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  "updated": "2026-09-01",
  "license": "© 2026 Yutaka Sugiura. All rights reserved.",
  "attribution": "The社史 (the-shashi.com) — https://the-shashi.com/tse/jnr/",
  "title": "日本国有鉄道の歴史概略",
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      "start_year": 1949,
      "end_year": 1955,
      "main_title": "戦後の雇用の受け皿として60万人を抱えた鉄道が、公共企業体となり9万5018人を整理するまで",
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        {
          "title": "総司令部の要求による公共企業体への改組と、独立採算制・運賃法定制",
          "text": "1949年6月1日、国有鉄道は日本国有鉄道の名称で公共企業体として改組し、76年続いた国営の幕を閉じて政府の行政機関から切り離された。改組を要した第1の条件は連合軍による占領である。国有鉄道は課ひとつの改廃も定員の異動も、総司令部と逐一打ち合わせて指令・勧告を仰がなければ実行できない状態に置かれていた。運輸省の内部にも事情があり、鉄道総局が膨大な現業機関を抱えるのに対し海運総局は純然たる監督機関にとどまるため、鉄道現業部門を運輸省から切り離すべきだという議論が省内の大勢を占めていた。公共企業体という構想も、日本政府が独自に発想したものではない。総司令部から『Public corporation』の機構を内示された政府は、アメリカ合衆国の同種の企業体についてまず初歩から調査した。\n\n1948年7月22日、マッカーサー元帥は内閣総理大臣芦田均氏に書簡を送り、国家公務員の争議その他国務を渋滞させるいっさいの行為を禁止するよう勧告するとともに、国有鉄道や専売事業について公共企業体を組織すべきことに言及した。書簡を受けて国家公務員法が改正され、国家公務員は争議権も団体交渉権も失った。国有鉄道の職員は国家権力の行使ではなく企業の運営に従事するにすぎず、公務員より緩和された労働権を与えるほうが企業運営上好ましい。この理由づけが組織変更の趣旨とされた。運輸省が1948年7月29日に作った機構改革案3案のうち、政府は鉄道総庁案と国有鉄道庁案を実現可能とみた。総司令部民間運輸局は、公共性と企業性の実現には公社とする第3案によるべきだと譲らなかった。日本国有鉄道法案は同年11月11日に第3回国会へ提出され、11月30日に無修正で可決、12月20日に法律第256号として公布された。\n\n日本国有鉄道法の施行は当初1949年4月1日を予定していたが、運輸省設置法の施行が6月1日へ延期されたため同じ日にそろえられた。日本国有鉄道は発足と同時に、経済安定9原則によって均衡予算を厳守することを第1の命題とされた。1949年度は貨物運賃を据え置き旅客運賃を6割値上げすることを条件に、収支の均衡をはかることが求められた。運賃の決め方にも制約がかかった。財政法第3条が国の独占事業の料金を法律または国会の議決で定めると規定したのは、新憲法の理念によるものとして総司令部が強く要求した結果である。1948年4月14日の法律第27号『財政法第3条の特例に関する法律』は、国会の議決を要するものに煙草の定価・郵便電信料金と並んで鉄道運賃の賃率を含めた。独立採算制を採ったことで復興のための投資規模は必要な水準に届かず、のちに至るまで大きな禍根を残した。",
          "references": [
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              "title": "日本国有鉄道百年史 第12巻（日本国有鉄道、1973年）",
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        {
          "title": "定員法による9万5018人の整理と、下山・三鷹・松川の三事件",
          "text": "終戦直後の国有鉄道は事業官庁として多くの職種を持ち、復員・引揚の軍人や政府関係職員を受け入れる組織として着目されたため、積極的な人員受け入れを迫られた。食糧増産、運輸建設本部・軍管理工場・軍病院の引受け、炭坑の経営、教習所の拡充、公安員の設置、列車の増発を相次いで計画したのもその現われである。ただし人の多い割にサービスは向上せず、営業でも運転でも事故が減らないという非難が絶えなかった。1949年3月末の職員数は60万4243人に達し、1948年度は一般会計からの300億円の繰入金でかろうじて収支のバランスを保った。1949年5月31日に成立した行政機関職員定員法は附則第7項で、職員数を同年10月1日に506,734名以下とするため9月30日までに逐次整理すると定めた。\n\n定員は機械的な天引削減ではなく、最も能率的とみられた1939年度の労働生産性を基準に1950年度の業務量から算定し、労働基準法の施行による労働条件の変化を加味して決めた。整理の基準は人格・知識、肉体的適応性、業務に対する熟練と協力といった資格要件の優劣に置き、差を認めがたい者の間では国有鉄道での勤務の長さによるとした。同法附則第9項は、公共企業体労働関係法第8条第2項が定める団体交渉の範囲の規定の適用を排除した。国鉄労働組合が申し立てた仮処分を、東京地方裁判所は1949年8月8日に却下した。整理は7月1日に運輸省大臣出席のもとで基準を通告してから、7月4日の第1次通告、7月14日の第2次通告を経て、7月21日の広島鉄道局管内への通告で大筋を終えた。依願免1万2472人、免職8万141人、その他2405人の計9万5018人が職を離れた。\n\n第1次通告の翌7月5日、下山定則総裁は日本橋三越へ立ち寄ったまま消息を絶ち、翌6日、常磐線北千住・綾瀬間で轢死体となって発見された。自殺説と他殺説が入り乱れ、原因は不明である。第2次通告の翌15日、中央本線三鷹駅構内で電車が暴走し、前部4両が駅前のアパートに突入し、旅客6人が死亡、19人が重軽傷を負った。8月17日、東北本線金谷川・松川間で上り第412列車が脱線転覆し、機関士と機関助士3人が死亡した。政府は事件のたびに共産党員や労働組合員が暴力革命の意図で起こしたものとして発表し、新聞やラジオもこれを大々的に伝えた。組合は不利な立場に追い込まれ、予測された地域闘争も組織的闘争も起きなかった。1950年11月10日、日本国有鉄道は共産主義者と同調者を排除する方針を組合へ示し、469人を追放した。1951年5月23・24日、京都で日本国有鉄道機関車労働組合が結成され、分裂が確定した。",
