消費財輸出からの全面撤退
1978年実施売上の約6割を占めた電卓・カーステレオ輸出を切り捨て、IC製造装置へ絞り込む——久保徳雄と小高敏夫はなぜ「稼ぎ頭」を手放したのか
- 概要
- 1974年、石油ショック下で社長に就いた久保徳雄と専務の小高敏夫が、売上の約6割を稼いでいた電卓・カーステレオなど消費財の輸出事業からの全面撤退を決め、半導体製造装置の輸入・国産化に経営資源を集中させた経営判断。撤退は電卓(1976年9月)、カーステレオ・トランシーバー(1978年9月)と段階的に完了した。
- 背景
- ニクソン・ショックと石油ショックで輸出環境が悪化し、消費財輸出は大手メーカーの参入で構造的に採算が崩れていた。約200億円の売上のうち輸入部門が約5億円を稼ぐ一方、輸出部門は約3億円の赤字を出しており、稼ぎ頭が全体の利益を食いつぶす構図になっていた。
- 内容
- 久保・小高は輸出業務からの完全撤退を主張し、最も強く反対した常務が辞任するなど経営陣の交代を伴う痛みを引き受けた。小高は「市場がこれから伸びる」「大メーカーの主力商品でない」「利益率が高い」など7つの商品選定基準を掲げ、IC製造装置に事業を絞り込んだ。
- 含意
- 総売上の6割を占める事業を意図的に手放し、狭く深いニッチへ資源を集中させた「捨てる決断」であった。この選択が商社からメーカーへの業態転換の出発点となり、のちに半導体製造装置で世界有数の地位を築く土台になった。
「稼ぎ頭を捨てる」という選択の重み
この経営判断の核心は、赤字事業の整理という守りではなく、まだ売上の6割を稼いでいた事業を、構造的な先細りを見越して先に手放した点にある。目先の売上を守ろうとすれば、輸出にテコ入れして採算改善を図る道もあった。久保と小高がそれを採らなかったのは、消費財輸出が自社の体質に合わず、大手との消耗戦から抜け出せないと見切ったからであった。稼ぎ頭を捨てる痛みは、最も強硬に反対した常務の辞任という経営陣の交代まで含んでおり、決して滑らかな決断ではなかった。
撤退で空いた資源を、7つの選定基準という明確な物差しでIC製造装置へ振り向けたことが、後年の高収益体質の設計図になった。狭い市場で高いシェアを取り、技術サービスで付加価値を高めるという型は、この決断の際に言語化されている。売上規模を追うより、自社の強みが効く事業に資源をどう集中させるか——東京エレクトロンが商社からメーカーへ脱皮する第一歩は、稼ぎ頭を手放すこの決断にあったとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
「二刀流」の商社が抱えた稼ぎ頭
東京エレクトロンは、1963年に東京放送(TBS)の出資を得て生まれたエレクトロニクス専門商社である。設立当初はVTRやカーラジオの輸出と電子機器の輸入を手がけ、そこへ半導体製造装置の輸入・国産化を重ねていった。1970年代前半の同社は、電卓・カーステレオ・トランシーバーといった消費財の輸出と、IC製造装置を中心とする輸入という、性格の異なる二つの事業を両輪として回していた。輸出はまとまった売上を稼ぐ主力であり、それを一挙に手放すという発想は、当時の常識からは遠かった[1]。
しかし輸出事業は、同社の体質に必ずしも合っていなかった。輸出商品の多くは欧米企業のブランドで納めるOEM(相手先ブランドによる製造)で、最終消費者の動向がつかみにくく、海外からの注文が突然打ち切られれば在庫の山が残る。のちに小高はこの構造を、伸びないというより「そのまま続けたら会社の命がなくなると思っていた」と振り返り、消費財の輸出を構造的にジリ貧の部門だったと総括している[2]。
石油ショックが露わにした利益構造
1971年8月のニクソン・ショックに続く変動相場制への移行で、日本の輸出産業は打撃を受けた。東京エレクトロンもドル・ショックで利益を半減させたが、いったんは持ち直す。そこへ1973年10月の石油ショックが襲い、創立10年目にして最大の危機を迎えた。1974年9月期の売上と利益の内訳をたどると、危険な兆候が現れていた。約200億円の売上のうち6割を輸出部門が占め、利益では輸入部門が約5億円を稼ぐ一方、全体の利益が約3億円にとどまった。差し引き、輸出部門で約3億円の赤字が出ていた計算になる[3]。
