東京建物SPC法施行直後の国内第1号登録取得と、不動産証券化・資産運用事業への進出
自ら持って貸すか、投資家に持たせて運用で稼ぐか——バブル処理を終えた不動産会社が選んだ次の稼ぎ方
- 概要
- 1998年11月、東京建物はSPC法(現・資産流動化法)の国内第1号登録を取得した。同法の施行から2か月余りという早さで、この法律を用いた日本初の不動産証券化商品として高輪の外国人向けサービスアパートメントを証券化している。自ら保有して貸す事業に、投資家の資金で持たせて運用報酬を得る事業を並べる進出であった。
- 背景
- 1995年3月に社長へ就いた南敬介氏は、就任してまず上場以来初の赤字決算を決断し、176億円の損切りで不良資産の処分を急いだ。1997年度には土地等の処分物件がゼロとなり、業界のなかで最も早くバブルの後始末を終えた。畑中誠取締役企画部長は、これからの不動産事業は所有と経営の分離が鍵になると述べていた。
- 内容
- 1998年6月に成立したSPC法が同年9月1日に施行されると、11月に国内第1号の登録を取得した。1999年には不動産特定共同事業で国内初のパッケージ型商品を発売し、SPC法に基づく第1号登録商品の格付を取得して証券を発行している。2000年4月には資産運用会社の東京リアルティ・インベストメント・マネジメントを設立した。
- 含意
- 2002年6月に上場した日本プライムリアルティ投資法人のスポンサーとなり、運用報酬を得る事業が3本目の柱に育った。一方で、貸借対照表の外で開発を進める同じ仕組みは、2011年12月期に出資SPCの評価損として717億円の純損失も運んだ。制度の先頭に立つことは、制度の未成熟を先に引き受けることでもあった。
制度の先頭に立つということ
施行から2か月で第1号の登録に間に合わせるには、法律が形になる前から手を動かしていたはずである。好採算の不動産をこれ以上売れば体力を弱めると見た南敬介社長の判断と、所有と経営の分離をこれからの鍵と述べた畑中誠企画部長の見立ては、同じ問いへ向いていた。持ち続けるか売り払うかの二択ではなく、投資家に持たせて運用で稼ぐ第三の道を、制度が用意された最初の年に取りに行ったとみることができる。
持たずに稼ぐ手法を得たことは、しかしリスクを手放したことと同じではなかった。特定目的会社に置いた大型開発は貸借対照表から見えなくなる一方、含み損は出資者の側に残り、2011年12月期には717億円の純損失として一度に表へ出た。アセットサービス事業が3本目の柱に育つまでには十数年を要し、その間に同じ仕組みが創業以来最大級の赤字も運んでいる。制度の先頭に立つことは、制度の未成熟を先に引き受けることでもあったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
業界の先頭で終えたバブル処理
1995年3月に社長へ就いた南敬介氏は、就任してまず上場以来初の赤字決算を決断した。不動産不況が続くなかで業界各社は含み資産の売却によって利益を維持していたが、南氏は好採算の不動産をこれ以上売れば肝心の体力を弱めると見て、経営体質の強化に取り組んでいる。富士銀行の副頭取から迎えられた経営者による、損失を先に確定させる選択であった[1][2]。
1995年の損切りは176億円に及び、決算は赤字となった。1996年の創業100周年を目標に不良資産の早期処分が進められ、1997年度には土地等の処分物件がゼロとなる。マンションの完成在庫は23戸まで減り、年間供給戸数1,000戸から見ればわずかな量にとどまった。有利子負債は期初の2,597億円から期末に2,800億円へ増える見込みであったが、これは前向きな投資による増加であった[3][4][5]。
「所有と経営の分離」という見立てと、制度の成立
処理を終えた東京建物は、1996年度に九段下ビルを買収し、国鉄清算事業団の案件にも参画して錦糸町のアルカイーストを58億円で落札するなど、投資を再開していた。畑中誠取締役企画部長は、これからの不動産事業は所有と経営の分離が鍵になるとし、ビル事業ではサブリースがそのモデルになると述べている。不動産を持つ主体と運営する主体を分ける発想が、社内で言葉になっていた[6][7]。
