デンカ生研の本体統合と新型コロナ検査キットの量産化

素材総合化学の傍流だった医薬事業を、山本学社長はなぜ事業戦略の中心へ引き上げたか

更新:

時期 2020年4月
意思決定者 山本学 デンカ 社長
論点 ヘルスケア事業への傾斜とスペシャリティ化
概要
2020年4月1日、デンカが子会社デンカ生研を吸収合併してライフイノベーション事業を本体へ統合し、山本学社長が新型コロナウイルス検査キットを1年以内に量産すると表明した経営判断。素材総合化学の傍流にあったヘルスケアを、スペシャリティ化の柱として前面に据えた。
背景
1979年の東芝化学工業の譲受に始まる診断・バイオの系譜は、塩ビやクロロプレンを軸とする素材多角化のなかで傍流にとどまっていた。2020年の新型コロナのパンデミックが検査体制の拡充を急務とし、インフルエンザ検査試薬で国内トップの同社に量産化の圧力を加えた。
内容
デンカ生研を4月1日付で吸収合併し、イムノクロマト法の検査キットの試作を2〜3カ月で完成させ、薬事承認を前提に1年以内に1日最大10万検査分の量産体制を構築する目標を掲げた。感染症検査に加え、遺伝子診断やがん治療薬の開発も加速する方針を示した。
含意
偶然の医薬子会社買収に始まる系譜を、外部衝撃が一気に事業戦略の中心へ押し上げた。2022年のMission2030でHealthcareを3つのメガトレンドの一つに据え、2030年に営業利益400億円を掲げる柱へと位置づけ直した。
筆者の見解

偶然の系譜と外部衝撃

この判断の核心には、素材総合化学という本業の傍らで細く保たれてきた医薬の系譜がある。1979年の小さな子会社買収に始まる診断・バイオの積み重ねは、長らく事業の中核から外れた位置に置かれてきた。そこへ新型コロナという外部からの衝撃が加わり、検査キットの量産という具体的な目標を通じて、傍流が一気に事業戦略の中心へ引き上げられた。好調な本業の延長として選び取ったのではなく、パンデミックという不意の圧力が事業の主軸を動かした点に、この転換の性格がうかがえる。

もっとも、外部衝撃が押し上げた柱が、そのまま定着するとは限らない。Mission2030はHealthcareに2030年400億円の営業利益を求める一方、同社は米国クロロプレン事業の不振などから2024年度に戦後初の最終赤字を計上し、足元の経営は厳しさのなかにある。偶然の系譜を意図した柱へ育て直せるのか、それとも次の外部環境の変化に再び輪郭を書き換えられるのか——検査キットの一件は、素材の会社がヘルスケアという異質な事業とどう折り合うかという、なお開かれた問いの入り口に位置しているとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

傍流にとどまった医薬の系譜

デンカが医薬の系譜に触れたのは、1979年の東芝化学工業の譲受にさかのぼる。同社は東京芝浦電気から株式を譲り受け、1982年にこれをデンカ生研と改めた。ただし当時は塩ビ・クロロプレンを軸にした素材系多角化の只中にあり、医薬子会社の取得は数ある買収案件の一つにすぎなかった。カーバイドから外側へ事業の幅を広げる過程で抱えた小さな子会社であり、中核事業と呼べる規模ではなかった[1]

傍流の系譜は、その後も細く続いた。2008年にデンカ生研を株式交換で完全子会社化し、2015年8月にはドイツのバイオ医薬品研究開発企業アイコンジェネティクスの株式51%を譲り受けた。アイコン社の取得は、のちにがん治療用ウイルス製剤「デリタクト」の製造につながる布石となる。もっとも、これらの診断・バイオの積み上げは、球状シリカや電子材料と並ぶ素材総合化学のポートフォリオのなかで、なお目立たない位置にとどまっていた[2]

