九州旅客鉄道国鉄分割民営化による発足と、経営安定基金3,877億円を前提とした事業設計
鉄道では黒字にならない会社をどう成り立たせるか——石井幸孝初代社長が基金の運用益に上乗せしようとしたもの
- 概要
- 1987年4月1日、日本国有鉄道改革法にもとづき九州旅客鉄道株式会社が福岡市に発足した。鉄道事業単体では黒字が見込めない前提で設計された会社で、国は長期債務を承継させない代わりに経営安定基金3,877億円を交付し、その運用益で鉄道の営業損失を埋める構造とした。初代社長には国鉄常務理事から転じた石井幸孝氏が就いた。
- 背景
- 国鉄分割民営化では、人口集積地を抱える本州3社と、北海道・四国・九州のいわゆる三島会社とで扱いが分けられた。1987年度の鉄道事業売上高は九州が1,266億円で、北海道726億円・四国306億円を上回っていたものの、2,000キロメートルを超える路線網を維持できる規模ではなかった。
- 内容
- 基金3,877億円を想定利率7.3%で運用し、年約300億円の運用益で発足時の鉄道営業損失約300億円を相殺する設計が敷かれた。そのうえで石井社長は基金に頼り切らない方針を採り、発足の年に国内旅行業を始め、リース・海運・外食など鉄道の周辺へ事業を広げた。
- 含意
- 運用益という支柱は、想定利率7.3%が成り立つ限りでの支柱であった。1990年代後半の低金利で前提が崩れたとき、発足直後から積み上げた非鉄道事業が代わりの柱になり、2016年の株式上場を財務面で支える構造につながった。
猶予の使い道は指定されなかった
1987年に九州旅客鉄道が受け取ったのは、鉄道の赤字を消す補助金ではなかった。本州3社が国鉄の長期債務を背負ったのに対し、三島会社には債務が承継されず、代わりに営業損失を埋めるだけの運用益を生む経営安定基金が置かれる。九州への交付額3,877億円は資産総額のおよそ3分の1にあたり、想定利率7.3%で運用して得る年約300億円が、発足時に見込まれた鉄道営業損失約300億円と向き合った。失う額と生む額が最初から釣り合う設計であったといえる。
この設計が渡したのは、赤字のまま潰れずにいられる時間であり、その使い道までは指定されていなかった。運用益を収益の完成形とみなせば、鉄道の改善も多角化も先送りできる。石井幸孝社長は逆に、基金の運用益は前提であって到達点ではないという線を引き、発足年の1987年7月に国内旅行業を始めて以降、リース・リゾート開発・高速船と鉄道の外側へ会社を並べた。北海道に6,822億円、四国に2,082億円が今も基金として据え置かれる一方、九州は29年でそれを使い切って市場へ出ている。同じ猶予が、動かない理由にも動く元手にもなりえたことを、三社の差が示している。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
三島会社という条件
国鉄分割民営化では、旅客会社6社が一律の条件で切り出されたわけではなかった。首都圏や関西圏という人口集積地を持つ本州3社に対し、北海道・四国・九州の三島会社は、人口減少と高速道路の延伸によるモータリゼーションのなかで利用者を減らしていた。1987年度の鉄道事業売上高で見ると、九州は1,266億円と北海道の726億円、四国の306億円を上回り、三島会社のなかでは頭ひとつ抜けていた。それでも本州3社の7,000億〜1兆5,000億円台とは桁が違い、2,000キロメートルを超える路線網を自力で支えられる水準ではなかった[1]。
この差は、承継させる負債の設計に反映された。本州3社には国鉄の長期債務の一部が引き継がれた一方で、三島会社には長期債務が承継されなかった。代わりに置かれたのが、営業損失を埋めるだけの運用益を生む経営安定基金であった。九州旅客鉄道に交付された額は3,877億円で、これは同社の資産総額のおよそ3分の1を占めた。鉄道で赤字を出しても会社としては黒字を保てる——分割民営化はそういう構造の会社を九州に作った[2][3]。
運用益で赤字を相殺する設計
1987年4月1日、日本国有鉄道改革法(昭和61年法律第87号)にもとづき、九州旅客鉄道株式会社が福岡市に発足した。発足時点の鉄道営業損失は約300億円と見込まれ、基金3,877億円を想定利率7.3%で運用して得られる年約300億円の運用益がこれを打ち消す前提で数字が組まれていた。損益計算書の上では、鉄道が失う額と基金が生む額が向き合う構図であった[4][5]。
引き受けたのは、鉄道の損失だけではなかった。発足時の九州旅客鉄道は約3,000人の余剰人員を抱え、収支の合わないローカル線もそのまま承継していた。初代社長には国鉄常務理事から転じた石井幸孝氏が就き、鉄道の赤字と過剰な人員を抱えたまま、運用益に支えられた会社をどう自立させるかという課題を最初から負った[6][7]。
