不況で伸びなくなった国内の月賦金融に代えて、この会社が取得したのは外務省から払い下げられた租界地3万7,838坪であった。自力で市場を開拓したのではなく、政府が用意した枠組みの内側に、住宅とビルを建てて貸すという本業をそのまま持ち出した進出とみられる。昭和10年代に租界内の一等地の大半を所有するまで育ったのは、その枠組みが40年余り続いたからでもあった。
その枠組みは、会社の努力で守れるものではなかった。1945年8月に天津支店が廃止されると、在外資産は全所有土地の約40%、全所有建物の約77%とともに消えている。収益源を国家の対外政策と同じ土台に置いた事業は、その政策が崩れた日に等価のものを失う。国内に残った資産だけで1949年の再上場までを歩んだ経緯を見ると、外地で積み上げた40年余りは、会社の資産としてほとんど持ち越せなかったといえる。