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              "speaker": "東京地方裁判所",
              "role": "国鉄労働組合の仮処分申請に対する決定",
              "date": "1949-08-08",
              "text": "要整理人員が10万人になんなんとする国鉄と雖も単に降免職の基準に関する点のみならば、当事者双方が誠意を尽してこれに当れば、その妥結点を見出すにさして多くの困難を要するものと思われない。\nしかしながら今次整理は周知のごとくいわばドッジラインに沿うて行われたものであり……昭和24年度既定予算は一応不動のものとされ、その一端を動かすことはひいては予算全体の均衡を破るものといわなければならない。\nされば、政府がかかる観点から、国鉄予算についてもこれを動かしえないものとして、ドッジプランの急速実現のため国鉄職員の団体交渉権を奪って整理を命じたとしても、これを以って憲法違反と速断するわけにはいかない。……それは公共の福祉のために止むを得ない措置と考えられるからである。",
              "source": "日本国有鉄道百年史 第12巻（日本国有鉄道、1973年）",
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          "title": "占領下で削られた電化計画と、朝鮮戦争の特需輸送",
          "text": "1948年に立てられた幹線電化中心の5か年計画に対し、総司令部民間運輸局は、着工済みの奥羽本線福島・米沢間と東海道本線沼津・浜松間についても工事の中止を求めた。日本国有鉄道は石炭の消費節減と国内の経済復興に不可欠だと説いて継続の承認を得て、東海道本線は沼津・静岡間を1949年2月1日、静岡・浜松間を5月20日、奥羽本線福島・米沢間を4月24日に完成させ、これらの電化線区は予期以上の経済的効果をあげた。しかし他の工事は一つも起工できず、5か年計画の実現はほとんど不可能になった。車両の増備も総司令部の命令でほとんどが削られた。1949年9月15日のダイヤ改正では特急『平和』号が復活し、展望車1両を含む11両編成で東京・大阪間554kmを9時間で走り、平均速度61.5km/h、最高速度95km/hとほぼ戦前の水準に戻した。\n\n1950年6月25日に朝鮮戦争が始まると、日本は不可欠の兵站基地とされ、膨大な兵員と資材が送り込まれた。開戦の翌26日には弾薬輸送のため約40両の貨車が動員され、臨時貨物列車は26日1本、27日2本、28日6本、29日10本と急増した。7月1日から16日までに九州地区へ走った軍事輸送関係の臨時列車は209本・5111両に達し、一般の貨物輸送はその分だけ抑えられた。貨物の年間輸送量は1949年度の1億2430万トンから1950年度は1億2900万トンへ伸びており、この数字には連合軍の軍事輸送量が入っていない。1950年秋の在貨は150万トン、1951年2月も150万トンで、以後は200万トン前後で推移した。1951年度上半期の貨物輸送実績は1936年度比で約150%となり、同期の鉱工業生産指数113を上回った。\n\n1950年から1955年にかけて日本国有鉄道の貨物と旅客の輸送量はいずれも約2割増えたが、施設の増加はわずかにとどまった。輸送力が需要に追いつかない間に自家用トラックが増え、その輸送量の伸びは鉄道を上回った。当時の自動車保有台数は14万台にすぎない。道路の側では有料道路の制度が設けられ、揮発油税を道路整備の特定財源とする法律も制定された。日本国有鉄道の1952年度は営業収入2182億2000万円に対し営業損益が20億8000万円の赤字、1954年度も35億9000万円の赤字だった。1949年9月に第2代総裁となった加賀山之雄氏、1951年8月に第3代総裁となった長崎惣之助氏に続き、1955年5月には十河信二氏が第4代総裁に就いた。",
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      "start_year": 1956,
      "end_year": 1964,
      "main_title": "輸送力の限界を広軌別線で越えた十河信二総裁の拡大投資",
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        {
          "title": "東海道本線の輸送力の限界と広軌別線をめぐる論争",
          "text": "1957年、東海道本線の東京・新橋間には片道210本の列車が走った。列車回数は1954年から1955年にかけて戦前の最高水準を超え、複線鉄道で片道200本を超える本数は限界点に近く、これ以上の増発は難しかった。東海道本線の営業キロは590kmで全営業キロの約3%にすぎなかったが、旅客輸送量は全国鉄の約25%、貨物輸送量は24%に達し、その増加率は全国鉄の平均を年々上回った。沿線には全国土の約16%の面積に全人口の43%が集まり、工業生産額と国民所得は全国の約70%を占めた。日本国有鉄道は1956年に東海道本線の全線電化を終え、1958年11月から東京・大阪間を日帰りできる特急電車『こだま号』を走らせたが、線路の容量そのものは変わらなかった。\n\n第二次大戦中の東京・下関間広軌別線建設計画は、国際標準軌間を採り、東京・大阪間を約4時間半で結ぶ構想だった。工事は1943年から1944年にかけて中止となり、用地の約25%と、ある程度掘り進んだ長大トンネルが残った。日本国有鉄道は1956年5月、本社に東海道線増強調査会を設け、技師長を会長として全社で増強策の検討に入った。案は狭軌併設、狭軌別線、広軌10駅、広軌23駅、広軌電鉄の5案に絞られたが、いずれも1000億円を超える投資を必要とした。1957年5月25日、鉄道技術研究所は創立50周年を記念して東京銀座の山葉ホールで公開講演会を開き、東京・大阪間を最高時速250kmの電車により3時間で結ぶ可能性を紹介した。\n\n十河信二総裁は講演会の後に国鉄内部の意見をまとめ、1957年7月2日、運輸省大臣の宮沢胤勇氏へ東海道本線の増強について配慮を求めた。7月29日には本社に幹線調査室を置き、大石重成氏を室長とした。政府は8月30日、閣議決定に基づいて運輸省に日本国有鉄道幹線調査会を設け、会長に大蔵公望氏、委員35人を任命した。十河信二総裁は第1回調査会の席上、戦前に始まった広軌新幹線を下回る輸送力増強計画では間に合わないと述べ、広軌別線案を暗に主張した。調査会では、新幹線方式は過剰投資であるうえむだな投資であり、航空機と競争する高速の別線より混雑緩和へ資金を向けるべきだという議論も出た。計画を戦艦大和・武蔵や万里の長城と並べ『世界の三馬鹿』と嘲笑する者もあり、ジャーナリズムは興味本位に採り上げた。",