決断
基金の上にあぐらをかかない
制度が与えたのは、運用益で赤字を埋めてよいという許しであった。それを収益の完成形とみなせば、鉄道事業の改善も多角化も先送りできる。石井幸孝社長は逆の道を選び、基金の運用益は前提であって到達点ではないという線を引いて、鉄道の収益確保と鉄道以外の事業の立ち上げを同時に進めた。後年の同時代報道も、九州旅客鉄道が経営安定基金の上にあぐらをかくことなく鉄道事業の収益確保に力を入れてきたと記している[8]。
参照した型は民鉄にあった。石井社長は国鉄常務理事の時代に近畿日本鉄道を民営化のモデルとして研究しており、大都市間を結ぶ路線と山間の過疎路線を併せ持つ点で国鉄と条件が似ていると見ていた。近鉄グループでは鉄道以外の事業の位置づけが高く、ローカル線が赤字でも極端な合理化に走らず、多角化で得た黒字が補う。九州の鉄道会社をこの型に寄せることが、発足時の設計思想の芯にあった[9]。
発足の年から周辺事業へ
多角化は発足初年度に始まった。会社ができた1987年の7月には国内旅行業の営業を開始し、翌1988年2月には㈱九州交通企画、同年7月にはジェイアール九州リース㈱を設立している。1989年にはジェイアール九州ファーストフーズ㈱とジェイアール九州リゾート開発㈱が続き、1990年6月にはジェイアール九州ハウステンボスホテル㈱を設けてホテル事業に入った。いずれも駅と沿線という手持ちの接点を使える領域であった[10][11]。
線路の外にも出た。1990年5月には高速船「ビートル」が博多〜平戸〜長崎の航路に就き、翌1991年3月には福岡〜釜山間の国際航路を開いている。鉄道会社が海路で韓国と結ぶ選択は、九州という土地の地理を収益に変える試みであった。取り組んだ事業の幅は広く、ミニSLの賃貸や宅配便の取り次ぎ、きのこ栽培にまで及んでいる。数を打ちながら残るものを選ぶやり方が、発足直後の経営の実態であった[12][13]。
結果
想定利率7.3%という前提の崩れ
設計の弱点は金利にあった。想定利率7.3%は発足当時の高金利を前提とした数字で、1990年代後半以降の超低金利のもとでは実勢の運用益が想定を下回った。運用益で赤字を埋めるという前提が細っていくなかで、九州旅客鉄道はワンマン運転の拡大、列車本数の増加、スピードアップ、新駅の設置を重ね、駅業務の体制も見直した。それでも沿線の人口減少が続く区間で鉄道収支を反転させるには至らなかった[14]。
相対的に重みを増したのは、発足直後から積み上げた鉄道以外の事業であった。1990年代後半には連結子会社44社の体制ができ、駅ビル・流通・ホテル・不動産が利益を生む側に回った。2015年3月期の基金運用益は120億円を超え、なお経常利益の5割弱を占めていたものの、それを差し引いても連結では黒字を確保できる状態に届いていた。制度が用意した支柱と、自力で建てた柱が入れ替わりつつあった[15][16]。
持参金の終わり方
基金そのものは、2016年3月期に姿を消した。全額が取り崩され、九州新幹線の使用料2,205億円の一括前払いと長期借入金800億円の返済、鉄道事業への872億円に振り分けられている。1987年に鉄道の赤字を埋めるために置かれた3,877億円は、29年を経て、上場する会社の財務を整える原資として使い切られた。運用益に代わって鉄道以外の事業が連結の利益を支える形は、この時点ですでに出来上がっていた[17][18]。
会計検査院は2015年の随時報告で、この処理が3島会社のなかで九州だけに認められた扱いであることを指摘している。JR北海道の6,822億円とJR四国の2,082億円は据え置かれ、基金を財務の整理に充てて上場へ進んだのは九州旅客鉄道だけであった。制度としては同じ条件で始まった3社が、29年後には基金の扱いで分かれていた。分けたのは、鉄道以外の事業がどれだけ利益を生むかという一点であった[19]。
- 週刊東洋経済 2016年12月10日号「【深層リポート JR九州、“脱鉄道”の成算】 JR九州、“脱鉄道”の成算」
- 週刊東洋経済 2015年11月20日号「【第1特集 ここがおかしい! 日本の鉄道】 PART2 人口減少サバイバル 上場の試練2 鉄道事業はいまだ赤字 JR九州の厳しい前途」
- 東洋経済オンライン(2017年4月29日)「国鉄改革はなぜ成功したのか [特別寄稿]JR九州初代社長 石井幸孝」
- JR九州「JR九州年譜(1987〜)」
- JR九州「役員一覧・組織図」
- 九州旅客鉄道 有価証券報告書【沿革】
- 日本経済新聞(2015年1月30日)
- 日経ビジネス(2023年4月11日)
- 会計検査院 随時報告(平成27年)