ミズノ闇取引の全面禁止と、軍需資材の転用による公定価格での事業再開
材料は闇にしかない——それでも公定価格の商いだけで会社を立て直せるか
- 概要
- 1945年8月15日に軍需生産を全面停止した美津濃が、1週間のうちに業務再開を決め、その際に水野利八社長が全社員へ闇商売への関与を禁じた経営判断。統制下の公定価格による商いだけで会社を立て直す方針を取り、資材は軍需品の転用許可と配給によって調達した。
- 背景
- グライダー製作の実績から軍需工場へ転換していた美津濃は、1945年5月に尼崎北工場を空襲で失い、8月15日に操業を止めた。業務を再開しても、グラブやミットの原料となる皮革が入手できない。資材は闇ルートにしか無い状態であった。
- 内容
- 闇取引を禁じたうえで、水野健次郎氏が上京して帆布・絹羽二重・台桧という軍需資材の転用許可を取得した。有償支給を受けた帆布10万6千ヤールでリュックサックを作り、公定価格で販売した。養老工場では鍋・釜・下駄などの生活用具を、配給の再生毛糸では硬式野球ボールを作った。
- 含意
- 闇に手を出さない選択は、材料を持つ同業に市場を明け渡すことでもあった。帆布のグラブが売上の7割を占め、美津濃は創業期を除いて業界首位でなかった唯一の時期を過ごす。一方、1946年に復活した中学野球では主催者から球の納入を依頼され、信用は残った。
売る物を持たない会社が守ったもの
闇に手を出せば材料も法外な利益も手に入る状況で、水野利八社長は闇で儲けるより築いてきた信用を落とす方が大損だと言い切った。ここで効いているのは道徳よりも値踏みで、美津濃という名前の値打ちを、目先の利益より高く見積もったとみることができる。ただし禁じるだけなら会社は止まる。同じ時期に水野健次郎氏が上京し、帆布10万6千ヤールの転用許可を取って、公定価格で売れるリュックサックを作った。禁止と代わりの調達を同時に置いたところに、この判断の実質があった。
代償ははっきりしている。皮革が闇を流れるあいだ、美津濃が売れたのは濃緑の帆布のグラブで、それが商品の7割を占め、月産は3千個にとどまった。創業期を除いて業界首位でなかった唯一の時期を、この方針は自ら作っている。賃上げの原資が乏しく交渉がいたちごっこになったのも、長男のための特配米を断られたのも、同じ選択の裏側であった。それでも中学野球が復活したとき、主催者が球を頼んだ先は美津濃であった。残っていたのは、その一点だったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
軍需工場になっていた美津濃
戦時下の数年間、美津濃はスポーツ用品の会社ではなかった。グライダーの製作で日本記録を出した実績から軍部に注目され、工場は飛行機のエンジン予熱用覆い、搭乗員待機用の大型テント、パラシュート、搭乗員の安全帯を作るようになった。1942年1月に社名を美津濃運動用品から美津濃株式会社へ改め、翌1943年3月には岐阜県養老郡に養老工場を建設する。総面積は約15万坪で、九六陸攻を将官用輸送機へ改造する作業と、大型兵員輸送用グライダーの製造にあたった[1][2][3]。
戦局の悪化とともに、生産の場そのものが失われた。1945年2月に東京支店、3月に本社の3階以上、5月に尼崎南と尼崎北の両工場、6月に大阪工場が焼けている。尼崎北工場長であった水野健次郎氏は、約80発の焼夷弾が降り注ぐなかで川から水を引いて放水し、全員にバケツリレーを命じた。それでも火勢は強く、灯火管制用の暗幕に燃え移ったところで手の施しようがなくなった。8月15日、軍需工場としての美津濃は操業を全面停止した[4][5][6]。
業務を再開しても、売る物がない
終戦の詔勅を聞いた夜、水野利八社長は自宅の書斎で涙を流した。国に報いる志を遂げられなかったというのが、その理由であった。ところが同じ人物が、一週間のうちに態勢を立て直して業務再開を決めている。外地や戦地から社員が引き揚げてくる以上、目標になる灯が要るというのが再開の理由であった。養老工場は8月21日、淀屋橋の本社は8月25日、バラック建ての共同建築に入っていた東京支店も11月には仕事を始めた[7][8]。
