1949年6月1日、国有鉄道は日本国有鉄道の名称で公共企業体として改組[1]し、76年続いた国営の幕を閉じて政府の行政機関から切り離された[2]。改組を要した第1の条件は連合軍による占領[3]である。国有鉄道は課ひとつの改廃も定員の異動も、総司令部と逐一打ち合わせて指令・勧告を仰がなければ[4]実行できない状態に置かれていた。運輸省の内部にも事情があり、鉄道総局が膨大な現業機関を抱えるのに対し海運総局は純然たる監督機関[5]にとどまるため、鉄道現業部門を運輸省から切り離すべきだという議論が省内の大勢を占めていた[6]。公共企業体という構想も、日本政府が独自に発想したものではない。総司令部から『Public corporation』の機構を内示された[7]政府は、アメリカ合衆国の同種の企業体についてまず初歩から調査した[8]。
1948年7月22日、マッカーサー元帥は内閣総理大臣芦田均氏に書簡を送り[9]、国家公務員の争議その他国務を渋滞させるいっさいの行為を禁止するよう勧告[10]するとともに、国有鉄道や専売事業について公共企業体を組織すべきことに言及した[11]。書簡を受けて国家公務員法が改正され、国家公務員は争議権も団体交渉権も失った[12]。国有鉄道の職員は国家権力の行使ではなく企業の運営に従事するにすぎず、公務員より緩和された労働権を与えるほうが企業運営上好ましい。この理由づけが組織変更の趣旨とされた[13]。運輸省が1948年7月29日に作った機構改革案3案のうち、政府は鉄道総庁案と国有鉄道庁案を実現可能[14]とみた。総司令部民間運輸局は、公共性と企業性の実現には公社とする第3案によるべきだと譲らな[15]かった。日本国有鉄道法案は同年11月11日に第3回国会へ提出され、11月30日に無修正で可決、12月20日に法律第256号として公布された[16]。
日本国有鉄道法の施行は当初1949年4月1日を予定していたが、運輸省設置法の施行が6月1日へ延期された[17]ため同じ日にそろえられた。日本国有鉄道は発足と同時に、経済安定9原則によって均衡予算を厳守することを第1の命題とされた[18]。1949年度は貨物運賃を据え置き旅客運賃を6割値上げすることを条件に、収支の均衡をはかることが求め[19]られた。運賃の決め方にも制約がかかった。財政法第3条が国の独占事業の料金を法律または国会の議決で定めると規定した[20]のは、新憲法の理念によるものとして総司令部が強く要求した結果[21]である。1948年4月14日の法律第27号『財政法第3条の特例に関する法律』[引用元][22]は、国会の議決を要するものに煙草の定価・郵便電信料金と並んで鉄道運賃の賃率を含めた[23]。独立採算制を採ったことで復興のための投資規模は必要な水準に届かず、のちに至るまで大きな禍根[24]を残した。
終戦直後の国有鉄道は事業官庁として多くの職種を持ち、復員・引揚の軍人や政府関係職員を受け入れる組織として着目された[25]ため、積極的な人員受け入れを迫られた。食糧増産、運輸建設本部・軍管理工場・軍病院の引受け、炭坑の経営[26]、教習所の拡充、公安員の設置、列車の増発を相次いで計画したのもその現われである。ただし人の多い割にサービスは向上せず、営業でも運転でも事故が減らないという非難[27]が絶えなかった。1949年3月末の職員数は60万4243人[28]に達し、1948年度は一般会計からの300億円の繰入金でかろうじて収支のバランスを保った[29]。1949年5月31日に成立した行政機関職員定員法は附則第7項[30]で、職員数を同年10月1日に506,734名以下とするため9月30日までに逐次整理する[31]と定めた。
定員は機械的な天引削減ではなく、最も能率的とみられた1939年度の労働生産性を基準に1950年度の業務量から算定[32]し、労働基準法の施行による労働条件の変化を加味して決めた[33]。整理の基準は人格・知識、肉体的適応性、業務に対する熟練と協力といった資格要件の優劣[34]に置き、差を認めがたい者の間では国有鉄道での勤務の長さによる[35]とした。同法附則第9項は、公共企業体労働関係法第8条第2項が定める団体交渉の範囲の規定の適用を排除[36]した。国鉄労働組合が申し立てた仮処分を、東京地方裁判所は1949年8月8日に却下した[37]。整理は7月1日に運輸省大臣出席のもとで基準を通告してから、7月4日の第1次通告、7月14日の第2次通告[38]を経て、7月21日の広島鉄道局管内への通告で大筋を終えた。依願免1万2472人、免職8万141人、その他2405人の計9万5018人[39]が職を離れた。
