ベネッセコーポレーション の歴史

更新:

沿革

1955〜2026年 1955年に福武哲彦氏が岡山市に設立した福武書店が起源。1969年に高校生向け通信添削を開講し、のちの「進研ゼミ」は1999年に会員420万人へ達した。通信教育の大手として2003年に介護へも参入し、2024年に上場を廃止して非公開化した。

沿革

1955年に福武哲彦氏が岡山市に設立した福武書店が起源。

1969年に高校生向け通信添削を開講し、のちの「進研ゼミ」は1999年に会員420万人へ達した。通信教育の大手として2003年に介護へも参入し、2024年に上場を廃止して非公開化した。

1955年〜創業期倒産の翌年に岡山で始めた生徒手帳と模擬試験

  1. 岡山市南方に福武書店を設立
  2. 高校生向け模擬試験「関西模試」を開始
  3. 高校生向け通信添削講座「通信教育セミナ」を開講
  4. 東京支社を設置
  5. 本社を岡山市番町に移転
  6. 中学生向け通信添削講座「通信教育セミナ・ジュニア」を開講
  7. 通信添削講座の名称を「進研ゼミ」に変更
  8. 進研ゼミ「小学講座」を開講
ベネッセコーポレーション売上高

1986年〜成長期BenesseのCI導入と米ベルリッツの買収

  1. 株式額面変更のためタバイサイエンスと合併
  2. 進研ゼミ「幼児講座」を開講
  3. 新CI「Benesse」を導入
  4. 米ベルリッツ・インターナショナルを買収
  5. 進研ゼミ「おやこ講座」を開講
ベネッセコーポレーション売上高

1995年〜安定成長期ベネッセコーポレーションへの改称と介護事業への参入

  1. 商号をベネッセコーポレーションに変更
  2. 大阪証券取引所第二部と広島証券取引所に上場
  3. 大阪証券取引所第一部に指定
  4. 東京証券取引所第一部に上場
  5. ベルリッツの議決権株式を全て取得
  6. 介護事業のためベネッセスタイルケアを設立
  7. 東京個別指導学院の株式を取得
  8. 中国に販売子会社の倍楽生商貿を設立
  9. 東京教育研が「鉄緑会」事業を取得
  10. 持株会社体制に移行
  11. 商号をベネッセホールディングスに変更
  12. アップを連結子会社化
ベネッセコーポレーション売上高2013年3月期4,502億円

2014年〜不祥事個人情報漏えい事故とMBOによる上場廃止

  1. 個人情報漏えい事故が発生
  2. Classiを連結子会社化
  3. EDUCOMを連結子会社化
  4. ベルリッツの全株式を譲渡
  5. 東京証券取引所プライム市場に移行
  6. 公開買付けによりブルーム1が親会社に異動
  7. 東京証券取引所プライム市場で上場廃止
  8. デジタルハリウッドを子会社化
  9. 教育を岩瀬大輔氏、介護・保育を小林仁氏が統括する2名代表体制に移行
  10. 介護・保育事業の中間持株会社ベネッセスタイルケアグループを設立
  11. 子会社のベネッセコーポレーションを吸収合併
  12. 商号をベネッセコーポレーションに変更
  13. 持株会社体制を廃止して教育と介護・保育を資本関係でも分離
ベネッセコーポレーション売上高2024年3月期4,108億円

系譜

前身は1955年設立の福武書店。1993年に米ベルリッツ・インターナショナルを買収し、1995年にベネッセコーポレーションへ商号を変更した。2022年にベルリッツの全株式を譲渡。2026年に持株会社体制を廃止し、教育と介護・保育の事業ポートフォリオを分離した。

系譜

前身は1955年設立の福武書店。

1993年に米ベルリッツ・インターナショナルを買収し、1995年にベネッセコーポレーションへ商号を変更した。2022年にベルリッツの全株式を譲渡。2026年に持株会社体制を廃止し、教育と介護・保育の事業ポートフォリオを分離した。

1955年 1993年1995年 2009年2012年 2019年2022年 2024年2025年 2026年 福武書店 1955年岡山で設立 ベルリッツ 1993年米国で買収 ベネッセコーポレーション 1995年商号変更 ベネッセホールディングス 2009年持株会社体制へ アップ 2012年連結子会社化 ベルリッツ 2022年全株式を譲渡 Classi 2019年連結子会社化 ブルーム1 2024年TOBで親会社に デジタルハリウッド 2025年子会社化
長期業績の推移 1995〜2024年

業績

ベネッセコーポレーション:歴代社長と長期業績の推移売上高(億円)純利益率(%)
2002年3月期〜2024年3月期

第1章 1955年〜 倒産の翌年に岡山で始めた生徒手帳と模擬試験生徒手帳の学校納入から進研ゼミの継続課金へ

筆者考察y.sugiura, author

福武書店の商いは、売った相手ともう一度会えるかどうかで分かれた。福武哲彦氏が富士出版で潰れたのは、学習参考書を全国へ拡販して代金を回収できなかったためである。学校へ納める図書や生徒手帳も、納めた時点で取引が終わる点は変わらない。1962年の関西模試と1969年の通信教育セミナで福武書店が手にしたのは、同じ生徒のもとへ何度も戻ってくる商いだった。小学5年生で会員になれば、講座を替えながら高校3年まで10年近く教材を届けられる。模擬試験の運営を名門校の教師の研究会に任せたのも、信用のない会社が学校の年中行事へ入り込むための手である。福武書店は売り先を学校から家庭へ移し、一件ごとの取引ではなく続く関係から収入を得るようになった。

長く付き合う形は、福武書店の貸借対照表に前受金として現れた。1982年3月期の福武書店は、自己資本60億円に対してほぼ同額の59億円を前受金として抱え、借入金はゼロだった。受講料を先に受け取り、教材の制作と郵送以外に大きな設備を要さず、最も人手のかかる添削は在宅の指導員2,500人が引き受けた。会員が増えても社員を増やさずに済む形が、3年で売上高を97億円から269億円へ押し上げている。福武哲彦氏はその利益を、単体では黒字にならない学術書と文芸誌へ回した。倒産で失った出版社としての名を、模擬試験と通信添削の収益で買い戻そうとしたのである。

