末に押し切り、郡司明郎氏と塚本慶一郎氏が退任した。"},{"q":"なぜ2002年に株式市場から退場したのか","a":"1998年にCSKグループの出資を受けたのち債務超過を解消できず、2001年に大川功氏が死去してCSKが追加支援を打ち切ったことによる。CSKは保有する51.7%の株式をアスキーへ無償で譲渡し、アスキーはこれを消却したうえで90%の減資を実施した。ユニゾン・キャピタルが2度の増資を引き受けて持株比率はおよそ95%に達し、1977年に3人で興した会社は創業から25年で株式市場から退場した。"}]},"auditVersion":2}