日本国有鉄道スト権奪還ストへの中止要請と、条件付きスト権付与論の表明

争議権を決めるのは誰か——8日間輸送を止められた当局に、交渉の権限はあったか

時期 1975年11月
意思決定者(推定) 藤井松太郎 総裁
論点 労使関係と当事者能力
概要
1975年11月26日から12月3日までの8日間192時間、公共企業体等労働組合協議会と国鉄労働組合・動力車労働組合がスト権奪還を掲げて全国の列車を止めた。争議権の可否を決めるのは国会と政府であり、日本国有鉄道の藤井松太郎総裁にできたのは、条件付き付与論の表明と中止の要請であった。
背景
1948年のマッカーサー書簡に始まる争議権の禁止が27年続き、代償として置かれた仲裁裁定も当初の7年は完全実施されなかった。スト権を持たない組合は順法闘争を繰り返し、1973年3月には上尾事件が起きた。
内容
政府は11月25日に違法な政治ストとの統一見解を確認し、12月1日に労働基本権問題の基本方針を閣議決定した。国鉄当局の条件付き付与論は採られず、藤井総裁は12月2日夜に村上義光国労委員長・富田一朗動労委員長へ中止を要請した。
含意
旅客列車142,502本・貨物列車41,317本が運休し、影響人員は1億5,090万人に達した。収拾したのは労使交渉ではなく世論であり、政府は基本方針に当事者能力の強化を検討すると掲げた。
筆者の見解

決める相手が、交渉の席にいない

8日間192時間のストを打ったのは公労協と国労・動労であって、国鉄当局ではなかった。それでも輸送を止められ、旅客269億円・貨物68億円の減収を負い、1億5,090万人の足を奪った責めを問われたのは国鉄であった。争点であるスト権を決めるのは国会と政府で、条件付き付与という当局の意見は12月1日の閣議決定に採られなかった。藤井松太郎総裁に残されたのは、両委員長を呼んで中止を要請することだけであった。決定の権限だけが、よそにあった。

ただ、当局に決定権がなかったことは、輸送を止めた側の選択を不問にする理由にはならない。1973年の上尾事件も1975年の8日間も、止まったのは通勤客と貨物であって政府ではなく、幕を引いたのは交渉ではなく世論の重みであった。政府自身も、基本方針の第3項に当事者能力の強化の検討を書き込んでいる。決めさせてもらえない使用者と、決める相手に届かない手段しか持たない組合とが、同じ場所で27年間向き合っていた。誰と交渉すれば片がつくのかが定まらない紛争は、長引くとみることができる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

争議権を奪われた27年間

1948年7月22日、マッカーサー連合国軍最高司令官は芦田均首相あての書簡で、官公庁関係職員の団体交渉権と争議行為を禁じる法的措置を求めた。政府は7月31日に政令201号を公布して即日施行し、のちの公共企業体等労働関係法にも争議行為の禁止が引き継がれた。1949年に発足した日本国有鉄道の職員は、公共企業体の職員として初めから争議権を持たない労働者であった。1975年のスト権奪還闘争は、この27年間の蓄積を背負っていた[1]

争議権を禁じる代償として置かれたのが、公共企業体等労働委員会の仲裁裁定であった。ところが政府は、1949年の第1回裁定以来7年にわたり、予算上・資金上不可能という理由でこれを完全には実施しなかった。1957年以降は完全実施へ改まったものの、代償措置が空文であった年月は、実力で闘わなければ通らないという受け止めを組合側に残した。仲裁裁定の完全実施は、国鉄労働組合にとって長く悲願であり続けた[2][3]

順法闘争と、当事者能力を欠いた当局

スト権を持たない組合は、順法闘争をストに代わる手段として繰り返した。1973年3月5日から10日までの動力車労働組合の第1波では、2,274本の列車が運休して624万人の乗客が影響をこうむり、60人余の負傷者が出た。3月13日には高崎線上尾駅で列車遅延に激昂した乗客が騒動を起こし、高崎線に続いて東北本線も止まった。運転保安設備の要求は当局との交渉では動かず、スト権がないから順法闘争になるという循環がそこにあった[4]

1973年3月12日の朝日新聞社説は、この循環の当事者を三方から名指しした。組合が実力行使に出ても国鉄当局は金がないとつぶやくだけで、公労委のあっせん打切りののちはなすすべもなく、遅延電車の本数を数えて日を過ごしてきたとしたうえで、それを受けて立つべき国鉄当局は事実上当事者能力を欠いていると書いた。賃金も運賃も法と予算で決まる公共企業体にあって、交渉の相手方には譲る原資も譲らない権限も乏しかった[5]

