角川書店は1945年11月、東京で創業[1]した。国文学者の角川源義氏が、戦後まもない焼け野原のなかで出版による日本文化の再建を志し[2]、国史・国文を中心とする出版社を興したものである。その出版は敗戦直後の読者に迎えられ、文芸出版社としての基礎を固めた。1949年には角川文庫を創刊し[3]、古典と海外文学の普及を担う低価格の叢書として、教科書・辞典と並ぶ柱に育てた。のちに角川歴彦氏は自社の歩みを振り返り、この時期を角川書店の『文芸出版社の時代』と呼んでいる。国文学と辞典、文庫と教科書。売り物はいずれも堅い本であり、その堅さがこの時期の角川書店の顔だった。
源義氏は出版人であると同時に、慶應義塾大学や国学院大学で教壇に立つ学者でもあった[4]。国史・国文の学術書や辞典、教科書を手がける仕事は、角川書店に堅実な出版社としての信用を与えた。1976年の取材で角川書店が『教科書や辞典、学術書のイメージがあった。いわばおカタい本屋さん』[引用元]と評された[5]のも、この源義氏の学者らしい仕事ぶりに由来する。辞書や事典の編纂は歳月と資本を要する事業であり、腰を据えた出版社にしか手がけられない仕事でもあった。堅い出版で築いたこの信用が、のちの娯楽路線への転換の元手になった。
大学でボクシングや剣道に熱中し、卒業後しばらくは昼は土工、夜はバーテンダーをしていた[6]という次男の角川春樹氏は、学者肌の源義氏とことごとく対立した。『まともに本を読んだことがない』[引用元]と本人が振り返るほど、学者の父とは資質が異なっていた。それでも春樹氏は、父が築いた角川書店をいずれ自分になじませてやると考えていたという。堅い学術出版を守る父と、娯楽を売る出版を志す息子。角川書店の針路は、この父子の対立の間で揺れていた。
対立を抱えながらも、源義氏は早くから実務を息子に託した。1967年ごろ、源義氏は『55歳になると人間進歩がなくなる』[引用元]と言い、社長の肩書は残したまま、実質的な事業を息子の春樹氏に譲った[7]という。社長の椅子は学者の父に残し、日々の経営の采配は娯楽を志す息子が握るという分担である。源義氏が25歳の息子に渡したのは、赤字経営の立て直しという課題と、堅い出版社を作り替える自由だった。実権を得た春樹氏はまず赤字の立て直しに取り組み、そこから次々とヒット作を放っていく。文庫を軸に据えた事業の拡大は、この実権移行を境に始まった。
1975年10月に源義氏が没し、春樹氏が角川書店の社長[8]に正式に就いた。春樹氏はまず文庫本にカラー表紙をつけるという、それまでのタブーを破った[9]。文庫といえば岩波文庫のような地味な作りが常識だった時代に、色刷りの表紙で書店の平台の見え方を変えた。あわせて『本が読みたくて出かける旅だってあるんだ』[引用元]といったイメージ広告を打ち、若者の感覚に直接訴えて本を買わせる手法を持ち込んだ。色刷りの表紙と大胆な広告という二つの仕掛けで、角川書店は堅い学術出版の老舗から、文庫と娯楽で読者を動かす出版社へ姿を変えた。
春樹氏の商法は発行部数を押し上げた。文庫本の発行部数は1972年に2500万部、1975年に4500万部へと伸び、長くトップにあった新潮社を1974年に追いつき、1975年には6対4のシェアで追い抜いた[10]と報じられている。1976年ごろには文庫が売上高の約7割を占める柱に育ち、『この5年間で売上高が約3倍、経常収益で約5倍の伸び』[引用元]と春樹氏は語った。横溝正史の作品を文庫で復刊した『横溝正史カムバックフェア』は空前の横溝ブームを呼び、フェア期間の2カ月で250万部を売り上げた[11]。文庫の角川という評判は、この部数とシェアの実績で定着した。
