あいおい損害保険 の歴史

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創業 1918年
創業者
創業地 東京
創業
1918年8月、資本金100万円で東京動産火災保険が設立された。富裕層と企業の資産を守る道具だった火災保険を個人の家財へ広げる設計だったが、当時の免許制度が簡易火災保険と普通火災保険の兼営を認めなかったため、創立関係者は1920年1月に東神火災保険を別に立てて姉妹会社とした。1944年2月に東京動産火災が東神火災を吸収して両者を兼営する国内初の会社となり、同年8月に大東京火災保険へ改称する。戦後は1949年に運送保険と海上保険、1950年に自動車保険、1953年に傷害保険を加え、商号も大東京火災海上保険とした。2001年4月、千代田火災海上保険と合併してあいおい損害保険が発足している。
決断
規模を諦める代わりに、商品を設計する相手を自分で選んだ。1997年5月、トヨタ自動車の依頼でGOA車専用の傷害保険を開発した。保険料率が横並びの産業で価格以外の差を作る手立てだったが、商品設計の主導権はメーカーの側へ渡った。2000年3月には業界8位の千代田火災海上保険との合併を選び。住友海上・日動火災との三社連合ならシェア22%弱で首位に立てたが、瀬下明社長は大手と一緒になれば系列色が強まると判断している。合併初年度の2002年3月期には旧千代田火災が引き受けていた米国再保険が同時多発テロで傷み、1300億円の損失を発足初年度の決算で処理した。連結で経常損失973億円・当期純損失882億円を計上した。
現況
最後まで直らなかったのは収益ではなく、費用の構造である。単体の正味事業費率は2006年3月期の33.07%から2010年3月期の35.48%へ上がり、正味損害率と合わせたコンバインド・レシオも95.78%から102.77%となって、保険引受だけでは赤字という水準に入った。金融危機を挟んだ2008年3月期と2009年3月期は連結で2期続けて当期純損失を出し、自己資本比率は20.74%から9.51%へ下がっている。最終期の2010年3月期の連結経常収益は1兆441億円で、ピークの2008年3月期から1,100億円あまり目減りした。2010年4月1日の株式交換でMS&ADインシュアランスグループホールディングスの完全子会社となっている。
競合
販路をメーカーから借りた損保は、代理店の数では上位に並べなかった。損害保険は全国の営業拠点網と損害調査網を抱える装置産業で、規模の差がそのまま事業費率の差になる。1998年7月の料率自由化で価格競争が始まると、上位の大手との費用の差は縮まらなかった。あいおい損保が統合の相手へ差し出せたのは、個人向けの自動車保険と全国の代理店網、そしてトヨタ系ディーラーという販路である。財閥系の企業保険と海外事業に厚みを持つ三井住友海上とは重なりが小さく、この補完関係が、上場企業としての57年を終える一方で自動車保険の主力という位置を統合後にも残した。
あいおい損害保険:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1981年3月期2010年3月期

創業ストーリー 大衆の火災保険と、対等合併で生まれた会社 (1911年〜)

大衆の火災保険と、対等合併で生まれた会社

火災保険を大衆に売るという業態から出発する

日本の損害保険は、輸入された知識から始まっている。福沢諭吉氏が生命保険を、渋沢栄一氏が損害保険をそれぞれ担うという分業で制度が持ち込まれ[1]、福沢氏は『西洋旅案内』の付録『災害請合の事』で保険を生涯請合・火災請合・海上請合の三種に分けて説明した[2]。渋沢氏の提唱で東京海上保険会社が創立認可を受けたのが1879年7月[3]、火災保険では1887年7月に東京火災保険会社が設立されている[4]。日清戦争前後には泡沫会社が乱立し、政府は1900年に保険業法を施行して業界の近代化を促した[5]。損害保険が制度として固まってから20年足らずのところに、あいおい損害保険の前身は現れる。

