株式会社福武書店を設立(岡山市南方)
元教員の福武哲彦氏が創業
ベネッセの創業者は福武哲彦氏(1916年生〜1986年没)である。
祖父と父親が小学校の校長を務めており、教育一家に生まれ育った。戦前の1935年に岡山県の師範学校を卒業し、自らも教員としてのキャリアを歩んでおり、戦時中には岡山県の「満蒙開拓青少年義勇軍」の責任者でもあった。しかし、終戦後に教員を辞めて、闇屋などのブローカーを経て起業家に転身した。
教員を辞めた理由については、1945年に日本が敗戦し、教育現場の掌返しに幻滅したためだという。福武哲彦氏は以下のように語っている。
「昨日まで鬼畜米英と叫んでいた奴らが一夜明けると生まれついての民主主義者のような顔をしている。そんな風にコロコロ変わる奴を見ると腹が立って仕方なかった」(1985/6/24日経ビジネス)
この経緯から、福武哲彦氏は安定した教員というキャリアを捨てることになったが、ビジネスの面では学校(小学校・中学校・高校)という閉鎖的な業界に対する販路を熟知する点が、大きな武器となった。福武哲彦氏の元教員というキャリアは、その後のベネッセの事業展開において、学校向けの販路を強みとした点に継承されている。
富士出版の設立と倒産(1949年〜1954年)
福武哲彦氏は、ベネッセの起業前に「富士出版」という会社を地元の岡山で創業した。小学校向けにテストやドリルといった教材を制作・販売する会社であり、業界トップ企業を目指すために「富士」という名前を商号に採用した。
教材は順調に売れたというが、富士出版は売掛金の回収に失敗。親戚の土地を勝手に担保に出したり、知人の校長などから借金するものの資金繰りが改善せず、1954年7月に手形の不渡りを起こして倒産した。
この当時の苦労について、福武哲彦氏は、不渡り前日の日記に次のように綴っている。
「明日遂に不渡りを出す事となる。思い出せば連日のガンガンする頭痛の連続。金、金、金に追いまくられる日々。本当に筆舌に尽くしがたい日々であった。一時は本当に死にたいと真剣に考えた。今はそうは思わぬ。殴られても、蹴られても生き抜いて、まずは借金を分割して返済し、次には再び親戚を取り戻したいばかりである。が、果たしていつの日だろう。再出発にはあまりに負担の大きい負債ではある。もう書きたくない。頭が鉛のようである。夜、十時半・・・」(1985/6/24日経ビジネス)
富士出版の倒産によって、福武哲彦氏の自宅に債権者がきて、家財などほぼ全ての備品が回収された。無一文となった福武哲彦氏(2人の子供と妻あり)は故郷である岡山を捨て、知り合いのツテで東京で働くことを考えたが、先祖の墓参りができなくなることから思いとどまったという。
福武書店の設立(1955年・現ベネッセHD)
1955年に福武哲彦氏は、岡山市内に福武書店を設立し、起業家としてやり直すことを決意した。設立直前に売り出した「年賀状の手本集」の利益を設立資金に充当し、学校向けの教材や、生徒手帳の販売をビジネスとした。
富士出版を倒産させたため、銀行からの融資は困難であり、取引先の印刷屋・紙屋からは現金決済を要求されたため、資金繰りが厳しい中でのスタートとなった。1960年代後半までの福武書店の経営状況は余裕がない状況が続き、福武家も貧しい状況が続いた。例えば、長男の福武総一郎氏(のちのベネッセ社長)が早稲田大に進学した時の学費は生命保険を担保に借金して捻出し、卒業時に学費未納が発覚するというトラブルもあった。
従業員24名まで拡大(1964年)
1964年時点の福武書店の従業員数は24名。資本金は100万円であり、この時点では中小企業に過ぎなかった(「岡山県商工名鑑 1964年版」より)。福武家の収支状況が改善したのは、模試事業が軌道に乗った1970年代以降であったという。
倒産の反省から手形発行を禁止
福武書店では、1990年代まで手形の不渡りを出さないように、手形取引を禁止しており、倒産の教訓にした商習慣を独自に採用していた。
高校生向け「関西模試」を開始
岡山県内にて高校生を対象とした模擬試験「関西模試」を学校向けに販売を開始した。1960年代は戦後のベビーブームや大学進学の大衆化によって、大学受験の競争率が激しくなり模試へのニーズが高まっていた。ベネッセはいち早く模試に参入して、岡山と関西を中心に参加校を増大させることで「模試といえば福武書店」という認知を教育関係者において確保した。