決断

8日間192時間のスト

1975年11月22日、公共企業体等労働組合協議会は加盟9単産の名でスト突入指令を発した。要求は3つで、スト権保障の明確化、法制化への方法と期間の明示、それまでの間の処分凍結であった。国鉄労働組合と動力車労働組合は11月25日発の長距離列車から指名ストに入り、26日零時から統一ストへ移った。新幹線と国電は全面運休し、在来線も鉄道労働組合の勢力が強い仙台・新潟・金沢などの一部ローカル線を除いて、ほとんど全面停止となった[6][7]

政府はスト前日の11月25日、閣議と閣僚懇談会で、今回のストは明らかに違法な政治ストであるとの統一見解を確認した。26日の三木武夫首相の談話は、労使関係の悪循環をどこかで断ち切らなければ公共企業体の労使関係は抜け出せないとしたうえで、これは違法ストであり、国会でなすべき法律改正に圧力をかける政治ストであると述べた。政府は内閣に生活物資等確保緊急連絡本部を置き、11月30日から運送命令を発動して、12月4日までに1,399件を発動した[8][9]

当局にできたこと、できなかったこと

国鉄当局自身は、条件を付したうえでスト権を認めるべきだという立場を、すでに公にしていた。11月25日には国労・動労をはじめ各組合が総裁と会見し、条件付き付与を表明している当局として最善の努力を尽くすよう求めている。ところが12月1日、政府は「3公社5現業等の労働基本権問題に関する政府の基本方針について」を閣議決定し、法の遵守を前提に据えたうえで、争議権を認めるとは書かなかった。当局の条件付き付与論は、政府方針には採られなかった[10][11]

その基本方針の第3項は、3公社5現業等について、料金法定制度等の改正を含む当事者能力の強化の方途を検討する、と掲げた。使用者側に当事者能力がなければ労使紛争は解けないと、ストの渦中で政府が自ら認めた形であった。12月2日午後6時30分、藤井松太郎総裁は緊急記者会見でスト中止を訴え、同日午後9時すぎに村上義光国労委員長と富田一朗動労委員長を呼んで声明文を手渡し、中止を要請した。総裁に残された手立ては、要請であった[12][13]

結果

運休18万本と、世論による幕引き

運休は旅客列車142,502本、貨物列車41,317本に及んだ。旅客のうち国電が59,582本、在来線が69,344本で、在来線には特急・急行13,626本が含まれる。影響人員は1億5,090万人、減収額は旅客269億円・貨物68億円、貨物の減送は368万トンであった。11月28日付の朝日新聞は、国電が全面麻痺して56時間、新宿西口の地下通路には地下鉄を待つ大蛇のような通勤の列があり、人々は乗車率300%の地下鉄へ向かったと伝えている[14][15]

12月に入ると、抗議は住民の集会や商店の不売宣言、むしろ旗を立てたパレードへ移った。1日午後には墨田区の公園で中小企業主・商店主ら約300人が、2日午前には東京・東日本橋で繊維や卸の14団体約1,000人が中止を求める集会を開き、愛媛県の宇和島市・八幡浜市ではミカン農家がむしろ旗を立てた。公労協は3日正午の第5回緊急拡大共闘委員会で、政府見解は容認できないが国民にこれ以上の負担はかけられないとして、中断を満場一致で決めた[16][17]

縄をほどくか、浮いてみせるか

12月4日の朝日新聞社説は、スト権ストは史上最大の争議となり政治ストとしても画期的なものだったとしたうえで、筋書きのないドラマの幕引き役は結局のところ国民世論の重みであったと書いた。同日の東京新聞社説は、公労協が専門委員懇談会の結論に先立ってストを強行したことで政府・自民党を硬化させ、広範な住民層の反発を強めたと分析した。公労協自身は、27年間の代償として解雇者1,015名・被処分者105万名・救済資金250億円を挙げていた[18][19][20]

翌1976年の取材は、対立が労使の二者に収まっていない実態を伝えている。鉄道労働組合の坂東正一組合長は、前年のスト権ストで鉄労が北陸3県で電車を動かしたところ、経営者側から、そんなやっかいなことはせず君のところもストをやったらどうかと言われたと明かした。1976年3月に就いた高木文雄総裁は、いまの国鉄は労使ともども手足を縛られて水に放り込まれたようなものだとし、縄をほどいてくれと言う道と、縛られても浮けると国民に示してからほどいてもらう道しかないと語った[21][22]

出典・参考
  • 日本国有鉄道労働運動史 資料 第31集(日本国有鉄道、1975年)
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
  • 日経ビジネス 1976年4月12日号
  • 日経ビジネス 1976年2月16日号
  • 日本国有鉄道監査報告書 昭和54年度

この決断を下した社長 藤井松太郎

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