制度の側も動いた。1998年6月に成立したSPC法は、同年9月1日に施行される。特定目的会社に資産を移して証券を発行する枠組みで、登録は財務局長ごとに決裁を終えた順に1号から番号を付す事務手続きが定められた。東京建物は1995年11月に不動産特定共同事業許可を取得しており、投資家の資金で不動産を持たせる手法には先に足を入れていた[8][9]。
決断
施行から2か月での国内第1号登録
1998年11月、東京建物はSPC法の国内第1号登録を取得した。施行から2か月余りという早さであった。同法を用いた日本初の不動産証券化商品として、高輪の外国人向けサービスアパートメントを証券化している。自ら保有して貸す物件を、投資家に持たせて運用報酬と手数料を得る対象へ置き換える手法を、制度が動き出した最初の年に試した[10][11]。
翌1999年には不動産特定共同事業で国内初のパッケージ型商品を発売し、SPC法に基づく第1号登録商品の格付を取得して証券を発行した。1999年2月に不動産特定共同事業の最低出資金額が1,000万円から500万円へ引き下げられると、個人の購入が伸びる。東京建物プロパティ・マネージメントの城崎好浩取締役は、狙いは個人が容易に不動産で資産運用できる市場の創設にあると語っている[12][13][14]。
結果
運用会社とJ-REITの受け皿
2000年4月、東京建物は資産運用会社の東京リアルティ・インベストメント・マネジメントを設立した。翌2001年には安田生命保険など3社とともに、日本プライムリアルティ投資法人の前身となるファンドを組成している。同投資法人は2002年6月にJ-REITとして5番目に上場し、東京建物をスポンサーとする物件の受け皿となった[15][16][17]。
個人向けの商品も成績を残した。実績分配型の初年度分配率は当初想定の3.6%を超えて4.18%となり、購入者の3分の2が個人、平均年齢は62歳であった。運用の受託はやがて事業として定着し、アセットサービス事業の売上高は2015年12月期に477億円で全体の20%、2025年12月期は634億円に達した。ビル2,201億円、住宅1,651億円と並ぶ3本目の柱にあたる[18][19]。
同じ仕組みが運んだ損失
証券化の手法は、開発の規模を自己資本から解き放つ役にも立った。特定目的会社に資産を置けば大規模開発を貸借対照表の外で進められ、資金も集めやすい。年商2,000億円規模の準大手にとって使い勝手のよい仕組みで、東京建物は繰り返し用いた。ただし良いときには利益が一度に立ち、悪いときには表に出ていない損失が現れる両面があった[20]。
2011年12月期、出資する特定目的会社の評価損によって、同社は経常損失108億円・純損失717億円を計上した。東京の中野駅前、京橋3丁目、大阪の梅田北ヤードという3案件に関する特別損失は、合計600億円弱に上った。第1号登録から13年後、証券化に先行した会社が、同じ仕組みの裏側を業界のなかで最も早く、最も大きな金額で引き受けた[21][22]。
- 日経ビジネス 1995年10月9日号「南敬介氏[東京建物]登場 赤字を覚悟、まず体質強化に全力投球」
- 週刊東洋経済 1997年6月28日号「[フラッシュ]東京建物 バブル処理終え投資復活 首都圏でビル投資積極化、地方へも展開を検討」
- 週刊東洋経済 2000年4月8日号「[特集]投資大作戦 個人向け不動産投資商品 日本型リート登場 「社債型」も狙い目」
- 週刊東洋経済 2011年12月20日号「NEWS TOP4 不動産 東京建物が巨額評価損 業界ドミノ倒しの予兆」
- 金融庁 報道発表「事務ガイドラインの一部改正について(SPC)」(1998年8月31日)
- 東京建物 有価証券報告書【沿革】
- 東京建物 有価証券報告書(2011年12月期・連結)
- 東京建物 有価証券報告書(2025年12月期・連結)
- 東京建物「東京建物語」(コミュニケーション活動)
- 日本プライムリアルティ投資法人「投資法人の概要」