高校生向け通信添削「関西ゼミナール」を開始(失敗)
東日本・東京地区で高校生向け「進研模試」を開始
営業マンが1校1校出向いて顧客開拓
1960年代を通じて、ベネッセの模試事業は西日本が中心であり、東京を含めた東日本への参入が課題であった。そこで東京支社を新設し、東日本地区で「進研模試」のサービス提供を開始した。模試は同じ問題を使い回すことから、損益分岐点が一定であり、参加校の増大が収益性の鍵を握った。
しかし、東京地区は進学校が多く、模試の競争が激しい市場であった。1960年代後半というタイミングは受験戦争が過熱しつつあったタイミングであり、先発した関西地区とは異なり、後発参入という不利な状況であった。
この状況に対して、ベネッセは競合サービスとの差別化が難しいという問題に直面した。そこで、まずは東京ではなく東北などの東日本地区を中心に営業を展開し、浸透した後に、東京地区の高校に対する営業を重視した。競合が少ない周辺地区から営業開拓することで、模試の規模の拡大に目処をつけた。
なお、実際の営業は、営業マンが進学校1つ1つに出向いて、顧客である教師に対して進研模試の導入を依頼していった。
共通第一次試験の開始が追い風に
ベネッセにとって幸運だったのが、1974年に国内で共通第一次試験(のちのセンター試験)がスタートしたことであった。大学入試における大きな変更であり、模試導入の営業の追い風となった。
また、1970年代には女性の大学進学率が向上し、日本人の所得も向上しつつあったため、希望の大学に進学するための模試に対するニーズも増加。1970年代に進研模試の受験者数が増加したとことで、模試事業が軌道に乗った。
営業網の充実で予備校と棲み分け
1970年代から1980年代にかけてベビーブーム世代が大学進学するタイミングと重なり、日本における受験戦争がピークを迎えた。このタイミングで予備校(現役・浪人)のビジネスが確立され、駿台予備校・河合塾・代々木ゼミナールといった新興企業が急成長を遂げた。これらの企業も模試事業に参入したため、進研模試は予備校が提供する模試との競争に晒される形になった。
模試の競争激化に対して、ベネッセの強みは学校向けの営業網にあった。
予備校の顧客が「高校生とその親(提供価値は希望する大学の受験合格)」であるのに対して、ベネッセの顧客が「高校教師(提供価値は教師のテスト作成時間の削減)」であるという差が、進研模試の存在意義であった。このため、学校で購入する模試市場において、ベネッセは「進研模試」で独自のポジションを確保し続けたと思われる。
加熱する受験戦争ビジネスには深入りせず
受験戦争に対して、ベネッセは予備校を積極展開するのではなく、対象年齢を下げる(中学生→小学生→幼児)形で広げ、より基礎的な教育を重視してあえて一線を画す態度をとった。ベネッセが1980年と1990年に策定した「Benesse(よく生きる)」という経営理念は、加熱する受験戦争ビジネスしないという隠れたメッセージを含んでいる。
KIPの推移
進研模試の年間受験者数:0名(1968年度)→146万人(1979年度)→434万人(1995年度)
主な投資:東日本・東京における営業網の充実
過去にいくつかの壁があったと思うんですね。1つは東京に出てきた1969年で、田舎の中小企業から新しいフィールドに乗り移るための壁だったと思います。と言いますのは、東京に出てきても全く知名度がない。福武書店というのは、どこの古本屋か本屋かわからない。決して出版社のイメージを持っていただけませんでした。そういう意味での苦労はあった。私もその最前線でやっていましたから。 ただ、その中で、やっぱりいろいろ回っていると、志は通じるものだなと。ただその場合、営業展開する場合に、東京支社があっても、東京、大阪という場所は攻めなかったんですよ。まず東北、北海道だったんですよね。ということは、城攻めをするけれども、いきなり本丸を攻めなかった。まず外堀を埋めて、内堀を埋めて、二の丸をせめて本丸を攻めて。結果的にですが。 決して戦略的じゃありません。それが非常に良かった。気がついてみれば、競合会社は、周辺を全部当社で埋められていた。その辺の最初の苦労が、昭和40年代(注:1965年〜1975年)の後半だった。