パンデミックという外部衝撃

素材の傍流にあった医薬事業には、しかし確かな技術の蓄積があった。子会社のデンカ生研は1950年の創業以来、ワクチンや検査試薬の開発・製造を重ね、高度な技術とノウハウを積み上げてきた。コンゴ民主共和国でエボラ出血熱が流行した際には診断キットを提供し、鎮静化に貢献した実績も持つ。感染症の検査という領域で、同社は素材とは別の技術基盤を静かに育てていた[3]

2020年、新型コロナウイルスの感染が世界各国へ広がった。一日も早いワクチンの開発が望まれる一方で、まずは検査体制の拡充が急務となっていた。インフルエンザ検査試薬で国内トップに立つデンカは、いち早く新型コロナウイルス検査キットの開発に着手する。長く素材総合化学の傍流に置かれてきたヘルスケアの技術が、外部からの衝撃によって一気に前面へ押し出された場面であった[4]

決断

デンカ生研の本体統合

検査キットの開発を担う土台を固めるため、デンカは2020年4月1日付でデンカ生研を吸収合併した。子会社として切り離していたライフイノベーション事業を、本体の内部へ取り込む組織判断である。山本学社長は、検査試薬やワクチンの開発には長い期間と膨大な予算を要し、大きなプロジェクトを進めるにはデンカ生研が単体で経営判断するのは難しいと語った。経営トップの辛抱強く果断な決断が必要と判断して統合に踏み切ったと、その理由を説明していた[5][6]

統合のねらいは、検査キットの一件にとどまらなかった。山本学社長は、両社の技術と人的資源を統合して有効活用する必要があったとし、今後は感染症だけでなく遺伝子診断にも力を入れると述べた。さらに、ヘルペスウイルスを活用したがん治療薬の生産技術の開発を加速させる方針も示した。素材の会社が抱えてきた診断・バイオの断片を、一つの事業体として動かすための布石であったとみられる[7]

「1年以内に量産」という宣言

統合と同時に、山本学社長は量産化の時間軸を具体的な数字で語った。鼻や喉から採取した体液で感染の有無を調べるイムノクロマト法の検査キットについて、試作品を2〜3カ月以内に完成させると述べた。そのうえで薬事承認の取得を前提に、今後1年以内に1日最大10万検査分の量産体制を構築する目標を掲げた。開発着手の段階で量産の規模と期限を明言した点に、この判断の踏み込みがうかがえる[8]

量産へ向けた動きは、素材技術の動員をともなった。同社は抗インフルエンザ薬「アビガン」の原料であるマロン酸ジエチルの生産を5月に再開し、富士フイルム富山化学へ供給すると表明した。検査法の面でも、台湾の持ち分法適用会社プレックスバイオ社が持つ多項目の迅速分析技術を使い、新型コロナと他の呼吸器感染症ウイルスを同時に測る検出法の開発を進めた。総合化学が蓄えた素材と分析の技術を、検査と創薬へ横断的に振り向ける構えであった[9][10]

結果

ヘルスケアを次の柱へ

開発着手から2年半後、デンカはヘルスケアを中期戦略の柱として明確に据えた。2022年11月に発表した新中期経営計画「Mission2030」で、同社はICT&Energy・Healthcare・Sustainable Livingの3分野をメガトレンドの成長領域に絞り込んだ。このうちHealthcareの営業利益目標を、2026年の200億円から2030年に400億円へと引き上げた。素材の傍流にあった診断・ワクチン・がん治療用ウイルスの事業が、総合化学からスペシャリティ集約へ舵を切る計画の一角を占めるに至った[11]

この位置づけは、偶然に積み上がった系譜を経営が事後的に意味づけ直したものでもあった。1979年に多角化の一環で買った小さな医薬子会社が、半世紀近くを経てスペシャリティ化学ポートフォリオの目玉候補へ変わった経緯は、次の柱を偶然に引き当ててきた同社の歴史の型を踏んでいる。山本学社長は、事業ポートフォリオのスペシャリティ化を一層推進し、外部環境が変化するなかでも持続的に成長を維持できる事業構造の高度化を進めていくと述べていた。パンデミックという外部衝撃が、傍流の系譜を一気に前面化させた転換点であったといえる[12]

出典・参考