消費財輸出の不振は、一時的な市況ではなく構造的なものであった。カーステレオでは松下通信工業が生産を本格化させるなど、大手メーカーが相次いで参入し、技術や商品の差はほとんど残っていなかった。輸出環境が急に好転する見込みは薄く、このまま推移すれば輸出部門の赤字が膨らみ、輸入部門の黒字では覆いきれなくなることは目に見えていた。輸出部門に手を打つことが避けられなかった[4]。
決断
独立路線の強化と久保・小高体制の始動
危機のさなか、親会社の東京放送も関連会社政策の見直しを進めていた。その一環として、東京放送は東京エレクトロンに対し、派遣していた遠藤社長を会長へ退かせ、専務の久保徳雄を社長へ昇格させることを求めた。ねらいは、久保を中心とする独立路線を強めることにあった。背後には「新しい事業は、若い者に自由にやらせなければ成功しない」という東京放送副社長・今道潤三の考えがあった。1974年11月、久保社長・小高専務の体制が始動する[5]。
反対を押し切った「乾坤一擲」の撤退作戦
久保と小高は、この危機を乗り切る道は輸出業務からの完全撤退しかないと主張した。しかし総売上の6割を一挙にゼロにする荒療治には反対も強く、議論は何度も平行線をたどった。結局、最も強く撤退に反対していた常務が辞任し、ほかに2人も別の理由で会社を去った。撤退の対象は数字の上だけの話ではない。当時、親会社には役員を除き約130人の社員がいたが、十数社の子会社の従業員は700人を超え、そのうち輸出関連の子会社だけで500人強を占めていた。生産機能まで抱え込んだ大部隊をどう収束させるかという、複雑な人間関係の処理を伴う難題であった[6][7]。
1974年12月、小高は社報に「明日の飛躍のために」と題する文章を寄せ、撤退の布石を打った。減益の原因が輸出部門の赤字にあったことを報告したうえで、「不採算部門については、思い切った縮小なり、廃止を考えたい」と、間接的な表現ながら撤退方針を打ち出す。そのうえで小高は、扱う商品を選ぶ基準を明快に示した。市場がこれから伸びること、競争相手が少なく大メーカーの主力商品でないこと、他社が容易に参入できないこと、販売先が一流で代金回収の心配がないこと、在庫が値崩れしないこと、付加価値・利益率が高いこと——のちに7つの商品選定基準と呼ばれるこの物差しは、そのまま同社の商品戦略の原点になった[8]。
結果
段階的な撤退完了と、商社からメーカーへ
撤退は段階を踏んで実行された。国内大手のマスプロ製品に押された電卓の輸出販売は1976年9月に、カーステレオとトランシーバーの輸出販売は1978年9月に、それぞれ全面的に停止された。小高声明を境に、東京エレクトロンの戦略路線から消費財輸出は姿を消す。空いた経営資源は、7つの基準を満たすIC製造装置へと振り向けられた。拡散炉や全自動ウェファ・プローバなど、狭い市場で高いシェアを取れる装置に的を絞り、キメ細かい技術サービスとメーカー機能で付加価値を高める道である[9][10]。
撤退は致命傷を避けるための守りであると同時に、次の成長へ向けた攻めの絞り込みでもあった。小高はこの決断を、身の丈に合わないビジネスからの撤退にたとえている。輸出は自社に製造ノウハウを持つ人材が乏しく、販売力も資金力も足りない事業だった、というのがその総括であった。IC製造装置への集中は、狭く深いニッチで高シェアを取り、高い利益率を確保する後年の同社の型を用意した。この「捨てる決断」があったからこそ、専門商社は半導体製造装置メーカーへと脱皮していくことになる[11]。
- 異端の男とその一族 : 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡, 1982/4
- 日経ビジネス(1982年5月31日)
- 証券 32(6)(375)(東京証券取引所, 1980年)
- 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】