1955年に福武哲彦氏が岡山市に設立した福武書店が起源。
1969年に高校生向け通信添削を開講し、のちの「進研ゼミ」は1999年に会員420万人へ達した。通信教育の大手として2003年に介護へも参入し、2024年に上場を廃止して非公開化した。
前身は1955年設立の福武書店。
1993年に米ベルリッツ・インターナショナルを買収し、1995年にベネッセコーポレーションへ商号を変更した。2022年にベルリッツの全株式を譲渡。2026年に持株会社体制を廃止し、教育と介護・保育の事業ポートフォリオを分離した。
福武書店の商いは、売った相手ともう一度会えるかどうかで分かれた。福武哲彦氏が富士出版で潰れたのは、学習参考書を全国へ拡販して代金を回収できなかったためである。学校へ納める図書や生徒手帳も、納めた時点で取引が終わる点は変わらない。1962年の関西模試と1969年の通信教育セミナで福武書店が手にしたのは、同じ生徒のもとへ何度も戻ってくる商いだった。小学5年生で会員になれば、講座を替えながら高校3年まで10年近く教材を届けられる。模擬試験の運営を名門校の教師の研究会に任せたのも、信用のない会社が学校の年中行事へ入り込むための手である。福武書店は売り先を学校から家庭へ移し、一件ごとの取引ではなく続く関係から収入を得るようになった。
長く付き合う形は、福武書店の貸借対照表に前受金として現れた。1982年3月期の福武書店は、自己資本60億円に対してほぼ同額の59億円を前受金として抱え、借入金はゼロだった。受講料を先に受け取り、教材の制作と郵送以外に大きな設備を要さず、最も人手のかかる添削は在宅の指導員2,500人が引き受けた。会員が増えても社員を増やさずに済む形が、3年で売上高を97億円から269億円へ押し上げている。福武哲彦氏はその利益を、単体では黒字にならない学術書と文芸誌へ回した。倒産で失った出版社としての名を、模擬試験と通信添削の収益で買い戻そうとしたのである。
福武哲彦氏は1949年、岡山で小学生向けのテストブックとドリルブックを出版する富士出版を設立し、業界の最高峰を目指すという意味を"富士"の社名に込めた。教材は作れば売れ、滑り出しは順調だったが、代金を回収できない取引先が次々に現れた。損を取り戻そうと無理な販売を重ねて資金繰りは詰まり、妹の嫁ぎ先の権利書を本人に無断で持ち出して担保に入れ、友人の校長からはPTAの会費まで借りた。午後3時ぎりぎりに銀行へ駆け込んで手形を落とす日が3カ月以上続いたのち、1954年7月20日、64万円の手形が落とせず富士出版は倒産した。総負債は2,400万円で、大卒の初任給が3,500円の時代である。
債権者が自宅に押し寄せ、たんすの中の着物が消え、続いてたんすも電話も無くなり、自宅にも会社にも債権者の目が光るなかで、屋根裏に隠れて社員が差し入れたラーメンをすすった日もある。妻の実家に借りた四畳半一間で、福武哲彦氏は岡山を離れて再出発するかどうかを考え続けた。町を歩けば会社を潰した男だという声が聞こえ、窮状を伝え聞いた東京の友人からは、こちらへ来れば仕事を世話するという申し出も届いた。それでも福武哲彦氏が岡山に残ったのは、ここで逃げれば二度と郷里の地を踏めず、息子まで夜逃げ男の子供と言われると判断したためである。1954年10月、二つ目の決断として、もう一度出版をやると決めた。
悪名が高いままでは普通の本を作っても取り合ってもらえないと考え、福武哲彦氏は二つの商品を用意した。一つは身分証明書を貼り、校則と生徒会の規約を書き込む生徒手帳で、教材販売で作った小学校教員との人脈を頼れば売れると踏んだ。もう一つは刷り込んだ文面をなぞれば字が書けなくても出せる葉書実物大の年賀状の手本集で、地元の印刷業者には断られ、つてを頼って訪ねた京都の業者にようやく引き受けてもらった。1冊15円で売った手本集の利益を全額つぎ込み、資本金50万円で会社を設立した。1955年1月、岡山市南方420番地に株式会社福武書店を設立し、中学校関係の図書と生徒手帳の発行を始めた。