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「保険-輸入知識から出発」
    • [1]保険業の導入は福沢諭吉が生命保険、渋沢栄一が損害保険というように手分けして行なわれた
    • [2]福沢諭吉は『西洋旅案内』付録「災害請合の事」で保険を生涯請合(生命保険)、火災請合(火災保険)、海上請合(海上保険)の三種に分類した
    • [3]1879年7月に東京海上保険会社の創立が認可された
    • [5]泡沫会社の弊害が甚だしかったため政府は1900年に保険業法を施行した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險」概説
    • [4]1887年7月に民営の有限会社東京火災保険会社が設立された

1918年8月、資本金100万円をもって東京動産火災保険が設立[6]された。あいおい損害保険の法人としての系譜は、この会社から続いている。掲げた業態は『一般大衆を目標とする簡易火災保険』[引用元][7]、富裕層と企業の資産を守る道具だった火災保険を、個人の家財に広げようという設計だった。ところが当時の免許制度は簡易火災保険と普通火災保険の兼営を認めなかったため、創立関係者は1920年1月に資本金500万円で東神火災保険を別に立て、姉妹会社として普通火災保険を扱わせている[8]。一つの経営体が二つの法人に分かれたのは、経営判断というより規制の形をなぞった結果だった。

  • 有価証券報告書(あいおい損害保険、2010年6月30日提出)「沿革」
    • [6]大正7年8月に当社の前身である東京動産火災保険株式会社を設立
  • 会社銀行八十年史(1955年)「大東京火災」
    • [7]1918年8月、一般大衆を目標とする簡易火災保険会社として、資本金100万円をもつて東京動産火災保険の商号のもとに設立された
  • 有価証券報告書(あいおい損害保険、2010年6月30日提出)「沿革」/会社銀行八十年史(1955年)「大東京火災」
    • [8]有価証券報告書の沿革は東神火災保険の設立を大正9年1月とするが、『会社銀行八十年史』は1920年3月とする(一次資料同士の不一致。本文は自社の法的沿革である有報を採る)
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「保険-輸入知識から出発」
    • [1]保険業の導入は福沢諭吉が生命保険、渋沢栄一が損害保険というように手分けして行なわれた
    • [2]福沢諭吉は『西洋旅案内』付録「災害請合の事」で保険を生涯請合(生命保険)、火災請合(火災保険)、海上請合(海上保険)の三種に分類した
    • [3]1879年7月に東京海上保険会社の創立が認可された
    • [5]泡沫会社の弊害が甚だしかったため政府は1900年に保険業法を施行した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險」概説
    • [4]1887年7月に民営の有限会社東京火災保険会社が設立された
  • 有価証券報告書(あいおい損害保険、2010年6月30日提出)「沿革」
    • [6]大正7年8月に当社の前身である東京動産火災保険株式会社を設立
  • 会社銀行八十年史(1955年)「大東京火災」
    • [7]1918年8月、一般大衆を目標とする簡易火災保険会社として、資本金100万円をもつて東京動産火災保険の商号のもとに設立された
  • 有価証券報告書(あいおい損害保険、2010年6月30日提出)「沿革」/会社銀行八十年史(1955年)「大東京火災」
    • [8]有価証券報告書の沿革は東神火災保険の設立を大正9年1月とするが、『会社銀行八十年史』は1920年3月とする(一次資料同士の不一致。本文は自社の法的沿革である有報を採る)