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              "speaker": "十河信二",
              "role": "日本国有鉄道総裁（第1回幹線調査会での発言）",
              "date": "1957",
              "text": "戦前にスタートした広軌新幹線を下回るような輸送力増強計画では間に合わぬではないかと考える。国鉄が本来の使命を遂行できるよう御援助願いたい",
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        {
          "title": "世界銀行の8000万ドル借款と1964年10月1日の開業",
          "text": "日本国有鉄道幹線調査会は1958年7月7日、所要資金と利子の合計を1948億円と見積もり、国内で調達でき運賃の引上げも要らないとする答申書を提出した。1959年3月31日には第31回国会が東海道幹線増設費を承認し、4月20日に新丹那トンネル東口で起工式を行った。当初予算は用地費146億円と路盤工事費1073億円などを積んだ1725億円で、利子と債務取扱諸費247億円を加えて1972億円とした。これを自己資金でまかなうことはできず、開業後の経営を考えて年5.75%の低利による世界銀行の借款を選び、名神高速道路の建設費で借款が実現していたことから成立の見込みを立てた。1961年5月2日、十河信二総裁とブラック世界銀行総裁が8000万ドルの借款契約書に署名し、同時に交わした覚書によって日本政府は国際的に新幹線の完成を義務づけられた。\n\n工事費の不足は1959年末に明らかになったが、交渉中の世界銀行に対する信用問題もあり、総額予算を据え置いたまま1960年度の契約を進めた。不足額は1961年4月に864億円、12月には1218億円へ膨らんだ。借款に調印した1961年5月、日本側は世界銀行へ総額2926億円の増額改訂を説明し、うち直接工事費の増加分は802億円だった。理由は物価の騰貴と設計協議による計画変更である。1962年5月の三河島事故を機に、他の線区の改良を後回しにして東海道線を改良するのは利用者の利益を無視するという非難が強まり、増額はかえって工事への反対を強めるという判断から、1962年度補正と1963年度予算は2926億円のわくを動かさずに要求した。工事は全体の工期を決める長大トンネルから始め、切取と盛土の延長は274km、土工量は3500万立方mに達した。工事では211人が殉職した。\n\n1962年10月27日にモデル線で時速200kmの走行試験に成功し、1963年3月30日には256kmを記録した。愛称は公募で55万8882通が集まり、『ひかり』と『こだま』が選ばれた。十河信二総裁は1963年5月に退き、開業を迎えたのは第5代総裁の石田禮助氏だった。1964年9月17日、工事監査報告書は10月1日の使用開始に差し支えないと認めた。10月1日、東京・新大阪間515kmで営業を開始し、東京と新大阪の各始発列車はいずれも定時に終着駅へ着いた。1日60本、超特急『ひかり』が4時間、特急『こだま』が5時間で、輸送力はそれまでの特急・急行の約3〜4倍だった。開業当初に1日約6万人だった輸送人員は1965年度に約8万5000人となり、新幹線の収支は1965年度の128億円の赤字から1966年度に164億円の黒字へ転じた。",
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              "text": "東海道本線(新幹線)東京・新大阪間の工事につき監査した結果10月1日使用開始してさしつかえないものと認めます",
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        {
          "title": "約3万人の要員削減計画と、貨物を奪い始めた自動車",
          "text": "日本国有鉄道は1957年度から、老朽設備の取り替えを主眼とする第1次5か年計画を進め、1961年度に第2次5か年計画へ移した。1961年8月には新5か年計画に伴う合理化計画の大綱を発表し、1965年度までに車両の検修や施設の保安改善を合理化して約3万人の要員を生み出し、配置転換と新規採用の手控えで全体の要員を45万人以下に抑えるとした。国鉄労働組合と国鉄動力車労働組合は同じ1961年の定期大会で、要員削減と労働強化にあくまで反対し、9月中旬以降に反復ストライキを実施することを両組合で決めた。争点は工場合理化、船舶合理化、検修合理化で、戦術には2割減車闘争、順法闘争、業務切捨闘争を挙げた。\n\n争議はすでに激しさを増していた。1957年3月23日の抜き打ちストでは旅客611本と貨物229本が運休し、激昂した旅客による職員の殴打や、電車・駅舎の窓ガラスの破壊が各所で起きた。国鉄は5月9日、国労の小柳委員長ら19人と機労の黒川委員長ら4人を解雇した。7月10日から16日には国労新潟地方本部が本部指令を無視して争議に入り、勤務者を実力で連行して駅長をつるし上げ、15日と16日は管内の全貨物列車が運休した。組合の分裂を機に新組合の結成が相次ぎ、1962年12月の新国鉄労働組合連合を経て、1968年10月に鉄道労働組合が発足した。1962年5月の三河島事故を調べた国鉄監査委員会の特別監査報告は、事故防止に必要な考査や訓練、審査、競技会が数次の拒否闘争の結果として順次廃止または簡略されてきたと指摘した。\n\n自動車と航空機の伸びは同時に進んだ。自動車保有台数は1955年の80万台から1965年に420万台へ増え、貨物輸送量をトンキロで比べた鉄道対自動車の比は1958年の3対1から1964年に1.3対1へ、旅客の人キロも4対1から2対1へ縮んだ。1955年度から1965年度までの旅客輸送の年平均伸び率は、定期航空29.5%、乗用車25.5%、バス13.1%に対し国鉄は6.6%だった。1963年5月10日、原安三郎氏を委員長とする国鉄諮問委員会は答申書『国鉄経営の在り方について』を提出し、1970年に年収8189億円の企業となっても営業経費と借入金の利子を払えば72億円しか残らないと試算して、これを経営の完全な破綻とした。国鉄の1963年度は営業収入5687億円、営業損益543億円、純損益574億円だった。",
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              "role": "委員長 原安三郎氏。答申書「国鉄経営の在り方について」",
              "date": "1963-05-10",
              "text": "これは経営の完全破綻以外の何ものでもない\n国鉄は公共性の名のもとに過大な公共負担を負わされ、反面では国会による運賃決定、財政における自主性の欠如などによって企業性をはばまれている",
              "source": "日本国有鉄道百年史 第12巻（日本国有鉄道、1973年）",
