明治製糖倉庫業と製薬業による操業の繋ぎと、川崎工場復旧による精製糖業への復帰

他社に続いて再開するか、統制の撤廃を待つか──原料地を失った第二会社が量った潮時

時期 1951年12月
意思決定者(推定) 小塚泰一 社長
論点 精糖再開の時期と転換事業の位置づけ
概要
1951年12月25日、明糖(旧明治製糖の第二会社。翌1952年5月に明治製糖へ商号復帰)が川崎工場を日産原料糖溶解能力235トンで復旧し、精製糖業へ復帰した経営判断。戦後、他社が次々に製造を再開するなかで操業を見送り、その間を倉庫業と製薬業で凌いだうえでの再開であった。
背景
終戦で台湾の原料地と外地の全資産を失い、1945年10月の大蔵省令第83号により在外会社に指定されて内地財産も当局の管理下に入った。1950年8月に資本金3,660万円の第二会社として発足し、生業は1946年9月に許可を得た倉庫業と製薬業であった。
内容
1951年春に政府の砂糖政策が統制主義から戦前の自由販売制へ戻る方針に変わり、原糖の優先輸入が確実となったことで再開を決めた。同年9月に川崎工場の復旧へ着工し、12月25日に日産235トンで操業を開始。設備費は他社より3分の1安く上がった。
含意
遅れて始めた分は品質と合理化で取り返す構えを取り、1952年9月末には戸畑工場も復旧して両工場体制へ移った。1955年9月期の売上高は50億8,600万円、計上利益は4億6,300万円である。制度の転換を待って動く経営は、以後も政府の輸入枠に収益を左右された。
筆者の見解

待てた会社と、待つほかなかった条件

他社が製造を始めていたあいだ、川崎の敷地で動いていたのは砂糖倉庫と転化糖注射薬の工場であった。この転換事業は食いつなぎであると同時に、製糖の従業員をそのまま転用して抱える器でもあり、丹野恒次氏が1937年に取った砂糖の利用法の学位が、そこで医薬品の製造として使われていた。人と技術を散らさずに保てたからこそ、1951年に9月着工・12月完成という速さで川崎を復旧できたとみられる。待てたのは我慢ではなく、待つあいだの生業が用意されていたからであった。

ただ、この見送りが効いたのは、統制の撤廃と原糖の優先輸入という制度の変化が読みどおりに進んだ範囲にとどまる。1953年3月までの期には業界の不況が響き、対資本金利益率は18割弱から7割3分へ下がった。原料糖をいつ、いくらで買えるかを決めるのは政府の輸入枠と砂糖行政であり、時期を量って動く経営は、そのまま制度を読み続ける経営でもあった。台湾の原料地を失った会社にとって、潮時の判断は以後も外から与えられる条件の下にあったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

台湾の原料地を失った第二会社の出発

旧明治製糖は1943年に資本金6,100万円、諸積立金1億円、蔗糖工場8、精製糖工場4、私設鉄道546マイル、従業員5,000名を擁する会社であった。その基盤は台湾にあり、終戦とともに外地の巨額の資産を一挙に失った。内地の工場も大半が空襲の被害を受け、1945年10月公布の大蔵省令第83号により在外会社に指定されて、内地財産までが当局の厳重な管理監督のもとに置かれた。手元に残ったのは川崎・戸畑・神戸の建屋と、糖業で積み上げた技術だけであった[1]

1949年8月、在外会社の本邦内財産の整理に関する政令(政令第291号)が公布され、小塚泰一社長が特殊整理人に任命されて内地財産の特殊整理が始まった。翌1950年7月に整理計画書の認可を受け、同年8月1日、旧明治製糖の第二会社として資本金3,660万円の明糖株式会社が発足した。新株732,000株は旧会社の株主へ持株10株につき6株の割合で無償交付された。資本金は終戦時の6分の1に届かず、継いだのは倉庫業と製薬業であった[2]