戦時統合を吸収する側で通過し、総合損保になる

大衆向けという看板は、災害のたびに支払いとなって返ってきた。1923年9月の関東大震災、1934年3月の函館大火[9]、1940年1月の静岡大火と続く火災で東京動産火災保険は多額の保険金を払っている。それでも会社は残った。戦時下の企業整備が損保業界を襲うと、1944年2月に東京動産火災保険が東神火災保険を吸収し、普通火災と簡易火災を兼営する国内初の会社として再出発する[10]。50社を超えていた損保は終戦時に16社まで減っており[11]、この会社は減らされる側ではなく吸収する側で統合の波を通過した。同年8月には社会の需要が普通火災保険に傾いていることを理由に商号を大東京火災保険と改め[12]、社名から動産の二文字を落としている。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「大東京火災」
    • [9]1923年9月に関東大震災、1934年3月には函館大火、十五年一月には静岡大火等が相次いで発生し、このため多額の保険金を支払つた
  • 有価証券報告書(あいおい損害保険、2010年6月30日提出)「沿革」/会社銀行八十年史(1955年)「大東京火災」
    • [10]昭和19年2月に東京動産火災保険株式会社が東神火災保険株式会社を吸収合併し、わが国初めての普通火災と簡易火災保険の兼営会社として新発足した
    • [12]一般社会は簡易火災よりも普通火災保険の営業を要望する情勢であつたので、昭和19年8月社名を大東京火災保険と改称した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險」概説
    • [11]1944年の統合で50社以上あつた会社数は終戦時にはわずか16社になつた

戦後の大東京火災は種目を足すことで火災専業から抜け出した。1949年4月に運送保険、11月に海上保険を始め、同年6[13]月に商号を大東京火災海上保険と改めている。ドッジラインによる金詰まりで保険料の分割払いを望む契約者が増えると、同年10月には簡易火災保険の営業を復活[14]させた。1950年7月に輸出信用保険と自動車保険、1953年9月に傷害保険と取扱いを広げ[15]、本店を東京、支店を大阪に置いて始めた営業網も、札幌・仙台・横浜・静岡・名古屋・金沢・京都・神戸・広島・高松・福岡・小倉を加えて13支店に広がった。資本金は1955年2月に3億9000万円、1954年度の収入保険料は22億1000[16]万円に達している。のちに会社の性格を決める自動車保険が商品に入ったのは、この時期である。

  • 有価証券報告書(あいおい損害保険、2010年6月30日提出)「沿革」/会社銀行八十年史(1955年)「大東京火災」
    • [13]運送保険は昭和24年4月、海上保険は同年11月から営業を開始し、同年6月に大東京火災海上保険と改称した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「大東京火災」
    • [14]ドッジラインの実施に伴なう金詰り状況から保険料の分割払を希望する者も増加してきたので、昭和24年10月に簡易火災保険の営業を復活した
    • [15]昭和25年7月から輸出信用保険と自動車保険の、昭和28年9月からは傷害保険の取扱をそれぞれ開始した
    • [16]資本金は昭和30年2月に3億9000万円となり、昭和29年度には収入保険料22億1000万円、純正味収入保険料17億1000万円、契約準備金13億6000万円となった。支店は札幌・仙台・横浜・静岡・名古屋・金沢・京都・神戸・広島・高松・福岡・小倉を加えて計13支店
  • 会社銀行八十年史(1955年)「大東京火災」
    • [9]1923年9月に関東大震災、1934年3月には函館大火、十五年一月には静岡大火等が相次いで発生し、このため多額の保険金を支払つた
    • [14]ドッジラインの実施に伴なう金詰り状況から保険料の分割払を希望する者も増加してきたので、昭和24年10月に簡易火災保険の営業を復活した
    • [15]昭和25年7月から輸出信用保険と自動車保険の、昭和28年9月からは傷害保険の取扱をそれぞれ開始した
    • [16]資本金は昭和30年2月に3億9000万円となり、昭和29年度には収入保険料22億1000万円、純正味収入保険料17億1000万円、契約準備金13億6000万円となった。支店は札幌・仙台・横浜・静岡・名古屋・金沢・京都・神戸・広島・高松・福岡・小倉を加えて計13支店
  • 有価証券報告書(あいおい損害保険、2010年6月30日提出)「沿革」/会社銀行八十年史(1955年)「大東京火災」
    • [10]昭和19年2月に東京動産火災保険株式会社が東神火災保険株式会社を吸収合併し、わが国初めての普通火災と簡易火災保険の兼営会社として新発足した
    • [12]一般社会は簡易火災よりも普通火災保険の営業を要望する情勢であつたので、昭和19年8月社名を大東京火災保険と改称した
    • [13]運送保険は昭和24年4月、海上保険は同年11月から営業を開始し、同年6月に大東京火災海上保険と改称した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險」概説
    • [11]1944年の統合で50社以上あつた会社数は終戦時にはわずか16社になつた

