KADOKAWA東宝と提携した『犬神家の一族』製作による映画事業への参入

他社の映画に文庫を相乗りさせるか、自ら製作費を出すか——角川春樹社長が選んだ道

時期 1976年10月
意思決定者(推定) 角川春樹 社長
論点 出版事業の外への進出と作品の売り方
概要
1976年、角川書店は東宝と提携して横溝正史の『犬神家の一族』を製作し、同年10月の「横溝フェア」に合わせて公開した。原作の文庫を持つ出版社が自ら映画の製作費を出し、公開の時期を自社の販売計画に合わせる試みで、角川文庫と角川映画を連動させる売り方はここから始まった。当時の社長は34歳の角川春樹氏であった。
背景
角川書店は角川源義氏が1945年に創業した学術出版の版元で、1967年に実務を継いだ春樹氏がカラー表紙とイメージ広告で文庫を伸ばした。1975年の「横溝正史カムバックフェア」は2カ月で250万部を売り、翻訳小説では他社の映画と組んで部数が伸びる経験も積んでいた。
内容
興行網を持たない角川書店は東宝との提携で製作・公開にこぎつけ、第2作・第3作の企画も同時に用意した。狙いは、他社作品で確かめた映像と書物の相乗効果を、自社が権利を持つ作品でやり直すことにあった。
含意
3年後には他社の販売手法まで「角川商法」と呼ばれるほど型が知れ渡った。角川歴彦氏は後年、この時期を「文庫と映画のメディアミックスの時代」と名づけ、経営基盤を飛躍的に拡大したと総括している。
筆者の見解

発明ではなく、権利を持つ側の越境

この参入を「メディアミックスの発明」として語るのは、物語を単純にしすぎる。春樹氏が1976年に述べた狙いは「海外の翻訳物を手がけて、映画との相乗効果で売れることがわかった。それなら手持ちの作品で勝負しよう」という、すでに他社の映画で確かめた現象の再現であった。芯にあるのは新奇な着想ではなく、原作を持つ側が製作費と公開時期を握りにいった点だとみられる。文庫のカラー表紙と同じく、既存の分業を無視したところに賭けがあった。

もっとも、松竹の奥山融専務の「マーケットを知らない」、日活の根本悌二専務の「興業網を持っていない」という評は、的を外していない。角川書店は劇場を持たず、『犬神家の一族』も東宝との提携なしには公開できなかった。私費5000万円を古代船に投じる気質と文庫の部数を数える算盤の同居も、他社には真似にくい。作品を持つことと、それを届ける場所を持つことは別であり、1976年の参入は前者だけで後者へ食い込めるかを試した例といえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

学術出版の版元を継いだ二代目

角川書店は1945年11月に角川源義氏が創業した出版社で、国史・国文を中心とする学術書や辞典、教科書を手がけてきた。源義氏は事業家であると同時に、慶應義塾大学や国学院大学で教壇に立つ学者でもあった。1976年の誌面でも「教科書や辞典、学術書のイメージ」を持つ堅い版元と紹介されている。1967年、源義氏は「55歳になると、人間進歩がなくなる」と言い、社長の肩書は残したまま実質的な社業を25歳の次男・春樹氏に譲った[1][2]

春樹氏は赤字の立て直しと並行して文庫を伸ばした。文庫本にカラー表紙をつけ、「本が読みたくて出かける旅ってあるんだ」といった若者向けのイメージ広告を打つ。文庫の発行部数は1972年の2500万部から1975年に4500万部へ増え、首位の新潮社を1974年に追い、1975年には6対4のシェアで抜いた。1976年ごろには文庫が売上高の約7割を占め、直近5年で売上高が約3倍、経常収益が約5倍に伸びたと春樹氏は語った[3][4]

翻訳小説で確かめた映像との相乗効果

文庫の伸びを支えたのは、映画と組んだ翻訳小説であった。1970年の『ラブ・ストーリー』は単行本46万1000部・文庫32万5000部を売り、翌1971年の『さすらいの人の子守唄』も同17万2000部・36万5000部に達した。イザヤ・ベンダサン氏の作品を文庫へ入れた際には140万部の大ヒットとなっている。他社が作った映画の話題に自社の文庫を乗せると部数が跳ねる。この経験を春樹氏は数年がかりで積み上げていた[5]

1975年に始めた「横溝正史カムバックフェア」は空前の横溝ブームを呼び、フェア期間の2カ月で250万部を売った。春樹氏は1976年10月の「横溝正史フェア」までに1500万部を売ると豪語している。手元には売れる原作があり、部数を動かす広告の作法も分かっていた。米国のペーパーバック全盛を見て日本にも文庫の時代が来ると読んでいた春樹氏に足りないのは、ブームの起こる時期を自分で決める手段だけであった[6][7]