第1次通告の翌7月5日、下山定則総裁は日本橋三越へ立ち寄ったまま消息を絶ち[40]、翌6日、常磐線北千住・綾瀬間で轢死体となって発見された[41]。自殺説と他殺説が入り乱れ、原因は不明[42]である。第2次通告の翌15日、中央本線三鷹駅構内で電車が暴走し、前部4両が駅前のアパートに突入し[43]、旅客6人が死亡、19人が重軽傷を負った[44]。8月17日、東北本線金谷川・松川間で上り第412列車が脱線転覆し、機関士と機関助士3人が死亡[45]した。政府は事件のたびに共産党員や労働組合員が暴力革命の意図で起こしたものとして発表し、新聞やラジオもこれを大々的に伝えた[46]。組合は不利な立場に追い込まれ、予測された地域闘争も組織的闘争も起きな[47]かった。1950年11月10日、日本国有鉄道は共産主義者と同調者を排除する方針を組合へ示し、469人を追[48]放した。1951年5月23・24日、京都で日本国有鉄道機関車労働組合が結成され[49]、分裂が確定した。
1948年に立てられた幹線電化中心の5か年計画[50]に対し、総司令部民間運輸局は、着工済みの奥羽本線福島・米沢間と東海道本線沼津・浜松間についても工事の中止を求めた[51]。日本国有鉄道は石炭の消費節減と国内の経済復興に不可欠だと説いて継続の承認を得て[52]、東海道本線は沼津・静岡間を1949年2月1日、静岡・浜松間を5月20日、奥羽本線福島・米沢間を4月24日に完成[53]させ、これらの電化線区は予期以上の経済的効果をあげた[54]。しかし他の工事は一つも起工できず、5か年計画の実現はほとんど不可能になった[55]。車両の増備も総司令部の命令でほとんどが削[56]られた。1949年9月15日のダイヤ改正では特急『平和』号が復活[57]し、展望車1両を含む11両編成で東京・大阪間554kmを9時間で走り、平均速度61.5km/h、最高速度95km/hとほぼ戦前の水準に戻した[58]。
1950年6月25日に朝鮮戦争が始まると、日本は不可欠の兵站基地とされ[59]、膨大な兵員と資材が送り込まれた。開戦の翌26日には弾薬輸送のため約40両の貨車が動員され[60]、臨時貨物列車は26日1本、27日2本、28日6本、29日10本と急増[61]した。7月1日から16日までに九州地区へ走った軍事輸送関係の臨時列車は209本・5111両に達し[62]、一般の貨物輸送はその分だけ抑えられた。貨物の年間輸送量は1949年度の1億2430万トンから1950年度は1億2900万トンへ伸びており[63]、この数字には連合軍の軍事輸送量が入っていない[64]。1950年秋の在貨は150万トン、1951年2月も150万トンで、以後は200万トン前後で推移[65]した。1951年度上半期の貨物輸送実績は1936年度比で約150%となり、同期の鉱工業生産指数113を上[66]回った。
1950年から1955年にかけて日本国有鉄道の貨物と旅客の輸送量はいずれも約2割増えたが、施設の増加はわずかにとどまった[67]。輸送力が需要に追いつかない間に自家用トラックが増え、その輸送量の伸びは鉄道を上[68]回った。当時の自動車保有台数は14万台にす[69]ぎない。道路の側では有料道路の制度が設けられ、揮発油税を道路整備の特定財源とする法律も制定された[70]。日本国有鉄道の1952年度は営業収入2182億2000万円に対し営業損益が20億8000万円の赤字[71]、1954年度も35億9000万円の赤字だった[72]。1949年9月に第2代総裁となった加賀山之雄氏、1951年8月に第3代総裁となった長崎惣之助氏[73]に続き、1955年5月には十河信二氏が第4代総裁に就いた[74]。
1957年、東海道本線の東京・新橋間には片道210本の列車が走った[75]。列車回数は1954年から1955年にかけて戦前の最高水準を超え[76]、複線鉄道で片道200本を超える本数は限界点に近く[77]、これ以上の増発は難しかった。東海道本線の営業キロは590kmで全営業キロの約3%[78]にすぎなかったが、旅客輸送量は全国鉄の約25%、貨物輸送量は24%に達し[79]、その増加率は全国鉄の平均を年々上回った。沿線には全国土の約16%の面積に全人口の43%が集まり[80]、工業生産額と国民所得は全国の約70%を占めた。日本国有鉄道は1956年に東海道本線の全線電化を終え[81]、1958年11月から東京・大阪間を日帰りできる特急電車『こだま号』[82]を走らせたが、線路の容量そのものは変わらなかった。
第二次大戦中の東京・下関間広軌別線建設計画は、国際標準軌間を採り[83]、東京・大阪間を約4時間半で結ぶ構想[84]だった。工事は1943年から1944年にかけて中止となり、用地の約25%[85]と、ある程度掘り進んだ長大トンネルが残った。日本国有鉄道は1956年5月、本社に東海道線増強調査会を設け、技師長を会長として[86]全社で増強策の検討に入った。案は狭軌併設、狭軌別線、広軌10駅、広軌23駅、広軌電鉄の5案[87]に絞られたが、いずれも1000億円を超える投資を必要とした[88]。1957年5月25日、鉄道技術研究所は創立50周年を記念して東京銀座の山葉ホール[89]で公開講演会を開き、東京・大阪間を最高時速250kmの電車により3時間で結ぶ可能性[90]を紹介した。
