1900年の保険業法制定には、のちに第一生命を創設する矢野恒太氏が立案者側で参画した[1]。矢野氏は同法公布後、農商務省の初代保険課長として保険監督の実務を担い、退官して1902年9月[2]、池田謙三氏(第百銀行頭取)や岡野敬次郎氏(のちの文部大臣)の後援のもと、第一生命保険相互会社を設立した。初代社長には伯爵の柳沢保恵氏が就任し[3]、基金20万円で発足した[4]。明治期の生保業界では加入者の保険金不払いが頻発しており、倒産会社からの加入者保護を目的とした業法と、その立案者自身による相互会社の新規設立は、業界の構造的な信頼問題への一つの回答という色合いを帯びていた。
第一生命が当初掲げた経営方針は、養老保険の高料高配(高い保険料で多く配当する)主義と、代理店を置かずに営業コストを削減する合理的経営だった。これは矢野氏が業法立案の過程で把握した業界の収益構造の課題に、相互会社という組織形態で答える設計でもあった。1912年から地方への進出を本格化し、主要都市に地方部(のちの支部)[5]を順次設けた。1921年には5大生保の一角に並び[6]、1932年8月には保有契約高10億円で業界第2位を確保し[7]、以後この地位を長期にわたり維持した。合理主義を掲げた後発会社が相互会社形態で獲得した業界第2位の序列は、第二次大戦による業界再編まで動かなかった安定ポジションだった。
1938年11月、東京日比谷に現在の本社にあたる第一生命館が完成[8]した。戦時期の1944年には保有契約高100億円に到達し[9]、業容は拡大した。しかし1945年9月、敗戦とともに本社社屋がGHQ連合国軍総司令部の庁舎として接収され[10]、戦時資産の損害拡大とインフレの進行が重なり、生命保険の募集は困難をきわめた。1934年には結核予防のため剰余金100万円を基金として保生会(のちの結核予防会の母体)[11]を設立するなど、戦前から社会貢献活動を続けていたが、戦時下ではその種の活動も一時中断した。戦前に積み上げた業界第2位のポジションも、社屋接収と資産毀損で、ゼロに近い水準から再起を迫られる立場に追い込まれた。
戦後はこども保険・団体定期保険などを新発売し、1949年には中止していた契約者配当を再開した。1950年には保健文化賞を創設し[12]、1951年には保有契約高が1兆円に到達した[13]。創業以来の社会貢献の系譜は、戦後も保健文化賞(1950〜)、心臓血管研究所(1959〜)、緑の[14]デザイン賞(1990〜)と引き継がれ、一貫した姿勢として第一生命のブランドに組み込まれた。相互会社として剰余金を社会へ還元する動きが、戦前戦後を通じて続いた点は、のちの株式会社転換時にも参照される経営文化として残った。戦後の保有契約高1兆円到達で、戦前に得た業界第2位ポジションを戦災を挟んで取り戻し、業界での同社の位置を内外に示した。
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|---|---|---|---|---|
| 1902〜1945年保険業法立案者の合理主義と戦前の業界2位ポジション | 第一生命保険相互会社を設立 | ★ | ||
| 地方部(後の支部)の設置を本格化 | ★ | |||
| 業界5大生保入り | ★ | |||
| 保有契約高10億円で業界第2位確保 | ★ | |||
| 結核予防の剰余金100万円を基金に保生会(後の結核予防会母体)を設立 | ★ | |||
| 第一生命館完成 | ★ | |||
| 保有契約高100億円到達 | ★ | |||
| 本社社屋がGHQ連合国軍総司令部庁舎として接収 | ★ | |||
| 1946〜2015年世界ベストテン到達から相互会社の株式会社化まで | 保健文化賞を創設 | ★ | ||
| 保有契約高1兆円到達 | ★ | |||
| 心臓血管研究所を設立 | ★ | |||
| 企業年金保険・終身年金保険を発売 | ★★ | |||
| 本社機構の一部を移転 | ★ | |||
| 保有契約高10兆円、世界生保ランキングでベストテン入り | ★ | |||
| ジョン・ハンコック生命と国際団体保険制度で業務提携 | ★ | |||
| 「新制度」実施 | ★ | |||
| 全国支社オンラインシステム稼働 | ★ | |||
| コーポレートメッセージ「一生涯のパートナー」制定 | ★ | |||
| ライフデザインショップ開設・総資産10兆円超 | ★ | |||
| ライフデザイン研究所を設立 | ★ | |||
| リンカーンナショナル保険に資本参加 | ★ | |||
| 総資産20兆円突破 | ★ | |||
| 斎藤勝利 | 第一フロンティア生命保険を設立 | ★★ | ||
| 斎藤勝利 | ベトナムBao Minh CMG Lifeを買収、Dai-ichi Life Vietnamとして子会社化 | ★★ | ||
| 斎藤勝利 | Star Union Dai-ichi Lifeへ出資 | ★ | ||
| 斎藤勝利 | Tower Australia Groupへ出資・業務提携 | ★ | ||
| 渡邉光一郎 | 108年続いた相互会社を解いて株式会社へ、東証一部に上場する 2010年4月、第一生命は1902年の設立から108年続いた相互会社の形態を解き、株式会社へ組織変更したうえで東京証券取引所市場第一部に上場した。国内大手生保では初、当時の相互会社の株式会社化としては業界最大級で、資本市場から成長資金を直接引く手段を手にした経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 渡邉光一郎 | TAL Groupを完全子会社化 | ★★ | ||
| 渡邉光一郎 | 上場で得た資本力で、米プロテクティブ生命を完全子会社化する 2015年2月、第一生命保険が米上場生保プロテクティブ社(Protective Life Corporation)を約5,750億円で完全子会社化した。国内生保による海外企業のM&Aとして当時最大規模のクロスボーダー買収であり、2010年の株式会社化が開いた調達力を行使した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 2016〜2024年持株会社体制への移行と非保険サービスへの拡張 | 渡邉光一郎 | 稲垣精二氏が社長に就任 | ★ | |
| 渡邉光一郎 | 保険本業を事業子会社に移し、持株会社でグループを束ねる 2016年10月、第一生命保険は商号を第一生命ホールディングスへ改め、持株会社となった。国内生命保険事業は会社分割で新設した第一生命保険が承継し、国内保険・海外保険・資産運用・非保険を並列で束ねるグループ経営の体制へ組み替えた。渡邉光一郎社長のもとで決めた統治構造の再編である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 稲垣精二 | アイペットHDを株式公開買付けで子会社化 | ★ | ||
| 菊田徹也 | 菊田徹也が代表取締役社長CEOに就任 | ★ | ||
| 菊田徹也 | エムスリーの先行TOBに対抗し、福利厚生最大手を買収する 2024年、第一生命ホールディングスが福利厚生代行で国内最大手のベネフィット・ワンを株式公開買付けで買収し完全子会社化した案件。医療情報のエムスリーが先行して1株1,600円でTOBを進めていたところへ、第一生命が2,173円で対抗し、争奪戦を制した。買収総額は約2,920億円であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 菊田徹也 | 経常収益9.87兆円、経常利益7,191億円、純利益4,296億円 | ★ |
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事実根拠:出所(第一ライフグループ)