売上高 1979年3月期から1982年3月期まで(単体)(億円)

97 1979/3期 169 1980/3期 269 1982/3期
  • 1979年3月期と1982年3月期は日経ビジネス 1982年11月15日号、1980年3月期は日経ビジネス 1991年3月11日号。いずれも単体。

1955年〜富士出版の倒産から福武書店の設立まで

福武哲彦氏は1949年、岡山で小学生向けのテストブックとドリルブックを出版する富士出版を設立し、業界の最高峰を目指すという意味を"富士"の社名に込めた。教材は作れば売れ、滑り出しは順調だったが、代金を回収できない取引先が次々に現れた。損を取り戻そうと無理な販売を重ねて資金繰りは詰まり、妹の嫁ぎ先の権利書を本人に無断で持ち出して担保に入れ、友人の校長からはPTAの会費まで借りた。午後3時ぎりぎりに銀行へ駆け込んで手形を落とす日が3カ月以上続いたのち、1954年7月20日、64万円の手形が落とせず富士出版は倒産した。総負債は2,400万円で、大卒の初任給が3,500円の時代である。

  • 日経ビジネス 1985年6月24日号
    • [1]1949年 福武哲彦氏が岡山で富士出版を設立し小学生向けのテストブック・ドリルブックを出版
    • [2]社名「富士」には業界の最高峰を目指すという意味を込めた
    • [3]教材はよく売れたが代金を回収できない取引先が次々に生じた
    • [4]損を取り戻そうと無理な販売を重ねて資金繰りが悪化した
    • [5]妹の嫁ぎ先の家・土地の権利書を無断で持ち出して担保に入れ、友人の校長からPTAの会費も借りた
    • [6]午後3時ぎりぎりに銀行へ駆け込んで手形を落とす日々が3カ月以上続いた
    • [7]1954年7月20日 64万円の手形が落とせず富士出版が倒産
    • [8]富士出版の総負債額 2,400万円
    • [9]倒産当時の大卒初任給は3,500円

債権者が自宅に押し寄せ、たんすの中の着物が消え、続いてたんすも電話も無くなり、自宅にも会社にも債権者の目が光るなかで、屋根裏に隠れて社員が差し入れたラーメンをすすった日もある。妻の実家に借りた四畳半一間で、福武哲彦氏は岡山を離れて再出発するかどうかを考え続けた。町を歩けば会社を潰した男だという声が聞こえ、窮状を伝え聞いた東京の友人からは、こちらへ来れば仕事を世話するという申し出も届いた。それでも福武哲彦氏が岡山に残ったのは、ここで逃げれば二度と郷里の地を踏めず、息子まで夜逃げ男の子供と言われると判断したためである。1954年10月、二つ目の決断として、もう一度出版をやると決めた。

  • 日経ビジネス 1985年6月24日号
    • [10]債権者が自宅に押し寄せ、着物・たんす・電話が無くなった
    • [11]自宅にも会社にも債権者の目が光り、会社の屋根裏に隠れて社員の差し入れたラーメンをすすった
    • [12]妻の実家に借りた四畳半一間で岡山を離れて再出発するかを考え続けた
    • [13]岡山では会社を潰した男として知られ、東京の友人が来れば仕事を世話すると誘った
    • [14]岡山に残った理由は、逃げれば二度と郷里の地を踏めず息子も夜逃げ男の子供と言われるという判断
    • [15]1954年10月 もう一度出版をやると決めた

悪名が高いままでは普通の本を作っても取り合ってもらえないと考え、福武哲彦氏は二つの商品を用意した。一つは身分証明書を貼り、校則と生徒会の規約を書き込む生徒手帳で、教材販売で作った小学校教員との人脈を頼れば売れると踏んだ。もう一つは刷り込んだ文面をなぞれば字が書けなくても出せる葉書実物大の年賀状の手本集で、地元の印刷業者には断られ、つてを頼って訪ねた京都の業者にようやく引き受けてもらった。1冊15円で売った手本集の利益を全額つぎ込み、資本金50万円で会社を設立した。1955年1月、岡山市南方420番地に株式会社福武書店を設立し、中学校関係の図書と生徒手帳の発行を始めた。

  • 日経ビジネス 1985年6月24日号
    • [16]悪名が高く普通の本では相手にされないと考え、二つの新商品を開発した
    • [17]生徒手帳は身分証明書を貼り校則と生徒会の規約を書き込むもので、小学校教員の人脈で売れると見込んだ
    • [18]年賀状の手本集は葉書実物大の文面を刷り込み、なぞれば字が書けなくても年賀状ができる商品
    • [19]地元の印刷業者に断られ、つてを頼った京都の業者が引き受けた
    • [20]1冊15円で売った年賀状の手本集の利益を全額つぎ込み、資本金50万円で福武書店を設立
  • ベネッセホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [21]1955年1月 岡山市南方420番地に株式会社福武書店を設立し、中学校関係の図書・生徒手帳の発行を開始
参考文献[1]-[21]
  • 日経ビジネス 1985年6月24日号
    • [1]1949年 福武哲彦氏が岡山で富士出版を設立し小学生向けのテストブック・ドリルブックを出版
    • [2]社名「富士」には業界の最高峰を目指すという意味を込めた
    • [3]教材はよく売れたが代金を回収できない取引先が次々に生じた
    • [4]損を取り戻そうと無理な販売を重ねて資金繰りが悪化した
    • [5]妹の嫁ぎ先の家・土地の権利書を無断で持ち出して担保に入れ、友人の校長からPTAの会費も借りた
    • [6]午後3時ぎりぎりに銀行へ駆け込んで手形を落とす日々が3カ月以上続いた
    • [7]1954年7月20日 64万円の手形が落とせず富士出版が倒産
    • [8]富士出版の総負債額 2,400万円
    • [9]倒産当時の大卒初任給は3,500円
    • [10]債権者が自宅に押し寄せ、着物・たんす・電話が無くなった
    • [11]自宅にも会社にも債権者の目が光り、会社の屋根裏に隠れて社員の差し入れたラーメンをすすった
    • [12]妻の実家に借りた四畳半一間で岡山を離れて再出発するかを考え続けた
    • [13]岡山では会社を潰した男として知られ、東京の友人が来れば仕事を世話すると誘った
    • [14]岡山に残った理由は、逃げれば二度と郷里の地を踏めず息子も夜逃げ男の子供と言われるという判断
    • [15]1954年10月 もう一度出版をやると決めた
    • [16]悪名が高く普通の本では相手にされないと考え、二つの新商品を開発した
    • [17]生徒手帳は身分証明書を貼り校則と生徒会の規約を書き込むもので、小学校教員の人脈で売れると見込んだ
    • [18]年賀状の手本集は葉書実物大の文面を刷り込み、なぞれば字が書けなくても年賀状ができる商品
    • [19]地元の印刷業者に断られ、つてを頼った京都の業者が引き受けた
    • [20]1冊15円で売った年賀状の手本集の利益を全額つぎ込み、資本金50万円で福武書店を設立
  • ベネッセホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [21]1955年1月 岡山市南方420番地に株式会社福武書店を設立し、中学校関係の図書・生徒手帳の発行を開始

