{"title":"あいおい損害保険の歴史概略","sections":[{"start_year":1911,"end_year":1955,"main_title":"大衆の火災保険と、対等合併で生まれた会社","subsections":[{"title":"火災保険を大衆に売るという業態から出発する","text":"日本の損害保険は、輸入された知識から始まっている。福沢諭吉氏が生命保険を、渋沢栄一氏が損害保険をそれぞれ担うという分業で制度が持ち込まれ、福沢氏は『西洋旅案内』の付録「災害請合の事」で保険を生涯請合・火災請合・海上請合の三種に分けて説明した。渋沢氏の提唱で東京海上保険会社が創立認可を受けたのが1879年7月、火災保険では1887年7月に東京火災保険会社が設立されている。日清戦争前後には泡沫会社が乱立し、政府は1900年に保険業法を施行して業界の近代化を促した。損害保険が制度として固まってから20年足らずのところに、あいおい損害保険の前身は現れる。\n\n1918年8月、資本金100万円をもって東京動産火災保険が設立された。あいおい損害保険の法人としての系譜は、この会社から続いている。掲げた業態は「一般大衆を目標とする簡易火災保険」で、富裕層と企業の資産を守る道具だった火災保険を、個人の家財に広げようという設計だった。ところが当時の免許制度は簡易火災保険と普通火災保険の兼営を認めなかったため、創立関係者は1920年1月に資本金500万円で東神火災保険を別に立て、姉妹会社として普通火災保険を扱わせている。一つの経営体が二つの法人に分かれたのは、経営判断というより規制の形をなぞった結果だった。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「損害保險」概説・「大東京火災」・「千代田火災」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「保険－輸入知識から出発」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（あいおい損害保険、2006年6月29日提出・2010年6月30日提出）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"戦時統合を吸収する側で通過し、総合損保になる","text":"大衆向けという看板は、災害のたびに支払いとなって返ってきた。1923年9月の関東大震災、1934年3月の函館大火、1940年1月の静岡大火と続く火災で東京動産火災保険は多額の保険金を払っている。それでも会社は残った。戦時下の企業整備が損保業界を襲うと、1944年2月に東京動産火災保険が東神火災保険を吸収し、普通火災と簡易火災を兼営する国内初の会社として再出発する。50社を超えていた損保は終戦時に16社まで減っており、この会社は減らされる側ではなく吸収する側で統合の波を通過した。同年8月には社会の需要が普通火災保険に傾いていることを理由に商号を大東京火災保険と改め、社名から動産の二文字を落としている。\n\n戦後の大東京火災は種目を足すことで火災専業から抜け出した。1949年4月に運送保険、11月に海上保険を始め、同年6月に商号を大東京火災海上保険と改めている。ドッジラインによる金詰まりで保険料の分割払いを望む契約者が増えると、同年10月には簡易火災保険の営業を復活させた。1950年7月に輸出信用保険と自動車保険、1953年9月に傷害保険と取扱いを広げ、本店を東京、支店を大阪に置いて始めた営業網も、札幌・仙台・横浜・静岡・名古屋・金沢・京都・神戸・広島・高松・福岡・小倉を加えて13支店に広がった。資本金は1955年2月に3億9000万円、1954年度の収入保険料は22億1000万円に達している。のちに会社の性格を決める自動車保険が商品に入ったのは、この時期である。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「損害保險」概説・「大東京火災」・「千代田火災」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「保険－輸入知識から出発」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（あいおい損害保険、2006年6月29日提出・2010年6月30日提出）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"大倉系と三田系が対等の条件で一つになる","text":"もう一方の千代田火災海上保険は、性格の違う2社の合併で生まれている。片方は1911年10月に八木千之助氏・岡崎藤吉氏・吉田長敬氏・岸本五兵衛氏ら関西財界の有力者が資本金100万円で大阪に設立した日清火災海上で、1916年に200万円へ増資し、翌年には火災・海上に運送保険を加えた。ところが欧州大戦後の恐慌と関東大震災の打撃で、1925年11月以降は営業停止に追い込まれる。この会社を1927年10月に買い取ったのが大倉組で、社名を大倉火災海上と改めて本社を大阪から東京に移した。