十河信二総裁は講演会の後に国鉄内部の意見をまとめ、1957年7月2日、運輸省大臣の宮沢胤勇氏へ[91]東海道本線の増強について配慮を求めた。7月29日には本社に幹線調査室を置き、大石重成氏を室長[92]とした。政府は8月30日、閣議決定に基づいて運輸省に日本国有鉄道幹線調査会を設け[93]、会長に大蔵公望氏、委員35人を任命[94]した。十河信二総裁は第1回調査会の席上、戦前に始まった広軌新幹線を下回る輸送力増強計画[95]では間に合わないと述べ、広軌別線案を暗に主張した。調査会では、新幹線方式は過剰投資であるうえむだな投資[96]であり、航空機と競争する高速の別線より混雑緩和へ資金を向けるべきだという議論も出た。計画を戦艦大和・武蔵や万里の長城と並べ『世界の三馬鹿』と嘲笑する者[97]もあり、ジャーナリズムは興味本位に採り上げた。
日本国有鉄道幹線調査会は1958年7月7日、所要資金と利子の合計を1948億円と見積もり[98]、国内で調達でき運賃の引上げも要らないとする答申書を提出した。1959年3月31日には第31回国会が東海道幹線増設費を承認[99]し、4月20日に新丹那トンネル東口で起工式[100]を行った。当初予算は用地費146億円と路盤工事費1073億円などを積んだ1725億円[101]で、利子と債務取扱諸費247億円を加えて1972億円[102]とした。これを自己資金でまかなうことはできず、開業後の経営を考えて年5.75%の低利による世界銀行の借款[103]を選び、名神高速道路の建設費で借款が実現していた[104]ことから成立の見込みを立てた。1961年5月2日、十河信二総裁とブラック世界銀行総裁が8000万ドルの借款契約書に署名[105]し、同時に交わした覚書によって日本政府は国際的に新幹線の完成を義務づけられた[106]。
工事費の不足は1959年末に明らかになったが、交渉中の世界銀行に対する信用問題[107]もあり、総額予算を据え置いたまま1960年度の契約を進めた。不足額は1961年4月に864億円、12月には1218億円[108]へ膨らんだ。借款に調印した1961年5月、日本側は世界銀行へ総額2926億円の増額改訂を説明し、うち直接工事費の増加分は802億円[109]だった。理由は物価の騰貴と設計協議による計画変更[110]である。1962年5月の三河島事故を機に、他の線区の改良を後回しに[111]して東海道線を改良するのは利用者の利益を無視するという非難が強まり、増額はかえって工事への反対を強めるという判断から、1962年度補正と1963年度予算は2926億円のわくを動かさずに要求[112]した。工事は全体の工期を決める長大トンネルから始め、切取と盛土の延長は274km、土工量は3500万立方m[113]に達した。工事では211人が殉職した[114]。
1962年10月27日にモデル線で時速200kmの走行試験に成功[115]し、1963年3月30日には256kmを記録[116]した。愛称は公募で55万8882通が集まり、『ひかり』と『こだま』が選ばれた[117]。十河信二総裁は1963年5月に退き、開業を迎えたのは第5代総裁の石田禮助氏[118]だった。1964年9月17日、工事監査報告書は10月1日の使用開始に差し支えない[119]と認めた。10月1日、東京・新大阪間515kmで営業を開始[120]し、東京と新大阪の各始発列車はいずれも定時に終着駅へ着いた。1日60本、超特急『ひかり』が4時間、特急『こだま』が5時間[121]で、輸送力はそれまでの特急・急行の約3〜4倍だった。開業当初に1日約6万人だった輸送人員は1965年度に約8万5000人[122]となり、新幹線の収支は1965年度の128億円の赤字から1966年度に164億円の黒字[123]へ転じた。
日本国有鉄道は1957年度から、老朽設備の取り替えを主眼とする第1次5か年計画[124]を進め、1961年度に第2次5か年計画へ移した[125]。1961年8月には新5か年計画に伴う合理化計画の大綱を発表[126]し、1965年度までに車両の検修や施設の保安改善を合理化して約3万人の要員[127]を生み出し、配置転換と新規採用の手控えで全体の要員を45万人以下[128]に抑えるとした。国鉄労働組合と国鉄動力車労働組合は同じ1961年の定期大会で、要員削減と労働強化にあくまで反対[129]し、9月中旬以降に反復ストライキを実施することを両組合で決めた。争点は工場合理化、船舶合理化、検修合理化で、戦術には2割減車闘争[130]、順法闘争、業務切捨闘争を挙げた。