大倉系と三田系が対等の条件で一つになる

もう一方の千代田火災海上保険は、性格の違う2社の合併で生まれている。片方は1911年10月に八木千之助氏・岡崎藤吉氏・吉田長敬氏・岸本五兵衛氏ら関西財界の有力者が資本金100万円で大阪に設立した日清火災海上[17]で、1916年に200万円へ増資し、翌年には火災・海上に運送保険を加えた。ところが欧州大戦後の恐慌と関東大震災の打撃で、1925年11月以降は営業停止に追い込まれる[18]。この会社を1927年10月に買い取ったのが大倉組で、社名を大倉火災海上と改めて本社を大阪から東京[19]に移した。1938年には東京海上とも連携し、1943年に日本共立火災、1944年に片倉系の富国火災を合併して資本金を900万円まで積み増している。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「千代田火災」
    • [17]旧大倉火災は前身を日清火災海上と称し、1911年10月、八木千之助、岡崎藤吉、吉田長敬、岸本五兵衞氏ら関西財界の有力者により資本金100万円をもつて大阪に設立された
    • [18]1916年に200万円に増資、6年には火災、海上のほかに運送保険営業も開始した。欧州大戦後の恐慌、関東大震災の影響を受け、14年11月以降、一時営業停止のやむなきに至つた
    • [19]1927年10月に大倉組がこれを買収し、社名を大倉火災海上と改めて本社を東京に移し、13年には東京海上とも連携した。18年日本共立火災を合併、19年に片倉系の富国火災を合併し資本金900万円とした

もう片方の旧千代田火災は、1913年7月に門野幾之進氏ら三田系の実業家を中心として資本金500万円で東京に設立[20]された。門野氏は福沢諭吉氏が芝新銭座の慶応義塾で説いた請合制度の講述を聴いた門下の一人で[21]、日本に保険の知識が入ってきた最初期の場に居合わせた人物である。関西財界と大倉組が立て直した会社と、福沢門下が作った会社。出自の違う2社が対等の条件で合併し、資本金2400万円の大倉千代田火災海上として設立されたのが1945年10月20日[22]、終戦の2か月後だった。1946年5月には大倉の名を外して千代田火災海上保険と改めている。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「千代田火災」
    • [20]旧千代田火災は、1913年7月門野幾之進氏ら三田系の人を中心に資本金500万円をもつて東京に設立された
    • [22]当社は1945年10月、旧大倉火災海上保険と旧千代田火災海上保険とが対等条件で合併し、資本金2,400万円をもつて大倉千代田火災海上として設立された。設立は昭和20年10月20日。二十一年五月現社名に改めた
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「保険-輸入知識から出発」
    • [21]慶応四年(1868年)春に開校した芝新銭座の慶応義塾で福沢諭吉はしきりに請合制度を講述し、小泉信吉・阿部泰蔵・荘田平五郎・朝吹英二・早矢仕有的・門野幾之進らが若い聴講生であった