1938年には東京海上とも連携し、1943年に日本共立火災、1944年に片倉系の富国火災を合併して資本金を900万円まで積み増している。\n\nもう片方の旧千代田火災は、1913年7月に門野幾之進氏ら三田系の実業家を中心として資本金500万円で東京に設立された。門野氏は福沢諭吉氏が芝新銭座の慶応義塾で説いた請合制度の講述を聴いた門下の一人で、日本に保険の知識が入ってきた最初期の場に居合わせた人物である。関西財界と大倉組が立て直した会社と、福沢門下が作った会社。出自の違う2社が対等の条件で合併し、資本金2400万円の大倉千代田火災海上として設立されたのが1945年10月20日、終戦の2か月後だった。1946年5月には大倉の名を外して千代田火災海上保険と改めている。\n\n千代田火災は戦後、大東京火災を上回る速さで種目と規模を広げた。1946年に自動車・森林火災・盗難・傷害、1947年に競走馬、1950年に輸出信用、1952年に保証と航空、1953年に風水害とガラスの各保険を始めている。資本金は1954年4月に3億6000万円となり、1954年度の全種目で契約金額1兆2149億円、収入保険料42億3000万円を計上した。同じ年度の大東京火災の収入保険料は22億1000万円で、のちに合併する2社の規模は、この時点では千代田火災の側が倍近く大きかった。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「損害保險」概説・「大東京火災」・「千代田火災」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「保険－輸入知識から出発」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（あいおい損害保険、2006年6月29日提出・2010年6月30日提出）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1955,"end_year":1990,"main_title":"自動車保険をどう売るか ── 系列と代理店網","subsections":[{"title":"保険料が横並びの産業で、千代田火災が選んだ道","text":"損害保険業界そのものが、この時期は競争の薄い産業だった。護送船団方式のもとで各社の保険料は横並びで、商品も似通っている。差がつくのは販売網の広さと事故対応の質で、価格ではなかった。1980年代後半からは積立保険の開発が相次ぎ、高齢化を見込んだ医療・介護・年金分野や各種の賠償責任保険が加わったものの、総資産の伸びは平成に入ると鈍る。主力商品である自動車保険の損害率が高まり、バブル期に集めた積立保険が満期を迎えたためである。価格で差がつかない以上、各社は販売網と事故対応で差をつけるほかなかった。\n\n千代田火災の性格を決めたのは、昭和30年代に受け入れたトヨタ自動車の資本参加と、東海銀行との提携体制だった。モータリゼーションが始まると、自動車保険は損害保険で最も伸びる商品になる。トヨタ系ディーラーが扱う自動車保険のうち千代田火災の取り分は約3割に達し、1997年時点の同社は正味収入保険料で業界8位、市場占有率は約6％、代理店は約3万店を数えた。自動車保険が収入保険料に占める比率は57％で、他社より高い。トヨタは千代田火災の株式37％を握る筆頭株主でもあった。メーカーの販売網に接続することで、財閥系でも銀行系でもない中堅損保が独自の販路を得た。","references":[{"title":"有価証券報告書（あいおい損害保険、2010年6月30日提出）「沿革」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年8月16日号「［ひと］千代田火災海上社長 福田耕治」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年4月15日号「［産業レポート］損害保険業界再編加速」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－バブル発生と崩壊の主役」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"順位が逆転するまでの、大東京火災の自前サービス網","text":"大東京火災は千代田火災より早く資本市場に出た。1952年11月に東京証券取引所、1954年9月に札幌証券取引所へ上場し、1967年11月には大阪証券取引所にも株式を上場している。この間に両社の位置関係は入れ替わった。1954年度の収入保険料は千代田火災が42億3000万円、大東京火災が22億1000万円で、規模は千代田火災が倍近く大きい。ところが1990年代末の業界順位は大東京火災が5位、千代田火災が8位で、上下が逆になっていた。順位が入れ替わった40年余りに、両社は別々の道を歩いていた。\n\n大東京火災が磨いたのは、メーカーの系列ではなく自前のサービス網だった。1974年1月にニューヨーク、同年8月にロンドンへ駐在員事務所を置き、1983年2月には埼玉県与野市（現さいたま市）に自動車研修所を開設して損害調査を自社で担う体制を作っている。