争議はすでに激しさを増していた。1957年3月23日の抜き打ちストでは旅客611本と貨物229本[131]が運休し、激昂した旅客による職員の殴打や、電車・駅舎の窓ガラスの破壊[132]が各所で起きた。国鉄は5月9日、国労の小柳委員長ら19人と機労の黒川委員長ら4人を解雇[133]した。7月10日から16日には国労新潟地方本部が本部指令を無視して争議[134]に入り、勤務者を実力で連行して駅長をつるし上げ、15日と16日は管内の全貨物列車が運休[135]した。組合の分裂を機に新組合の結成が相次ぎ、1962年12月の新国鉄労働組合連合を経て、1968年10月に鉄道労働組合が発足[136]した。1962年5月の三河島事故を調べた国鉄監査委員会の特別監査報告は、事故防止に必要な考査や訓練、審査、競技会が数次の拒否闘争の結果として順次廃止または簡略[137]されてきたと指摘した。
自動車と航空機の伸びは同時に進んだ。自動車保有台数は1955年の80万台から1965年に420万台[138]へ増え、貨物輸送量をトンキロで比べた鉄道対自動車の比は1958年の3対1から1964年に1.3対1[139]へ、旅客の人キロも4対1から2対1へ縮んだ[140]。1955年度から1965年度までの旅客輸送の年平均伸び率は、定期航空29.5%、乗用車25.5%、バス13.1%に対し国鉄は6.6%[141]だった。1963年5月10日、原安三郎氏を委員長とする国鉄諮問委員会[142]は答申書『国鉄経営の在り方について』[引用元]を提出[143]し、1970年に年収8189億円の企業となっても[144]営業経費と借入金の利子を払えば72億円しか残らない[145]と試算して、これを経営の完全な破綻とした。国鉄の1963年度は営業収入5687億円、営業損益543億円、純損益574億円[146]だった。
1957年度以降かろうじて黒字を保っていた国鉄の決算は、1964年度に300億円の純損失へ転じた[147]。営業損益も前年度の543億円の黒字から323億円の赤字へ落ちた[148]。東海道新幹線が開業したのは1964年10月1日[149]で、赤字転落と同じ年度にあたる。ただし新幹線自体は1966年度に164億円の黒字へ転じ、1970年度には1174億円の利益[150]を出した。赤字は1965年度1230億円、1966年度601億円、1967年度941億円[151]と続き、1967年度末には1477億円の欠損を翌年度へ繰り越した[152]。4年連続の赤字によって、1963年度に1595億円あった繰越利益金は消えた[153]。独立採算制のもとでの経営は、1966年度の時点ですでに限界に達していた[154]。1968年度の繰越欠損金は2821億円へ膨らみ[155]、1969年度には償却前赤字を生じた。
1955年度から1965年度に国内の総貨物輸送量は1046億トンキロ増えたが、鉄道が取ったのはその13.5%にあたる141億トンキロ[156]にすぎず、内航海運が49.3%、自動車が37.2%を占めた[157]。国鉄のトンキロシェアは1955年度の52.0%から1967年度の28.1%へ落ち、自動車は11.1%から33.2%へ上がった[158]。1966年度には国鉄の559億トンキロに対し自動車が649億トンキロを運び[159]、順位が入れ替わった。旅客のシェアも1967年度は41.7%で、1955年度から13.3%分を自動車輸送[160]に譲った。自動車の進出を支えたのは国鉄投資を上回る道路整備で、設備投資額を1965年度の100で比べると1973年度は国鉄271に対し道路391、港湾422となる[161]。
外部資金調達額は1955年度の243億円から1967年度3634億円へ増え[162]、長期債務残高は1967年度に1兆6000億円へ達した[163]。利子および債務取扱諸費は1960年度の240億円から1965年度に1012億円へ4.2倍となった[164]。人件費も1960年度の1863億円から1967年度3849億円[165]へ倍増した。1966年3月に旅客31.2%・貨物12.3%の運賃改訂を実施しても、8239億円と見込んだ運輸収入は7684億円[166]にとどまった。1967年度の監査報告書は、収支が均衡しない企業内外の要因として現行運賃制度、各種の公共負担、ローカル赤字線の経営など8項目を挙げた[167]。公共企業体の発足から1967年度までの運賃上の公共負担は9002億円にのぼり[168]、営業キロでA線区に並ぶB・C線区は旅客の10%しか運ばないままA線区の利益の約3倍の損失を出していたが、地元の執着から廃止は進まなかった[169]。
1955年度から1967年度にかけて、職員1人当りの輸送人キロは20万5000人キロから40万1000人キロへ96%伸びた[170]が、職員総数は44万6000人から45万8000人へ増えた[171]。1967年3月31日、国鉄当局は機械化・近代化の計画を各労働組合[172]へ示した。5万人合理化計画と呼ばれたこの案の焦点は、電気機関車とディーゼル機関車を機関士1人で運転させること[173]にあった。対象の機関助士は約7500人で、当局は原則として機関士・運転士へ昇格させるとし、解雇ではなく配置転換だと説[174]明した。組合側はスピードアップと過密ダイヤで乗務員の疲労が増しており、事故を防いでいるのは2人乗務だと反[175]論した。交渉は国労22回、動労25回、新国労19回の合計66回に及び、当局は1968年4月の実施を延期し、6月も見[176]送った。