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      "main_title": "輸送シェアを失い、運賃も要員も自力では動かせなくなるまで",
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          "title": "1964年度の純損失転落と、自動車に逆転された貨物シェア",
          "text": "1957年度以降かろうじて黒字を保っていた国鉄の決算は、1964年度に300億円の純損失へ転じた。営業損益も前年度の543億円の黒字から323億円の赤字へ落ちた。東海道新幹線が開業したのは1964年10月1日で、赤字転落と同じ年度にあたる。ただし新幹線自体は1966年度に164億円の黒字へ転じ、1970年度には1174億円の利益を出した。赤字は1965年度1230億円、1966年度601億円、1967年度941億円と続き、1967年度末には1477億円の欠損を翌年度へ繰り越した。4年連続の赤字によって、1963年度に1595億円あった繰越利益金は消えた。独立採算制のもとでの経営は、1966年度の時点ですでに限界に達していた。1968年度の繰越欠損金は2821億円へ膨らみ、1969年度には償却前赤字を生じた。\n\n1955年度から1965年度に国内の総貨物輸送量は1046億トンキロ増えたが、鉄道が取ったのはその13.5%にあたる141億トンキロにすぎず、内航海運が49.3%、自動車が37.2%を占めた。国鉄のトンキロシェアは1955年度の52.0%から1967年度の28.1%へ落ち、自動車は11.1%から33.2%へ上がった。1966年度には国鉄の559億トンキロに対し自動車が649億トンキロを運び、順位が入れ替わった。旅客のシェアも1967年度は41.7%で、1955年度から13.3%分を自動車輸送に譲った。自動車の進出を支えたのは国鉄投資を上回る道路整備で、設備投資額を1965年度の100で比べると1973年度は国鉄271に対し道路391、港湾422となる。\n\n外部資金調達額は1955年度の243億円から1967年度3634億円へ増え、長期債務残高は1967年度に1兆6000億円へ達した。利子および債務取扱諸費は1960年度の240億円から1965年度に1012億円へ4.2倍となった。人件費も1960年度の1863億円から1967年度3849億円へ倍増した。1966年3月に旅客31.2%・貨物12.3%の運賃改訂を実施しても、8239億円と見込んだ運輸収入は7684億円にとどまった。1967年度の監査報告書は、収支が均衡しない企業内外の要因として現行運賃制度、各種の公共負担、ローカル赤字線の経営など8項目を挙げた。公共企業体の発足から1967年度までの運賃上の公共負担は9002億円にのぼり、営業キロでA線区に並ぶB・C線区は旅客の10%しか運ばないままA線区の利益の約3倍の損失を出していたが、地元の執着から廃止は進まなかった。",
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              "date": "1967",
              "text": "国鉄財政はいまや重大な段階に直面し、いわゆる独立採算制のもとにおける経営も限界に立ち至った",
              "source": "日本国有鉄道百年史 第12巻（日本国有鉄道、1973年）",
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        {
          "title": "機関助士廃止をめぐる66回の交渉と、公労委が認めた不当労働行為",
          "text": "1955年度から1967年度にかけて、職員1人当りの輸送人キロは20万5000人キロから40万1000人キロへ96%伸びたが、職員総数は44万6000人から45万8000人へ増えた。1967年3月31日、国鉄当局は機械化・近代化の計画を各労働組合へ示した。5万人合理化計画と呼ばれたこの案の焦点は、電気機関車とディーゼル機関車を機関士1人で運転させることにあった。対象の機関助士は約7500人で、当局は原則として機関士・運転士へ昇格させるとし、解雇ではなく配置転換だと説明した。組合側はスピードアップと過密ダイヤで乗務員の疲労が増しており、事故を防いでいるのは2人乗務だと反論した。交渉は国労22回、動労25回、新国労19回の合計66回に及び、当局は1968年4月の実施を延期し、6月も見送った。\n\n1968年には国労が第1次から第4次まで、動労が第1次から第7次まで闘争を組み、9月12日と20日の2波ではATSの警報が出るたびに停止ブレーキを扱うATS闘争を採った。当局が1968年10月18日に設けた調査委員会は大島正光東京大学教授を委員長とし、1969年4月9日の報告書で、諸外国の例からみて1人乗務の客観的条件は熟していると結論づけた。当局が5月12日に1人乗務の全体計画を示すと、動労は組織の命運をかけて絶対反対の態度をとり、27日からサボタージュに入り、30日には全国53か所で約12時間の違法ストを打った。決着は1969年10月30日から11月1日にかけての3日間の徹夜交渉でついた。\n\n1969年5月に就任した磯崎叡総裁は、日本生産性本部への委託と中央鉄道学園での教育によって生産性向上運動を始め、1970年4月から全国で実施した。当局発表では1970年度に延べ約30万人が受講し、当時の職員総数の65%にあたる。国労と動労から脱退が相次ぎ、鉄労は7万人から11万人へ増えた。国労は1971年8月の函館大会までの約1年で組合員が約2万5000人減ったと記録した。現場では職制が脱退を求め、水戸の現場長会議では能力開発課長が証拠を残すなと述べた。1971年10月8日、公労委は静岡地本関係の5件について不当労働行為を認めて救済命令を出し、当局は11日に受諾、磯崎叡総裁は同日国会で陳謝した。当局は23日に陳謝文を組合へ持参して訓告2件・厳重注意16件の処分と真鍋職員局長の更迭を発表し、29日に生産性教育を延期した。",
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              "role": "日本国有鉄道副総裁（1971年5月20日の団体交渉で）",
              "date": "1971-05-20",
              "text": "マル生は経営者の哲学である。組合にも哲学があるように当局にも哲学はあるのだ。したがってマル生は絶対にやめない。といって不当労働行為をする気もない",
              "source": "一人ひとりがつくる労働組合を：国鉄マル生と国労運動の発展（1971年）",
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              "role": "日本国有鉄道 能力開発課長（水戸の現場長会議で）",