自動車保険にレッカー急行サービスを付けたのも同社が先行し、100％出資の安心ダイヤル社では、三者間通話ができる地図システム搭載の端末を使って事故連絡に応対した。コールセンターの規模は業界最大級で、オペレーションシステムとサービスネットワークをどちらも自前で持っていた点が他社との違いだった。自動車保険と首都圏市場に強いという評価は、この蓄積から来ている。","references":[{"title":"有価証券報告書（あいおい損害保険、2010年6月30日提出）「沿革」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年8月16日号「［ひと］千代田火災海上社長 福田耕治」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年4月15日号「［産業レポート］損害保険業界再編加速」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－バブル発生と崩壊の主役」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1990,"end_year":2000,"main_title":"自由化が中堅損保に強いた選択 ── 商品差別化と格付け","subsections":[{"title":"メーカーが商品を設計する保険という試み","text":"損害保険の自由化は外圧から始まっている。日米包括経済協議で保険は優先3分野の一つとされ、米側は保険審議会が打ち出した傷害・疾病・介護のいわゆる第三分野への本体参入に待ったをかけるよう求めた。米系保険会社の得意分野に日本の生損保が乗り出せば市場を奪われかねないという警戒からで、これには自由化・規制緩和に逆行するとの反発も起きている。この交渉を経て1996年に改正保険業法が施行され、子会社方式による生損保の相互参入が認められた。1997年9月には料率やリスク区分を差別化した自動車保険の通信販売が解禁され、1998年7月から自動車保険の料率自由化が始まる。護送船団のもとで横並びだった保険料に、差がつく時代が来た。\n\n千代田火災はこの自由化を、トヨタとの関係を商品に変換する機会として使った。1996年10月、トヨタは衝突安全ボディGOAを採用した車の購入者だけを対象とする保険の開発を千代田火災に依頼する。千代田火災は翌11月に大蔵省へ打診し、1997年4月18日に認可を得て、5月から7月まで全国のトヨタオート店1060店でGOA採用車の購入者全員に無料で付帯した。特定企業の一定の車種だけを対象とする保険商品は、これが初である。福田耕治社長は自由化を「商品に特徴を出して、経営の差別化を図る」機会ととらえ、「トヨタグループの損保としての利点も生かしていく」と語った。ただし商品の設計を求めたのはメーカーの側だった。同年5月12日号の日経ビジネスは「メーカー主導で損保各社の苦しい胸の内」と報じている。","references":[{"title":"週刊東洋経済 1997年8月16日号「［ひと］千代田火災海上社長 福田耕治」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年5月12日号「千代田火災、トヨタ専用保険の波紋 メーカー主導で損保各社の苦しい胸の内」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年4月18日号「［今月の格付情報］銀行の格下げ相次ぐ 損保もS&Pが見直し」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年2月5日号「［TopNews］再編にわかに動く損保合併 大東京火災が震源地」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年4月15日号「［産業レポート］損害保険業界再編加速」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－バブル発生と崩壊の主役」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（あいおい損害保険、2010年6月30日提出）「沿革」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"格付けの引き下げが示した中堅損保の限界","text":"差別化の宣言から半年余りで、市場の評価は逆に動いた。1998年3月31日、スタンダード＆プアーズは損害保険会社の保険金支払能力格付けを見直し、東京海上火災を除く8社を格下げする。景気低迷で市場の伸びが見込めないなか、外資と生保子会社の参入で競合が激化するという判断だった。千代田火災はAAプラスからAAマイナスへ2段階下げられた。日本火災海上と並ぶ最大の下げ幅である。大東京火災もAAプラスからAAに下がった。1997年8月の時点で千代田火災の格付けは「AAプラスと高い評価」と紹介されていた。わずか8か月での反転にあたる。商品で差別化するという構想の当否とは別に、規模の小ささ自体が格付けの制約になり始めていた。