1968年には国労が第1次から第4次まで、動労が第1次から第7次まで闘争を組み[177]、9月12日と20日の2波ではATSの警報が出るたびに停止ブレーキを扱うATS闘争を採った[178]。当局が1968年10月18日に設けた調査委員会は大島正光東京大学教授を委員長とし[179]、1969年4月9日の報告書で、諸外国の例からみて1人乗務の客観的条件は熟していると結論づけた[180]。当局が5月12日に1人乗務の全体計画を示すと、動労は組織の命運をかけて絶対反対の態度をとり、27日からサボタージュに入り[181]、30日には全国53か所で約12時間の違法ストを打った[182]。決着は1969年10月30日から11月1日にかけての3日間の徹夜交渉[183]でついた。
1969年5月に就任した磯崎叡総裁[184]は、日本生産性本部への委託と中央鉄道学園での教育によって生産性向上運動を始め、1970年4月から全国で実施した[185]。当局発表では1970年度に延べ約30万人が受講し、当時の職員総数の65%にあたる[186]。国労と動労から脱退が相次ぎ、鉄労は7万人から11万人へ増えた[187]。国労は1971年8月の函館大会までの約1年で組合員が約2万5000人減った[188]と記録した。現場では職制が脱退を求め、水戸の現場長会議では能力開発課長が証拠を残すなと述べた[189]。1971年10月8日、公労委は静岡地本関係の5件について不当労働行為を認めて救済命令を出し、当局は11日に受諾[190]、磯崎叡総裁は同日国会で陳謝した[191]。当局は23日に陳謝文を組合へ持参して訓告2件・厳重注意16件の処分と真鍋職員局長の更迭を発表し、29日に生産性教育を延[192]期した。
1968年11月の国鉄財政再建推進会議の意見書を受け、政府は日本国有鉄道財政再建促進特別措置法案を1969年2月に国会へ提出し、5月9日に成立[193]させた。法は1978年度までに損益計算で利益が出る状態へ戻すことを目標とし、再建期間を1969年度から10年間と定めた[194]。9月12日の閣議決定は再建期間中の設備投資を3兆7000億円とし[195]、1970年2月19日に承認された計画は駅の約4割で業務の委託や集約を行い、約6万人の要員を減らすとした[196]。給与ベースの上昇率は計画8.5%に対し1970年度15.0%・1971年度14.0%となり[197]、1971年度末には864億円を超える償却前赤字が避けられないと見込まれた。計画は2年目で挫折した[198]。その一方で1970年5月13日に全国新幹線鉄道整備法が成立し、1971年4月1日には東北・上越・成田の3線の整備計画が決まった[199]。
生産性向上運動の中断後、国労と動労はスト権奪還とマル生反対を掲げ、1972年から1973年にかけて順法闘争を繰り返した[200]。スト権を持たない組合にとって、旅客が安全に乗り終えるまで発車合図を出さない順法闘争はストに代わる手段だった[201]。動労が1973年3月5日から10日にかけて行った第1波では、国鉄首都圏本部の集計で2274本が運休し、624万人が影響を受け、60人余の負傷者が出た[202]。3月13日の朝、上尾駅では遅延に激昂した乗客が騒ぎを起こし、高崎線と東北本線が止[203]まった。4月24日の順法闘争でも赤羽・上野・新宿の各駅で乗客が窓ガラスや券売機を壊し、26日から動労が72時間、27日から国労が加わるスト[204]へ入った。当局はこの年、1人平均8097円という異例の有額回答を出した[205]。
1975年11月26日から12月3日まで、公労協は8日間192時間にわたるスト権奪還スト[206]を行った。国鉄では旅客列車14万2502本と貨物列車4万1317本が運休し、影響人員は1億5090万人、減収額は旅客269億円・貨物68億円に達した[207]。12月1日には墨田区で中小企業主ら約300人が、2日には東京・東日本橋で14団体約1000人が中止を求める集会を開き、宇和島・八幡浜両市ではミカン農家がむしろ旗[208]を立てた。政府は12月1日、料金法定制度の改正を含む当事者能力の強化を検討するとした基本方針を閣議決[209]定した。藤井松太郎総裁は12月2日に記者会見[210]でスト中止を訴えた。公労協は12月3日正午、国民にこれ以上の負担はかけられないとして闘争の中断[211]を決めた。1973年度末には累積赤字が1兆5955億円となって自己資本を上回り[212]、1974年度の純損失は6508億円、売上高人件費比率は71.2%へ達していた[213]。