千代田火災は戦後、大東京火災を上回る速さで種目と規模を広げた。1946年に自動車・森林火災・盗難・傷害[23]、1947年に競走馬、1950年に輸出信用、1952年に保証と航空、1953年に風水害とガラスの各保険を始めている。資本金は1954年4月に3億6000万円となり[24]、1954年度の全種目で契約金額1兆2149億円、収入保険料42億3000万円を計上した。同じ年度の大東京火災の収入保険料は22億1000万円で、のちに合併する2社の規模は、この時点では千代田火災の側が倍近く大きかった。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「千代田火災」
    • [23]1946年自動車、森林火災、盗難、傷害、22年競走馬、25年輸出信用、27年保証、航空、28年風水害、ガラスの各保険の営業を開始した
    • [24]資本金は1954年4月3億6,000万円となり、29年度の全保険種目において契約金額1兆2,149億円、収入保険料42億3,000万円、純正味収入保険27億4,000万円、契約準備金24億8,000万円の成果を収めた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「千代田火災」
    • [17]旧大倉火災は前身を日清火災海上と称し、1911年10月、八木千之助、岡崎藤吉、吉田長敬、岸本五兵衞氏ら関西財界の有力者により資本金100万円をもつて大阪に設立された
    • [18]1916年に200万円に増資、6年には火災、海上のほかに運送保険営業も開始した。欧州大戦後の恐慌、関東大震災の影響を受け、14年11月以降、一時営業停止のやむなきに至つた
    • [19]1927年10月に大倉組がこれを買収し、社名を大倉火災海上と改めて本社を東京に移し、13年には東京海上とも連携した。18年日本共立火災を合併、19年に片倉系の富国火災を合併し資本金900万円とした
    • [20]旧千代田火災は、1913年7月門野幾之進氏ら三田系の人を中心に資本金500万円をもつて東京に設立された
    • [22]当社は1945年10月、旧大倉火災海上保険と旧千代田火災海上保険とが対等条件で合併し、資本金2,400万円をもつて大倉千代田火災海上として設立された。設立は昭和20年10月20日。二十一年五月現社名に改めた
    • [23]1946年自動車、森林火災、盗難、傷害、22年競走馬、25年輸出信用、27年保証、航空、28年風水害、ガラスの各保険の営業を開始した
    • [24]資本金は1954年4月3億6,000万円となり、29年度の全保険種目において契約金額1兆2,149億円、収入保険料42億3,000万円、純正味収入保険27億4,000万円、契約準備金24億8,000万円の成果を収めた
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「保険-輸入知識から出発」
    • [21]慶応四年(1868年)春に開校した芝新銭座の慶応義塾で福沢諭吉はしきりに請合制度を講述し、小泉信吉・阿部泰蔵・荘田平五郎・朝吹英二・早矢仕有的・門野幾之進らが若い聴講生であった

自動車保険をどう売るか ── 系列と代理店網

保険料が横並びの産業で、千代田火災が選んだ道

損害保険業界そのものが、この時期は競争の薄い産業だった。差がつくのは販売網の広さと事故対応の質で、価格ではなかった。1980年代後半からは積立保険の開発が相次ぎ、高齢化を見込んだ医療・介護・年金分野や各種の賠償責任保険が加わったものの[25]、総資産の伸びは平成に入ると鈍る。主力商品である自動車保険の損害率が高まり、バブル期に集めた積立保険が満期[26]を迎えたためである。価格で差がつかない以上、各社は販売網と事故対応で差をつけるほかなかった。

  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [25]60年代から平成の損害保険は保険商品の多様化が続き、積立保険の開発ラッシュが続いたほか、高齢化社会に見合って医療、介護、年金分野で商品が開発され、各種の賠償責任保険が売り出された
    • [26]総資産の伸びは60年代に比べて平成時代に入って鈍ってきた。主力商品である自動車保険の損害率が高まったほか、バブル期に集めた積立保険が満期を迎えるなど安定的であるはずの損保会社も経営の転機を迎えている

モータリゼーションが始まると、自動車保険は損害保険で最も伸びる商品になる。自動車保険が収入保険料に占める比率は57%で、他社より高い。トヨタは千代田火災の株式37%を握る筆頭株主[27]でもあった。メーカーの販売網に接続することで、財閥系でも銀行系でもない中堅損保が独自の販路を得た。

