この判断の核心は、技術の乗り換えではなく需要家の乗り換えにある。軍需協力工場という立場は、発注元が一つであるかぎり、その一つが消えた時点で仕事も消える。井上浅次氏が選んだのは、同じ鉄の加工技術で、国鉄と私鉄という別の買い手に向き直ることであった。線路の金物は単価も高くなく、目立つ製品でもない。ただ、路線が使われるかぎり摩耗し、補修と交換の注文が続く。戦後の混乱期に、途切れない需要をどこに見るかという読みが働いていただろう。
興味深いのは、この転換が守りで終わらなかった点にある。軌道用品を安く確実に作ろうとすれば素材が要り、素材を自前で持てば電炉が要り、電炉を回せば軌道用品以外の鋼材も作れる。1960年に一貫メーカーとなった会社は、やがてH形鋼で北米やアジアへ出ていった。1945年に選んだ品種はいま連結売上の1割に満たないが、そのとき据えた"素材から作る"という構えは、現在の電炉鋼メーカーとしての姿にそのまま残っているとみられる。祖業が主役の座を降りたあとに何が残るのかを考えるうえで、示唆の多い経路といえる。