国鉄は1976年3月、一般勘定と区分して特別勘定を新設[214]し、赤字の一部を本体の損益から切り離した。1979年12月には『日本国有鉄道の再建について』が閣議了解[215]となり、1980年12月に日本国有鉄道経営再建促進特別措置法が成立[216]した。1976年度と1980年度の二回、累積欠損額に相当する5兆3千億円の長期債務が棚上げされ[217]、そのうえで『後のない計画』と呼ばれた経営改善計画が実施された。長期債務残高は1980年3月に10兆円を超えた[218]。1969年度以来、政府と国鉄は何度も経営再建対策を立案[219]してきたが、そのいずれもが中途で挫折した。
赤字は棚上げ後も膨らんだ。1975年度に9147億円だった純損失[220]は、1979年度に8218億円まで縮んだあと反転し、1980年度に1兆84億円[221]、1983年度に1兆6604億円へ達した[222]。1984年度の純損失1兆6504億円[223]は、特定退職手当・特定年金・東北上越新幹線資本費を除いた一般損失相当額でみると5768億円[224]になる。東北・上越新幹線の資本費負担を損益へ計上し始めたのは1982年11月[225]である。営業収入は1975年度の1兆8209億円から1984年度の3兆3898億円へ伸びた[226]が、営業損益の赤字は9235億円から1兆8193億円へ広がった[227]。
赤字の膨張には、借入金が利子を生み、その利子のためにまた赤字が増え[228]、さらに借入金に頼るという悪循環が働いていた。1963年に国鉄へ入社した葛西敬之氏[229]によれば、1960年代後半からの設備投資では、インフラ部分を利用者負担でまかなえなかった[230]。物価も運賃も抑えられていたため[231]、国鉄はこの投資を借入に頼った。返済計画として輸送量の増える10年計画を描いたものの、鉄道はすでに成熟産業で成長が鈍っていた[232]ため計画が狂ったというのが葛西氏の説明である。長期債務残高は1975年度末の6兆8000億円から、1985年度末には23兆6000億円[233]に達すると見込まれた。国庫助成は1985年度予算で6025億円[234]に上ったが、赤字額を償うには届かなかった。
国鉄が自ら立てた再建計画と運賃の大幅な値上げがことごとく失敗した[235]ため、再建の検討は国鉄の外へ移った。鈴木内閣は1981年3月に第二次臨時行政調査会を開き[236]、国鉄・コメ・健保の3Kを行政改革の課題に据えた[237]うえで、国鉄再建計画を臨調の手に委ねた。国鉄は当初臨調に非協力的だったが、国鉄内にも改革を望むグループ[238]があることが分かり、内情は次第に臨調へ伝わった。臨調は第四部会を設け、部会長には慶応大学教授の加藤寛氏が就いた[239]。第四部会は当初から国鉄の再建は分割・民営化しかないと考え、その報告をもとに臨調は1982年7月末に分割・民営化の基本答申を出した[240]。
自民党は1982年2月、党内に国鉄再建小委員会を設けた[241]。国鉄の改革派が運輸族の三塚博氏へ職場の荒廃を訴えたことが発端[242]で、この小委員会は三塚委員会と呼ばれた。三塚委員会は国鉄・組合・運輸省へのヒアリングにとどまらず、山梨県の甲府駅への抜き打ち視察や全国の現場管理者へのアンケート調査[243]を行い、分割・民営化論へ傾斜した。中曽根内閣は臨調の答申を受け、1983年6月10日に日本国有鉄道再建監理委員会を発足させた[244]。委員長には労務問題に精通した住友電気工業会長の亀井正夫氏[245]を据え、加藤氏らも委員に選ばれた。監理委員会は国鉄当局とことごとく対立した。1976年3月に大蔵公望事務次官から就任した高木文雄総裁[246]と、1983年12月に鉄道建設公団総裁から就いた仁杉巌総裁が、二代続けて更迭された[247]。
監理委員会は1985年7月26日、『国鉄改革に関する意見 — 鉄道の未来を拓くために —』[引用元]を内閣総理大臣に提出した。同委員会は、運賃や賃金が中央で画一的に決まって地域経済の実態に合わない[248]こと、全国一体の収支管理により地域や事業部門の間に依存関係が生じる[249]ことを挙げた。こうした問題は全国を事業区域とする巨大組織で事業運営が続く限り避けられず、公社制度を改めて民営化するだけでは解決され難い[250]と同委員会は述べた。1957年に本社から大幅な権限を委譲して発足した支社制度[251]も、運賃や労働条件の決定権が本社に残った結果、1970年に廃止された[252]。適正な事業単位へ分割すれば、電力会社や大手私鉄のように比較対象となる同種企業が並び[253]、相互に競争意識が働く。同委員会はそう論じたうえで、速やかに分割・民営化を断行するほか道はないと結論づけた[254]。