1962年〜関西模試と通信教育セミナが開いた在宅学習

福武書店が次に置いたのは同じ生徒と何年も付き合う商いであり、図書や生徒手帳は学校へ納めた時点で取引が終わるが、模擬試験と通信添削は同じ相手のもとへ何度も戻ってくる。1962年4月、関西進学研究会を設置して高校生を対象とする"関西模試"を始め、1969年1月には高校生のための通信添削講座"通信教育セミナ"を開講した。同年3月に東京支社を設置して東日本地区では"進研模試"の名称で模擬試験を実施し、1971年8月には本社を岡山市番町一丁目10番23号へ移転。売り先の異なる二つの商品を、福武書店は同じ高校生に向けて並べた。

  • ベネッセホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [22]1962年4月 関西進学研究会を設置し高校生を対象とした「関西模試」を開始
    • [23]1969年1月 高校生のための通信添削講座「通信教育セミナ」を開講
    • [24]1969年3月 東京支社を設置し東日本地区で「進研模試」の名称で模擬試験を実施
    • [25]1971年8月 本社を岡山市番町一丁目10番23号に移転

対象は高校生から下へ広がった。1972年12月、中学生のための通信添削講座"通信教育セミナ・ジュニア"を開講し、1973年4月には通信添削講座の名称を"進研ゼミ"に改め、1980年9月には進研ゼミ"小学講座"を開講した。受験競争が激しくなるなかで模擬試験と通信添削は伸び、福武哲彦社長に運が向き始めたのは1975年以降だった。小学生のうちに会員になれば、中学・高校と講座を替えながら同じ相手へ10年近く教材を届けられる。この組み立ては後年、不特定多数の顧客を特定化し、固定化し、継続化する営業として言語化された。

  • ベネッセホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [26]1972年12月 中学生のための通信添削講座「通信教育セミナ・ジュニア」を開講
    • [27]1973年4月 通信添削講座の名称を「進研ゼミ」に変更
    • [28]1980年9月 進研ゼミ「小学講座」を開講
  • 日経ビジネス 1985年6月24日号
    • [29]模擬試験と通信添削は受験戦争の激化で急成長し、福武哲彦氏に運が向き始めたのは1975年以降
  • 証券アナリストジャーナル 1996年34巻6号 福武總一郎
    • [30]営業では不特定多数の人々を特定化し、固定化し、継続化する継続型の事業を組み立てている

模擬試験は、無名の出版社が学校の信用を借りることで広がった。福武哲彦氏は各県の一流校へ参加を頼んで回ったが、福武書店と名乗っても、どこの古本屋かという反応が返ってきた。そこで名門校の教師による研究会をつくり、模擬試験の運営方法をその研究会に任せた。問題の質を誰が保証するのかという問いに、会社ではなく教師の側が答える形にしたのである。この頼み方で教師側の信頼を得て、模擬試験は学校の年中行事として定着していった。1969年3月に東京支社を置いて東日本では"進研模試"の名で実施し、1982年時点の受験者は中学・高校生合計で280万人、"進研ゼミ"の会員は小学5年生から高校3年生まで全国60万人に達した。

  • 日経ビジネス 1982年11月15日号
    • [31]各県の一流校に参加を頼むのが大変で、福武書店と名乗っても「どこの古本屋だ」という反応だった
    • [32]名門校の教師による研究会をつくり、模擬試験の運営方法を任せた
    • [33]教師側の信頼を得る方法で模擬試験の定着を図った
    • [35]1982年時点の進研模試の受験者は中学・高校生合計280万人、進研ゼミは小学5年生から高校3年生まで全国60万人が参加
  • ベネッセホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [34]1969年3月 東京支社を設置し東日本地区で「進研模試」の名称で模擬試験を実施
参考文献[22]-[35]
  • ベネッセホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [22]1962年4月 関西進学研究会を設置し高校生を対象とした「関西模試」を開始
    • [23]1969年1月 高校生のための通信添削講座「通信教育セミナ」を開講
    • [24]1969年3月 東京支社を設置し東日本地区で「進研模試」の名称で模擬試験を実施
    • [25]1971年8月 本社を岡山市番町一丁目10番23号に移転
    • [26]1972年12月 中学生のための通信添削講座「通信教育セミナ・ジュニア」を開講
    • [27]1973年4月 通信添削講座の名称を「進研ゼミ」に変更
    • [28]1980年9月 進研ゼミ「小学講座」を開講
    • [34]1969年3月 東京支社を設置し東日本地区で「進研模試」の名称で模擬試験を実施
  • 日経ビジネス 1985年6月24日号
    • [29]模擬試験と通信添削は受験戦争の激化で急成長し、福武哲彦氏に運が向き始めたのは1975年以降
  • 証券アナリストジャーナル 1996年34巻6号 福武總一郎
    • [30]営業では不特定多数の人々を特定化し、固定化し、継続化する継続型の事業を組み立てている
  • 日経ビジネス 1982年11月15日号
    • [31]各県の一流校に参加を頼むのが大変で、福武書店と名乗っても「どこの古本屋だ」という反応だった
    • [32]名門校の教師による研究会をつくり、模擬試験の運営方法を任せた
    • [33]教師側の信頼を得る方法で模擬試験の定着を図った
    • [35]1982年時点の進研模試の受験者は中学・高校生合計280万人、進研ゼミは小学5年生から高校3年生まで全国60万人が参加