倉庫業と製薬業という転換事業

製糖に戻れないあいだの生業は、1946年9月に許可を得た再開転換事業であった。旧明治製糖は川崎・神戸・戸畑の精製糖工場本館と原糖倉庫の建物を修復して倉庫業を始め、川崎研究所では転化糖注射薬を中心に、ザルソブロカ転化糖注射薬、グルコン酸石灰注射薬、家畜の人工受精用薬糖を製造した。倉庫は川崎と戸畑で主要食糧と専売公社の葉煙草を、神戸ではそのほかに輸出入貿易商品を預かっている[3]

転換事業は、糖業で培った技術と人員を抱えたまま組まれていた。製薬を支えたのは川崎工場長の丹野恒次氏で、1919年に東北帝国大学理学部化学科を卒業して入社し、1937年に砂糖の利用法で学位を取得している。その研究が戦後の転化糖など医薬品の製造に生きた。製薬部門の従業員は製糖の従業員を一時転用したにすぎず、注射薬の工場は精糖の再開まで人を保つ器としても働いていた[4]

決断

いまだ時期にあらずという見送り

戦後、国内の製糖各社が次々に製造を開始するなかで、明糖は工場を動かさなかった。戦火を受けた工場を抱えていまだ時期にあらずとし、いつでも操業できる態勢を内に整えながら、潮時が来るのを倉庫業と製薬業で凌ぎつつ狙っていた。精製糖事業を開始したのは1951年も押し詰まった12月25日で、業界では一番あとからの再開となった。見送りそのものが選択として置かれていた[5]

見送りを解いたのは制度の見通しであった。1951年春、わが国の経済情勢が安定し、政府の砂糖政策が従来の統制主義から戦前の自由販売制へ返そうとする方針に変わり、原糖の優先輸入が確実となるに及んで、明糖は製糖工場の再開を決めた。統制そのものは1952年4月1日の砂糖需給調整規則の廃止で撤廃され、原料糖を優先的に輸入して国内の精糖工場で精製させるという砂糖行政の方針も確定している[6][7]

1951年12月25日の川崎復旧

川崎工場は復旧に着手するまで、砂糖倉庫を利用した倉庫業を主に営んでいた。精糖界の内外事情の機が熟するとみて1951年9月に復旧へ着工し、同年12月25日、原料溶糖能力235トンを完成させて操業に入った。砂糖の統制が撤廃される見込みがつくと急ぎ川崎で操業を開始する運びとなり、日産235トンを引っさげて、遅れて出た分を取り返しにかかった[8]

遅れて始めることは、設備を新しく組み直せることでもあった。明糖は品質の最良をねらって他社に遅れていた分を取り返すことを心掛け、出発の当初から合理化を眼目に置いた。設備費は他社より3分の1安く上がり、操業度は常に60%から70%の間を保っている。短期間で他にみない復旧ができた理由を、小塚泰一社長は相馬半治氏が築いた信用と、全員一致して復興に努力した結果とみていた[9][10]

結果

両工場850トンへの拡張と収益

再開後の需要は、復旧したばかりの設備の能力を上回った。明糖は1952年5月に戸畑工場の再開を計画し、9月末に復旧工事を終えて溶糖能力250トンで出発させ、これと並行して川崎も350トンへ拡張した。同じ1952年5月には社名を50年の伝統ある旧社名の明治製糖へ戻し、7月には転換事業であった製薬業を発展的に解消している。資本金は1952年2月の1億2,000万円から同年10月に2億5,000万円、1953年4月には5億円まで増えた[11][12]

遅れて始めた分は、収益の面では短い期間で取り返された。1952年10月から1953年3月までの期の純利益は1億7,000万円、対資本金利益率は7割3分で、配当は4割に据え置かれた。前期の18割弱からの低下は、1952年10月の増資と業界の不況が重なった結果であった。1955年9月期には42,856トンを溶かし、売上高50億8,600万円、計上利益4億6,300万円、配当3割を計上している。日産の溶糖能力は1958年3月末に両工場で850トンとなり、日本精糖工業会加盟17社28工場の総能力8,820トン中で第4位を占めた[13][14][15]

出典・参考
  • 東邦経済 1953年「本邦最大の明治製糖と増設全く完了の川崎事業所」
  • 東邦経済 1955年「異常な高収益をあげた明治製糖」
  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)「明治製糖株式会社」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「明治製糖」
  • 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「明治糖」
  • 上場会社総覧 1956年版

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