  • 日経ビジネス 1997年5月12日号
    • [27]トヨタは千代田火災の株式37%を握る筆頭株主で、役員も派遣していた
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [25]60年代から平成の損害保険は保険商品の多様化が続き、積立保険の開発ラッシュが続いたほか、高齢化社会に見合って医療、介護、年金分野で商品が開発され、各種の賠償責任保険が売り出された
    • [26]総資産の伸びは60年代に比べて平成時代に入って鈍ってきた。主力商品である自動車保険の損害率が高まったほか、バブル期に集めた積立保険が満期を迎えるなど安定的であるはずの損保会社も経営の転機を迎えている
  • 日経ビジネス 1997年5月12日号
    • [27]トヨタは千代田火災の株式37%を握る筆頭株主で、役員も派遣していた

順位が逆転するまでの、大東京火災の自前サービス網

大東京火災は千代田火災より早く資本市場に出た。1952年11月に東京証券取引所、1954年9月に札幌証券取引所へ上場し、1967年11月には大阪証券取引所にも株式を上場[28]している。この間に両社の位置関係は入れ替わった。1954年度の収入保険料は千代田火災が42億3000万円[29]、大東京火災が22億1000万円で、規模は千代田火災が倍近く大きい。順位が入れ替わった40年余りに、両社は別々の道を歩いていた。

  • 有価証券報告書(あいおい損害保険、2010年6月30日提出)「沿革」
    • [28]昭和27年11月に東京証券取引所、昭和29年9月に札幌証券取引所、昭和42年11月に大阪証券取引所に株式を上場した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「大東京火災」「千代田火災」
    • [29]1954年度の収入保険料は千代田火災が42億3000万円、大東京火災が22億1000万円

大東京火災が磨いたのは、メーカーの系列ではなく自前のサービス網だった。1974年1月にニューヨーク、同年8月にロンドンへ駐在員事務所[30]を置き、1983年2月には埼玉県与野市(現さいたま市)に自動車研修所を開設して損害調査を自社で担う体制を作っている。コールセンターの規模は業界最大級で、オペレーションシステムとサービスネットワークをどちらも自前で持っていた点が他社との違いだった。自動車保険と首都圏市場に強いという評価は、この蓄積から来ている。

  • 有価証券報告書(あいおい損害保険、2010年6月30日提出)「沿革」
    • [30]昭和49年1月にニューヨーク、同年8月にロンドンに駐在員事務所を設置し、昭和58年2月に埼玉県与野市(現さいたま市)に自動車研修所を開設した
  • 有価証券報告書(あいおい損害保険、2010年6月30日提出)「沿革」
    • [28]昭和27年11月に東京証券取引所、昭和29年9月に札幌証券取引所、昭和42年11月に大阪証券取引所に株式を上場した
    • [30]昭和49年1月にニューヨーク、同年8月にロンドンに駐在員事務所を設置し、昭和58年2月に埼玉県与野市(現さいたま市)に自動車研修所を開設した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「大東京火災」「千代田火災」
    • [29]1954年度の収入保険料は千代田火災が42億3000万円、大東京火災が22億1000万円

自由化が中堅損保に強いた選択 ── 商品差別化と格付け

メーカーが商品を設計する保険という試み

損害保険の自由化は外圧から始まっている。日米包括経済協議で保険は優先3分野の一つとされ、米側は保険審議会が打ち出した傷害・疾病・介護のいわゆる第三分野への本体参入[31]に待ったをかけるよう求めた。米系保険会社の得意分野に日本の生損保が乗り出せば市場を奪われかねないという警戒からで、これには自由化・規制緩和に逆行するとの反発も起きている。この交渉を経て1996年に改正保険業法が施行され、子会社方式による生損保の相互参入が認められた。

  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [31]国際摩擦も大きな問題になった。日米包括経済協議のなかで保険分野は優先三分野の一つになった。米側は保険審議会が打ち出した傷害、疾病、介護といったいわゆる第三分野への本体による参入に待ったをかけてほしいと求めた。米系保険会社の得意分野に日本の生保、損保が乗り出すと市場を奪われかねないと警戒したためだが、これには自由化、規制緩和の流れに逆行するものとして反発も起こった

