ミズノ関西学生連合野球大会の主催と、全国中等学校優勝野球大会への開催権の移譲

用具を売るのが先か、競技を広めるのが先か——洋品雑貨店が野球大会に投じた費用

時期 1913年8月
意思決定者(推定) 水野利八 美津濃商店 店主
論点 需要の創出と運動用具事業への進出
概要
大阪の洋品雑貨店であった美津濃商店が、1911年の大阪実業団野球大会に続いて1913年8月に関西学生連合野球大会を主催し、1915年には朝日新聞社の要請を受けて中等学校野球大会の開催権を手放した経営判断。店主の水野利八氏が主導し、運動用具を売る前に競技そのものを広げる道を選んだ。
背景
当時の日本ではボールもグラブも輸入品が中心で、国産の用具は材料から不足していた。美津濃商店は運動服装を軸にした洋品雑貨の店で、野球用品は美満津や山川から仕入れて店頭に並べる立場にあり、そもそも競技人口そのものが薄かった。
内容
1913年8月1日、箕面有馬電気軌道が開いたばかりの豊中グラウンドで関西学生連合野球大会を開催した。関西一円の25校が参加し、大阪商業が優勝している。その2年後の1915年、朝日新聞社の田村省三氏の申し出に対し、水野利八氏は即座に開催権を譲った。
含意
大会は費用がかさむわりに、宣伝としては割に合わなかった。それでも競技を先に広げ、その後で用具をつくる順序を通した結果、美津濃商店は1913年に初めての工場を持ち、1923年には研究改良費を理由に株式会社へ改組した。
筆者の見解

商品より先に、競技を置く

店頭の野球用品を売り尽くしても、洋品雑貨の売上高の1割に届かない。その規模の店が、宣伝効果のほとんど見込めない野球大会に金を投じ続けた。ボールもグラブも輸入品が中心で、革をなめす技術すら国内に揃っていなかった段階では、商品を磨いても買い手の数は増えない。水野利八氏はその薄さを競技人口の問題として読み、まず大会を開き、続けるあいだに用具をつくりはじめた。順序を逆に置いたことが、この判断の中身であるといえる。

ただ、競技を広げた見返りを美津濃が受け取れたわけではない。最も大きく育った中等学校野球大会は、1915年に開催権を譲った時点で美津濃の手を離れている。用具の側も、革も機械も職人も足りないところから始まり、研究改良に金を投じられる形を得るまでには1923年の株式会社改組を待たなければならなかった。取り分をあらかじめ手放してなお競技を広げた点に、この判断の性格が表れているとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

野球を知った番頭

水野利八氏は大垣で建築業を営む家に生まれ、9歳で父を失っている。家業が傾いたため小学校高等科一年で学業をやめ、大阪・道修町の薬種問屋へ丁稚奉公に出た。4年の修業を経て移った京都の織物問屋・小堀商店では、17歳で番頭格に抜擢されている。その商用で第三高等学校のグラウンドの近くを通りかかり、三高野球部と神戸の外国人クラブの試合を見物したことが、利八氏を野球に引き込んだ。日露戦争への従軍と除隊を経て、1906年4月1日、大阪市北区芝田町で水野兄弟商会を開いた[1][2]

開業した美津濃商店は、運動服装を中心にした洋品雑貨の店であった。野球用品は美満津や山川といった先発のメーカーから仕入れて店頭に並べており、自ら作ってはいない。利八氏は後年、日本の運動具はまだ幼稚で、そもそも材料に良いものがなく、アメリカからの輸入品が中心にならざるをえなかったと振り返っている。革をなめす技術も、球を巻く機械も国内には揃っていなかった。売る商品が輸入頼みであるうえに、その商品を使う人の数も限られていた[3][4]

実業団野球大会という先例

利八氏は用具の市場が育つのを待たず、競技の場をみずから用意した。日露戦争に従軍した際、戦友と野球の話をしたことを思い出し、1911年、商人のチームを集めた大阪実業団野球大会を美津濃商店の主催で開いた。個人商店が主催したスポーツ大会としては関西で初めての例とされ、この大会は春秋二季にわたって60回近く続いている。1911年8月末の第11期決算帳には「優勝旗」「試合預り金」といった項目が残された[5][6]