運輸省事務次官を務めた杉浦喬也氏が1985年6月、第10代総裁に就任[255]し、分割・民営化の陣頭指揮に立った。就任当時の国鉄内部は改革の意識が乏しく、大多数の職員が現状維持を望み[256]、分割・民営化に反対する労働組合が力を持っていた。杉浦喬也総裁は新聞・雑誌・社内機関誌など使える媒体を通じて[257]、分割・民営化の必要を国鉄の内外へ訴えた。自ら現場を歩いて職員と話し、職員の家族へは将来の生活を守ると書いた手紙を送った[258]。国鉄内部では現状維持派と改革派の確執が強まり、改革派が力を得て[259]現状維持派は追い込まれた。運輸省も分割・民営化への支持を公然と表明[260]した。
監理委員会は要員の見通しも示した。新規採用を原則として止め[261]、過去の退職実績から予測すると、1987年度首の在籍職員数は約27万6000人[262]になる。これに対し新事業体の適正要員規模は約18万3000人で、余剰人員は約9万3000人[263]に上る。同委員会は、公的部門の雇用慣行に照らして職員とその家族を路頭に迷わせてはならない[264]として、解雇によらない処理を求めた。移行前に2万人程度の希望退職を見込み[265]、移行時には旅客鉄道会社が鉄道旅客部門の適正要員の2割にあたる約3万2000人[266]を受け入れる。残る約4万1000人は特別対策対象者として[267]『旧国鉄』へ所属させ、雇用を継続して対策を講じる期間は3年を限度とした[268]。
1987年4月1日、日本国有鉄道はJR旅客6社とJR貨物へ移り[269]、38年の歴史を終えた。旅客は本州3社と北海道・四国・九州の3島会社に分け、貨物は全国1社[270]とした。旅客流動の域内完結度は本州3グループで98%、3島会社で95%から99%[271]に達する。処理すべき長期債務等は37兆3000億円[272]で、うち11兆4000億円を新事業体が負い、25兆9000億円を旧国鉄が処理する。非事業用用地2600ha程度の売却収入5兆8000億円[273]、株式売却収入6000億円、新幹線保有主体からの収入2兆8000億円を充てても、最終的に16兆7000億円が残る見込み[274]だった。国鉄清算事業団が引き継いだ債務は25兆5000億円[275]、発足時の再就職未定者は7628人[276]である。
| 時代 | 年月 | 総裁 | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1949〜1955年戦後の雇用の受け皿として60万人を抱えた鉄道が、公共企業体となり9万5018人を整理するまで | 日本国有鉄道法により運輸省から独立し公共企業体として発足 | ★★ | ||
| 行政機関職員定員法にもとづく9万5018人の人員整理 1949年、公共企業体として発足した直後の日本国有鉄道が、行政機関職員定員法にもとづき職員の約6分の1にあたる9万5018人を整理した判断。整理の規模も期限も法律が定めており、国鉄に残されたのは誰を残すかの選別であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 加賀山之雄 | 本庁組織を改正 | ★ | ||
| 加賀山之雄 | 地方組織を改正 | ★ | ||
| 長崎惣之助 | 組織を改正 | ★ | ||
| 長崎惣之助 | 資産再評価による減価償却費増で営業損失を計上 | ★★ | ||
| 1956〜1964年輸送力の限界を広軌別線で越えた十河信二総裁の拡大投資 | 十河信二 | 組織を改正 | ★ | |
| 十河信二 | わが国初のオンライン座席予約システムMARSを使用開始 | ★★ | ||
| 十河信二 | 運賃改訂と全面時刻改正で旅客・貨物列車を大幅増発 | ★★ | ||
| 十河信二 | 三河島事故後の労使一体による事故防止委員会の設置 1962年5月3日の三河島事故(死者160人・負傷者296人)を受け、日本国有鉄道が団体交渉とは別に労使一体で事故防止策を検討する委員会を5月23日に設置した経営判断。国鉄監査委員会の特別監査報告は、事故防止に必要な考査・訓練・審査が拒否闘争の結果として順次廃止あるいは簡略されてきたと指摘していた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 石田禮助 | 東海道新幹線の広軌別線建設と在来線改良案の不採用 1959年、日本国有鉄道が東海道本線の輸送の行きづまりに対し、在来線の改良ではなく標準軌の別線を新設する方式を採り、十河信二総裁と島秀雄技師長のもとで東海道新幹線の建設に着手した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 1965〜1975年輸送シェアを失い、運賃も要員も自力では動かせなくなるまで | 石田禮助 | 経費増が収入増を上回り事業純損失に転落 | ★★ | |
