三井住友トラストグループ本邦第1号の土地信託の受託と、公有地土地信託への参入
貸付信託で基幹産業へ長期資金を流す仕組みが揺らぐなかで、住友信託銀行は次の収益源をどこに置いたか
- 概要
- 1984年6月、住友信託銀行が本邦第1号の土地信託を日本パイプ製造から受託した経営判断。土地を手放さずに有効活用したい所有者の代わりに、信託銀行が企画から賃貸経営の事務までを包括して引き受ける仕組みで、1986年には熊本県から公有地の土地信託第1号も受託した。
- 背景
- 戦後の信託銀行は貸付信託で集めた資金を電力や鉄鋼などの基幹産業へ長期資金として供給してきたが、1980年前後には国内の大規模設備投資が減り、大企業の銀行離れも進んでいた。住友信託は1981年6月に縦割りを崩す4本部制へ移り、収益源の組み替えを急いでいた。
- 内容
- 土地信託は1973年9月に信託協会で開発された不動産管理信託の仕組みで、大都市周辺の良質な賃貸住宅供給を求める建設省の検討を受け、三井信託銀行の主導で作られた。制度の第1号を実行したのは住友信託で、1985年6月には信託・開発不動産・総合金融サービスの3本柱へ組織も組み替えた。
- 含意
- 所有と利用を分けられるため、地価の上昇を表面化させずに有効利用できる手法として地価高騰期に重んじられた。信託銀行は不動産を担保に取る金融機関から、不動産そのものを設計し運営する受託者へ役割を広げ、その延長でバブル期の不動産融資も膨らんだ。
発明ではなく、半歩の差だった
「信託銀行の業務はどこも同じです。やっていることの基本は変わらない」——1981年に早崎博常務が語った言葉が、この受託の性格を言い当てている。土地信託の仕組みそのものは1973年に信託協会で作られ、旗を振ったのは三井信託銀行だった。住友信託が取ったのは発明ではなく、誰も第1号になっていない商品に最初に手を挙げる半歩の差である。不動産取扱高で業界首位に立っていた蓄積があって、はじめてその半歩が届いたのだとみられる。
もっとも、この半歩が呼び込んだものは収益だけではなかった。不動産を担保に取る側から運営する側へ回った信託銀行は、地価の上昇を前提にした仕事を抱え込み、バブル崩壊後には麻布建物や第一コーポレーションのような後始末に追われた。先に出ること自体は理にかなっていても、出た先の相場が反転したときに何を抱えるかまでは選べない。土地信託の先駆けという記録は、その両面を含んでいるといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
基幹産業へ長期資金を流す役回りの縮小
戦後の信託銀行は、貸付信託で一般大衆の貯蓄性資金を集め、電力や鉄鋼といった基幹産業へ長期の安定資金として供給する役回りを担ってきた。住友信託銀行は1952年の制度創設を強く後押しし、第1号の募集を実施している。ところが1980年前後には、その前提が崩れる。田代毅社長は「国内の基幹産業の大規模な設備投資が少なくなっており、資金運用は従来のようには行かなくなっている」と語っていた[1][2]。
縦割りの限界も語られていた。桜井修専務は「高度成長期は貸付信託や金銭信託で集めた資金を基幹産業に流していればよかった。しかし、大企業の銀行離れが進んでいる今日、それだけでは経営が立ち行かない」と述べる。1981年6月、住友信託は貸付信託・預金・不動産・証券代行と業務別に縦割りしていた組織を崩し、顧客ごとに全方位で対応する4本部制へ移した。同月には郵便貯金の定額貯金に対抗する貸付信託「ビッグ」も発売している[3][4]。
不動産の取扱高で先に出ていた住友信託
次の柱を不動産に求める下地はあった。1980年度の不動産取扱高は住友信託が2,799億円で、三井信託の2,718億円、三菱信託の2,250億円を上回り、5、6年前から業界トップにあった。狙いは仲介手数料そのものではなく、不動産を多く扱って貸出と預金を増やすことに置かれていた。早崎博常務は「信託銀行の業務はどこも同じです。やっていることの基本は変わらない」と述べ、優位は微差の積み重ねにあると語っている[5][6]。
制度の側も動いていた。土地信託は1973年9月に信託協会で開発された不動産管理信託の仕組みである。大都市周辺に良質な賃貸住宅を供給したい建設省の検討を受け、三井信託銀行の主導で作られた。土地所有者に対する有効活用の企画協力に始まり、契約をはじめとする賃貸住宅経営に必要な事務を包括して受託する点が、それまでの単純な不動産信託と違っていた。制度をこしらえたのは業界団体と当局であり、個別行の発明ではなかった[7]。