\n\n大東京火災の側も自由化への手当てを打っている。1996年8月に生命保険子会社の大東京しあわせ生命保険を設立し、同年9月には本社を渋谷区代々木の大東京火災新宿本社ビルへ移した。フランスのビグトワール保険グループ、UAP保険グループ、AXA−UAP保険グループと1991年から1998年にかけて業務提携を重ね、2000年3月には介護関連サービスの子会社も立ち上げている。しかし価格競争が始まれば、拠点網と調査網を全国に構える費用の重さが、そのまま順位の差になって出る。損害率と事業費率の合計であるコンバインド・レシオは、1999年度に数社が100％を超えた可能性があると報じられた。保険引受だけでは利益が出ない水準である。\n\n2000年初頭、損保再編の折衝で最も積極的に動いていたのが大東京火災だった。当時の業界順位は5位。単独での生き残りが難しくなるなかで、瀬下明社長は7社から8社と交渉している。関西系の住友海上と組めば地域の補完関係が成り立ち、日動火災を加えた三社連合ならシェアは22％弱で首位に立つという構想まで語られていた。それでも大東京火災が選んだのは業界8位の千代田火災だった。瀬下社長は「大手と一緒になれば系列色が強まり、経営者のロマンを捨てることになりかねない」と語っており、規模より主導権を優先した。相手側の福田社長には、トヨタが3割のユーザーの支持を得ているのに自社の自動車保険シェアは7％程度にすぎないという焦りがあった。互いの不足が噛み合った組合せだった。","references":[{"title":"週刊東洋経済 1997年8月16日号「［ひと］千代田火災海上社長 福田耕治」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年5月12日号「千代田火災、トヨタ専用保険の波紋 メーカー主導で損保各社の苦しい胸の内」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年4月18日号「［今月の格付情報］銀行の格下げ相次ぐ 損保もS&Pが見直し」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年2月5日号「［TopNews］再編にわかに動く損保合併 大東京火災が震源地」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年4月15日号「［産業レポート］損害保険業界再編加速」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－バブル発生と崩壊の主役」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（あいおい損害保険、2010年6月30日提出）「沿革」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":2000,"end_year":2010,"main_title":"あいおい損害保険の9年 ── 合併から統合まで","subsections":[{"title":"二つの会社を接ぐ設計と、トヨタとの距離","text":"2000年3月に大東京火災と千代田火災は合併を前提とした全面業務提携を発表し、同年9月に合併契約書を締結、12月の臨時株主総会で承認を得た。金融庁の認可を経て2001年4月1日に両社は合併し、あいおい損害保険が発足する。本社は渋谷区恵比寿に移り、名古屋証券取引所にも上場した。2003年度に正味収入保険料8800億円、事業費率30％台前半という目標を掲げている。同じ2001年4月には日本興亜損保とニッセイ同和損保が、10月には三井住友海上火災が生まれており、この年度だけで合併による新会社が4社できた。自由化が始まって3年で、損保業界の顔ぶれは入れ替わった。\n\n新会社の設計は、自動車保険に強い大東京火災の販売・調査網と、トヨタ系ディーラーという千代田火災の販路を接ぐことにあった。焦点はトヨタとの距離である。合併により新会社へのトヨタの出資比率は20％程度まで下がる見込みで、福田社長は「三分の一以上の資本は持っていただきたい」と求め、瀬下社長は新会社を「部品メーカーのように狭い意味でのトヨタグループではない」と位置づけた。トヨタの存在感が増せば他メーカー系ディーラーの離反を招きかねず、薄まれば合併の眼目が失われる。トヨタ色をめぐるこの矛盾は、合併の時点で解かれないまま新会社へ持ち越された。\n\n発足初年度の2002年3月期、あいおい損害保険は連結で経常損失973億円、当期純損失882億円を計上した。原因は旧千代田火災が引き受けていた米国の再保険契約である。同社は大成火災海上、日産火災海上とともに米国のフォートレス・リーという再保険代理店を通じて同じ再保険プールに参加しており、米国同時多発テロによる損害を含めて関連損失は1300億円に達した。同じプールに入っていた大成火災海上は2001年に破綻している。あいおい損保は破綻を免れたものの、この事件についての情報開示でも失策があったと報じられた。