千代田火災はこの自由化を、トヨタとの関係を商品に変換する機会として使った。1996年10月、トヨタは衝突安全ボディGOAを採用した車の購入者だけを対象とする保険の開発を千代田火災に依頼する。千代田火災は翌11月に大蔵省へ打診し、1997年4月18日に認可を得て[32]、5月から7月まで全国のトヨタオート店1060店でGOA採用車の購入者全員に無料で付帯した。特定企業の一定の車種だけを対象とする保険商品は、これが初である[33]。福田耕治社長は自由化を『商品に特徴を出して、経営の差別化を図る』[引用元]機会ととらえ、『トヨタグループの損保としての利点も生かしていく』[引用元]と語った。ただし商品の設計を求めたのはメーカーの側だった。同年5月12日号の日経ビジネスは『メーカー主導で損保各社の苦しい胸の内』[引用元]と報じている。

  • 日経ビジネス 1997年5月12日号
    • [32]1996年10月にトヨタが千代田火災へGOA採用車だけを対象とする保険商品の開発を依頼し、千代田火災は11月に大蔵省へ商品化を打診、1997年4月18日に認可を取得した
    • [33]1997年5月から7月まで全国のトヨタオート店1060店で、GOA採用車の購入者全員に無料の傷害保険が付帯された。特定企業の一定の車種だけを対象にした商品はこれが初めてであった
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [31]国際摩擦も大きな問題になった。日米包括経済協議のなかで保険分野は優先三分野の一つになった。米側は保険審議会が打ち出した傷害、疾病、介護といったいわゆる第三分野への本体による参入に待ったをかけてほしいと求めた。米系保険会社の得意分野に日本の生保、損保が乗り出すと市場を奪われかねないと警戒したためだが、これには自由化、規制緩和の流れに逆行するものとして反発も起こった
  • 日経ビジネス 1997年5月12日号
    • [32]1996年10月にトヨタが千代田火災へGOA採用車だけを対象とする保険商品の開発を依頼し、千代田火災は11月に大蔵省へ商品化を打診、1997年4月18日に認可を取得した
    • [33]1997年5月から7月まで全国のトヨタオート店1060店で、GOA採用車の購入者全員に無料の傷害保険が付帯された。特定企業の一定の車種だけを対象にした商品はこれが初めてであった

格付けの引き下げが示した中堅損保の限界

大東京火災の側も自由化への手当てを打っている。1996年8月に生命保険子会社の大東京しあわせ生命保険を設立[34]し、同年9月には本社を渋谷区代々木の大東京火災新宿本社ビルへ移した。フランスのビグトワール保険グループ、UAP保険グループ、AXA−UAP保険グループと1991[35]年から1998年にかけて業務提携を重ね、2000年3月には介護関連サービスの子会社も立ち上げている。しかし価格競争が始まれば、拠点網と調査網を全国に構える費用の重さが、そのまま順位の差になって出る。保険引受だけでは利益が出ない水準である。

  • 有価証券報告書(あいおい損害保険、2010年6月30日提出)「沿革」
    • [34]平成8年8月に生命保険子会社「大東京しあわせ生命保険株式会社」を東京都新宿区に設立し、平成8年9月に本社を東京都渋谷区代々木に移転して「大東京火災新宿本社ビル」で業務開始した
    • [35]平成3年5月にフランスのビグトワール保険グループ、平成7年1月にUAP保険グループ、平成10年1月にAXA−UAP保険グループと業務提携し、平成12年3月に介護関連サービスの子会社「株式会社大東京ふれ愛サービス」を設立した
  • 有価証券報告書(あいおい損害保険、2010年6月30日提出)「沿革」
    • [34]平成8年8月に生命保険子会社「大東京しあわせ生命保険株式会社」を東京都新宿区に設立し、平成8年9月に本社を東京都渋谷区代々木に移転して「大東京火災新宿本社ビル」で業務開始した
    • [35]平成3年5月にフランスのビグトワール保険グループ、平成7年1月にUAP保険グループ、平成10年1月にAXA−UAP保険グループと業務提携し、平成12年3月に介護関連サービスの子会社「株式会社大東京ふれ愛サービス」を設立した