大会は費用がかさむわりに、宣伝としては割に合わなかった。社史は「野球大会は随分と金がかかった。しかもその宣伝効果は、現実にゼロに近い」と記している。店頭の野球用品を売り尽くしても洋品雑貨の売上高の1割に届かず、当時の売上高は4,700円あまりであった。売るべき商品を持たない段階で大会を開くことに、周囲は算盤の合う理由を見いだせなかった。それでも利八氏は「野球大会は、決して宣伝するために開いたんやありません」と後年語っている[7][8]

決断

学生野球大会の主催

実業団の次に利八氏が向かったのは、中等学校の野球であった。早稲田大学へ進んだ佐伯達夫氏ら野球人を世話役に立て、美津濃は1913年8月1日に関西学生連合野球大会を主催した。会場は箕面有馬電気軌道が開いたばかりの豊中グラウンドで、外野の柵は金属の棒に縄を通しただけという設備である。関西一円の25校が参加し、大阪商業が優勝した。前夜から蚊帳を吊って場所を取る観客が出るほどで、2,000人から3,000人が詰めかけたと伝えられる[9][10]

利八氏が大会に見ていたのは、目先の売上ではなかった。「これからは若さや、若い人の心をつかまなあかん」というのが口ぐせで、社史は、まず野球大会を開き、それを毎回続けるあいだに商品を作りはじめたと、順序が通常と逆であったことを記している。商品を揃えてから広告を打つのではなく、競技をする人を先に増やし、そのうえで用具をつくる道であった。のちに社長となる水野健次郎氏は、この大会を現在の高校野球大会の母胎であったと自伝に書いている[11][12]

開催権を手放す

大会が根づいた2年後の1915年、朝日新聞社が全国規模の中等学校野球大会を構想した。社会課でただ一人運動を担当していた田村省三氏が、利八氏にその話を持ちかけている。説得には時間がかかると身構えていた田村氏に対し、利八氏は「結構です、やってもろたら。朝日新聞でやってもらう方が、どれだけ野球のためになるかわかりまへん」と即答し、あっけにとられた田村氏を残して開催権を手放した。同年8月、第一回全国中等学校優勝野球大会が開かれている[13][14]

手放した理由を、社史は利八氏の当初からの見立てに帰している。中等学校の野球大会が関西の一民間企業の手で主催されていてよいとは考えておらず、全国組織を持つ事業体の後ろ盾を得て初めて正しい姿になると思い込んでいた。だれもそれをやらないから美津濃が先にやった、という順番である。主催者の名を残すより競技が全国へ広がることを選んだ判断で、美津濃は用具の供給者として大会に残った[15]

結果

競技の広がりと、用具メーカーへの移行

開催権を譲ったあとも利八氏は春の中学生野球大会を続け、これが1924年に第一回大会を開いた選抜中等学校野球大会の前身となった。競技の広がりと歩調を合わせるように、美津濃は用具の生産へ踏み込む。1913年には蜆橋へ移した本店の筋向いに初めての工場を開き、金沢から職人を呼び寄せてグラブの製造にあたらせた。1912年5月には東京・神田駿河台に東京支店を出し、1921年7月には大阪市福島区に大阪工場を建てて操業を始めた[16][17][18]

1923年7月、美津濃は資本金150万円の美津濃運動用品株式会社へ改組した。改組の趣旨として掲げたのは資金の調達ではなく、用具の研究改良費である。年間の販売高10万円の商品に数十万円の改良費を投じることは営利を本質とする個人商店にはできない、というのが会社側の説明で、外部資本を仰がない方針も併せて示した。競技を広げ、用具を自らつくり、その改良に金を投じる筋道が会社の形になった。1955年8月には、全国高等学校野球連盟が利八氏を学生野球大会の先駆者として表彰している[19][20][21]

出典・参考

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