福武書店が次に置いたのは同じ生徒と何年も付き合う商いであり、図書や生徒手帳は学校へ納めた時点で取引が終わるが、模擬試験と通信添削は同じ相手のもとへ何度も戻ってくる。1962年4月、関西進学研究会を設置して高校生を対象とする"関西模試"を始め、1969年1月には高校生のための通信添削講座"通信教育セミナ"を開講した。同年3月に東京支社を設置して東日本地区では"進研模試"の名称で模擬試験を実施し、1971年8月には本社を岡山市番町一丁目10番23号へ移転。売り先の異なる二つの商品を、福武書店は同じ高校生に向けて並べた。
対象は高校生から下へ広がった。1972年12月、中学生のための通信添削講座"通信教育セミナ・ジュニア"を開講し、1973年4月には通信添削講座の名称を"進研ゼミ"に改め、1980年9月には進研ゼミ"小学講座"を開講した。受験競争が激しくなるなかで模擬試験と通信添削は伸び、福武哲彦社長に運が向き始めたのは1975年以降だった。小学生のうちに会員になれば、中学・高校と講座を替えながら同じ相手へ10年近く教材を届けられる。この組み立ては後年、不特定多数の顧客を特定化し、固定化し、継続化する営業として言語化された。
模擬試験は、無名の出版社が学校の信用を借りることで広がった。福武哲彦氏は各県の一流校へ参加を頼んで回ったが、福武書店と名乗っても、どこの古本屋かという反応が返ってきた。そこで名門校の教師による研究会をつくり、模擬試験の運営方法をその研究会に任せた。問題の質を誰が保証するのかという問いに、会社ではなく教師の側が答える形にしたのである。この頼み方で教師側の信頼を得て、模擬試験は学校の年中行事として定着していった。1969年3月に東京支社を置いて東日本では"進研模試"の名で実施し、1982年時点の受験者は中学・高校生合計で280万人、"進研ゼミ"の会員は小学5年生から高校3年生まで全国60万人に達した。
答案を読んで朱を入れる仕事は、会員が増えた分だけ人手が要る。福武書店はこの工程を社内に抱えず、外へ出した。高校生向けの"進研・高ゼミ"では、毎月15万枚の答案を2,500人の指導員が赤ペンによる手書きで添削し、5,000通を超える相談・質問には別の500人の回答員が応じていた。指導員は社員ではなく、大学を出た在宅の女性が多かった。添削は誤答の解説にとどまらず、正解にも所見を付け、相談と質問を自由に受けた。福武哲彦氏はこれをツー・ウェイ・コミュニケーションと呼んでいる。会員数と社員数を切り離したこの形は、後年、人的付加価値とネットワーク力という言葉で自社の事業スタイルとして説明された。
通信添削は、代金が先に入る商いでもあった。1982年3月期の貸借対照表には59億円の前受金が載り、自己資本60億円とほぼ同額に達していた。借入金はゼロで、総資産155億円に対する自己資本比率は39%である。福武哲彦氏は料金を後払いにもできる仕組みがあり前納を強制してはいないと述べたが、実際には前納が多く、その資金の運用益も収益に寄与していた。教材の制作と郵送が費用の中心で大規模な設備を要しないため、先に入った代金がそのまま運転資金になった。1979年3月期に97億円だった売上高は1982年3月期に269億円へと3年で約3倍になり、法人所得は全国525位、岡山県下では中国銀行に次ぐ2位につけた。1984年の未上場企業株価ランキングでは、試算株価5,165円で第8位に入っている。
模擬試験と通信添削が生んだ利益は、単体では採算の合わない出版へ回された。1972年に学術出版図書部を設けて「大原總一郎随想全集」全4巻などを刊行し、1979年に設けた東京書籍出版部では「オックスフォード・カラー英和大辞典」全8巻を手がけた。1981年7月には文芸部を発足させ、文芸雑誌「海燕」を創刊している。福武哲彦氏はこれらの部門が黒字ではないと認めたうえで、書店としては不可欠だと述べた。教育と文化を合わせたエデュカルチュアを前面に出す方針を掲げ、1980年には最初のCIを実施した。良心的な出版を続けるには、それを支える収益部門が要る。福武哲彦氏にとって模擬試験と通信添削はその収益部門だった。