              "date": "1971-10-08",
              "text": "不当労働行為はやってはならぬが、やむにやまれぬときもある。その場合証拠を残すな。テープをとられたらおしまい",
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              "date": "1971-10-11",
              "text": "不当労働行為は不徳のいたりで、きわめて遺憾",
              "source": "一人ひとりがつくる労働組合を：国鉄マル生と国労運動の発展（1971年）",
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        {
          "title": "上尾事件とスト権スト、そして挫折した第1次財政再建計画",
          "text": "1968年11月の国鉄財政再建推進会議の意見書を受け、政府は日本国有鉄道財政再建促進特別措置法案を1969年2月に国会へ提出し、5月9日に成立させた。法は1978年度までに損益計算で利益が出る状態へ戻すことを目標とし、再建期間を1969年度から10年間と定めた。9月12日の閣議決定は再建期間中の設備投資を3兆7000億円とし、1970年2月19日に承認された計画は駅の約4割で業務の委託や集約を行い、約6万人の要員を減らすとした。給与ベースの上昇率は計画8.5%に対し1970年度15.0%・1971年度14.0%となり、1971年度末には864億円を超える償却前赤字が避けられないと見込まれた。計画は2年目で挫折した。その一方で1970年5月13日に全国新幹線鉄道整備法が成立し、1971年4月1日には東北・上越・成田の3線の整備計画が決まった。\n\n生産性向上運動の中断後、国労と動労はスト権奪還とマル生反対を掲げ、1972年から1973年にかけて順法闘争を繰り返した。スト権を持たない組合にとって、旅客が安全に乗り終えるまで発車合図を出さない順法闘争はストに代わる手段だった。動労が1973年3月5日から10日にかけて行った第1波では、国鉄首都圏本部の集計で2274本が運休し、624万人が影響を受け、60人余の負傷者が出た。3月13日の朝、上尾駅では遅延に激昂した乗客が騒ぎを起こし、高崎線と東北本線が止まった。4月24日の順法闘争でも赤羽・上野・新宿の各駅で乗客が窓ガラスや券売機を壊し、26日から動労が72時間、27日から国労が加わるストへ入った。当局はこの年、1人平均8097円という異例の有額回答を出した。\n\n1975年11月26日から12月3日まで、公労協は8日間192時間にわたるスト権奪還ストを行った。国鉄では旅客列車14万2502本と貨物列車4万1317本が運休し、影響人員は1億5090万人、減収額は旅客269億円・貨物68億円に達した。12月1日には墨田区で中小企業主ら約300人が、2日には東京・東日本橋で14団体約1000人が中止を求める集会を開き、宇和島・八幡浜両市ではミカン農家がむしろ旗を立てた。政府は12月1日、料金法定制度の改正を含む当事者能力の強化を検討するとした基本方針を閣議決定した。藤井松太郎総裁は12月2日に記者会見でスト中止を訴えた。公労協は12月3日正午、国民にこれ以上の負担はかけられないとして闘争の中断を決めた。1973年度末には累積赤字が1兆5955億円となって自己資本を上回り、1974年度の純損失は6508億円、売上高人件費比率は71.2%へ達していた。",
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              "title": "日本国有鉄道百年史 第12巻（日本国有鉄道、1973年）",
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              "title": "日本国有鉄道監査報告書 昭和54年度",
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              "title": "日経ビジネス 1974年9月16日号",
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              "title": "一人ひとりがつくる労働組合を：国鉄マル生と国労運動の発展（1971年）",
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              "title": "日本国有鉄道労働運動史 資料 第31集（日本国有鉄道、1975年）",
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              "speaker": "朝日新聞",
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              "date": "1973-03-12",
              "text": "動労が今度の闘争で主張しているのは、無人踏切の全廃など運転保安の問題である。国鉄当局とは話合ってもラチがあかぬから実力行使、それもスト権がないから順法だという。\n国鉄当局は、そう言われても金がないとつぶやくだけで、公労委あっせん打切りのあとはなすすべもなく、ただ遅延電車の本数を計算して日を過ごしてきた。それを受けて立つべき国鉄当局は、事実上当事者能力を欠いている",
              "source": "日本国有鉄道百年史 第12巻（日本国有鉄道、1973年）",
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              "speaker": "三木武夫",
              "role": "内閣総理大臣（首相談話）",
              "date": "1975-11-26",
              "text": "現在の如き労使関係の悪循環は、どこかで断ち切らなければ、公共企業体の労使関係は泥沼から抜け出すことはできない。……これはまさに違法ストであり、しかも、国会でなすべき法律改正問題に圧力をかける政治ストなのである",
              "source": "日本国有鉄道労働運動史 資料 第31集（日本国有鉄道、1975年）",
              "paragraph": 3
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              "speaker": "朝日新聞",
