海外販売の直販体制への全面転換
1994年実施代理店経由をやめ、現地法人トップに現地人を据える——東哲郎らはなぜ「国内依存」を捨ててグローバル企業をめざしたのか
- 概要
- 1994年10月、東京エレクトロンが欧米向け半導体製造装置の販売を代理店経由から直販へ全面転換した経営判断。米テキサス州オースティンに戦略拠点を構え、海外法人のトップにはすべて現地の人間を据えて日本人はサポート役に回るという戦略を採り、6年間で国内依存の収益構造をグローバル型へ組み替えた。
- 背景
- DRAMで世界をリードした日本の半導体メーカーに代わり、韓国勢や米インテル・TIなど海外メーカーが台頭。国内顧客と付き合っていれば最先端をつかめた時代が終わり、代理店経由では顧客の要求やクレームを的確につかめず情報伝達も遅いという限界が露わになっていた。
- 内容
- 現地に販売とメンテナンスを担う全額出資子会社を設立し、米国はオースティンに実際の半導体工場と同じクリーンルームを備えた戦略拠点を置いた。海外法人のトップには当初からすべて現地人を起用し、ユーザー技術者と直結して次世代装置を共同開発する体制を築いた。
- 含意
- 国内向け比率66%の会社が、直販転換から6年で海外7割へと収益構造を反転させた。1999年3月期の半導体不況で売上が3分の2に落ち込んだ際にも、この転換がなければ会社は倒れていたかもしれないと総括されるほど、危機を越えて再成長する基盤になった。
「国内で勝つ型」を、世界へ移植する
この判断の要は、単なる海外進出ではなく、国内で築いた勝ちパターンをそのまま世界へ移植した点にある。最先端工場のそばに技術者を張り付け、メンテナンスから次の需要を先読みして装置へ反映する——国内で優位を支えてきたこの回路は、代理店を挟んでいては海外で再現できない。この回路を世界で再現するには、販売の仕組みごと直販へ組み替え、ユーザーと直結する必要があった。オースティンのクリーンルームも、現地人トップの起用も、顧客の生の声を最短距離で拾うという一点で筋が通っている。
あわせて見るべきは、決断の時機である。直販転換に踏み切った1994年前後は、半導体不況で減収減益にあえいでいた時期にあたる。業績が苦しいなかで海外の販売網を一から作り直すのは相当な負荷だったはずだが、その先行投資が半導体産業の主役交代と重なり、6年で国内依存を脱する構造転換につながった。景気の底で仕組みを変え、次の波が来たときに刈り取る——東京エレクトロンが世界企業へと駆け上がる土台は、この販売体制の転換に据えられていたとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
半導体産業の主役が海外へ移った
1990年代初めまで、半導体の最先端はNEC・東芝・日立製作所など日本のメーカーが握っていた。とりわけ記憶用のDRAMでは日本勢が米国勢を圧倒し、その最も優れたユーザーのそばで開発できることが、東京エレクトロンを世界最大規模の装置メーカーへ押し上げた原動力であった。国内の半導体メーカーと付き合っていれば、最新の技術動向はおのずとつかめた。装置は受注生産で、顧客ごとに求める加工内容が異なるだけに、優れた顧客のそばにいられることは決定的な強みだった[1]。
しかし1990年代半ば、その前提が崩れる。DRAMでは韓国のサムスン電子や現代電子産業が台頭し、同時に米インテルの超小型演算処理装置(MPU)や米テキサス・インスツルメンツのデジタル信号処理プロセッサーが急成長を遂げた。最先端の製造技術がまずDRAMで生まれるという従来の法則が通用しなくなり、パソコンの心臓部で世界シェアの多くを握る米メーカーの声を聞かなければ、次世代の需要に適応できなくなっていた。国内顧客との関係だけでは、最先端を追えない時代が来ていた[2]。
代理店経由という壁