1972年〜在宅の添削者と前受金が支えた無借金経営

答案を読んで朱を入れる仕事は、会員が増えた分だけ人手が要る。福武書店はこの工程を社内に抱えず、外へ出した。高校生向けの"進研・高ゼミ"では、毎月15万枚の答案を2,500人の指導員が赤ペンによる手書きで添削し、5,000通を超える相談・質問には別の500人の回答員が応じていた。指導員は社員ではなく、大学を出た在宅の女性が多かった。添削は誤答の解説にとどまらず、正解にも所見を付け、相談と質問を自由に受けた。福武哲彦氏はこれをツー・ウェイ・コミュニケーションと呼んでいる。会員数と社員数を切り離したこの形は、後年、人的付加価値とネットワーク力という言葉で自社の事業スタイルとして説明された。

  • 日経ビジネス 1982年11月15日号
    • [36]進研・高ゼミでは毎月15万枚の答案を2,500人の指導員が赤ペンによる手書きで添削
    • [37]5,000通を超える相談・質問文書には別の500人の回答員が対応
    • [38]添削指導員は社員ではなく大学卒の在宅女性が多い
    • [39]進研ゼミの添削は誤答の解説だけでなく正解にもコメントを付け、相談・質問も自由とした
    • [40]福武哲彦氏は進研ゼミの添削をツー・ウェイ・コミュニケーションを念頭に置いたものと説明
  • 証券アナリストジャーナル 1996年34巻6号 福武總一郎
    • [41]独自の事業スタイルを継続ビジネス、人的付加価値、ネットワーク力と説明している

通信添削は、代金が先に入る商いでもあった。1982年3月期の貸借対照表には59億円の前受金が載り、自己資本60億円とほぼ同額に達していた。借入金はゼロで、総資産155億円に対する自己資本比率は39%である。福武哲彦氏は料金を後払いにもできる仕組みがあり前納を強制してはいないと述べたが、実際には前納が多く、その資金の運用益も収益に寄与していた。教材の制作と郵送が費用の中心で大規模な設備を要しないため、先に入った代金がそのまま運転資金になった。1979年3月期に97億円だった売上高は1982年3月期に269億円へと3年で約3倍になり、法人所得は全国525位、岡山県下では中国銀行に次ぐ2位につけた。1984年の未上場企業株価ランキングでは、試算株価5,165円で第8位に入っている。

  • 日経ビジネス 1982年11月15日号
    • [42]1982年3月期の前受金は59億円で、自己資本60億円とほぼ同額
    • [43]1982年3月期は借入金ゼロ、総資産155億円、自己資本比率39%
    • [44]福武哲彦氏は料金を後払いにできる仕組みがあり前納を強制してはいないと説明
    • [45]実際には前納が多く、前納による手元資金の運用益も大きかった
    • [46]1979年3月期の売上高97億円が1982年3月期に269億円となり3年間で約3倍
    • [47]1982年版の法人所得ランキングで全国525位、岡山県下では中国銀行に次ぐ第2位
  • 日経ビジネス 1984年11月19日冬季増刊号
    • [48]1984年の未上場企業株価ランキングで福武書店は試算株価5,165円の第8位

模擬試験と通信添削が生んだ利益は、単体では採算の合わない出版へ回された。1972年に学術出版図書部を設けて「大原總一郎随想全集」全4巻などを刊行し、1979年に設けた東京書籍出版部では「オックスフォード・カラー英和大辞典」全8巻を手がけた。1981年7月には文芸部を発足させ、文芸雑誌「海燕」を創刊している。福武哲彦氏はこれらの部門が黒字ではないと認めたうえで、書店としては不可欠だと述べた。教育と文化を合わせたエデュカルチュアを前面に出す方針を掲げ、1980年には最初のCIを実施した。良心的な出版を続けるには、それを支える収益部門が要る。福武哲彦氏にとって模擬試験と通信添削はその収益部門だった。

  • 日経ビジネス 1982年11月15日号
    • [49]1972年に学術出版図書部を設立し「大原總一郎随想全集」全4巻などを刊行
    • [50]1979年に設立した東京書籍出版部が「オックスフォード・カラー英和大辞典」全8巻を刊行
    • [51]1981年7月 文芸雑誌「海燕」発行のため文芸部を発足
    • [52]新規部門は黒字ではないが書店としては不可欠と説明
    • [53]エデュケーションとカルチュアの合成語エデュカルチュアを前面に押し出す方針
    • [55]模擬試験「進研模試」と通信添削「進研ゼミ」が売上高の大半を占め、高収益・高成長の源泉となっていた
  • 証券アナリストジャーナル 1996年34巻6号 福武總一郎
    • [54]日本経済の大発展期だった1980年に第1次CIを実施
参考文献[36]-[55]
  • 日経ビジネス 1982年11月15日号
    • [36]進研・高ゼミでは毎月15万枚の答案を2,500人の指導員が赤ペンによる手書きで添削
    • [37]5,000通を超える相談・質問文書には別の500人の回答員が対応
    • [38]添削指導員は社員ではなく大学卒の在宅女性が多い
    • [39]進研ゼミの添削は誤答の解説だけでなく正解にもコメントを付け、相談・質問も自由とした
    • [40]福武哲彦氏は進研ゼミの添削をツー・ウェイ・コミュニケーションを念頭に置いたものと説明
    • [42]1982年3月期の前受金は59億円で、自己資本60億円とほぼ同額
    • [43]1982年3月期は借入金ゼロ、総資産155億円、自己資本比率39%
    • [44]福武哲彦氏は料金を後払いにできる仕組みがあり前納を強制してはいないと説明
    • [45]実際には前納が多く、前納による手元資金の運用益も大きかった
    • [46]1979年3月期の売上高97億円が1982年3月期に269億円となり3年間で約3倍
    • [47]1982年版の法人所得ランキングで全国525位、岡山県下では中国銀行に次ぐ第2位
    • [49]1972年に学術出版図書部を設立し「大原總一郎随想全集」全4巻などを刊行
    • [50]1979年に設立した東京書籍出版部が「オックスフォード・カラー英和大辞典」全8巻を刊行
    • [51]1981年7月 文芸雑誌「海燕」発行のため文芸部を発足
    • [52]新規部門は黒字ではないが書店としては不可欠と説明
    • [53]エデュケーションとカルチュアの合成語エデュカルチュアを前面に押し出す方針
    • [55]模擬試験「進研模試」と通信添削「進研ゼミ」が売上高の大半を占め、高収益・高成長の源泉となっていた
  • 証券アナリストジャーナル 1996年34巻6号 福武總一郎
    • [41]独自の事業スタイルを継続ビジネス、人的付加価値、ネットワーク力と説明している
    • [54]日本経済の大発展期だった1980年に第1次CIを実施
  • 日経ビジネス 1984年11月19日冬季増刊号
    • [48]1984年の未上場企業株価ランキングで福武書店は試算株価5,165円の第8位

