東京建物天津租界地の払い下げを受けた支店開設と、漢口・京城・満州への外地展開

創業から5年で業績が落ちた国内の不動産金融会社は、なぜ清国の租界地に打開の手を求めたか

時期 1903年3月
意思決定者(推定) 安田善次郎 氏 創業者
論点 外地租界地での不動産事業への進出
概要
1903年3月、東京建物は外務省から清国天津の日本租界地3万7,838坪の払い下げを受けて天津支店を開き、住宅やビルの建設と管理運営に入った。以後、漢口・京城・満州へ拠点を広げ、天津支店は租界唯一の不動産会社として昭和10年代には建物約3万坪と租界内の一等地の大半を所有するまでになった。
背景
1901年、日清戦争後の反動不況と金融恐慌の影響で業績が低迷し始めた。住宅金融の制度がない国内で市民を相手にする月賦建築請負と担保貸付だけでは、不況の底で伸ばせる余地が限られていた。一方、清国天津では政府の手で日本専管居留地の払い下げが進み、居留民住宅や電力供給を担う民間の担い手が求められていた。
内容
1903年3月の天津支店開設に続き、1907年1月に現地の天津企業組合を吸収合併した。1907年には漢口の日本租界内の土地の払い下げを受けて1919年に支店を開き、1910年8月に京城へ進出して1912年5月に京城支店を開設している。満州では子会社の満洲興業を設立して1917年に事業を始め、1937年3月にこれを吸収合併した。
含意
天津支店の業績は1945年の終戦による閉鎖まで会社全体の収益を支えた。だが敗戦で在外資産は一挙に失われ、その規模は全所有土地の約40%、全所有建物の約77%に達した。国内に残った資産で1949年5月の東証再上場までを歩み、海外での不動産事業は1990年6月の米国東京建物設立まで途切れた。
筆者の見解

国家が用意した枠組みの内側で

不況で伸びなくなった国内の月賦金融に代えて、この会社が手に入れたのは外務省から払い下げられた租界地3万7,838坪であった。自力で市場を切り開いたのではなく、政府が用意した枠組みの内側に、住宅とビルを建てて貸すという本業をそのまま持ち出した進出とみることができる。昭和10年代に租界内の一等地の大半を所有するまで育ったのは、その枠組みが40年余り続いたからでもあった。

その枠組みは、会社の努力で守れるものではなかった。1945年8月に天津支店が廃止されると、在外資産は全所有土地の約40%、全所有建物の約77%とともに消えている。収益の柱を国家の対外政策と同じ土台に置いた事業は、その政策が崩れた日に等価のものを失う。国内に残った資産だけで1949年の再上場までを歩んだ経緯を見ると、外地で積み上げた40年余りは、会社の資産としてほとんど持ち越せなかったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

創業5年で当たった壁

1896年10月、東京建物は月賦建築請負・土地建物担保貸付・土地建物の販売および仲介を営業目的として設立された。設立当時の東京は日清戦争直後の活況のなかで都市が膨張し、個人住宅の新築や改築の気運が高まっていた。住宅金融の制度がないその需要を、法人が受けもつ会社であった。ところが1901年、日清戦争後の反動不況と金融恐慌の影響で業績が低迷し始める。市民相手の月賦金融と担保貸付だけでは、不況の底で伸ばせる余地が限られていた[1][2][3]

目を向けた先には、制度の側から用意された事業があった。清国の天津などでは政府の手で日本専管居留地の払い下げが進められ、居留民の住宅建設や電力の供給といったインフラ整備を担う民間の担い手が求められていた。求められた仕事は土地の経営から住宅の建設、電力の供給までを含み、請負業だけでも金融業だけでも収まらない幅があった。建設と貸付と管理を一つの会社で扱ってきた東京建物にとって、本業をそのまま持ち出せる相手であった[4]

決断

租界地3万7,838坪の払い下げを受ける

1903年3月、東京建物は天津支店を開設した。外務省から清国天津の日本租界地3万7,838坪の払い下げを受け、住宅やビルの建設と管理運営に入っている。居留民の住宅を建て、電力を供給する事業までを引き受けており、国内で営む月賦建築請負や担保貸付とは業務の性格が違った。1907年1月には現地の天津企業組合を吸収合併し、租界の事業を自社の法人に束ねている[5][6]

進出は天津にとどまらなかった。1907年には漢口の日本租界内の土地の払い下げを受けて経営に着手し、1919年に支店を開いている。1910年8月には京城へ進出し、1912年5月に京城支店を開設した。満州では子会社の満洲興業を設立して1917年に事業を始め、1937年3月にこれを吸収合併している。国内の拠点が東京と1896年11月開設の横浜にとどまっていた時期に、外地の拠点網が先に広がった[7][8][9][10]

結果

租界唯一の不動産会社となり、敗戦で失う

天津での事業は、やがて会社の収益を支えるまでになった。租界唯一の不動産会社として、昭和10年代には建物約3万坪と租界内の一等地の大半を所有している。払い下げを受けた3万7,838坪の土地の上に、ほぼ同じ面積の建物を積み上げた計算になる。天津支店の業績は1945年の終戦による閉鎖まで会社全体の収益に寄与し、不況を埋めるために出た外地の事業が、40年をかけて本業の一角を占めるに至っていた[11][12]

1945年8月、天津支店は廃止された。敗戦により在外資産は一挙に失われ、その規模は全所有土地の約40%、全所有建物の約77%に達した。手元に残ったのは、1943年10月の安田ビルディング吸収合併で得た大阪ビル・京都ビル・福岡ビルなどの国内資産であった。会社はこれを元手に再建へ向かい、1949年5月に東京証券取引所へ株式を再上場している。海外での不動産事業は、米国東京建物を設立する1990年6月まで途切れた[13][14][15]

出典・参考

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