あいおい損害保険の9年 ── 合併から統合まで

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あいおい損害保険の沿革1911〜2010年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1911〜1955年大衆の火災保険と、対等合併で生まれた会社日清火災海上保険を大阪に設立
門野幾之進氏ら三田系の実業家が千代田火災保険を東京に設立
東京動産火災保険を設立
姉妹会社として東神火災保険を設立
大倉組が日清火災海上を買収★★
東京動産火災保険が東神火災保険を吸収合併★★
商号を大東京火災保険に商号変更
大倉火災海上と千代田火災が対等合併★★
大倉千代田火災海上が千代田火災海上保険に商号変更
大東京火災保険が大東京火災海上保険に商号変更
大東京火災海上保険が東京証券取引所に株式を上場
1955〜1990年自動車保険をどう売るか ── 系列と代理店網自動車研修所を開設
1990〜2000年自由化が中堅損保に強いた選択 ── 商品差別化と格付け生命保険子会社として大東京しあわせ生命保険を設立
トヨタ自動車の依頼によるGOA車専用傷害保険の開発と、メーカー主導の商品設計の受け入れ

1996年10月にトヨタ自動車から依頼を受け、千代田火災海上保険が衝突安全ボディGOAを採用した車の購入者だけを対象とする傷害保険を開発した判断。1997年4月18日に大蔵省の認可を取得し、5月から7月まで全国のトヨタオート店1060店で、GOA採用車を買った顧客全員に無料で付帯された。

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★★★
S&Pが損保8社の保険金支払能力格付けを引き下げ
千代田火災の格付けがAAマイナスに
自動車保険の料率が自由化
2000〜2010年あいおい損害保険の9年 ── 合併から統合まで千代田火災海上保険との合併とあいおい損害保険の発足、住友海上・日動火災との三社連合案の不採用

2001年4月1日、大東京火災海上保険が千代田火災海上保険と合併し、あいおい損害保険が発足した。大東京火災の瀬下明社長は7〜8社と交渉したうえで、シェア首位に立てる住友海上・日動火災との三社連合案を退け、トヨタ自動車傘下の千代田火災を相手に選んだ。

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★★★
あいおい損害保険が発足★★
米国再保険で生じた1300億円の損失処理と、旧2社の融和・システム統合による立て直し

2001年4月に大東京火災海上保険と千代田火災海上保険の合併で発足したあいおい損害保険が、旧千代田火災の引き受けていた米国再保険から生じた1300億円の関連損失を発足初年度の2002年3月期に処理し、あわせて旧2社の融和とシステム統合を進めて経営を立て直した一連の判断。

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★★★
児玉正之氏が社長に就任
三井住友海上グループHDと株式交換契約を締結★★
三井住友海上・あいおい・ニッセイ同和の3社統合とMS&ADインシュアランスグループの結成

2009年1月23日、三井住友海上グループホールディングス・あいおい損害保険・ニッセイ同和損害保険の3社が、持株会社方式による経営統合と業務提携の協議で合意したと発表した経営判断。2010年4月の統合を掲げ、三井住友海上HDを受け皿の持株会社として活用する枠組みが示された。

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★★★
出典・参考
  • 有価証券報告書(あいおい損害保険、2010年6月30日提出)「沿革」
  • 有価証券報告書(あいおい損害保険、2010年6月30日提出)「沿革」/会社銀行八十年史(1955年)「大東京火災」
  • 会社銀行八十年史(1955年)「損害保險」概説
  • 会社銀行八十年史(1955年)「大東京火災」
  • 会社銀行八十年史(1955年)「千代田火災」
  • 会社銀行八十年史(1955年)「大東京火災」「千代田火災」
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「保険-輸入知識から出発」
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
  • 日経ビジネス 1997年5月12日号

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