地方開拓日誌と支店網の構築(1946年・メディパルHDの決断)
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参考文献
参考文献
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)
- メディパルホールディングス 有価証券報告書【沿革】
芦屋から垂水にかけての主な営業区域で、医系・薬系の得意先として残っていたのは52軒にすぎなかった。1946年4月5日から三星堂は「地方開拓日誌」をつけ始め、医師会や小売組合の名簿を手がかりに、県内全域のほか福知山・舞鶴にまで出向いた。日誌がつけられたのは1年間で、1947年3月に姫路出張所を開設したのを手始めに支店網づくりが始動した。
1945年3月17日の夜間大空襲で元町三丁目の分店が焼け、6月5日のB29三百五十機による大空襲では北本町の卸部営業所が炎上して賄婦1人が職場で亡くなった。元町六丁目の小売部だけが奇蹟的に残る。社は焼失の当日から代わりの社屋を探し、8月はじめに生田区加納町二丁目の焼けビルを借り受けた。水道も電気も通らず、崩れた壁土が積み上がった鉄筋三階建てを30人の残存従業員が総出で片づけ、12月に卸部を移す。
神戸市の人口は37万台に減少し、翌1946年2月の金融緊急措置令で俸給生活者は月500円の現金しか手にできなくなっていた。そこへ陸海軍の解体で召集された従業員が続々と復員してくる。
初めての地方開拓で、得意先の名前もはっきりしないところから始まった。日誌には『昭和二十一年四月五日、晴、三木町小林薬店訪問。同六日、小雨、塚口赤壁薬局、西宮広瀬薬局、宝塚ダルマ薬局、八尾薬局訪問。同八日、晴、三木町、立石堂薬局訪問。東播方面から立石堂帳合にて大量の受注。姫路方面回り。モモヤ薬局、西薬局、森口薬局、ミドリ薬局訪問。受注、西薬局七千円、モモヤ薬局一万円、ミドリ薬局三千円。同九日、晴、篠山、三田回り、藤本薬店にて摂丹方面の集合を願い、共同仕入れの相談をする。八万円の受注。三田、今村薬局の受注二万円』と記され、県下では阪神間の尼崎・伊丹・川西・宝塚、東播の三木・西脇・小野・社・加古川・高砂、西播の姫路、摂丹の三田・篠山、そして淡路の各地を回り、県外では豊中・池田から福知山・舞鶴まで販路を拡大した。
一軒ずつ訪ねるのではなく地元の代表薬店に集まってもらい共同仕入れを持ちかける売り方で、1946年4月13日の福知山では藤木・黒庄・福知・オオタの4薬局を集めて5万円、同18日の舞鶴では本河順生堂・中川薬局ほか6店を集めて約6万円の注文を得た。医薬品が不足していた時期と重なり、進出は地元の好評を得ながら運ばれた。開拓した先はやがて拠点になり、姫路と淡路の出張所は1947年から1949年にかけて支店へ昇格し、以後1964年の伊丹まで支店を足していった。
従業員は終戦直前に30人だったのが、1946年に51人、1947年に98人、1950年に146人と増加し、営業高も1946年度の3,171万円から1949年度には3億7,519万円まで伸びた。こうした攻めの経営によって復員してきた者を一人残らず雇い入れられたが、もともと支店網の拡大は、復員者を迎える雇用の受け入れ先をつくろうと苦心して講じた策という面も持っていた。支店の営業は、現在では営業高のなかばを占めている。
1948年の配給規則改正で中央販売業者の資格を得ると、メーカーとの仕入関係のほかに幅広い地方販売業者との提携が欠かせなくなり、2年前に着手していた地方開拓がそのまま強みとして効いた。全国の中央販売業者のなかで武田薬品工業に次ぐ扱い高を占めた月もあった。
陸海軍の解体で、召集されていた従業員が相次いで戻ってきた。一方で得意先は52軒まで減少しており、戦前の営業はほとんど残っていなかった。仕事が減少するなかで人は増加するという順序に置いてみると、1946年4月に始まる地方開拓は、販路を拡大する施策というより、人を雇い続ける理由をこしらえる仕事に近い。社史は支店網について、復員した者を一人残らず迎え入れられたと述べ、続けてそれは迎える体制づくりのために苦心して打った手でもあったとしている。売り先を見つけたから雇えたのではなく、雇うべき人がいたから売り先を探しに出た、という順序がこの一文から読み取れる。姫路出張所の初代所長となった竹田好太朗氏は、従業員3人で東は加古川、西は竜野・山崎までを受け持ち、食糧難のさなかを自転車で回った。人を先に置いてから商圏を埋める方式で支店は増加していった。
この賭けが当たった理由は、市場にもあった。医薬品が絶対的に不足していた時期と重なり、地方の薬店にとっては共同仕入れの相手が来ること自体が価値をもつ。一軒ずつ訪ねず代表薬店に集まってもらう売り方が成立したのはそのためで、福知山で4軒、舞鶴で6軒と、1日で数万円単位の受注が積み上がった。2年前から県内を回って結んだ取引関係が、制度の求める条件にそのまま合致することになる。1948年の配給規則改正で得た中央販売業者の資格は、幅広い地方販売業者との提携がなければ生かせないものだったからだ。社史はこの符合について、あたかもこの日を見越して計画していたかのようだと記している。雇用の必要から始めた開拓は、偶然にも制度の変化に間に合った。その偶然を含めて、営業高は1946年度の3,171万円から3年で12倍近くに伸びている。
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最終改定: 2026年10月