春樹氏はブームの勢いを映画に持ち込んだ。東宝と提携して横溝作品の一つ『犬神家の一族』を製作し[12]、1976年10月の横溝フェアに合わせて公開した。狙いは、海外の翻訳物を手がけて映画との相乗効果で売れると分かった以上、手持ちの作品で勝負するという点にあった。米国のペーパーバック全盛を見た春樹氏は、日本にも必ず文庫の時代が来ると読み、角川文庫と角川映画を連動させる手法を始めた[13]。小説を映画にし、映画が文庫を売る循環である。映画の公開に合わせて原作の文庫を書店に大量に積み、宣伝費を出版と映画で分け合うこの手法は、当時の出版界では前例のないものだった。
角川歴彦氏は後年、この文庫と映画のメディアミックスが成功を収め、角川書店の経営基盤を飛躍的に広げた[14]と述べている。小説の映画化、コミックのゲーム化といった、一つの作品を複数のメディアに載せ替えて売る方法は、以後の角川グループの常套手段になった。売るのは一冊の本ではなく、姿を変えて何度でも売れる作品である。角川書店はこの転換で、出版社の商売を書物の外へ広げた。
1982年、角川書店は『週刊ザテレビジョン』を創刊し[15]、雑誌を三つ目の柱に据えた。着想は、30年前に春樹・歴彦兄弟の世代が米国で紹介されたTVガイドという情報誌にあった。『週刊ザテレビジョン』は1990年代末に毎週130万部を刊行し、全出版物のなかで最大部数の週刊誌[16]に育った。その後もゲームソフト情報誌、アニメ情報誌、都市情報誌『東京ウォーカー』などを次々に成功させ、角川書店は『雑誌の時代』を築いていく。都市情報誌は東京だけでなく横浜や関西へと版を増やし、テレビ・ゲーム・アニメ・音楽と、余暇の分野ごとに情報誌を増やしていった。
春樹氏は『文化は既成の権威にすぎない。革命を伴わない思想はない』[引用元]と語り[17]、出版界のタブーを破って読者を動かし続けた。俳人であり映画監督でもあった春樹氏の私生活も注目を集めたが、経営の実像は、書物を売るための仕掛けを次々に繰り出す型破りな編集者のそれだった。書物を売るためなら手段を選ばない商法は、良くも悪くも角川書店の名を世間に覚えさせた。ただし突出した個性に頼るこの経営は、次の世代への引き継ぎを難しくもした。
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| 1975〜1992年文庫にカラー表紙を掲げ書物を映画へ広げた角川春樹のメディアミックス | 東宝と提携した『犬神家の一族』製作による映画事業への参入 1976年、角川書店は東宝と提携して横溝正史の『犬神家の一族』を製作し、同年10月の『横溝フェア』に合わせて公開した。原作の文庫を持つ出版社が自ら映画の製作費を出し、公開の時期を自社の販売計画に合わせる試みで、角川文庫と角川映画を連動させる売り方はここから始まった。当時の社長は34歳の角川春樹氏であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 1993〜2013年兄弟の相克を越え上場・持株会社化・デジタルへ進んだ歴彦の時代 | 持株会社傘下の事業会社9社の吸収合併とKADOKAWAへの一本化 2013年3月28日、角川グループホールディングスは連結子会社9社を同年10月1日付で吸収合併すると発表した。対象は角川書店、アスキー・メディアワークス、メディアファクトリーなど、連結売上高の8割を占める出版事業会社である。6月22日には持株会社自身の商号もKADOKAWAへ改め、10月に一つの事業会社として動き出した。 詳細を読む | ★★★ | ||
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| 川上量生 | 商号をカドカワに変更 | ★ | ||
| 松原眞樹 | カドカワをKADOKAWAに商号変更 | ★ | ||
| 夏野剛 | プライム市場に移行 | ★ | ||
| 夏野剛 | 監査等委員会設置会社へ移行 | ★ | ||
| 夏野剛 | 指名委員会等設置会社へ移行 | ★ |
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