決断

手持ちの作品で勝負するという選び方

1976年、角川書店は東宝と提携し、横溝作品の一つ『犬神家の一族』を製作した。公開は同年10月の「横溝フェア」に合わせている。狙いを春樹氏はこう説明した。「海外の翻訳物を手がけて、映画との相乗効果で売れることがわかった。それなら手持ちの作品で勝負しよう」。他社の映画に文庫を相乗りさせるのではなく、原作を持つ側が製作費を出し、公開の時期まで自社の販売計画に合わせる。すでに第2作、第3作も用意していた[8]

この選び方は、文庫でやってきたことの延長にあった。カラー表紙も、若者に直接呼びかけるイメージ広告も、当時の出版界では踏み込まない領域だった。春樹氏は批判を承知していた。「ムードで本を買わせるなんてとんでもない、という批判がある。もっともである。しかし、読む気にさせる方法だって考えたっていい」。日経ビジネスはこの34歳の二代目を「野性派経営者」と呼び、業界のタブーを破ってヒットを連発する経営者として紹介した[9][10]

「シロウトが」という映画界の評

映画の側の反応は冷ややかであった。松竹の奥山融専務は「ねらいはいい。だがマーケットを知らない」と述べ、日活の根本悌二専務は「意欲は買うが、興業網を持っていない資本がどこまでやれるか」と疑問を呈した。「シロウトが」という言葉も投げられたという。原作と資金は角川書店が持つが、映画を全国の劇場にかける仕組みは持たない。提携相手の東宝に頼るほかない構えであった[11]

春樹氏には、採算の見えない事業に金を投じる気質があった。1975年の夏には手こぎの古代推定船「野性号」で朝鮮海峡を渡り、私費5000万円を投じている。目的は『魏志倭人伝』の記述の信頼性を確かめることで、「それは利益のためではない。夢に私は賭けた」と語った。ただし周囲には「角川はこの航海記録を本にして膨大な利益を上げる」という見方もあり、夢と算盤は同じ人物のなかで隣り合っていた[12]

結果

「角川商法」という代名詞

参入から3年後の1979年、カナダの出版社ハーレクイン・エンタプライズが日本へ上陸すると、日経ビジネスはその手法を「西洋版・角川商法」と呼んだ。作品や作家ではなくシリーズ全体を商品として売り、テレビスポットを中心に宣伝費を集中させるやり方を指している。名指しされた角川書店の馬場明郎宣伝部長は「ウチは作家と作品を売っている。マスプロ商品では決してない」と反論した。当人が否定するほど、その呼び名は業界に通っていた[13][14]

角川歴彦氏は後年、自社の歩みを三つの業態の変遷として整理している。文芸出版社の時代、文庫と映画のメディアミックスの時代、そして1982年の『週刊ザテレビジョン』創刊に始まる雑誌の時代である。歴彦氏は、1975年の父の死と兄の社長就任をもって第二の時代が始まったとし、文庫と映画を連動させる手法が成功して経営基盤を飛躍的に拡大したと述べている。1976年の映画参入は、会社の業態を一段替えた区切りとして数えられてきた[15][16]

出版の外へ広がった商売

作品を媒体の間で往復させる売り方は、その後も繰り返された。鈴木光司氏の『リング』は単行本として出したのち角川ホラー文庫で再発売され、続編『らせん』とあわせて2作が同時に映画化された。日経ビジネスは、この2冊が起こしたブームを受けた同時公開が「当初の読者層をはるかに超える人数の間で、さらなる大ブームを呼ぶことに成功した」と記している。原作を文庫に落とし、映画の公開で読者を広げる段取りは、20年を経ても変わっていない[17]

1998年11月に東京証券取引所第二部へ上場した角川書店は、蓄積した作品を多様なソフトへ送り出す「第四の業態」を掲げた。2001年には小説、コミック、映画・ドラマ、ゲーム、都市情報やテレビ番組のガイド情報という五つの内容を多くのメディアへ送る戦略を打ち出している。2014年のドワンゴとの経営統合を経た現在の作品戦略に至るまで、一つの作品を姿を変えて売り直すという1976年の考え方が土台に置かれてきた[18][19][20]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1976年7月5日号「出版界に躍り出た“野性派経営者”」
  • 日経ビジネス 1979年11月19日号「ハーレクイン・エンタプライズ(カナダ)西洋版・角川商法が日本上陸」
  • 日経ビジネス 2001年1月15日号「角川書店 多メディア展開と提携に活路」
  • 証券アナリストジャーナル 1999年1月20日 別冊付録「角川書店」(角川歴彦社長 講演録)
  • KADOKAWA 有価証券報告書【沿革】

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