再開したところで、販売する物がなかった。グラブもミットも製造技術は世界的な水準にあったが、原料の皮革がまったく入手できない。政府が権力で押さえた統制価格は「まる公」と呼ばれ、値段だけがあって品物が無いことの別称になっていた。資材が無いという言い方は、正確ではない。あるところにはあり、それは闇ルートを通してしか手に入らなかった。闇に足を踏み入れさえすれば、材料も法外な利益も手に入る状況であった[9][10]。
決断
「闇商売には一切手を染めてはあきまへん」
水野利八社長は全社員を前にして、「闇商売には一切手を染めてはあきまへん」と宣言した。そのうえで、闇をせずに業務を行う道を全員で考えてみよ、と課題を投げた。設備も人材も残っており、闇ルートで材料を入れれば法外な利益を得ることは容易であった。それでも会社は配給物資だけで細々と生産を続け、右の手も左の手も空という開店休業の状態がしばらく続いた[11][12]。
戦前から取引のある小売店は、グラブ、ミット、バットを送れと矢のように催促した。品物がありさえすれば売れる時代である。それでも利八社長は動かず、闇で儲けるより築いてきた美津濃の信用を落とす方が大損だと応じて引き取らせた。同じ厳しさは身内にも向けられ、栄養失調気味の長男のために特配米を一升貸してほしいと頼んだ健次郎氏も、これは工場用だと断られている。配給物資だけで生産を続ける美津濃の姿は、商売仲間からは頑迷とさえ考えられていた[13][14][15]。
公定価格で売れる商品を作る
禁じただけでは商いにならない。水野健次郎氏は、軍需品の材料として工場に残っていた帆布、絹の羽二重、グライダーの主材である台桧に目を付けた。いずれも軍の所有物で、勝手に転用はできない。復員兵と買い出し客で超満員の列車に乗って上京し、監督官庁へ資材の払い下げと転用許可願いを出したところ、認可はただちに下りた。有償支給を受けた帆布は10万6千ヤールであった[16][17]。
この帆布で作ったのがリュックサックである。主食やサツマイモの買い出しに欠かせない必需品で、山岳用品で実績を積んでいた美津濃には作りやすく、公定価格で売り出すと飛ぶように売れた。養老工場では航空機部品の材料を応用して、鍋、釜、まな板、ちゃぶ台、子どもの下駄を作り、これも公定価格で販売した。配給の再生毛糸では硬式野球ボールを作っている。財閥解体で宙に浮いた三菱商事機械部の依頼を受け、美津濃産業機械を設立して工作機械も売った[18][19][20]。
結果
復活した大会と、帆布のグラブ
1946年夏、中学野球(現在の高校野球)が復活した。甲子園は米軍に接収されており、第28回大会は西宮球場で開かれている。グラブやミットはつぎはぎで足りても、ボールはそうはいかない。主催の朝日新聞社は美津濃へ球の納入を依頼したが、利八社長は機械巻きの練習球しかないと断った。品質の劣る球は市場に出さないというのが理由であった。折れたのは、佐伯氏らの努力が水の泡になると健次郎氏が告げてからで、条件は「投球練習専用ボール・打てばゆがむ」と表示することであった[21][22][23]。
大会を終えてみると、打てばゆがむと表示した球が最もゆがまず、最もよく飛んだと関係者が証言している。一方、市場での位置は逆に動いた。皮革が闇を通って各地へ流れるなかで、美津濃が作れたのは戦時中の迷彩カバー用だった濃緑の帆布のグラブで、これが売上の7割を占めた。それでも生産は1948年前後で月産3千個にとどまる。創業期を除けば、美津濃が業界首位でなかった唯一の時期であった[24][25][26]。
闇をしない会社の労使
闇を断つ方針は、労使交渉の席に直接はね返った。1946年5月に大阪工場、8月に養老工場、翌1947年1月に大阪本社で美津濃労働組合が結成される。悪性インフレのもとで団体交渉の主題は賃上げとなったが、闇商売をしていない会社に原資は乏しい。それでも物価の上昇率が激しく、組合の言い分を最大限のむほかなかった。満額回答をしても効果は長続きせず、交渉はいたちごっこになった[27][28]。
1948年の憲法記念日の就業をめぐって組合は手続きを踏まずにストへ入り、会社は一日分の賃金カットを通告した。組合は大阪地方労働委員会へ提訴し、判定は会社側の陳述を正当と認めた。争議のあと、健次郎氏は社員株主の実現に取り組む。額面50円の株が店頭気配で75円ほどという水準で、一人50株を持たせる資金をどう作るかが問題になった。団交を重ねて社員約400人をいったん全員退職の形式とし、勤続年数に応じた退職金を原資に株式を取得させ、全社員が株主となった[29][30]。