決断
1984年6月、日本パイプ製造からの受託
1984年6月、住友信託銀行は本邦第1号の土地信託を日本パイプ製造から受託した。1980年代に入って資産の蓄積が進み、経済社会が高度化・複雑化するなかで専門的な財務管理サービスへの需要が高まっており、その需要に応えて開発された商品が土地信託であった。土地を手放さずに有効活用したい所有者の代わりに、信託銀行が企画から賃貸経営の事務まで引き受ける仕組みである[8][9]。
この仕組みが地価高騰の時代に重んじられた理由は、所有と利用を分けられる点にあった。土地の名義を動かさずに利用を進められるため、地価の上昇を表面化させずに有効利用できる手法として受け止められた。信託銀行の側から見れば、不動産を担保として取る金融機関から、不動産そのものを設計し運営する受託者へと役割が広がる商品でもあった。貸付信託で集めた資金を流すだけの立場から、土地の使い方まで引き受ける立場への移動である[10]。
商品を先に出し、組織を後から合わせる
受託の翌年、1985年6月に住友信託は資金・証券・国際の各部門を一体化し、信託事業・開発不動産事業・総合金融サービス事業を3本の柱とする組織改革を行った。1981年の4本部制を、金融と経済の国際化・証券化に合わせて組み替えたものであった。同年12月には貯蓄性と流動性を併せ持つ新型金銭信託「ヒット」を発売した。第1号の受託が先で、それを収める組織と次の商品が後から追いつく順序であった[11]。
1986年には国有財産法と地方自治法の改正が実現し、土地信託を国公有地へ適用する道が開かれる。住友信託は熊本県から公有地の土地信託第1号を受託した。熊本県が土地信託を選んだ理由は、新たな財源措置が要らないこと、長期の安定配当が見込めること、地域の都市環境形成に役立つことの三点であったという。民有地で開いた道を、公共セクターへ広げた受託であった[12][13]。
結果
「時代を画した商品」という後年の評価
1981年10月に取り扱いを始めたファンドトラストと、この土地信託は、1980年代の住友信託を代表する商品となった。1998年に社長へ就いた高橋温氏を紹介した誌面は、「80年代、住信はファンドトラスト、土地信託という時代を画した商品の開発で、先導的な役割を果たした」と書いている。他行より半歩だけ先に出て微差を積むという型が、二つの商品名のかたちで業界の記憶に残った[14][15]。
決算にも表れている。土地信託を受託した1984年度(1985年3月期)の単体経常収益は6,706億円、経常利益507億円、当期純利益190億円であった。4本部制を敷いた1981年度(1982年3月期)の経常収益4,137億円・経常利益231億円から、3年で収益の規模が変わっている。当期純利益も111億円から190億円へ増えており、商品を先に出す運びが収益の面でも効いていた[16]。
不動産と金融が結びついた先で起きたこと
ただ、不動産と金融の結びつきを深めたことの代償も後に現れる。1990年代初頭のバブル崩壊で信託銀行の不動産融資は不良債権へ転じ、三井信託は麻布建物や第一コーポレーションなどへの不動産関連融資で大口の不良債権を抱え、1994年度に2,000億円を償却した。土地の値上がりを前提にした業務は、値下がりが始まると損失源に変わった。土地信託そのものではなく、土地信託が広げた不動産と金融の接点が痛んだ[17]。
住友信託も1993年4月の金融制度改革法の施行と、バブル崩壊による不良資産の増加という二つの事態に直面した。1998年に社長を退いた新良篤氏の時代について、後任の高橋温氏は「不良債権の処理を行い、わが社を健康体に戻すという両面があった」と振り返っている。土地信託で開いた不動産と金融の接点は、次の10年でその後始末を求めた。先駆けの実績と処理の負担が、同じ銀行の同じ帳簿に並んだ[18][19]。
- 日経ビジネス 1981年12月14日号「ケーススタディ 住友信託銀行 “半歩リード経営”で収益トップ激走」
- 三井住友トラストグループ100年史「土地信託の発展と再開発事業」
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- 週刊東洋経済 1998年3月28日号「[ひと]高橋 温 住友信託銀行社長 片意地を張らず、自然体でビッグバンに臨む」
- 住友信託銀行 会社年鑑(1986年版)
- 三井住友トラストグループ 有価証券報告書【沿革】