第2章 1986年〜 BenesseのCI導入と米ベルリッツの買収進研ゼミ266万人の膨張からベネッセの多角化へ

筆者考察y.sugiura, author

福武總一郎氏が1986年に継いだのは、会員の増加が自社の処理能力を超えつつある会社だった。進研ゼミの会員は1987年に100万人を超え、1989年度には200万人へ達する勢いで増えたが、添削スタッフの手配は追いつかず、継続する会員の割合は下がり始めていた。会員数がそのまま賞与に跳ね返る仕組みは、半期の数字を追う社員を大多数にしていた。全社から集めた100人の討議が出した答えは、会員数と売上高の伸びは膨張であって成長ではない、というものである。続けてもらうことで成り立つ事業で集めることだけが目的になれば、集めた会員から先に離れていく。

1989年からの数年で福武書店が変えたのは、事業ではなく測り方だった。ワープロ入力とレイアウトを外注へ出して残業を月40時間から33時間へ下げ、部長21人の年俸制では評価の基準を会員数から利益効率へ移し、社員数は1957人から1546人へ減らした。効率化で積み増した手元資金の使い道が1993年のベルリッツ買収で、364億円のうち210億円強を現預金で払っている。前払いの受講料を溜めた通信教育が、海外の語学学校を借入にほとんど頼らず買える規模に届いていた。ただし教材を運ぶ同じ郵便が、1994年の第三種郵便料金値上げで70億円弱の減益要因へ変わる。

売上高 1990年3月期から1994年3月期まで(単体)(億円)

1,070 1990/3期 1,332 1993/3期 1,492 1994/3期
  • 1990年3月期は日経ビジネス 1991年3月11日号、1993年3月期は日経ビジネス 1994年2月28日号、1994年3月期は日経ビジネス 1994年12月5日号。いずれも単体。

1986年〜創業者の急逝と会員の急増が露わにした処理能力の限界

経営トップが会社の向きを変えようと号令をかけても、現場の仕事量との間にはこの段階で大きな開きがあった。創業者の福武哲彦社長が1986年に急死すると福武總一郎氏が2代目社長を継ぎ、就任早々、21世紀を見越して新しい商品・サービスを生む企画を本業の柱に据えるという長期目標を掲げた。だが社員は日々の仕事に手一杯で企画に割く余力はなく、夜ごと深夜まで残業が続いて灯りの消えない社内を、皮肉まじりに不夜城と呼んだ時期もある。1987年4月には、株式の額面を変える目的でタバイサイエンスを合併した。

  • 日経ビジネス 1991年3月11日号
    • [56]1986年に創業者社長が急死し、福武總一郎氏が2代目社長に就任
    • [57]就任直後に「21世紀をにらみ、新しい商品やサービスの創造、企画を業務の中心とする会社になろう」という長期目標を掲げた
    • [58]現場の状態は企画どころではなく、日々の作業に追われていた
    • [59]毎日の残業が夜中まで及び明かりが消えないことを皮肉って「不夜城」と呼んでいた時期がある
  • ベネッセホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [60]1987年4月 株式額面変更のためタバイサイエンスと合併

当時の福武書店で売上高の86%を占めていたのは通信教育部門であり、作業量が膨らんだ最大の原因もその会員数の増加にあった。進研ゼミの総会員数は100万人を1987年に上回ってから急速に増え、1988年にはすでに1989年度中に200万人へ届く見通しがほぼ立っていた。添削スタッフの手配も対応もこの勢いに追いつけず、入会者が増え続ける裏で、会員の継続率は少しずつ落ちていった。集めるほど処理が遅れ、遅れるほど継続しない会員が増える悪循環に、この時期の同社ははまり込んでいた。それでも会員数は伸び続け、1993年4月には266万人に達した。

  • 日経ビジネス 1991年3月11日号
    • [61]通信教育部門が売上高の86%を占めていた
    • [62]進研ゼミの総会員数は1987年に100万人を突破し、1988年時点で1989年度に200万人到達がほぼ確実になった
    • [63]会員の急増により添削スタッフの手配も対応もパンク状態となった
    • [64]新規会員は増え続けたが、継続する会員の割合は徐々に下がり始めていた
  • 日経ビジネス 1994年2月28日号
    • [65]進研ゼミの総会員数は1993年4月時点で266万人

当時、売上高の約9割と利益の大半は進研ゼミが稼ぎ出していた。現場の異変を社長に伝えたのは、全社員がその1日の業務内容と所感を"私の記録"としてB5判の用紙に毎日書き、岡山市の本社へ送る日報で、社長は一通残らず目を通していた。その中で、業務が多すぎる、仕事の質が下がったという訴えが増えていった。これを受けて福武總一郎社長は、入社3年目から部長までの社員100人を全社から選んでワーキンググループとし、岡山本社で月1回の議論を重ねさせて社内の課題を洗い出し、解決させた。会員数や売上高の増加は規模が膨らんだにすぎず成長とはいえない、という結論に討議は達し、社長は1989年の年頭あいさつで膨張から成長へを主題とした。