合併の効果を測る前に、引き継いだ契約の後始末から経営が始まった。","references":[{"title":"週刊東洋経済 2000年4月15日号「［産業レポート］損害保険業界再編加速」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年4月20日号「［産業レポート］損害保険再編で二極分化が鮮明に 課題抱えたあいおい損保」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年12月22日号「［特集］保険不安・銀行危機「最後の砦」損保にも募る健全性への不安」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2004年7月10日号「［トップの履歴書］児玉正之 あいおい損害保険社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（あいおい損害保険、2006年6月29日提出・2010年6月30日提出）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"システム統合の遅れと、立て直しに費やした時間","text":"損失以上に尾を引いたのは、社内の分断だった。システムの統合は合併時に行われず、旧大東京火災と旧千代田火災の入力端末は分かれたままで、営業社員は相手方の入力方法も帳票類も分からず代理店への対応が混乱した。給与水準は旧千代田のほうが高く、外部からは瀬下社長による旧大東京主導と見られたため、旧千代田出身者の流出と代理店のあいおい離れが起きている。戦略面でも誤算があった。トヨタ色を打ち出したところ、トヨタ系ディーラーは地元に密着した有力者が多くメーカーの言いなりには動かず、東京海上や三井住友海上も地盤を守った。その一方で他メーカー系のディーラーが離れ、販売が好調だったホンダ系は安田火災へ流れる傾向が見られた。合併で取りに行った市場は取れず、持っていた市場を失った。\n\n瀬下社長は米国再保険の契約について「2001年12月に旧千代田火災に対して話をして6月に見直しをしましょうと話した。私にも責任がある」と認め、「長い歴史を持った会社同士の合併で最初からギクシャクしないケースはないと思う。それを克服してプラスを出していくことが重要だ」「合併の本当の実力が現れるのは一年後だと思う」と述べている。実際に数字は戻った。2004年3月期の連結当期純利益は294億円、経常利益は430億円まで回復した。積み残しだったシステム統合も2002年6月に予定された。ただし目標年度である2003年度の連結正味収入保険料は8436億円にとどまり、掲げた8800億円には届かなかった。\n\n2004年4月、社長は児玉正之氏に交代した。1970年に大東京火災海上保険へ入社して支店営業一筋に歩き、合併後に破綻しかけたシステム統合作業を、社長就任前の2年間、泊まり込みでまとめた人物である。就任と同時に全国の支社と代理店を回り、顔を合わせた社員は4000人にのぼった。児玉氏は「うちの強みはリテール。お客様とマーケットに最も近い会社でなければいけない」と語り、同月に投入した新商品の名を採って「トップラン」すると表現している。厚い自動車保険の顧客基盤に火災保険や人保険を追販するプラットフォーム戦略を国内で進め、海外ではトヨタが築いたブランド力・顧客基盤・販売金融との連携を強める構想を示した。2004年11月にロンドンへ損害保険子会社を設け、翌年12月にはその子会社としてケルンに生命保険会社を置いている。","references":[{"title":"週刊東洋経済 2000年4月15日号「［産業レポート］損害保険業界再編加速」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年4月20日号「［産業レポート］損害保険再編で二極分化が鮮明に 課題抱えたあいおい損保」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年12月22日号「［特集］保険不安・銀行危機「最後の砦」損保にも募る健全性への不安」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2004年7月10日号「［トップの履歴書］児玉正之 あいおい損害保険社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（あいおい損害保険、2006年6月29日提出・2010年6月30日提出）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"収支が戻らないまま統合で幕を閉じる","text":"それでも収益の質は改善しなかった。単体の正味損害率は2006年3月期の62.71％から2010年3月期の67.29％へ、正味事業費率は33.07％から35.48％へ上がっている。両者を足したコンバインド・レシオは2006年3月期の95.78％から2010年3月期には102.77％になり、保険引受だけでは赤字という水準に入った。金融危機を挟んだ2008年3月期と2009年3月期は連結で2期続けて当期純損失を計上し、自己資本比率は2006年3月期の20.74％から2009年3月期の9.51％へ半分以下に下がっている。