明治製糖精製糖業界への設備能力3割削減案の提出と、任意・補償方式への後退
犠牲を全社へ同じだけ課すか、各社の任意に委ねるか──設備過剰の畳み方をめぐる相馬敏夫社長の提案
- 概要
- 1963年8月末の輸入自由化のあとに膨れ上がった精製糖の設備過剰に対し、明治製糖の相馬敏夫社長が、業界全体の設備能力を同時かつ普遍的に3割削るという構造改善案を業界へ示した経営判断。案は受け入れられず、3年ほどのあいだ各社が任意に削り、削減した会社へ補償を出すという形に改められて役所へ提出された。
- 背景
- 割当のもとでもすでに2割から3割の設備過剰にあり、自由化後の増設と新設で、10年経たなければフルに稼働しえない能力まで積み上がった。相馬敏夫社長が業界団体の会長として実施した4回のカルテルはいずれも効果が上がらず、市価はかえって下がった。
- 内容
- 3か月から半年のあいだに全社が同じ基準で能力を3割削り、設備過剰を解消する犠牲を各社が同じように負担する。任意に委ねれば削減した会社の効果が業界全体に及ばないという読みが、同時性と全面性を条件に据えた根拠であった。
- 含意
- 案は通らず、業界は三井系3社の合併や台糖と九州製糖の合併という任意の再編へ流れた。12年後も需要を1割以上上回る設備が残り、明治製糖は1984年3月に解散した。
負担の配り方を先に決めるという発想
3割という数字よりも、案の要は削減を同時に、全社へ、同じ基準で課すという条件の側にあった。相馬敏夫社長は、一社が能力を削っても削らない会社が空いた需要を取れば効果は業界に届かないと読み、負担の均等を先に置いた。市価が戻らない原因を各社の売り方ではなく設備の総量に見た点で、4回のカルテルがことごとく効かなかった経験から引き出された結論であったとみられる。最寄りのものが集まる合併では届かないという見立ても、同じ読みから出ている。
ただ、案が通ったとして明治製糖が救われたかは別の問題である。砂糖に関連のない事業として乗り出した建材は、1970年3月期の売上構成に現れていない。アルミサッシと畜産をものにしなければならないという言葉と、精糖が8割を占め続けた売上の実際とのあいだには開きがあった。全社へ同じ犠牲を負わせる案は、負担の配り方としては筋が通っていても、各社が自力で身を削る動機までは作れなかったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
割当の消滅と、使い切れない設備能力
明治製糖は、外から買ってくる原糖を精製して売る事業だけで立っていた。1963年8月末の輸入自由化までは、割り当てられた原糖を買って白くして売る商いであり、供給の面で制約を受けていた。ところが、その割当のもとでもすでに2割から3割の設備過剰にあった。制約が外れた途端に設備を増強する会社と工場を新設する会社が相次ぎ、精糖各社は10年ほど経たなければフルに稼働しえない能力を抱えるに至った[1]。
設備過剰は製品の供給過剰を招き、市価の下落となって各社の損益へ返ってきた。明治製糖の当期純利益は1965年3月期にほとんど残らず、1966年3月期は6億円、1967年3月期は7億円の当期損失に沈んだ。売上高は1966年3月期144億円、1967年3月期155億円で、数量では戻している。痛んでいたのは規模ではなく単価であった。相馬敏夫社長は、精製糖で再編成や構造改善が語られる理由を、供給過剰による市価下落からの正常化に置いていた[2][3]。
4回のカルテルが効かなかった理由
市価を戻す手立てとして業界がまず選んだのはカルテルであった。相馬敏夫社長は業界団体の会長を2年半務め、そのあいだに4回のカルテルを実施したが、いずれも効果が上がらない。カルテルを組むとかえって市価が下がるという状態にまでなった。数量を抑えている最中にも工場の新増設が続き、供給を減らす取り決めと能力を増やす投資が同じ時期に並んで進んでいたためである[4]。
カルテルは秩序を保つだけの手段にとどまり、能力そのものを減らさない限り価格の正常化には届かない。相馬敏夫社長はそう見切り、効果のないカルテルを続けながら並行して構造改善を進めるのがいちばんよいという考えのもとで案を作った。手当ての対象を市場から設備へ移した判断であり、精製糖は付加価値が小さく銘柄で売れる商品でもないため、どこかが安く出せばその値段に引っ張られるという業界の性質が、その前提にあった[5][6]。
決断
同時かつ普遍的という条件
相馬敏夫社長が出した案は、業界全体の設備能力を3割削るというものであった。10年経たなければペイしないところまで膨れた能力に対し、5割減はとうてい通らないとみて3割という水準を置いた。削減の期間は3か月から半年に区切り、各社が同じ基準で同じ時期に実行する。設備過剰を解消する犠牲を各社が同じように負担することが条件であり、相馬敏夫社長はこれを同時かつ普遍的と呼んだ[7][8]。
条件を厳しくしたのは、任意に委ねた場合の帰結を先に読んでいたためであった。一社が単独で能力を削っても、削らない会社が空いた需要を取りに行けば、その会社の犠牲は業界全体の効果に結びつかない。設備過剰を解消する犠牲を各社が同じように負担しなければならないというのが、案の骨であった。削減の見返りを先に用意するのではなく、負担の均等を先に置いた設計になっている[9]。
60年はかけられないという時間の見立て
急ぐべき理由として相馬敏夫社長が挙げたのは、商社や銀行が製糖会社へ深く入り込む前に手を打つ必要であった。そうなってからでは構造改善も再編成も進めにくくなる。数年前からそう説いていたものの、当時は主体性や自主性を口にする経営者が多く、話は通らない。そう言った人たちの会社が自主性を保っているかといえば、だんだん違ってきていると、相馬敏夫社長は1969年の時点で述べている[10][11]。
案は業界に受け入れられなかった。最後にできあがった案は、全体の能力の3割減を目標として3年ほどのあいだ各社が任意に削り、削減した会社へある程度の補償を出すというもので、これが役所へ提出された。同時性も全面性も外れ、3か月から半年としていた期限も3年に伸びた。相馬敏夫社長はその後まもなく業界団体の会長を辞め、案は実を結ばないまま1969年の対談の時点に至った[12]。
結果
任意の再編へ流れた業界と、残った設備
案が通らないまま、業界の再編は任意の形で進んだ。三井系3社の合併と、台糖と九州製糖の合併が相次いで発表され、相馬敏夫社長はこれを、同時かつ普遍的ではなく最寄りのものが集まって各社に都合のよい構造改善を行うものだとみていた。明治製糖自身は数年前に砂糖と関連のない建材へ乗り出し、アルミサッシと畜産を手がけている。ただし1970年3月期の売上構成は精糖81.6%、角糖5.5%、原糖4.4%、倉庫収入4.3%で、建材も畜産も現れていない[13][14][15]。
設備過剰は、その後も畳まれずに残った。1981年の時点で業界は砂糖特例法の延長下にあり、需給調整の利得だけを受け取って構造改善の負担を避けてきたと評されている。需要300万トンそこそこに対して供給能力は400万トン強、精糖工業会加盟22社のうち17社が一社一工場のままであった。明治製糖は1983年9月中間期で77億円の累積赤字を抱え、シェア7.3%の業界6位という位置で1984年3月に解散した[16][17]。
- 月刊経済 1969年
- 実業往来 1981年
- 月刊経済 1984年
- 会社年鑑 1967年版(日本経済新聞社)
- 会社年鑑 1971年版(日本経済新聞社)