              "role": "社説",
              "date": "1975-12-04",
              "text": "長い、長い8日間だった。みんなが本当にくたびれた。『スト権スト』は史上最大の争議となり、政治ストとしても画期的なものだった。……『筋書きのないドラマ』『出口なき闘争』の幕引き役は、結局国民世論の重みであった",
              "source": "日本国有鉄道労働運動史 資料 第31集（日本国有鉄道、1975年）",
              "paragraph": 3
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    {
      "start_year": 1976,
      "end_year": 1987,
      "main_title": "国鉄の手による再建が尽き、決定の場が第二臨調と再建監理委員会へ移って分割民営化に至るまで",
      "subsections": [
        {
          "title": "5兆3千億円の債務棚上げでも止まらなかった赤字の膨張",
          "text": "国鉄は1976年3月、一般勘定と区分して特別勘定を新設し、赤字の一部を本体の損益から切り離した。1979年12月には『日本国有鉄道の再建について』が閣議了解となり、1980年12月に日本国有鉄道経営再建促進特別措置法が成立した。1976年度と1980年度の二回、累積欠損額に相当する5兆3千億円の長期債務が棚上げされ、そのうえで『後のない計画』と呼ばれた経営改善計画が実施された。長期債務残高は1980年3月に10兆円を超えた。1969年度以来、政府と国鉄は何度も経営再建対策を立案してきたが、そのいずれもが中途で挫折した。\n\n赤字は棚上げ後も膨らんだ。1975年度に9147億円だった純損失は、1979年度に8218億円まで縮んだあと反転し、1980年度に1兆84億円、1983年度に1兆6604億円へ達した。1984年度の純損失1兆6504億円は、特定退職手当・特定年金・東北上越新幹線資本費を除いた一般損失相当額でみると5768億円になる。東北・上越新幹線の資本費負担を損益へ計上し始めたのは1982年11月である。営業収入は1975年度の1兆8209億円から1984年度の3兆3898億円へ伸びたが、営業損益の赤字は9235億円から1兆8193億円へ広がった。\n\n赤字の膨張には、借入金が利子を生み、その利子のためにまた赤字が増え、さらに借入金に頼るという悪循環が働いていた。1963年に国鉄へ入社した葛西敬之氏によれば、1960年代後半からの設備投資では、インフラ部分を利用者負担でまかなえなかった。物価も運賃も抑えられていたため、国鉄はこの投資を借入に頼った。返済計画として輸送量の増える10年計画を描いたものの、鉄道はすでに成熟産業で成長が鈍っていたため計画が狂ったというのが葛西氏の説明である。長期債務残高は1975年度末の6兆8000億円から、1985年度末には23兆6000億円に達すると見込まれた。国庫助成は1985年度予算で6025億円に上ったが、赤字額を償うには届かなかった。",
          "references": [
            {
              "title": "日本国有鉄道監査報告書 昭和59年度",
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              "title": "国鉄改革（日本国有鉄道再建監理委員会、1985年）",
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              "title": "日経ビジネス 1996年7月15日号",
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              "title": "日本産業史 第4巻 運輸・物流（日本経済新聞社、1994年）「運輸－四五・四七体制の終焉」",
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              "speaker": "葛西敬之",
              "role": "東海旅客鉄道（JR東海）社長",
              "date": "1996-07-15",
              "text": "国鉄の場合、昭和40年代に本格的な設備投資をしたのですが、インフラ投資の部分は利用者負担ではまかなえなかったのです。物価も抑制されて運賃も縛られていた。それで結局借金でやることになった。すると今度はそれを返す計画がなければいけない。そのために10年計画とかいう、輸送量の増える絵を描いたわけです。10年後には金利と共に回収できると考えて設備投資をした。ところが鉄道はその頃すでに成熟産業で、成長が鈍化していた。それを成長するような絵を描いたものだから、計画が全部狂って借金がどんどん増えた\nむしろ問題なのは、今処理しなければいけない問題を財政投融資という利子のつく金で先送りするというやり方ですね。国鉄が陥ったワナが、まさにそこにあったと思うんです",
              "source": "日経ビジネス 1996年7月15日号",
              "paragraph": 3
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        {
          "title": "第二臨調から再建監理委員会へ移った決定の場と、二代続いた総裁の更迭",
          "text": "国鉄が自ら立てた再建計画と運賃の大幅な値上げがことごとく失敗したため、再建の検討は国鉄の外へ移った。鈴木内閣は1981年3月に第二次臨時行政調査会を開き、国鉄・コメ・健保の3Kを行政改革の課題に据えたうえで、国鉄再建計画を臨調の手に委ねた。国鉄は当初臨調に非協力的だったが、国鉄内にも改革を望むグループがあることが分かり、内情は次第に臨調へ伝わった。臨調は第四部会を設け、部会長には慶応大学教授の加藤寛氏が就いた。第四部会は当初から国鉄の再建は分割・民営化しかないと考え、その報告をもとに臨調は1982年7月末に分割・民営化の基本答申を出した。\n\n自民党は1982年2月、党内に国鉄再建小委員会を設けた。国鉄の改革派が運輸族の三塚博氏へ職場の荒廃を訴えたことが発端で、この小委員会は三塚委員会と呼ばれた。三塚委員会は国鉄・組合・運輸省へのヒアリングにとどまらず、山梨県の甲府駅への抜き打ち視察や全国の現場管理者へのアンケート調査を行い、分割・民営化論へ傾斜した。中曽根内閣は臨調の答申を受け、1983年6月10日に日本国有鉄道再建監理委員会を発足させた。委員長には労務問題に精通した住友電気工業会長の亀井正夫氏を据え、加藤氏らも委員に選ばれた。