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東京放送の出資を得た創業

1963年実施

無一文で日商を飛び出した久保徳雄は、なぜ「財界の怪物」今道潤三から500万円を引き出せたのか——東京エレクトロン研究所の出発

時期 1963年11月
意思決定者 久保徳雄(創業者)
論点 創業資金の調達と事業ドメインの選択
概要
1963年11月、日商(現・双日)を辞めた久保徳雄が、盟友の小高敏夫とともに東京エレクトロン研究所を設立した経営判断。まとまった資金を持たない久保は、東京放送(TBS)から資本金500万円の出資を引き出し、当時まだ実用化に懐疑的だったIC(集積回路)の製造装置という最先端領域を事業ドメインに選んだ。
背景
久保も小高も、総合商社では半導体製造装置の輸入という仕事が体質に合わず、欲求不満を抱えていた。理想とするやり方でこの事業をやり抜くには独立するほかなかったが、無名のサラリーマンにはまとまった元手がなかった。
内容
久保はニューヨーク駐在時代に知り合った東京放送テレビ技術局長・吉田稔との縁を頼り、その背後にいた副社長・今道潤三の承認を得て500万円の出資を引き出した。設立当初は輸出入を手がける零細商社だったが、大手電機の主力商品と競合しないIC製造装置へ的を絞る道を選んだ。
含意
この500万円が、18年後に年間70億円近い利益を生むタネ銭になった。財界の実力者を後ろ盾に付けたことは、翌年に社員6人の会社が1台4,000万円のICテスターを買う賭けに出る資金力を与え、日本のIC産業の黎明期に「仕掛人」として立つ土台になった。
筆者の見解

「誰と組むか」で決まった会社の骨格

この創業判断の核心は、資金の乏しい二人が、財界の実力者という強力な後ろ盾を人脈をたどって引き当てた点にある。500万円という出資額そのものより、東京放送が背後に付いたという信用が重要だった。翌年、社員6人の会社が1台4,000万円のICテスターを買う賭けに出られたのは、東京放送の債務保証があったからにほかならない。無名の青年が「財界の怪物」から出資を引き出せた背景に、駐在時代の人のつながりがあったことは、この会社の骨格が「何を売るか」だけでなく「誰と組むか」で定まったことを示している。

あわせて見るべきは、事業ドメインの選び方である。多くが懐疑的だったICへあえて踏み込み、しかも手数料商売ではなく技術サービスで質を高める道を選んだことは、のちに同社を貫くニッチ集中と高付加価値の型を、創業の時点で先取りしていた。500万円が18年後に70億円近い利益を生んだという後日談は、この最初の選択が単なる幸運ではなかったことを物語っている。誰を後ろ盾にし、どの土俵で戦うか——東京エレクトロンという会社の性格は、この創業の決断にすでに刻まれていたとみることができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

総合商社では叶わなかった仕事

東京エレクトロンの出発点は、二人の商社マンの欲求不満にあった。久保徳雄と小高敏夫は、いずれも総合商社の日商(のちの日商岩井、現・双日)に勤め、小高は半導体製造装置の輸入販売を担当していた。だが、この仕事は取り扱い高の拡大を最優先する総合商社の体質になじまず、小高は自分の理想とするやり方でやり抜きたいという思いを募らせていた。1963年11月、30歳の久保は日商を辞め、東京エレクトロン研究所を設立する。半年後には小高も合流した。もっとも、ごく平凡なサラリーマンであった久保に、会社を興すためのまとまった資金はなかった[1]

決断

「財界の怪物」から引き出した500万円

久保は必死に出資者を探し、ついに東京放送という絶好の出し手を見つけ、500万円の資金を引き出すことに成功した。無一文で日商を飛び出した無名の青年に、なぜ東京放送が出資したのか。その背景には人のつながりがあった。久保が最初にアプローチしたのは、東京放送テレビ技術局長の吉田稔である。ニューヨークに駐在していた1959年ごろ、ふとしたことから知り合い意気投合した二人の関係が土台になった。そして吉田の背後には、副社長の今道潤三がいた。「財界の怪物」と称された異色の経営者である今道が、最終的に出資を承認する。今道はその後も、生まれたばかりの会社に異常なまでの肩入れを続けた[2][3]

まだ懐疑的だったICへ賭ける

資金の当てをつけた久保が事業の軸に据えたのは、当時まだ実用化を疑う声が圧倒的だったICの領域だった。ICは1958年に米国のキルビーが発明したばかりで、1963年から翌年にかけての日本では、その工業化に否定的な見方が大勢を占めていた。そうしたなかで東京エレクトロンは、あえてIC製造装置の輸入に踏み切り、日本のIC産業が立ち上がる起爆剤の役を買って出た。しかもその売り方は、手数料を稼ぐために取り扱い高を広げる従来の商社とは異なり、商品ごとに深く掘り下げた技術サービスで質を高めるという、既存の商社から見れば常識外れの発想であった[4][5]

結果

後ろ盾が可能にした「4,000万円の賭け」

設立の翌年、小高は渡米して米サームコと拡散炉の、米フェアチャイルドとICテスターの代理店契約を相次いで取り付ける。難所は、その先にあった。フェアチャイルド製のICテスターは1台4,000万円。資本金500万円・社員6人・設立1年目の会社には、手に余る大型商品であった。1台輸入して買い手がつかなければ会社は倒れる。それでも久保は机を叩いて「ICでいこう。すぐICテスターを一台、デモ用に買おう」と決断する。代金4,000万円は東京放送の債務保証による銀行借入で支払われた。TBSという後ろ盾があってはじめて打てる賭けであった[6][7]

デモ機のICテスターには、IC研究の先頭を走っていた日本電気から真っ先に買い注文が入り、装置は拡散炉に続く中核商品へと育った。久保と小高が売り込みで各社の開発責任者を米フェアチャイルドの工場へ案内したことは、日本の半導体メーカーがそろってICへ走り出すきっかけにもなった。500万円の出資に始まる小さな会社は、日本のIC産業の黎明期に、製造装置を供給する「仕掛人」として立つことになる[8]

出典・参考
  • 異端の男とその一族 : 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡, 1982/4
  • 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】