九州旅客鉄道駅ビル・不動産・流通・介護へ広げた非鉄道事業の構築

基金の運用益が細るなかで利益をどこに作るか——駅の上と沿線の土地を収益源に変えた10年

時期 1996年2月
意思決定者(推定) 石井幸孝(社長)・田中浩二 社長
論点 非鉄道事業の構築と収益構造の組み替え
概要
九州旅客鉄道が1996年から2003年にかけて、駅構内の流通事業を分社し、小倉・長崎で駅ビルを開業し、建設子会社と介護子会社を並べて、鉄道以外の収益源を面として組み上げた一連の判断。1996年2月のジェイアール九州リーテイル設立から、2003年1月のJR九州ライフサービス設立までが一つの流れにあたる。
背景
1987年の発足時、鉄道の営業損失約300億円は経営安定基金3,877億円の運用益で相殺する設計であった。想定利率7.3%は当時の高金利を前提とした数字で、1990年代後半の超低金利では実勢の運用益が想定に届かなくなった。1996年1月には発足後初の運賃改定を実施し、運賃を上げる余地も細っていた。
内容
1996年2月にジェイアール九州リーテイルとジェイアール九州フードサービスを設立して流通事業を譲渡した。1998年3月に小倉駅の新駅ビルでアミュプラザ小倉、2000年9月にアミュプラザ長崎を開業。2002年6月に三軌建設、2003年1月に九鉄工業を子会社化し、同月にJR九州ライフサービスを設立して介護へ入った。
含意
会社発足時に売上高の2割弱でしかなかった鉄道以外の事業は、2015年度には約6割を占めた。2016年3月期には駅ビル・不動産セグメントが営業利益204億円を稼ぐ一方、運輸サービスは105億円の営業損失であった。鉄道の赤字を鉄道以外の利益が支える構造は、この10年の積み上げの上にある。
筆者の見解

鉄道を続けるための商売

この10年の判断は、鉄道の収支を改善する試みではなかった。鉄道が赤字であることを前提に置いたまま、赤字を負担できる別の利益をどこに作るかという問いに答えたものであった。答えの置き場所として選ばれたのが、駅の上の床と、沿線の宅地と、そこで暮らす人へのサービスであった。売店を子会社へ移し、駅ビルの運営会社を建物より先に作り、施工会社を買い、介護へ入る——一つひとつは小さな手続きだが、並べると鉄道会社が地域の不動産業へ移っていく道筋になる。基金の運用益という与えられた収入が細ることが分かった時点で、自前の収入源を探し始めた点に、この時期の経営の性格がうかがえる。

ただし、置き換わったのは利益の出所であって、鉄道の状態ではない。2016年3月期の運輸サービスは105億円の営業損失で、発足から29年たっても鉄道単体では黒字にならなかった。駅ビルが稼ぐほど、鉄道は稼がなくても続けられる会社になる。その構造は路線網の維持には有利に働き、鉄道の収支を正面から問い直す動機は弱める。1996年に駅の売店を分社した会社が、四半世紀後に井筒屋や山形屋と商圏を争う位置に立ち、なお赤字のローカル線を持ち続けている。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

運用益で埋めるという前提が細る

1987年の発足時、九州旅客鉄道の損益は経営安定基金の運用益を織り込んで組まれていた。鉄道の営業損失は約300億円と見込まれ、基金3,877億円を想定利率7.3%で運用して得る年約300億円がこれを打ち消す形になっていた。想定利率は発足当時の高金利を前提にした数字で、1990年代後半以降の超低金利のもとでは実勢の運用益が想定に届かなくなった。鉄道の側で運賃を上げる余地も限られ、1996年1月10日には発足後初の運賃改定を実施している。会社を支える二つの前提が、同じ時期に細っていた[1][2][3]

鉄道以外の事業そのものは、発足の直後から手をつけていた。1989年には初の分譲マンション「MJR笹丘」を売り出し、1992年12月には「ホテルブラッサム福岡」を開いている。ただ、どれも会社の収益構造を書き換える規模には届かなかった。会社発足時に売上高へ占める鉄道以外の事業は2割弱で、鉄道が稼ぎ、足りない分を基金が埋める関係は変わらなかった。数を打って残るものを選ぶ段階から、額の立つ事業へ資金を寄せる段階へ移る必要があった[4][5][6]