福武總一郎氏が1986年に継いだのは、会員の増加が自社の処理能力を超えつつある会社だった。進研ゼミの会員は1987年に100万人を超え、1989年度には200万人へ達する勢いで増えたが、添削スタッフの手配は追いつかず、継続する会員の割合は下がり始めていた。会員数がそのまま賞与に跳ね返る仕組みは、半期の数字を追う社員を大多数にしていた。全社から集めた100人の討議が出した答えは、会員数と売上高の伸びは膨張であって成長ではない、というものである。続けてもらうことで成り立つ事業で集めることだけが目的になれば、集めた会員から先に離れていく。
1989年からの数年で福武書店が変えたのは、事業ではなく測り方だった。ワープロ入力とレイアウトを外注へ出して残業を月40時間から33時間へ下げ、部長21人の年俸制では評価の基準を会員数から利益効率へ移し、社員数は1957人から1546人へ減らした。効率化で積み増した手元資金の使い道が1993年のベルリッツ買収で、364億円のうち210億円強を現預金で払っている。前払いの受講料を溜めた通信教育が、海外の語学学校を借入にほとんど頼らず買える規模に届いていた。ただし教材を運ぶ同じ郵便が、1994年の第三種郵便料金値上げで70億円弱の減益要因へ変わる。
経営トップが会社の向きを変えようと号令をかけても、現場の仕事量との間にはこの段階で大きな開きがあった。創業者の福武哲彦社長が1986年に急死すると福武總一郎氏が2代目社長を継ぎ、就任早々、21世紀を見越して新しい商品・サービスを生む企画を本業の柱に据えるという長期目標を掲げた。だが社員は日々の仕事に手一杯で企画に割く余力はなく、夜ごと深夜まで残業が続いて灯りの消えない社内を、皮肉まじりに不夜城と呼んだ時期もある。1987年4月には、株式の額面を変える目的でタバイサイエンスを合併した。
当時の福武書店で売上高の86%を占めていたのは通信教育部門であり、作業量が膨らんだ最大の原因もその会員数の増加にあった。進研ゼミの総会員数は100万人を1987年に上回ってから急速に増え、1988年にはすでに1989年度中に200万人へ届く見通しがほぼ立っていた。添削スタッフの手配も対応もこの勢いに追いつけず、入会者が増え続ける裏で、会員の継続率は少しずつ落ちていった。集めるほど処理が遅れ、遅れるほど継続しない会員が増える悪循環に、この時期の同社ははまり込んでいた。それでも会員数は伸び続け、1993年4月には266万人に達した。
当時、売上高の約9割と利益の大半は進研ゼミが稼ぎ出していた。現場の異変を社長に伝えたのは、全社員がその1日の業務内容と所感を"私の記録"としてB5判の用紙に毎日書き、岡山市の本社へ送る日報で、社長は一通残らず目を通していた。その中で、業務が多すぎる、仕事の質が下がったという訴えが増えていった。これを受けて福武總一郎社長は、入社3年目から部長までの社員100人を全社から選んでワーキンググループとし、岡山本社で月1回の議論を重ねさせて社内の課題を洗い出し、解決させた。会員数や売上高の増加は規模が膨らんだにすぎず成長とはいえない、という結論に討議は達し、社長は1989年の年頭あいさつで膨張から成長へを主題とした。
1980年代半ばまで、福武書店は添削を別にすればほぼ全工程を社内で抱えており、解答・解説をワープロで打ってレイアウト用紙に貼り付ける仕上げまで社員が自らこなし、問題冊子・答案用紙・解答冊子の編集や、返送された答案を添削スタッフへ配って回収する仕事まで、1人の社員に集まっていた。作業量を減らすために同社が選んだのは社内の工程を外に出すことで、膨大な印刷物のワープロ入力とレイアウトを段階的に外部委託へ移していった。電話相談と入会申し込みを受け付けてきた進研ゼミの部門も別会社として切り離し、組織を一段と絞り込んだ。その結果、1990年度の平均残業時間は月33時間となり、前年度の40時間より7時間少なくなった。