連結正味収入保険料は2008年3月期の8716億円を頂点として2010年3月期には8115億円まで落ちた。合併で見込んだ規模の経済は、9年を通じて数字に出なかった。\n\n2009年9月、あいおい損害保険はニッセイ同和損害保険および三井住友海上グループホールディングスとの間で株式交換契約書を締結し、あわせてニッセイ同和損保との合併契約書も結んだ。同年12月の臨時株主総会で両契約は承認されている。当事者3社の業界順位は、三井住友海上グループホールディングスが2位、あいおい損保が4位、ニッセイ同和損保が6位だった。相手方から見れば、あいおい損保の価値は自動車保険とトヨタとの関係にある。財閥系の企業保険と海外事業に厚みを持つ三井住友海上に対し、あいおい損保が差し出せたのは個人向けの自動車保険と全国の代理店網、そしてトヨタ系ディーラーという販路だった。統合の経緯は三井住友海上グループホールディングスの記述に譲るが、あいおい損保の側から見れば、単独では活かしきれなかったトヨタとの関係を、より大きなグループのなかで使い直す選択だった。\n\n2010年4月1日の株式交換により、あいおい損害保険は三井住友海上グループホールディングスの完全子会社となった。東京・大阪・名古屋の各証券取引所への上場は同年3月29日付で廃止されている。1952年11月の東証上場から57年で、上場企業としての歴史は終わった。同時にトヨタ自動車の関連会社でもなくなった。残ったものもある。同年10月にニッセイ同和損保との合併が実行された際、存続会社はあいおい損害保険であり、新社名はあいおいニッセイ同和損害保険となった。連結従業員1万223人と代理店網、そして「あいおい」という4文字は次の会社へ引き継がれている。大衆向けの簡易火災保険会社として1918年に出発した法人は、社名の一部を残して他社の傘下に入った。","references":[{"title":"週刊東洋経済 2000年4月15日号「［産業レポート］損害保険業界再編加速」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年4月20日号「［産業レポート］損害保険再編で二極分化が鮮明に 課題抱えたあいおい損保」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年12月22日号「［特集］保険不安・銀行危機「最後の砦」損保にも募る健全性への不安」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2004年7月10日号「［トップの履歴書］児玉正之 あいおい損害保険社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（あいおい損害保険、2006年6月29日提出・2010年6月30日提出）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]}],"summary":{"title":"サマリー","text":"","qa":[{"q":"なぜ2001年に大東京火災は、規模で勝る住友海上ではなく業界8位の千代田火災と合併したのか","a":"2000年初頭の損保再編で最も積極的に動いたのは業界5位の大東京火災で、瀬下明社長は7社から8社と交渉している。住友海上に日動火災を加えた三社連合ならシェア22％弱で首位という構想もあった。大東京火災が選んだのは業界8位の千代田火災だった。瀬下社長は大手と一緒になれば系列色が強まり「経営者のロマンを捨てることになりかねない」と述べている。福田耕治社長には、トヨタが3割のカーユーザーの支持を得ているのに自社の自動車保険シェアは7％程度にすぎないという焦りがあった。規模より主導権を選んだ判断である。"},{"q":"なぜ2002年3月期に882億円の連結当期純損失を出したのか","a":"合併で引き継いだ契約が原因だった。2002年3月期、あいおい損害保険は連結で経常損失973億円、当期純損失882億円を計上する。旧千代田火災が引き受けていた米国の再保険契約が同時多発テロで損害を出し、下期の損失は1300億円に達した。同社は大成火災海上・日産火災海上とともに、米国のフォートレス・リーという再保険代理店を通じて同じ再保険プールに参加している。瀬下明社長は2001年12月に旧千代田火災へ契約の見直しを申し入れており、自らにも責任があると認めている。"},{"q":"なぜ2010年に上場廃止に至ったのか","a":"単独では規模の劣位を埋められなかった。単体のコンバインド・レシオは2010年3月期に102.77％となり、保険引受だけでは赤字の水準に入る。2008年3月期と2009年3月期は連結で2期続けて当期純損失を計上し、自己資本比率は20.74％から9.51％へ下がった。損害保険は営業拠点網と損害調査網を全国に持つ装置産業で、規模の差がそのまま事業費率の差になる。2009年9月に三井住友海上グループホールディングス・ニッセイ同和損害保険と株式交換契約を締結し、2010年4月1日に完全子会社となった。"}]}}