手元にあったのは駅と沿線の土地

国鉄から承継した資産のうち、九州の主要駅とその周辺の土地は、鉄道の設備であると同時に商業の適地でもあった。列車の利用者が減っても、駅に人が集まる限り床を貸す事業は成り立つ。九州旅客鉄道はこの二重性に賭けた。1995年6月22日には小倉ターミナルビル㈱を設立し、小倉駅の新しい駅ビルを運営する会社を、建物より先に用意している。同社は後に㈱JR小倉シティへ商号を変え、九州旅客鉄道の不動産事業の中核の一つになった[7][8]

使い方は駅の上だけにとどまらなかった。1995年10月28日には福岡県前原市で宅地「前原・美咲が丘」の街びらきを行い、同じ日に筑肥線の美咲が丘駅を開業させている。1997年3月14日には熊本県大津町で「大津・美咲野」の街びらきが続いた。宅地を造り、そこに駅を置いて乗客と居住者を同時に得るやり方は、私鉄が沿線開発で用いてきた型にあたる。1996年6月19日には西鹿児島駅の新駅舎と商業施設「フレスタ鹿児島」が開き、駅を通過点から滞在の場へ作り替える工事が各地で並行した[9][10]

決断

流通を本体の外へ出す

1996年2月1日、九州旅客鉄道はジェイアール九州リーテイル㈱とジェイアール九州フードサービス㈱を設立し、流通事業を譲渡した。駅構内の売店と飲食は、それまで鉄道の付帯業務として本体の中にあった。旅客の便宜のために置かれた店であり、収益で評価される仕組みにはなっていない。分社によって、店舗の出退店や品ぞろえ、人員の配置を鉄道の運営から切り離して決められるようになった。鉄道の規律で商売を回すのをやめ、商売の採算で商売を測る器を先に作ったことになる[11][12]

切り出しは流通だけで終わらなかった。1998年4月には九州整備㈱と鉄道産業㈱を合併させてジェイアール九州メンテナンス㈱を発足させ、車両や施設の整備をグループの内側に囲い込んだ。2001年2月にはジェイアール九州バス㈱を設立して自動車事業を譲渡している。鉄道の運行として本体に残す仕事と、独立した採算で回す仕事とを仕分ける作業が、数年かけて続いた。分社した各社が黒字を出せば、それはそのまま連結の利益になる[13]

駅の上に建て、駅の外へ広げる

1998年3月14日、小倉駅の新駅ビルにアミュプラザ小倉が開業した。小倉ターミナルビル㈱の設立から2年9か月後にあたる。翌月の4月27日にはステーションホテル小倉が続き、駅ビルは商業と宿泊を同じ建物で抱えた。2000年9月21日には長崎駅で「アミュプラザ長崎」と「JR九州ホテル長崎」が開業している。専用の運営会社を先に立て、駅の建て替えに商業床とホテルを組み込み、開業後は賃料で回収する——九州の主要駅を一つずつ商業施設へ作り替える手順が、この2件で固まった[14][15][16]

建てる側も内側に取り込んだ。2002年6月に三軌建設㈱の株式を取得し、2003年1月には九鉄工業㈱を追加取得して、いずれも子会社とした。駅ビルとマンションを続けて建てるのであれば、施工を担う会社をグループに置く意味がある。同じ2003年1月31日にはJR九州ライフサービス㈱を設立し、介護事業へ入った。2003年3月には姪浜駅ビルと水前寺駅ビルが相次いで開き、2006年には介護付有料老人ホーム「SJR別院」が開業している。駅と沿線に暮らす人へ、床と住まいと介護を売る形が並んだ[17][18][19]

結果

利益の出所が入れ替わる

1996年から2003年に置いた土台の上に、2004年3月の九州新幹線部分開業と2011年3月のJR博多シティ開業が乗った。数字の形が変わったのは2010年代である。2016年3月期、駅ビル・不動産セグメントは外部顧客売上562億円に対して営業利益204億円を計上し、連結の営業利益の過半を稼いだ。同じ期の運輸サービスセグメントは売上1,763億円に対して105億円の営業損失であった。売上の規模では鉄道が3倍を超えながら、利益は逆を向いていた[20]

2016年10月25日の東証一部上場にあたり、青柳俊彦社長は運輸サービス事業と駅ビル・不動産事業の利益がそれぞれ全体の4割を占め、当面はこの構成で成長を目指すと述べた。会社発足時に2割弱だった非鉄道の売上比率は、2015年度には約6割へ動いている。2020年3月期にはアミュプラザなどグループの商業施設の売上高が2,026億円に達し、北九州や鹿児島では地場の老舗百貨店と商圏を争う立場になった。2025年3月期には不動産・ホテルセグメントが営業利益の過半を占め、非鉄道が営業収益の6割を占めている[21][22][23][24]

出典・参考

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