社員を測る基準も入れ替わった。1955年に創業して以来、福武書店は成果を出した社員を、年の若さや在籍の短さを問わず昇進させ、賞与を厚くしてきた。賞与の多寡は、その社員が進研ゼミの会員をいくら増やしたかで直に決まり、年間賞与は平均で給与10カ月分に達し、個人間の開きは管理職で給与4カ月分、一般社員でも2カ月分あった。こうして、社員の大半が半期ごとの数字の上積みだけを追うようになった。福武總一郎社長は1990年4月、部長資格の管理職21人を年俸制に移し、会員数・売上高の伸びではなく、利益をいかに効率的に生んだかで評価する形にした。年俸の最低額は最高額のおよそ7割で、両者の差は100万円単位に及んだ。人員の削減も進み、社員数は1990年度に1957人だったものが1994年3月には1546人となった。
1986年4月、福武書店は育児休職制度を導入した。仕事に慣れた女性社員が出産や育児を機に辞めていくのを惜しんでのことだったが、1986年度の利用者は6人にとどまった。休職できるのは一度きりで残業も多く、復帰しても子育てとの両立はできないと、女性社員の多くが受け止めていたのが理由である。1988年に勤務時間が短くなると休職する人は増えた。1990年4月には休職期間を1子につき3年以内へ延長し、夫の転勤など出産・育児以外の理由でも休めるようにした。同社の人員構成を見ると、1991年の時点で女性正社員は700人近く、年間契約社員も含めれば全社員の3分の2を上回っており、働き手の多くは女性だった。1991年時点で休職中の女性社員は100人を数えた。出産・育児情報誌の創刊準備では、社員の半数以上を占める女性社員の人脈が調査対象を探す手がかりになっている。
事業の拡大に踏み出した背景には、顧客が先細るという読みがあった。国内の児童・生徒の数は1993年以降減り続けると見込まれ、子供一人に投じられる教育費が膨らんでいたとしても、放っておいて会員が急増する展開はもはや期待できなかった。福武書店は柱として海外展開、生涯学習社会、ニューメディア事業の3つを掲げ、通信教育の品ぞろえを広げた。海外では台湾と米国で子供を対象にし、国内では小学生にファミコンで学ぶ英語や自由研究を、大人には英語検定や宅地建物取引主任といった資格試験の対策講座を用意した。1988年4月には進研ゼミ幼児講座を始めて年齢の下の層にも手を伸ばし、1990年9月に新たなCIとしてBenesseを採り入れた。福武總一郎社長はのちに、社名の変更と株式の上場は、バブルが頂点にあった1990年の第2次CIから導かれた決定だったと振り返っている。
1993年2月、福武書店は米国に本社を置く語学学校のベルリッツ・インターナショナルを364億円で買収した。買収資金のうち210億円強を手元の現預金で支払い、銀行からの借り入れは150億円弱にとどめている。売上高の85%を占める通信教育は受講料が前払い方式のため、1994年3月末時点で293億円の安定した現金収入が確保されていた。通信教育の分野では大規模な設備投資が少なく、資金調達は銀行借り入れ中心で間に合っていた。1994年3月期の売上高は前年比12%増の1492億円、経常利益は1991年度以降の増加が続いて156億円に達した。福武總一郎社長は、いつでも上場できる健全な財務体質の経営を目標にしてきたと語っている。教材を刷って送るだけの事業が、海外の語学学校を現金で買える規模の資金を先に集めていた。
第三種郵便料金が1994年から引き上げられた。通信添削を主力とする福武書店では、経常利益の3分の1ほどがこれで失われかねないとの試算が出た。利益を押し下げたのは、この郵便料金である。1994年度の減益要因は、値上げ分だけでも70億円近くに達するとみられた。対策として福武書店は、取引先に印刷費の値下げを求め、ダイレクトメールの発送も絞った。会員集めの手段が、そのまま費用を膨らませる側に回ったことになる。1993年10月には出産情報誌"たまごクラブ"と育児情報誌"ひよこクラブ"を創刊し、20代の既婚女性2万人へのアンケートを経て、読者から募った3000人のママ記者が誌面をつくる形にした。福武總一郎社長は、急いで売り上げを増やそうとは思わず、長く付き合ってもらえる顧客をじっくり開拓していくと述べた。
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事実根拠:出所(ベネッセコーポレーション)