半導体製造装置は、納入して終わりの商品ではない。装置を納めてから半導体メーカーと二人三脚で量産体制を整えて初めて仕事が完了し、先端的な装置では実際の納入の3〜5年前から顧客と共同で開発に取り組むことも珍しくない。それだけに、顧客との長期の信頼関係と、要求やクレームを素早く製品へ反映する回路が欠かせない。ところが従来の代理店経由では、顧客の要求やクレームを必ずしも的確につかめず、情報伝達も遅かった。海外市場の壁は、市況ではなく販売の仕組みそのものにあった[3]。
決断
代理店を畳み、オースティンに戦略拠点を築く
1994年10月、東京エレクトロンは欧米向け半導体製造装置の販売体制を大幅に改めた。それまでの代理店経由をやめ、現地に販売とメンテナンスを受け持つ全額出資子会社を設けて、すべて直接販売に切り替えた。米国では、輸出入業務の窓口だった子会社を改組して東京エレクトロン・アメリカを設立し、本社をカリフォルニア州からテキサス州オースティンへ移した。確保した敷地は20万平方メートルという工場用地並みの広さであった。欧州は英国ロンドン郊外に統括拠点の東京エレクトロン・ヨーロッパを置き、各国に現地法人を広げていった[4][5]。
オースティンのクリーンルームは、目先の商売のためというより数年後を見据えた仕掛けであった。実際に装置を前にして現地メーカーの技術者から生の声を聞き、半導体生産技術の変化をつかむ——全国22カ所のサービスセンターに約500人の技術者を張り付け、最先端工場のメンテナンスから次の需要を読み取ってきた国内の勝ちパターンを、そのまま世界へ広げる試みだった。代理店の手を離れ、ユーザーと直接向き合う体制へと踏み込んだ[6]。
現地法人トップに現地人を据える
海外市場の攻略にあたって東京エレクトロンが採ったのは、初めから海外法人の社長にすべて現地の人間を据え、日本人はサポート役にとどめるという戦略だった。海外法人のトップに日本人を置く日本企業が少なくないなかで、当初から現地人に任せるのは勇気のいる選択である。それでも「日本人がトップでは現地企業とのコミュニケーションが難しい。顧客からの信頼を勝ち得るためにはベストの方法だと考えた」と、海外戦略を主導した東哲郎は言い切った。輸入商社として長年多くの米国企業と二人三脚で事業を進めてきた歴史が、現地に深い人脈を残していたことも、この戦略を支えた[7]。
結果
現地化の苦闘と、6年での構造転換
転換は平坦ではなかった。1994年10月、米国の直販体制を整えるべく、副社長として派遣された小野里充が成田を発つ。米国人の営業・技術者の獲得と育成、顧客訪問、本社とのやり取りに追われ、1泊3日の出張を何度も強行した末に、1996年冬、無理がたたって心筋梗塞に倒れ、帰国した。足場を固めた米国で攻勢をかけるため、1997年4月に米国法人の社長へ迎えられたのが、かつて合弁事業で来日し10年以上の親交があったバリー・ラポーゾである。ラポーゾは米国人の営業担当者と技術者を大幅に増やして徹底したトレーニングを施し、就任時に300人だった米国法人の社員を1200人へと増やした[8]。
現地化の成果は数字に表れた。1995年3月期に国内向けが66%を占めていた売上構成は、直販転換を境に一貫して海外比率を高め、2000年3月期には国内3割・海外7割へと反転した。巨大な米国市場での装置シェアは、1995年末のわずか8%から1999年末には34%へと伸びた。何より、この転換は危機に耐える力になった。1999年3月期には空前の半導体不況で製造装置の受注が途絶え、連結売上高は前期の3分の2にあたる3138億円まで落ち込む。その苦境を越えて2001年3月期には過去最高益と営業利益率15%が視野に入り、常石哲男専務は「6年前の決断がなければ、あの時に会社は倒れていたかもしれない」と振り返った[9][10]。
- 日経ビジネス(1995年1月2日)
- 日経ビジネス(2000年10月9日)
- 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】