  • 日経ビジネス 1994年2月28日号
    • [66]売上高の約9割、利益の大部分を進研ゼミが稼ぐ依存構造にあった
  • 日経ビジネス 1991年3月11日号
    • [67]全社員が「私の記録」と称する1日の仕事の報告と感想を毎日B5判の紙にまとめ、岡山市の本社へ送り社長がすべてに目を通していた
    • [68]日報の中に仕事量の増大・質の低下を嘆くものが増えた
    • [69]入社3年目の若手から部長まで全社100人のワーキンググループをつくり、毎月1回岡山本社で討議した
    • [70]ワーキンググループの結論は「会員数や売上高は伸びたが、これは単なる膨張であり成長ではない」
    • [71]「膨張から成長へ」を1989年の年頭あいさつのテーマに掲げ、全社で効率化に取り組んだ
参考文献[56]-[71]
  • 日経ビジネス 1991年3月11日号
    • [56]1986年に創業者社長が急死し、福武總一郎氏が2代目社長に就任
    • [57]就任直後に「21世紀をにらみ、新しい商品やサービスの創造、企画を業務の中心とする会社になろう」という長期目標を掲げた
    • [58]現場の状態は企画どころではなく、日々の作業に追われていた
    • [59]毎日の残業が夜中まで及び明かりが消えないことを皮肉って「不夜城」と呼んでいた時期がある
    • [61]通信教育部門が売上高の86%を占めていた
    • [62]進研ゼミの総会員数は1987年に100万人を突破し、1988年時点で1989年度に200万人到達がほぼ確実になった
    • [63]会員の急増により添削スタッフの手配も対応もパンク状態となった
    • [64]新規会員は増え続けたが、継続する会員の割合は徐々に下がり始めていた
    • [67]全社員が「私の記録」と称する1日の仕事の報告と感想を毎日B5判の紙にまとめ、岡山市の本社へ送り社長がすべてに目を通していた
    • [68]日報の中に仕事量の増大・質の低下を嘆くものが増えた
    • [69]入社3年目の若手から部長まで全社100人のワーキンググループをつくり、毎月1回岡山本社で討議した
    • [70]ワーキンググループの結論は「会員数や売上高は伸びたが、これは単なる膨張であり成長ではない」
    • [71]「膨張から成長へ」を1989年の年頭あいさつのテーマに掲げ、全社で効率化に取り組んだ
  • ベネッセホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [60]1987年4月 株式額面変更のためタバイサイエンスと合併
  • 日経ビジネス 1994年2月28日号
    • [65]進研ゼミの総会員数は1993年4月時点で266万人
    • [66]売上高の約9割、利益の大部分を進研ゼミが稼ぐ依存構造にあった

1988年〜制作工程の外注化と年俸制による評価軸の入れ替え

1980年代半ばまで、福武書店は添削を別にすればほぼ全工程を社内で抱えており、解答・解説をワープロで打ってレイアウト用紙に貼り付ける仕上げまで社員が自らこなし、問題冊子・答案用紙・解答冊子の編集や、返送された答案を添削スタッフへ配って回収する仕事まで、1人の社員に集まっていた。作業量を減らすために同社が選んだのは社内の工程を外に出すことで、膨大な印刷物のワープロ入力とレイアウトを段階的に外部委託へ移していった。電話相談と入会申し込みを受け付けてきた進研ゼミの部門も別会社として切り離し、組織を一段と絞り込んだ。その結果、1990年度の平均残業時間は月33時間となり、前年度の40時間より7時間少なくなった。

  • 日経ビジネス 1991年3月11日号
    • [72]4、5年前は添削以外の作業をほとんど社内で片付け、解答と解説をワープロ入力しレイアウト用紙に糊で貼るところまで社員が行っていた
    • [73]問題・答案用紙・解答冊子の編集から答案を添削スタッフへ分配・回収する仕事まで1人の社員が担っていた
    • [74]大量の印刷物のワープロ入力とレイアウトを順次外注に切り替えた
    • [76]1990年度の平均残業時間は1989年度の月40時間から7時間減って33時間となった
  • 日経ビジネス 1994年12月5日号
    • [75]進研ゼミの電話相談・入会申し込みを担当してきた部門を別会社化して組織をスリム化した

社員を測る基準も入れ替わった。1955年に創業して以来、福武書店は成果を出した社員を、年の若さや在籍の短さを問わず昇進させ、賞与を厚くしてきた。賞与の多寡は、その社員が進研ゼミの会員をいくら増やしたかで直に決まり、年間賞与は平均で給与10カ月分に達し、個人間の開きは管理職で給与4カ月分、一般社員でも2カ月分あった。こうして、社員の大半が半期ごとの数字の上積みだけを追うようになった。福武總一郎社長は1990年4月、部長資格の管理職21人を年俸制に移し、会員数・売上高の伸びではなく、利益をいかに効率的に生んだかで評価する形にした。年俸の最低額は最高額のおよそ7割で、両者の差は100万円単位に及んだ。人員の削減も進み、社員数は1990年度に1957人だったものが1994年3月には1546人となった。

  • 日経ビジネス 1991年3月11日号
    • [77]1955年の創業時から業績を上げた社員に年齢や勤続年数に関係なく昇進や賞与で報いてきた
    • [78]進研ゼミの会員数をどれだけ伸ばしたかがそのまま賞与の額に跳ね返っていた
    • [79]年間賞与の平均は給与の10カ月分、個人差は管理職で給与の4カ月分、一般社員で2カ月分
    • [80]半期の数字を伸ばすことばかり追求する社員が大多数になった
    • [81]1990年4月 部長資格を持つ管理職21人に年俸制を導入し、評価基準を会員数・売上高の伸びから利益効率へ変更
    • [82]年俸が最も少なかった人は最も多かった人の7割程度で、100万円単位の差がある
  • 日経ビジネス 1994年12月5日号
    • [83]社員数は1990年度の1957人から1994年3月の1546人まで減った