監理委員会は国鉄当局とことごとく対立した。1976年3月に大蔵公望事務次官から就任した高木文雄総裁と、1983年12月に鉄道建設公団総裁から就いた仁杉巌総裁が、二代続けて更迭された。\n\n監理委員会は1985年7月26日、『国鉄改革に関する意見 — 鉄道の未来を拓くために —』を内閣総理大臣に提出した。同委員会は、運賃や賃金が中央で画一的に決まって地域経済の実態に合わないこと、全国一体の収支管理により地域や事業部門の間に依存関係が生じることを挙げた。こうした問題は全国を事業区域とする巨大組織で事業運営が続く限り避けられず、公社制度を改めて民営化するだけでは解決され難いと同委員会は述べた。1957年に本社から大幅な権限を委譲して発足した支社制度も、運賃や労働条件の決定権が本社に残った結果、1970年に廃止された。適正な事業単位へ分割すれば、電力会社や大手私鉄のように比較対象となる同種企業が並び、相互に競争意識が働く。同委員会はそう論じたうえで、速やかに分割・民営化を断行するほか道はないと結論づけた。",
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              "title": "日本国有鉄道監査報告書 昭和59年度",
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              "title": "国鉄改革（日本国有鉄道再建監理委員会、1985年）",
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              "title": "日経ビジネス 1996年7月15日号",
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              "speaker": "日本国有鉄道再建監理委員会",
              "role": "内閣総理大臣に提出した最終意見",
              "date": "1985-07-26",
              "text": "今回の意見において、危機的状況にある国鉄の事業を再生させ得る唯一の方策は、国鉄の現行経営形態を抜本的に改めて分割・民営化することであり、しかも直ちにこの改革を断行する必要があると提言しております\n以上のような全国一元的組織運営に伴う問題は、全国を事業区域とする巨大組織の下での事業運営が継続される限り、そのことに内在する問題として避けることのできないものであり、公社制度を改めて民営化するだけでは、依然として解決され難いものであることを認識する必要がある\n当委員会は、全国一元的組織の事業体である以上、いかなる徹底した分権化を図ろうとも、結局は運賃の決定権や賃金、労働時間等の労働条件の決定権、主要人事の任免権、基本的施設に関する投資の決定権など事業経営にとって最も重要な要素を本社に留保せざるを得なくなると考える",
              "source": "国鉄改革（日本国有鉄道再建監理委員会、1985年）",
              "paragraph": 3
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          ]
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        {
          "title": "杉浦喬也総裁の下で進んだ移行と、37兆円の債務を残した解散",
          "text": "運輸省事務次官を務めた杉浦喬也氏が1985年6月、第10代総裁に就任し、分割・民営化の陣頭指揮に立った。就任当時の国鉄内部は改革の意識が乏しく、大多数の職員が現状維持を望み、分割・民営化に反対する労働組合が力を持っていた。杉浦喬也総裁は新聞・雑誌・社内機関誌など使える媒体を通じて、分割・民営化の必要を国鉄の内外へ訴えた。自ら現場を歩いて職員と話し、職員の家族へは将来の生活を守ると書いた手紙を送った。国鉄内部では現状維持派と改革派の確執が強まり、改革派が力を得て現状維持派は追い込まれた。運輸省も分割・民営化への支持を公然と表明した。\n\n監理委員会は要員の見通しも示した。新規採用を原則として止め、過去の退職実績から予測すると、1987年度首の在籍職員数は約27万6000人になる。これに対し新事業体の適正要員規模は約18万3000人で、余剰人員は約9万3000人に上る。同委員会は、公的部門の雇用慣行に照らして職員とその家族を路頭に迷わせてはならないとして、解雇によらない処理を求めた。移行前に2万人程度の希望退職を見込み、移行時には旅客鉄道会社が鉄道旅客部門の適正要員の2割にあたる約3万2000人を受け入れる。残る約4万1000人は特別対策対象者として『旧国鉄』へ所属させ、雇用を継続して対策を講じる期間は3年を限度とした。\n\n1987年4月1日、日本国有鉄道はJR旅客6社とJR貨物へ移り、38年の歴史を終えた。旅客は本州3社と北海道・四国・九州の3島会社に分け、貨物は全国1社とした。旅客流動の域内完結度は本州3グループで98%、3島会社で95%から99%に達する。処理すべき長期債務等は37兆3000億円で、うち11兆4000億円を新事業体が負い、25兆9000億円を旧国鉄が処理する。非事業用用地2600ha程度の売却収入5兆8000億円、株式売却収入6000億円、新幹線保有主体からの収入2兆8000億円を充てても、最終的に16兆7000億円が残る見込みだった。国鉄清算事業団が引き継いだ債務は25兆5000億円、発足時の再就職未定者は7628人である。",
          "references": [
            {
              "title": "日本国有鉄道監査報告書 昭和59年度",
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              "title": "日経ビジネス 1996年7月15日号",
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            {
              "speaker": "杉浦喬也",
              "role": "元国鉄総裁・元国鉄清算事業団理事長、全日本空輸会長",
              "date": "1996-07-15",
              "text": "私が総裁に就任した当時の国鉄内部には改革の意識が乏しく、大多数の職員は現状維持を望んでいました。とりわけ労働組合の力が強く、分割・民営化に反対する勢力が幅をきかせていたのです\nさらに、私自身が現場を歩いて職員一人ひとりと話をしたり、職員の家族に『将来の生活は必ず守ります』と手紙を書いたりして、改革への理解を得ることに力を注いだのです",