| 石田禮助 | 5万人合理化計画の提示と、電気機関車・ディーゼル機関車の1人乗務化 1967年3月31日、日本国有鉄道が第3次長期計画の機械化・近代化に伴う要員計画を各労働組合に提示し、最大の焦点となった電気機関車・ディーゼル機関車の1人乗務を、第三者委員会の答申を経て1969年11月に決着させた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 石田禮助 | 輸送需要によるA・B・C線区の3分類と、赤字ローカル線の廃止見送り 1967年度の『日本国有鉄道監査報告書』が、1966年度末の線区を輸送需要によりA・B・Cの3つに分け、B・C線区が合わせてA線区の利益の約3倍の損失を生じていることを示した。分類は赤字の所在を明らかにしたが、廃止・撤去には進まなかった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 磯崎叡 | 日本国有鉄道財政再建促進特別措置法に基づく10年計画の策定と、設備投資3兆7000億円・要員約6万人縮減の実施 1969年、日本国有鉄道財政再建促進特別措置法に基づき、1978年度までに損益計算において利益が生ずる状態へ財政を戻すことを目標とする10年計画を策定した経営判断。設備投資3兆7000億円と約6万人の要員縮減を同じ計画に並べた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 磯崎叡 | 生産性向上運動の全国展開と、公労委による不当労働行為の認定を受けた中止 1970年、日本国有鉄道が財政再建の自助努力の柱として生産性教育を全国で始め、1年半後に公共企業体等労働委員会から不当労働行為と認定され、磯崎叡総裁が陳謝して中止した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 磯崎叡 | 国労・動労が19時間ストを実施し全国で約5000本が運休 | ★★ | ||
| 磯崎叡 | 公労委が生産性向上運動を不当労働行為と認定し国鉄は救済命令を受諾 | ★★ | ||
| 磯崎叡 | 長期債務残高が3兆円を突破 | ★★ | ||
| 磯崎叡 | 順法闘争への不満から高崎線上尾駅で暴動が発生 | ★★ | ||
| 藤井松太郎 | スト権奪還ストへの中止要請と、条件付きスト権付与論の表明 1975年11月26日から12月3日までの8日間192時間、公共企業体等労働組合協議会と国鉄労働組合・動力車労働組合がスト権奪還を掲げて全国の列車を止めた。争議権の可否を決めるのは国会と政府であり、日本国有鉄道の藤井松太郎総裁にできたのは、条件付き付与論の表明と中止の要請であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 1976〜1987年国鉄の手による再建が尽き、決定の場が第二臨調と再建監理委員会へ移って分割民営化に至るまで | 高木文雄 | 一般勘定と区分して特別勘定を新設 | ★★ | |
| 高木文雄 | 単年度純損失が9千億円台に到達 | ★★ | ||
| 高木文雄 | 「日本国有鉄道の再建について」を閣議了解 | ★★ | ||
| 高木文雄 | 長期債務残高が10兆円を突破 | ★★ | ||
| 高木文雄 | 日本国有鉄道経営再建促進特別措置法が成立 | ★★ | ||
| 高木文雄 | 国鉄内部の改革派の形成と、臨調・三塚委員会への情報提供 1982年2月に自民党が党内へ国鉄再建小委員会(三塚委員会)を設けた発端は、国鉄内部の改革派が運輸族の三塚博氏へ職場の荒廃を訴えたことにあった。経営計画室の主幹を務めた井手正敬氏・松田昌士氏・葛西敬之氏の3人は、第二次臨時行政調査会と再建監理委員会へ情報を出し、分割・民営化の理論構築を担った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 高木文雄 | 東北・上越新幹線の資本費負担を損益に計上開始 | ★★ | ||
| 仁杉巌 | 通信自由化に対応し日本テレコムを設立 | ★★ | ||
| 仁杉巌 | 旅客販売総合システムMARS 301の使用を開始 | ★★ | ||
| 仁杉巌 | 単年度純損失が1兆6504億円に拡大 | ★★ | ||
| 杉浦喬也 | 再建監理委員会が分割民営化を求める意見を提出 | ★★ | ||
| 分割・民営化の提言と、JR旅客6社・JR貨物1社への移行 1985年7月26日、日本国有鉄道再建監理委員会が国鉄改革に関する意見を内閣総理大臣へ提出し、旅客6分割と貨物全国1社への分割、および民営化を提言した。国鉄は1986年11月の関連法成立を経て、1987年4月1日にJR旅客6社とJR貨物へ移行した。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(日本国有鉄道)