1986年4月、福武書店は育児休職制度を導入した。仕事に慣れた女性社員が出産や育児を機に辞めていくのを惜しんでのことだったが、1986年度の利用者は6人にとどまった。休職できるのは一度きりで残業も多く、復帰しても子育てとの両立はできないと、女性社員の多くが受け止めていたのが理由である。1988年に勤務時間が短くなると休職する人は増えた。1990年4月には休職期間を1子につき3年以内へ延長し、夫の転勤など出産・育児以外の理由でも休めるようにした。同社の人員構成を見ると、1991年の時点で女性正社員は700人近く、年間契約社員も含めれば全社員の3分の2を上回っており、働き手の多くは女性だった。1991年時点で休職中の女性社員は100人を数えた。出産・育児情報誌の創刊準備では、社員の半数以上を占める女性社員の人脈が調査対象を探す手がかりになっている。

  • 日経ビジネス 1991年3月11日号
    • [84]1986年4月に育児休職制度を導入したが1986年度中の取得者は6人にとどまった
    • [85]休職は一度限りで、残業が多く復職しても仕事と子育てを両立できないとほとんどの女性社員が判断していた
    • [86]1988年から勤務時間の削減が始まり、休職する人が増え始めた
    • [87]1990年4月 育児休職を1子につき3年以内に拡充し、夫の転勤など出産・育児以外の理由も認めた
    • [88]女性の正社員は700人近く、年間契約社員を含めると全社員の3分の2以上が女性
    • [89]休職中の女性社員は100人を数えた
  • 日経ビジネス 1994年2月28日号
    • [90]出産・育児情報誌の創刊準備では進研ゼミの会員名簿と社員の半数以上を占める女性社員の人脈で調査対象を探した
参考文献[72]-[90]
  • 日経ビジネス 1991年3月11日号
    • [72]4、5年前は添削以外の作業をほとんど社内で片付け、解答と解説をワープロ入力しレイアウト用紙に糊で貼るところまで社員が行っていた
    • [73]問題・答案用紙・解答冊子の編集から答案を添削スタッフへ分配・回収する仕事まで1人の社員が担っていた
    • [74]大量の印刷物のワープロ入力とレイアウトを順次外注に切り替えた
    • [76]1990年度の平均残業時間は1989年度の月40時間から7時間減って33時間となった
    • [77]1955年の創業時から業績を上げた社員に年齢や勤続年数に関係なく昇進や賞与で報いてきた
    • [78]進研ゼミの会員数をどれだけ伸ばしたかがそのまま賞与の額に跳ね返っていた
    • [79]年間賞与の平均は給与の10カ月分、個人差は管理職で給与の4カ月分、一般社員で2カ月分
    • [80]半期の数字を伸ばすことばかり追求する社員が大多数になった
    • [81]1990年4月 部長資格を持つ管理職21人に年俸制を導入し、評価基準を会員数・売上高の伸びから利益効率へ変更
    • [82]年俸が最も少なかった人は最も多かった人の7割程度で、100万円単位の差がある
    • [84]1986年4月に育児休職制度を導入したが1986年度中の取得者は6人にとどまった
    • [85]休職は一度限りで、残業が多く復職しても仕事と子育てを両立できないとほとんどの女性社員が判断していた
    • [86]1988年から勤務時間の削減が始まり、休職する人が増え始めた
    • [87]1990年4月 育児休職を1子につき3年以内に拡充し、夫の転勤など出産・育児以外の理由も認めた
    • [88]女性の正社員は700人近く、年間契約社員を含めると全社員の3分の2以上が女性
    • [89]休職中の女性社員は100人を数えた
  • 日経ビジネス 1994年12月5日号
    • [75]進研ゼミの電話相談・入会申し込みを担当してきた部門を別会社化して組織をスリム化した
    • [83]社員数は1990年度の1957人から1994年3月の1546人まで減った
  • 日経ビジネス 1994年2月28日号
    • [90]出産・育児情報誌の創刊準備では進研ゼミの会員名簿と社員の半数以上を占める女性社員の人脈で調査対象を探した

1988年〜Benesseへの改称とベルリッツ買収、郵便料金の値上げ

事業の拡大に踏み出した背景には、顧客が先細るという読みがあった。国内の児童・生徒の数は1993年以降減り続けると見込まれ、子供一人に投じられる教育費が膨らんでいたとしても、放っておいて会員が急増する展開はもはや期待できなかった。福武書店は柱として海外展開、生涯学習社会、ニューメディア事業の3つを掲げ、通信教育の品ぞろえを広げた。海外では台湾と米国で子供を対象にし、国内では小学生にファミコンで学ぶ英語や自由研究を、大人には英語検定や宅地建物取引主任といった資格試験の対策講座を用意した。1988年4月には進研ゼミ幼児講座を始めて年齢の下の層にも手を伸ばし、1990年9月に新たなCIとしてBenesseを採り入れた。福武總一郎社長はのちに、社名の変更と株式の上場は、バブルが頂点にあった1990年の第2次CIから導かれた決定だったと振り返っている。

  • 日経ビジネス 1991年3月11日号
    • [91]1993年以降に国内の児童・生徒数が減少の一途をたどり、黙っていても会員数が急増するパターンは望めなくなる
    • [92]海外展開、生涯学習社会、ニューメディア事業の3つの柱を立てて事業領域の拡大に取り組んだ
    • [93]台湾と米国では子供向け、国内では小学生向けにファミコンを使った英語や自由研究、成人向けに英語検定や宅地建物取引主任などの資格試験対策を用意した
  • ベネッセホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [94]1988年4月 進研ゼミ「幼児講座」を開講
    • [95]1990年9月 新CI「Benesse」を導入
  • 証券アナリストジャーナル 1996年34巻6号 福武總一郎
    • [96]1980年とバブル絶頂期の1990年の2回にわたりCIを実施し、第2次CIの結果として社名変更と株式上場を決めた