              "source": "日経ビジネス 1996年7月15日号",
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            {
              "speaker": "杉浦喬也",
              "role": "日本国有鉄道総裁",
              "date": "1987-03-31",
              "text": "諸君は激動の中に身を置き、新しい鉄道をつくり上げたことに、誇りを持っていただきたい。新生鉄道の前途は決して平坦ではないが、改革に示した諸君の情熱と行動力をもってすれば、必ずや道は開ける",
              "source": "日経ビジネス 1996年7月15日号",
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      ]
    }
  ],
  "summary": {
    "title": "サマリー",
    "text": "",
    "description": "日本国有鉄道（国鉄）の歴史。1949年、運輸省から独立した公共企業体として発足し9万5018人を整理。東海道新幹線、三河島事故、スト権スト、1987年の分割民営化とJR7社への移行までの沿革と経緯を執筆。"
  },
  "overview": [
    {
      "label": "創業",
      "text": "1949年6月1日、運輸省鉄道総局の現業部門が切り離され、公共企業体の日本国有鉄道が発足した。1948年7月22日のマッカーサー書簡が国家公務員の争議を禁じたため、鉄道職員には公務員より緩和された労働権を与える形が選ばれた。同時に経済安定9原則にもとづく独立採算制と、運賃の賃率を国会の議決に委ねる財政法第3条の特例が課された。職員数は復員・引揚げの受け入れで1949年3月末に60万4243人へ膨らんでおり、発足の直後に[行政機関職員定員法にもとづき9万5018人を整理した](/tse/jnr/decisions/personnel-reduction-1949/)。団体交渉を経ないまま職員の6分の1が職場を離れる形で始まった。"
    },
    {
      "label": "決断",
      "text": "輸送量が増え続ける前提で借り、その前提が崩れても投資を止めなかった。1959年4月、十河信二総裁は在来線の改良案を採らず、[標準軌の別線として東海道新幹線を建設した](/tse/jnr/decisions/shinkansen-construction-1959/)。1964年10月に開業した新幹線は1970年度に1174億円の利益を出したが、国鉄全体は開業と同じ1964年度に300億円の純損失へ転じる。1968年には[線区をA・B・Cに分けて赤字の所在を示した](/tse/jnr/decisions/local-line-classification-1968/)ものの、地元の反対と別法にもとづく新線建設のために廃止は進まなかった。1969年5月の特別措置法にもとづく[設備投資3兆7000億円と要員約6万人の縮減を掲げた10年計画](/tse/jnr/decisions/financial-rehabilitation-1969/)も、輸送量の増加を前提に借入で設備を積み、給与の上昇と輸送の伸び悩みで2年目に挫折した。借入が利子を生み、その利子のためにまた借入が増える循環はここで固まった。"
    },
    {
      "label": "現況",
      "text": "決定の場が国鉄の外へ移った時点で、経営形態の結論は決まっていた。1981年3月に第二次臨時行政調査会が国鉄を行政改革の課題に据え、その第四部会は当初から分割・民営化しか道はないと考えていた。1982年2月には[国鉄内部の改革派が臨調と三塚委員会へ情報を提供し](/tse/jnr/decisions/reform-group-1982/)、職場の実情と理論が外部の委員会へ流れる。1985年7月26日、日本国有鉄道再建監理委員会は[JR旅客6社とJR貨物1社へ分割・民営化する案](/tse/jnr/decisions/division-privatization-1985/)を最終意見として示し、全国一元的組織である限り運賃も賃金も本社に留保せざるを得ないと論じた。1987年4月1日、国鉄は38年で消滅し、長期債務等37兆3000億円のうち25兆9000億円を旧国鉄が引き継いだ。自らの組織を解体する提言に、内部の改革派が材料を供給していた。"
    },
    {
      "label": "競合",
      "text": "輸送でシェアを失う速さより、運賃を上げられない年月のほうが長かった。貨物のトンキロシェアは1955年度の52.0%から1967年度の28.1%へ落ち、自動車は11.1%から33.2%へ上がった。1966年度には自動車の649億トンキロが国鉄の559億トンキロを上回る。設備投資額を1965年度の100として1973年度で比べると国鉄271に対し道路391・港湾422で、競争相手の路盤は国費で伸びていた。運賃は国会の議決事項で、1966年3月の改訂でも運輸収入は見込みに達しない。要員も動かせず、[電気機関車の1人乗務化を提示した5万人合理化計画](/tse/jnr/decisions/crew-reduction-1967/)は66回の交渉を要し、[生産性向上運動を全国へ広げた試み](/tse/jnr/decisions/productivity-movement-1970/)は不当労働行為の認定で中止した。競争条件を自ら決められない事業者が、決められる私鉄や自動車と同じ基準で採算を問われた。"
    }
  ],
  "profile": [
    {
      "key": "founding_business",
      "label": "祖業",
      "value": "全国の国有鉄道による旅客・貨物輸送"
    },
    {
      "key": "delisting",
      "label": "上場と廃止",
      "value": "上場なし（政府全額出資の公共企業体）",
      "note": "1949年6月発足、1987年にJR旅客6社・JR貨物と清算事業団へ分割"
    }
  ],
  "lineage": {
    "title": "工部省鉄道寮からJR7社まで",
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  },
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  "foundingChapters": 4,
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