1993年2月、福武書店は米国に本社を置く語学学校のベルリッツ・インターナショナルを364億円で買収した。買収資金のうち210億円強を手元の現預金で支払い、銀行からの借り入れは150億円弱にとどめている。売上高の85%を占める通信教育は受講料が前払い方式のため、1994年3月末時点で293億円の安定した現金収入が確保されていた。通信教育の分野では大規模な設備投資が少なく、資金調達は銀行借り入れ中心で間に合っていた。1994年3月期の売上高は前年比12%増の1492億円、経常利益は1991年度以降の増加が続いて156億円に達した。福武總一郎社長は、いつでも上場できる健全な財務体質の経営を目標にしてきたと語っている。教材を刷って送るだけの事業が、海外の語学学校を現金で買える規模の資金を先に集めていた。

  • ベネッセホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [97]1993年2月 米ベルリッツ・インターナショナルを買収
  • 日経ビジネス 1994年12月5日号
    • [98]ベルリッツの買収額は364億円で、うち210億円強を手元の現預金で支払い、銀行借入は150億円弱にとどめた
    • [99]売上高の85%を占める通信教育は受講料が前払い方式のため、1994年3月末で293億円の安定した現金収入を確保
    • [100]通信教育の分野では大規模な設備投資が少なく、資金調達は銀行借り入れ中心で間に合っていた
    • [101]1994年3月期の売上高は前年比12%増の1492億円、経常利益は1991年度以降の増加が続き156億円
    • [102]福武總一郎社長は「いつでも上場できるような健全な財務体質の経営を目標にしてきている」と説明

第三種郵便料金が1994年から引き上げられた。通信添削を主力とする福武書店では、経常利益の3分の1ほどがこれで失われかねないとの試算が出た。利益を押し下げたのは、この郵便料金である。1994年度の減益要因は、値上げ分だけでも70億円近くに達するとみられた。対策として福武書店は、取引先に印刷費の値下げを求め、ダイレクトメールの発送も絞った。会員集めの手段が、そのまま費用を膨らませる側に回ったことになる。1993年10月には出産情報誌"たまごクラブ"と育児情報誌"ひよこクラブ"を創刊し、20代の既婚女性2万人へのアンケートを経て、読者から募った3000人のママ記者が誌面をつくる形にした。福武總一郎社長は、急いで売り上げを増やそうとは思わず、長く付き合ってもらえる顧客をじっくり開拓していくと述べた。

  • 日経ビジネス 1994年2月28日号
    • [103]1994年から第三種郵便料金の値上げが実施され、通信添削事業が主体の福武書店は経常利益の3分の1が吹き飛ぶ見込みだった
    • [105]1993年10月 出産情報誌「たまごクラブ」と育児情報誌「ひよこクラブ」を創刊
    • [106]進研ゼミの会員名簿と全国支店のネットワークで20代既婚女性2万人へアンケート、1000人へヒアリングを実施し、読者から募集した3000人のママ記者が誌面をつくる形にした
  • 日経ビジネス 1994年12月5日号
    • [104]郵便料金の値上げは1994年度だけで70億円弱の減益要因となり、印刷費の引き下げ要請やダイレクトメールの削減で対応した
    • [107]福武總一郎社長は「急いで売り上げを増やそうとは思わない。福武書店の良さを分かって長く付き合ってもらえるお客をじっくり開拓していく」と述べた
参考文献[91]-[107]
  • 日経ビジネス 1991年3月11日号
    • [91]1993年以降に国内の児童・生徒数が減少の一途をたどり、黙っていても会員数が急増するパターンは望めなくなる
    • [92]海外展開、生涯学習社会、ニューメディア事業の3つの柱を立てて事業領域の拡大に取り組んだ
    • [93]台湾と米国では子供向け、国内では小学生向けにファミコンを使った英語や自由研究、成人向けに英語検定や宅地建物取引主任などの資格試験対策を用意した
  • ベネッセホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [94]1988年4月 進研ゼミ「幼児講座」を開講
    • [95]1990年9月 新CI「Benesse」を導入
    • [97]1993年2月 米ベルリッツ・インターナショナルを買収
  • 証券アナリストジャーナル 1996年34巻6号 福武總一郎
    • [96]1980年とバブル絶頂期の1990年の2回にわたりCIを実施し、第2次CIの結果として社名変更と株式上場を決めた
  • 日経ビジネス 1994年12月5日号
    • [98]ベルリッツの買収額は364億円で、うち210億円強を手元の現預金で支払い、銀行借入は150億円弱にとどめた
    • [99]売上高の85%を占める通信教育は受講料が前払い方式のため、1994年3月末で293億円の安定した現金収入を確保
    • [100]通信教育の分野では大規模な設備投資が少なく、資金調達は銀行借り入れ中心で間に合っていた
    • [101]1994年3月期の売上高は前年比12%増の1492億円、経常利益は1991年度以降の増加が続き156億円
    • [102]福武總一郎社長は「いつでも上場できるような健全な財務体質の経営を目標にしてきている」と説明
    • [104]郵便料金の値上げは1994年度だけで70億円弱の減益要因となり、印刷費の引き下げ要請やダイレクトメールの削減で対応した
    • [107]福武總一郎社長は「急いで売り上げを増やそうとは思わない。福武書店の良さを分かって長く付き合ってもらえるお客をじっくり開拓していく」と述べた
  • 日経ビジネス 1994年2月28日号
    • [103]1994年から第三種郵便料金の値上げが実施され、通信添削事業が主体の福武書店は経常利益の3分の1が吹き飛ぶ見込みだった
    • [105]1993年10月 出産情報誌「たまごクラブ」と育児情報誌「ひよこクラブ」を創刊
    • [106]進研ゼミの会員名簿と全国支店のネットワークで20代既婚女性2万人へアンケート、1000人へヒアリングを実施し、読者から募集した3000人のママ記者が誌面をつくる形にした

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

出典・参考 8件
出典・参考
  • ベネッセホールディングス 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス 1982年11月15日号
  • 日経ビジネス 1984年11月19日冬季増刊号
  • 日経ビジネス 1985年6月24日号
  • 日経ビジネス 1991年3月11日号
  • 日経ビジネス 1994年2月28日号
  • 日経ビジネス 1994年12月5日号
  • 証券アナリストジャーナル 1996年34巻6号 福武總一郎

免責事項およびポリシー